【 クロス・アディクション、仲間からのメッセージ
】
(改訂 02/07/17)
● はじめに 「ご返事を書ききれません。回復者の声を聞いてください」
当ホームページの読者(クロス・アディクションのご本人とご家族)から、多くの個別相談のEメールをいただきますが、とてもお返事を書ききれません。そのようなメールのいくつかを、私の周りにいる回復者と回復途上の人たち(+いま病気の真っ最中の人たち)に見せて、メッセージを書いていただきました。 [TOPへ]
● 現役摂食障害者からのご相談の E-mail 「自分もひとも嫌いです。誰も信じられません」
過食嘔吐とアルコール薬物乱用、自傷行為と自殺未遂の繰返しで10年以上になります。精神病院にも何度か入院しましたが、嫌な思い出しかありません。家族ももう私のことを見捨てたようです。頼る知り合いもいません。自助グループでも、傷つきました。自分もひとも嫌いです。誰も信じられません。
● 仲間のメッセージ 「家族がやっと分かってくれました」
10年以上前、薬物(シンナー)、摂食障害から始まり、アルコール依存症も加わって3年前にホスピタルにつながりました。入退院を繰返し、今は入院中です。過食嘔吐は、前ほどじゃないけれどまだ続いています。薬物もアルコールもまたいつ欲求が出てくるか分かりません。
私も子供の頃から、絶望感でいっぱいでした。はやく楽になりたいと思って、何度も何度も死のうとしました。それでも今は生きています。生きている方がしんどい。しんどいけど今は、生きていてもいいんだなあ、生きているだけでも自分はすごいぞって、少しずつ思えるようになりました。私が病気で、それも死と隣り合わせなくらいの重症患者だということを、体を張ってずうっと訴え続けてきて、家族がやっと分かってくれました。両親とも、今は本当に優しいのです。生きていて良かったなあって思っています。お手紙を拝見して、3年前の自分に会っているような気がしました。うまく言えないけれど、一人じゃないということを少しでも感じてほしいです。 (1999.夏 E.Y.さん) [TOPへ]
● 仲間のメッセージ 「回復の場所にたどり着く努力も、プログラムの1章です」
私もこの10年間、精神病院を出たり入ったりしていました。重症の対人恐怖で、サングラスをしないと外出できないくらいでしたから、人付き合いは苦手でした。だから自助グループにも強制的に行かされたり、たまには自分から行ったりもしましたが、どうにもなじめませんでした。あなたのように回復を諦めていました。その間に自傷行為は数知れず。飛降りも2回しましたが、ひどい骨折をしただけで生き残りました。でも幸いなことに(?)、私は摂食障害だけではなくて、アルコールに、薬物に、そのほかいろいろな嗜癖や病気をかかえていて、参加できる自助グループもほとんど無限にあります(神様ありがとう)。たまたまアルコール関連のミーティングで自分にあった場所、自分が生きていていいんだと思える場所を見つけたのです。自助グループで傷ついたというあなたも、多分相性が悪かったのでしょう。あなたのせいでも、そこのミーティング場のせいでもないと思います。いろんなミーティングがあるので、あなたもさがせば必ずあなたに合った居心地の良い所を見つけられるはずです。そこにたどり着く努力も、回復プログラムの1章です。
信じられないことに、私はいま15年以上も続いていた食べ吐きが止まっています。分かったことは、一人では回復できなかったということです。 (1999.秋 Cさん) [TOPへ]
● 仲間のメッセージ 「太ってもやせても、生きてるだけでわたしはえらい」
「わかる。わかるよー」という感じです。つい昨年の夏まで、私もあなたとまったく同じことを考えていました。私の場合には、自分の顔がこの世のものと思えないほど気持ち悪くなり、自分の顔をみると嘔吐するのです。そのため鏡を何枚も割ってしまいました。過食嘔吐、酒と薬漬け。自分の体を切り刻み、救急車で運ばれる日々。医者も母もわたし自身も、もう精神病院からは一生出られないだろうと思っていました。ここにたどりついて7カ月、こんな変なことを考えているのは、私だけじゃないということがわかりました。私がここで得たものは、ひとのあたたかさ。「一人じゃないんだよ」という実感です。仲間とかかわることがこんなに大切なものだとは知りませんでした。いまも食べ吐きは続いていますが、不思議なことに酒と薬と自傷行為は止まっています。
このごろ私は、自分自身にこう言い聞かせています。「いいじゃないか、生きてるだけで。食っても吐いても、太ってもやせても、生きてるだけでわたしはえらい!!」 この言葉が当然のこととして自分の胸に住みつき、言い聞かせる必要がなくなるころに、摂食障害も消えるよ、と院長から教えられました。もうすぐ退院です。回復にはまだまだ時間がかかりますが、ここでもらった力を病院の外で試してみます。 (1999.秋 Yさん) [TOPへ]
● 仲間のメッセージ 「誰も私の代りに生きてはくれないんだ、と知った時から回復がはじまりました」
摂食障害歴10年、16歳からです。3年前、アルコールと睡眠薬のガブのみで、危なく死んでしまうような状況になり、母がホスピタルにつながりました。親の期待に添う形でしたが、私も短期間入院しました。今はずいぶん気楽に生きています。ここまでくるまでには、苦しいこともいろいろありました。生と死のギリギリまで行ったこともありました。でも、結局のところ、自分で歩いて行くしかない。誰も私の代りに人生を生きてはくれないんだ、と知った時から回復に向けての歩みが始まったようです。
通り過ぎてから振り返って、初めて分かることもあるんだなあ、と思います。摂食障害からの回復過程でいろいろな新しい発見をしました。良かったことは、親友ができたこと、家族と向き合えたこと、感謝することを知ったことなど、数え切れません。遠回りをしたかもしれないけれど、この病気になったことは、無駄ではありませんでした。今も、時に過食をしてしまいますが、周りの人間関係で息が詰まることはなくなり、マイペースでやっています。今の私は、こんな自分が好きです。支えてくれたみんなに感謝です。(1999.10. M.Y.
さん)
赤城高原ホスピタルにつながったとき、わが家にこんなおだやかな日々がくるとは、とても信じられませんでした。(1999.10. M.Y.
さんのお母さま) [TOPへ]
● 仲間からのE-メール 「必ず、生きていて良かった、と思える日が来るから、という先生の言葉を何度も思い出しました」
先生、ごぶさたしています。最近、友人からこのホームページのことを聞きました。7年前、先生の治療を受けた私を覚えておられますか? ほら、手首切りと薬のガブ飲みで、何度も死にかけていたAV女優のS子ですよ。
考えてみると、短期間で逃げ出したけど、ホスピタルへの入院は役に立ちました。どうにもならなくなったら、あそこに行けば良い、と思いながら生きてきました。「必ず、生きていて良かったと思える日がくるから」という、先生の言葉をこの7年間で何度も思い出しました。
4年前からスーパーのレジの仕事をしています。現在の症状ですけど、アルコールと薬物乱用はしていません。過食嘔吐はたまにする程度です。うつと対人恐怖は以前ほどではないけど、まだあります。不潔恐怖はほとんどなくなりました。テレクラ依存、セックス依存は卒業しました。自傷行為と自殺未遂はしていません。えらいでしょう? 3年前から付合っている彼は、私の全てを知って受入てくれています。
生きていて良かったかどうかは分らないけど、とりあえず気楽に生きています。また、そのうちにお便りします。 (1999.12. S.
さん) [TOPへ]
● 仲間のメッセージ 「病気の宝庫です」
竹村先生がにこにこしながらおっしゃるには、「あなたは病気の宝庫ですね。これだけたくさんの病気を持っている人はホスピタルでも少ないですよ。トップ・テンには入れると思いますよ」
そして二人で病気を数えました。過食に嘔吐、酒のがぶ飲み、万引+盗癖、セックス依存(テレクラ依存)、自傷行為(腕と首に切り傷)と自殺未遂(薬+酒、ハイターがぶ飲み)、被害妄想(の傾向)、PTSD、醜貌恐怖(顔が伸びる?)、処方薬依存+医療依存、家庭内暴力(両親に暴力、家具と食器を壊す)、買物依存、高血圧、喘息、アトピー性皮膚炎(全身)、レストレスレッグズ症候群、眼精疲労、ほかにちょっと言いたくない内緒の病気が3つ。
16歳から12年間、7カ所以上の病院(主に精神病院)に入退院をくりかえしてきました。いろんなドクターに会ったけど、病気が多いとほめられたのは始めて。「とりあえず、息をしているだけでえらい。しばらくここにいられたらもっとえらい」と院長が言ってくれました。 (2000/01 M.
さん) [TOPへ]
● 仲間のメッセージ 「死神にも見放されました」
父がアルコール症、母は気まぐれ。私が子どもの頃から、両親は夫婦喧嘩ばかりしていました。
1年前、母が本格的な家出をしたので、やっとこれで落着いたと思ったのに、実はそれが始まりでした。父は酒を飲み続け、荒れ狂って家と家財を壊し、執拗に母を追い回しました。そうかと思うと、私に「一緒に死んでくれ」だって。ごめんだわ。この両親、ホントに病気。ほとほとアイソがつきました。私自身、4年間も食べ吐きで苦しんでいるのに。そのうえ、このごろは私の飲酒量も増えるばかり。自分のことだけで手一杯です。こんな人生は嫌。早く終わりにしようと思いました。前に行ったことがある湖に車ごと飛び込もうと出掛けました。でも夜なのに二人連れがいちゃいちゃしていて、悔しくて帰ってきました。お酒をガブ飲みしたあとでクレゾールの原液を飲みました。すごい臭いでとても我慢ができず吐き出しました。口の周りにひどい火傷をしてしまいました。こんどこそと思って、本で調べて致死量のベンジンを飲みました。なんだ簡単。これでおしまいと思うと嬉しくて笑ってしまいました。チューハイで「カンパーイ!」
でもそれからが大変。激しい嘔気と嘔吐、胃袋が裏返ったような腹痛と頭痛。2日間吐き続け、最後は胆汁まで吐きました。もういや、あの苦しみは思い出したくない。私は死神にも見放されました。なぜかその時、死にたくない。生残ったら今度こそきちんと治療しようと思いだしました。それであんなに嫌っていた病院に自分から入院しました。
ホスピタルに入院して2週間。どういう訳か、5年間続いていた過食嘔吐が止まっています。お酒も飲みたくなりません。ミーティングでの仲間の話も素直に聞けます。不思議です。以前はじっと座っていられなくて、たまに出たミーティングでも途中で退席したのに。天気の良い日は毎日、仲間たちと連れだってワイワイガヤガヤと散歩に出ます。こんなに気楽でいいのかな、と思うほどです。
今日の面接で院長のアドバイスは、「スピード違反。もっとゆっくり。罰金を払って、もう一度やり直すことになるかもしれませんね」でした。よく理解できません。 (2000/02 T.
さん) [TOPへ]
● 仲間のメッセージ 「男性のアルコール依存+摂食障害患者です」
男性のアルコール依存+摂食障害患者です。私が小学1年の時に両親が離婚、母の再婚した相手がアル中でした。私自身は中学時代から対人恐怖があり、19歳でダイエットを始め、次第にエスカレートして、時には1日1食から全くの絶食をするようになりました。20歳からアルコールのがぶ飲みをし始め、すぐに1日ビール12本以上飲むようになりました。摂食障害は、過食と嘔吐になり、吐くために食べるようになり、さらに酒を飲んで吐くようになりました。24歳では、連続飲酒に処方薬乱用が加わりました。危険ということは知っていましたが、もうどうでもよかったのです。救急車で運ばれ、専門病院に入院することになりました。
赤城高原ホスピタルでは、いろいろな人の話を聞くことができて、勉強になりました。でも居場所がなくて、落ち着けない感じは、ここでも同じです。もうすぐ退院です。院長は「1回目の入院としては、上出来だよ」
私はもう酒は飲まないし、自分では再入院するつもりはありません。 (2000/04 FT
さん) [TOPへ]
● 仲間のメッセージ 「いつも地面に落っこちそうな不安を感じています」
摂食障害、アルコール依存、処方薬依存、買物依存と家庭内暴力など、いろいろなアディクションを持っています。今もこれを書きながらかりんとうを食べています。ひとの顔をみるだけで食物のことで頭がいっぱいになり、会話をするのも苦痛です。食物へのとらわれがおさまると今度は飲酒欲求がでてきます。気分転換にショッピングに行くと、欲しくないものまで買い込んでしまい、家に帰るといらいらして親に当たって食器を投げつけます。そんな状態でどうにもならず、両手や首をカミソリで切りつけたり、処方薬をガブ飲みしたりしてしまいます。
入院しても、仲間との対人関係でいろいろな刺激を受けて困惑してしまい、自信喪失したり、パニックになったりで、苦しい毎日でした。それでも、竹村院長や看護の人たちに支えられて何とか1カ月たちました。いつも地面に落っこちそうな不安を感じながら、綱渡りのような感覚で入院生活を過ごしています。 (2000/05 K
さん) [TOPへ]
● 仲間のメッセージ 「安定した治療関係ができるまでに長い年月がかかりました」
娘は中学3年の時、拒食で27kgになり初めて入院しました。以来、過食嘔吐とアルコール乱用、自傷行為(手首、前腕の切傷)、自殺未遂(処方薬のがぶ飲み)で、20代半ばまで救急車と縁が切れませんでした。本人も苦しんでいたことでしょうが、男性依存については、母親の私も随分悩みました。
赤城高原ホスピタルを含むネットワークにつながってからも、安定した治療関係ができるまでに長い年月がかかりました。
それでもすべてを知ったうえで支えてくれる男性も現れ、今は責任のある仕事について3年になります。発病してから17年目の現在、母親の私もようやくほっとしています。 (2000/07
S.M.さん) [TOPへ]
● 仲間のメッセージ 「幸せを探し出せそうな気がしてきました」
摂食障害歴10年、アルコール依存症歴8年の女性です。最初の5年間は心療内科に入退院を繰り返しました。拒食のために体重が減少し、低血糖と貧血でばたばた倒れるようになりました。それでも縁があって結婚したのですが、すぐにキッチンドリンカーになってしまいました。私は家事ができず、その上夫が酒乱とギャンブル癖だったので、お互いに傷つけあうばかりの夫婦になってしまい、結局別れることになりました。ところが主婦業から解放されると今度は過食とお酒の毎日です。友人と飲んだ後、自宅に帰ってチビチビと飲み続け、食べ吐きで疲れると睡眠薬をお酒で流し込んで寝てしまうのです。
こんな生活がいつまでも続く訳がありません。そのうちに体調不良で入院することになりました。2回目の入院では、お腹から背中にかけてものすごい痛みでのたうち回りました。急性膵炎だと言われました。その痛みがまだ回復しないうちに幻覚が出てきました。体中から小さな虫が出てくるのです。内科から精神科に廻され、シアナマイド(抗酒剤)を処方してもらって退院しました。ところがビールを1杯飲んだのをきっかけにもとの飲酒生活に戻ってしまいました。私の場合はシアナマイドを服用しながらお酒を飲むので拷問のような苦しみです。その苦しみを酒で紛らせながら過食嘔吐をして、疲れ果ててうたた寝して目が覚めたらまた飲むのです。自分を呪い、自分を罰しながら飲み続けました。
体力と気力が尽きた頃にホスピタルを紹介されて入院しました。離脱の時期を越すとお酒のない生活は体の面ではとても楽でした。しかし一方で、入院している仲間が怖くてたまりません。私はこんな連中とは違う、こんな人たちと一緒にいたら余計具合が悪くなる、ここにいたら気が狂ってしまう、と何度も何度も退院を考えました。主治医の院長に「私はどうすればよいの」と聞いても、「入院しているだけで精一杯でしょう。いるだけでいいよ。余裕があったらミーティングに出てごらん」としか言ってくれません。仕方なしにミーティングに出ても気分が重くなるばかりでした。
自分と同じ摂食障害の仲間と一緒にいるのも苦痛でした。びっくりしたのは、ここでは食べ吐き自由なのです。こんなに好き勝手をやっていたら治したくても治らないじゃないの、とイライラしてばかりいました。あまりに苦しいので、時には自分から申し出て閉鎖病棟に入れてもらいました。数日後に開放病棟に出ると仲間が暖かく迎えてくれました。
そんな毎日でしたが、それでもそのうちにミーティングで仲間の話が少しずつ聞けるようになってきました。そして不思議なことに人の話が聞けるようになると同時に、自分の話も徐々にできるようになりました。ずっと胸につかえていた心の叫びが勝手に言葉になってでてきます。考えてもいなかったことが勝手に私の口からべらべらと出てくるのです。「えっ、私ってそんなふうに思っていたんだ」と話し終わってからあらためてびっくりすることがよくありました。
そして信じられないことに、何故か、最近気持が楽です。同じ悩みを持つ仲間と生活していると、苦しみの中身は変らなくても苦しさは半分になります。気持の通じる仲間と話しているとほっと落ち着けます。入院して2ヵ月、まだ過食と嘔吐は完全には止められませんが、回数は随分少なくなりました。そして食べ物で振り回されるのがばからしく思えてきました。もうひとつの進歩は、5年以上もあたりまえのように飲み続けてきた睡眠薬をやめられたことです。不思議ですが、眠れるのです。
まだまだ気持が揺れ動いて落ち着かなかったり、人と話をするのが怖くなったりします。世間のことを考えるとあせってしまうし、退院後のことを考えると不安になります。でも先行く仲間を見ていると、お酒と食べ物に振り回されない幸せを探し出すことが自分にもできそうな気がしてきました。(20代後半女性、2001年夏) [TOPへ]
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⇒ TEL:0279-56-8148
文責:竹村道夫(初版:99/12/20)