【 薬物乱用、依存症、200人の証言−第1部 】    赤城高原ホスピタル



【 きっかけ、気分変化 】

[語学留学、ドラッグ留学?] ロスアンジェルスの英語学校に英語を勉強すると言って出掛けた息子は、1年後にドラッグだけを覚えて帰ってきました。海外語学留学では良くある話だと後で関係者に聞きました。(2000年)

[汗止めスプレー、ほんのちょっとした好奇心] 中学3年の時、運動クラブで、誰かが汗止めスプレーをビニール袋につめてまわしました。一息すったら、頭がくらっとしました。快感というほどではないけど、ちょっとした気分変化でした。そこにいたほとんどの生徒がやってみたと思います。ほんのちょっとした好奇心です。私自身はそのことはすっかり忘れていました。1年後、失恋と学校での仲間はずれのダブルパンチで落ち込んでいた時、あの体験をふと思い出して、接着剤やスプレーなどでやってみました。やめられなくなり、ボロボロになって専門病院に入院しました。(19歳女性、2001年)

[LSD、マリファナ、覚せい剤] 横浜にいた時、12歳でLSDを使い始めました。同級生(女子)からもらいました。その子の友人にハーフ・アメリカンの男の子がいて、いくらでも薬物を持っているようでした。高校2年のとき、その男の子の友人(外人)からマリファナや覚せい剤をタダでもらいました。(19歳女性、2001年)

[外国人、覚せい剤、隠し場所] ある日、怪しげな外国人がアパートの消火器の奥に手を突っ込んでいるのを見かけました。その外国人がいなくなってからその場所を捜してみたら、小さなビニール袋がありました。これが話に聞いたことがある覚せい剤に違いない、と思いました。警察に届けようかなとも思いましたが、せっかくただで手に入れた覚せい剤を渡すのももったいないなと思い、迷いながら1週間たちました。売ることもできないし、いまさら届けたら、逆に叱られたり、疑われたりすると思い、結局、コーラに入れて飲んでしまいました。これっきりと思ったのに、その覚せい剤が止められず、やがて購入するようになり、使い続けて2年6カ月、警察に捕まったときには、ほっとしました。(2002年)

[ラッシュ、安全?、亜硝酸アミル] ラッシュ(Rush)という脱法ドラッグが1990年代後半から高校生など若年者の間ではやっています。特徴は安いこと。安物は980円。高くても一瓶4000円です。吸引すると頭がぽわーんとします。私も高校生仲間に勧められてやってみました。私の場合は何だか自信がつくような気がして時々使っていました。ある日新聞に、亜硝酸アミルや類似物質が入っていて危険だと書かれていました。私はすぐにその瓶を捨てましたが、まだ使っている仲間もいるようです。(18歳女性、2000年)

[LSD、体が溶ける?] 兄が使っていたのを盗んで、14歳でLSDをやり始めました。シャワーを浴びると自分の体が溶けて流れていくような気持がして、好きでした。(1999年)

[シンナー、変身?] 中学2年でシンナーを使い始めました。シンナーを吸うと、汚くてみじめな私の体が透き通ったきれいなガラス細工に変身するような気がしました。高卒後、ホステスになるとすぐに覚せい剤を使い始めました。(1999年)

[有機溶剤、純トロ] 中学2年で、自転車修理用の糊を吸い始めました。友人から聞いていたからです。ふわっとしてとても気持が良かったので、すぐに常用になり、乱用になりました。そのうちに純トロを吸うようになりました。純トロというのは、純粋トルエン。99.9%のトルエンはスリーナインといって、最高品です。でも売物のは、ガソリンや灯油が混ざっているものが多いって聞きました。(1998年)

[ドラッグ卒業? 好奇心、自信]  14歳から17歳までシンナーをやりました。高校卒業時にドラッグも卒業しました。卒業したはずでした。それなのに、親族代々の事業を引き継いで、それが順調になった26歳から覚せい剤を始めました。ちょっとした好奇心からです。あと、自分はシンナーだってやめられたから、覚せい剤だって適当な時期にやめられる。という自信もありました。5年間使い続けて逮捕された時には、心も身体も、家族も社会生活も文字どおりボロボロでした。(2001年)

[ジュース、調味料? 覚せい剤] 17歳、高校2年の夏休み、付き合って1カ月くらいの男の子(当時22歳)が、私の目の前でジュースに粉をパラパラと入れ、「ドラッグだよ、ドラッグ」と言いながら渡してくれました。パンチの効いた味にする調味料のような物だと思いました。飲むと食欲がなくなり、ほとんど食べていないのに、やたら元気になりました。ピアノを弾くと、集中できる気がして、レッスンが楽しくなりました。それから、時々もらうようになって、3、4回目に覚せい剤だと教えられました。(2003年)

[スマートドラッグ、今のところ]  「スマ−トドラッグ」とか「合法麻薬」と称する薬物をありがたがっているマニアがいます。「こころをデザインする」とか、かっこいいことを言っていますが、要するに、法の網をくぐって、ドラッグを使おう、使わせようと言う人たちです。ボクに言わせると、彼らは、もうすでにハマっているけど、今のところほかの症状が目立たない人、今のところ捕まっていない人たちです。ボクも3年前はそのひとりでした。(2003年)

[インターネット、スマートドラッグ、覚せい剤] インターネットでスマ−トドラッグのことを知り、いろいろ試してみました。すぐに横道にそれて、違法薬物を使い始めました。2年後にはシャブをやっていました。最後はやっぱりシャブですね。(2003年)

[大麻、ゲートウェイドラッグ] 14歳から喫煙、16歳で兄の使っている大麻をもらって、使い始めました。兄は、「タバコより安全で、気持ちいい」と言っていました。違法だとは知っていましたが、法律の方が間違っていると思っていました。確かに大麻使用に関連する問題はありませんでした。でもその後、19歳で覚せい剤(あぶり)を使い始めました。あぶりの覚せい剤は、大麻の延長のような気がして、抵抗感がなく手を出してしまいました。こういう訳で、大麻は gateway drug (門戸開放薬)とか entry drug (入門薬)と言うのだそうです。(2002年)

[マスコミ、ブロン、リタリン]18歳でブロン(咳止め薬)を始めました。マスコミでブロンの乱用が話題になっていたからです。もっとも、その前から、シンナーをやったことがあったし、ハルシオン(睡眠薬)も常用していたので、何か新しいものを試してみる準備はできていたといえます。実際、ブロンの次にはリタリンの乱用を始めました。(2002年)

[咳止め薬、エフストリン、ブロコデ] 5年前、24歳の時、知人から勧められた咳止め薬、エフストリンを飲み、効果がありましたが、その後、咳や喉の痛みがなくても使うようになりました。1本(200ml)、1400円で、本来は1回5ml服用ですが、私は1日5本くらい使っていました。これくらい使うとハイになって、それがやみつきになって止められないのです。ほかにはブロコデも乱用します。エフストリンにエフェドリンが、ブロコデにはコデインが入っています。とうとう入院することになりました。(2003年)

[不眠、薬局、ウット、リスロンS] 薬局で「落ち着かなくて眠られない」と言うと、ウット(WUTT、ブロムワレリル尿素、アリルイソプロピルアセチル尿素、塩酸ジフェンヒドラミンなどの合剤。伊丹製薬、12錠1箱が1200円)とリスロンS(RISLON-S、ブロムワレリル尿素。佐藤製薬、12錠1箱が600円)を勧められました。すぐに常用から乱用になりました。安売り店では、ウットを1000円、リスロンを400円で売っていましたが、私はまとめ売りしてくれる小さな薬局を使っていました。ちなみにウットは1回1錠、リスロンSは1回2−3錠が常用量ですが、私は大体ウットを1日2箱(24錠)のんでいました。リスロンSは、錠剤が大きいので飲み難いのです。(20歳女性、2002年)

[クラブ、外人ハウス] 私の場合も、違法薬物のスタートはマリファナでした。20歳の時にクラブで知り合った外国人に教えられました。マリファナが欲しくて、六本木の外人ハウスを泊まり歩いていました。そこで出会った男たちは、ほとんどがガンジャ(大麻)容認派でした。マリファナを使うと食欲が出て太るので、すぐにシャブに変更しました。シャブを使うとほとんど何も食べず、何日も寝ないで活動できます。夜間不眠になって騒ぐのでうるさがられ、よくケタミンをもらっていました。ケタミンは動物麻酔薬で、私の場合は、スニッフィングで使用します。ケタミンを使うと、固まってしまって、あっという間に2、3時間たってしまいます。自覚的には幽体離脱を体験しますが、実際にはケタミン使用中にしばしばレイプされていたようです。他人事のようですが、当時の私は、薬物さえ手に入れば、そんなことはどうでもよかったのです。(2003年)

[覚せい剤、3年後の現実] 彼が17歳、私が16歳でした。一緒にシャブをやりました。私が入手してきて、彼を誘ったのです。私はシャブがやめられず、女子少年院1年半の卒業後に再使用してしまいました。初めて使用してから3年後、どうしてもシャブを止めたくて、逮捕されるのを覚悟の上で専門病院に入院しました。彼は去年から塀の中です。覚せい剤所持、使用で、懲役3年です。(2002年)

[卒業旅行、心理学部、体験学習] 大学の卒業旅行でカンボジアに行きました。体験学習が大切だと友人に勧められ、心理学部出身だったので、将来何かの役に立つかも知れないと思い、試しにマリファナを何度かやってみました。その友人の言うとおり、自覚的には何の害もありませんでした。帰国してからも時々使っていました。約2年後、同じように、試しに覚せい剤のあぶりをやってみました。やはり何の問題もありませんでした。1年後に急に量が増えだし、それから専門治療につながるまでの3年間、文字通り地獄の苦しみを味わいました。完全に止め続けられるかどうか、まだ分かりません。心理学の勉強にはなりましたが、後輩は勿論、誰にもお勧めしたくありません。(2001年)

[ライターガスの心理効果] ライターガスを吸うと、不安がスーとおさまり、思考が鈍くなって、何も考えなくてよくなりました。16歳から吸い始めて11年目、まだ止められません。(2003年)

[携帯サイト] 携帯メールで合法ドラッグサイトを見つけ、ちょっとした好奇心でセブンスへブン(7th heaven、ハーブ系、7種類のハーブをブレンド調合したもの)を注文しました。一袋五千円でした。送られてきた梱包の中にAMT(dl-alpha-methyl-tryptamine freebase)も売っていますという紙が入っていたので、3本追加注文しました。AMTとメチロン(Methylone。MDMA類似化合物。解熱鎮痛消炎剤、スルピリンのブランド名であるMethylonとは全くの別物)を一緒に使うとすごく効きました。3年後にホスピタルに入院することになりました。(AMTの別称は、デイトリッパーです)(2004年)

[無軌道若者?] 音楽とドラッグ付けの毎日です。処方薬、ブロン、新トニン、マリファナ、エクスタシーなど、何でも使います。知らない人が見たら、無軌道若者に見えるかもしれないけれど、実像はかなり違います。ロック風の格好にきめて、遊んでいるフリをしているけれど、実際には、しらふでは緊張して、女性に口を利くこともできないのです。醜貌恐怖なのです。23歳になるのに、風俗以外の場所での性体験がありません。(2002年)

[覚せい剤をやり続けたわけ] 初めはやせたいので覚せい剤を試してみました。あぶりです。1ヵ月後には、気持ちがいいので、あぶりをやり続けました。3ヵ月後には、シャブがないと動けないので、全ての金を使って使い続けました。少しでも効果が増えるようにあぶりでなくウチ(打ち?射ち?、静脈注射のこと)にしました。(28歳、女性、覚せい剤依存+摂食障害、2002年)

[脱法ドラッグから覚せい剤へ] 21歳頃、ランジェリーパブで働いていました。やせるために当時(2000年頃)アメリカで流行のダイエット薬、エフェドラ・スーパーカップを使い始めました。3kg位はやせたと思うけど、もっとスリムになりたくて、3ヵ月目からは多めに使うようになり、もっと効果のある薬を求めて、雑誌に出ていた横浜や渋谷の合法ドラッグ専門店に出かけました。何度か出入りするうちに、ちょっと(とても?)危ない薬にも手を出すようになりました。フォクシー(ゴメオ)やAMT(デイトリッパー)を知ったのもこの頃です。店員と仲良くなると、やがて違法な薬も手に入るようになりました。バツ(MDMA、エクスタシー)もそこで購入。シャブも入手できました。やがて売人から直接購入するようになり、あぶりを1ヵ月やった後、ポンプを使用するようになりました。24歳、ボロボロになって専門病院にたどり着きました。あなたはまだ運が良いほうです、と病院のスタッフに言われました。そうかもしれません。一緒に違法薬を使っていた仲間の一人は自殺したし、ひとりは行方不明、ひとりは刑務所にいますから。でも、私にはまだよく分かりません。自殺は嫌だけど、事故にあって死んでいたほうが良かったかな、と思うことがあります。(2004年) [TOPへ]


【 家庭環境 】


[医療依存、薬物乱用の世代連鎖] 母はいわゆる「医療依存」でした。高血圧に糖尿病、肝障害に喘息、頭痛と腰痛、それでも酒と煙草を止めませんでした。3―5ヵ所の医療施設から合計10種類以上の薬をもらい、その他にも、ビタミン剤、安定剤、睡眠薬などを常用していました。家の中には、これらの薬があふれていました。3人の娘のうち、長女は20歳頃ハルシオンとデパスの乱用、3女は18から32歳頃、ウットと酒の乱用になりました。(1998年)

[両親の浮気、離婚] 私が小学2年の頃、両親とも自宅を留守にすることが多くなり、そのうちに両親のそれぞれに浮気が発覚して、私が小学6年の時に、離婚になりました。私は母に引き取られましたが、次第に外泊が多くなりました。中学1年(13歳)から女性暴走族のメンバーになり、15歳でアンパン(シンナー吸引)を始めました。同性の先輩から勧められたのです。カツアゲとひったくりでお金が貯まったので、渋谷でシャブを手に入れました。TVでシャブやったらやせるというのを聞いていたからです。危険だとは聞いていたけど、そんなことはどうでも良かったのです。16歳でした。(20歳女性、1998年)

[ACOA、お説教、シンナー] 中1年の時、友人に勧められて、シンナーを吸ってみました。酔った父のお説教を正座して聞かされる時も、シンナーを吸っているとずっと楽でした。すぐにやみつきになりました。(22歳女性、1997年)

[ライターガス、喫煙] 16歳の長男の部屋から、ライターガスのあき缶がいっぱい出てきました。喫煙のことは諦めていたし、数が多いのが少し変だなとは思いましたが、私も夫も忙しいのでそのままになっていました。学校の保護者会でライターガス乱用のことをチラッと聞いたとき、「これだ」と思いました。そしてインターネットで検索してこのページにたどり着きました。もっと早く調べてみればよかったと思います。(45歳主婦、1998年)

[機能不全家庭、高校生売人] 父親は刑務所に入ったり出たり、母親は昼間から酔っていました。自分は中学時代に覚せい剤を使いました。高校はほとんど行かず中退。自分はハッパ(マリファナ)を使いながら、覚せい剤のプッシャー(売人)をしていました。チーマーの先輩を通じてヤクザからシャブを卸してもらい、ストリートでナンパしながら売っていました。傷害で捕まる前には、1月に50万円くらいは稼いでいました。16歳の時です。(チーマーとは、盛り場にたむろし、喧嘩を売ったりする不良ぶったグループのこと。1992年に登場した若者言葉、2000年以後は余り使われなくなった)(20歳女性、2002年)

[ACOD、シンナー、風俗] 子供のころから両親が殴り合いをしていました。中学2年の時、両親の喧嘩を止めようとして、手首をカミソリで切りました。それでも両親の喧嘩は止まりませんでした。受験高校に入学しましたが、放課後に友人の家でシンナーを吸いました。高卒1年後には、風俗とドラッグ漬けの生活になりました。大麻、コカイン、LSD、エクスタシー、覚せい剤など手当たり次第に使いました。親はまだ知りません。(26歳女性、1999年)

[レイプ、シンナー少年、酒害家庭] 中学2年のとき、塾からの帰りにシンナー少年7人にレイプされました。そのことは家族の誰にも話せませんでした。私の家は、酒害家庭で、もう多すぎるほどの問題を抱えていましたから、話せば混乱が大きくなるだけだと分かっていました。でもその後の私の取った行動は、考えられる選択肢の中でも最悪のものでした。私は自分自身でシンナーを乱用し、売春するようになりました。(22歳女性、1996年)

[ACOA、シンナー、鎮痛剤] 父がアルコール依存症でした。酔って小言を言い続け、時々暴力を振いました。私は19歳でシンナー吸引、鎮痛剤乱用を始めました。鎮痛剤、中でもナロンエースが私のお気に入りでした。どんどん使用量が増えて、1年後には、1日24錠使用していました。(29歳女性、2004年)

[夫婦喧嘩、マリファナ、人生ばら色?] 父親がアルコール症、母は情緒不安定でした。夫婦仲が悪く、夫婦喧嘩をすると、母が3,4日口をきかないということが月に1度以上ありました。笑いがなく冗談が通じない家庭でした。高校1年の時、マリファナをもらって使い始めるとすぐにやみつきになりました。人生がばら色に見えました。でも3ヵ月後にはエス(覚せい剤)のあぶりに移行しました。(21歳女性、2001年)

[ACOA、留学、過食症] 父がアルコール症で、母は情緒不安定。外見は取り繕っていましたが、二人はけんかばかりしていました。私が17歳の時、父に「一緒に死んでくれ」と言われました。家庭から逃げ出すように、シアトルに留学しました。3ヵ月くらいで過食症を発症。つらさから逃れようとマリファナ、きのこ、LSD、スピードなど次々に手を出しました。1年間の予定でしたが、ホームシックという口実で半年で帰国しました。摂食障害も薬物乱用も両親には内緒でした。帰国してからは本格的に覚せい剤を始めました。(19歳女性、2002年)

[乱用家族、マリファナ、エスのアブリ] 高校2年の時、4歳年上の兄がマリファナを吸っていました。「マリファナは捕まらなければ大丈夫、クリントン大統領だって吸っていたんだから、健康上の害はない」などと聞いていましたから、私もかくれて吸っていました。実のところ、父も時々吸っていたようです。大学生になると、エスのアブリを始めました。覚せい剤の静脈注射と聞くと、怖いイメージがあるけど、実質は同じでもファッションの延長のような感覚でした。専門家の話では、昔はシンナーからシャブという薬物乱用の進行パターンが多かったけど、今はマリファナからエス(スピード)のアブリというパターンが多いのだそうです。(24歳、2001年)

[虐待、両親の離婚、怖いものなし?] 母が情緒不安定で、いつもは優しいのに、逆上すると、ひどい暴力を振るっていました。その後、両親はお互いの浮気が原因で別れました。私は小学校時代から、竹刀で殴られ、私はしばしば失神していました。15歳からアルコール、覚せい剤、眠剤、安定剤、カフェインなど何でも使いました。「怖いものなし」と周りから言われましたが、本当はその反対です。毎日が怖くて怖くて、薬物なしでは生きていけなかったのです。(25歳男性、2002年)

[世間体、親の期待、復讐]  両親とも、世間体ばかり気にして、私に「何でも1番になれ」と言い続け、それを私に強制しました。1番になれないと、暴言、暴力です。そして、両親は「厳しいのはお前のためだ。今は親を恨んでも、大人になったらきっと感謝する日が来る」と言っていました。私も親の期待を親から子供への愛情だと自分に言い聞かせました。でも腹の底からは自分自身を納得させられませんでした。私が高校1年で覚せい剤を始めたのは、親への復讐でした。「ほらどうだ。お前たちの言うとおり、1番のヤクチューになってやったぞ」。(20歳、1999年)

[信用できる大人? いません] 両親は私が3歳のときに離婚しました。3歳から小学校2年まで、2人目の父から暴力を受けていました。最近現れた3人目の父は現在窃盗容疑で拘留中です。母は(水商売+風俗業)で朝帰りの毎日です。実は両親とも、時々覚せい剤を使用しています。
 私は定時制高校1年生。15歳です。1年半前から覚せい剤を何度か服用しました。カレ氏(20歳)がシャブ入りジュースを作ってくれて、それを飲んでセックスするのです。高校の授業でドラッグ乱用の話があったので、気になったので先生に話したら、ホスピタルに連れてこられました。周りに誰か信用できる大人はいないか、ですって。いません。一人もいません。(15歳女性、2000年)

[覚せい剤、家族の警察通報] 覚せい剤をやり始めて2年目、家族全員を巻き込む混乱の中で、父が警察に通報したために、私は逮捕されました。アル中で腰抜けの父にそんなことができるとは思いもしませんでした。私の逮捕と覚せい剤依存の治療をきっかけに、父も断酒して専門治療につながりました。やっと家族の平和がとりもどせました。父の警察通報からすべての回復が始まりました。父のためにひどい子供時代を過ごしましたが、警察通報だけは父に感謝しています。(26歳男性、1999年)

[否認、世代間連鎖] 40歳の主婦がアルコール症でホスピタルに入院しました。入院中にも何度もスリップ(再飲酒)して、しかも飲酒を認めず、2ヵ月で強制退院になりました。その時に付き添いで来院していた当時18歳の長男がちょうど10年後にアルコール症で同じ病院に入院しました。息子の話では、母は3年前に自殺をしたとのことでした。息子の幼児期から母は覚せい剤を使っていましたが、本人も家族もそのことを内緒にしたまま、アルコール問題だけを主訴として当院で治療をし、強制退院になってからもそのことを隠したままで、薬物乱用の治療につながらずに覚せい剤を使いつづけて死んでしまったのです。(28歳長男の入院時の供述、2003年)

[ひとつくらい親のためになりたいのです] 由緒ある家庭で生まれ、徹底的に行儀作法を教えられました。子供の頃から親族の期待に押しつぶされそうな恐怖を感じていました。表面的には親の期待に添って、指示に従ってきましたが、高校時代からは、親に反抗して時々覚せい剤を使っていました。アブリです。3年後に本格的に使い始め、ポンプ(静脈注射)をするようになりました。何度も止めようとしましたが自分の力ではやめられません。お願いです。私を縛りつけてやめさせてください。手足を縛ってもかまいません。だめなら、安楽死させてください。私の汚れた臓器で良かったら、ブローカーに売り飛ばしてください。骨と毛髪とお金だけ両親に渡してください。ひとつくらい親のためになりたいのです。親の期待に反することばかりしてきましたから。(21歳女性、2000年)

[全裸で腕立て伏せ] 母は、3回結婚、2回離婚しました。今は3度目の夫と住んでいます。2回目の結婚期間は、私が小学校から中学校にかけての時期でした。小学校5年時、クラブ活動をさぼって道草を食っていたという理由で、両親にひどく叱られました。継父の命令で、全裸で腕立て伏せを10回させられました。母は見て見ぬ振りをしていました。中学頃からいろいろな薬物に手を出しました。薬物そのものの効果に加えて、おとなの忠告や偽善に反抗しているという快感がありました。(20歳女性、薬物乱用、2006年) [TOPへ]


【 社会環境 】


[高校生、咳止め薬]  高校1年か2年のとき(1980年代後半)、クラスではやっていました。飲むとすっきりして、気持ち良くなるって皆が噂していました。当時は、多分クラスの4分の1くらいの生徒は、少なくとも1回は使ったことがあったと思いますよ。商品名は「ブロン」、本来は咳止め薬です。ほぼ同じ成分の「トニン」を使っている人もいました。 やめられなくなって 12 年もそれで苦しむなんて、考えもしませんでした。(28歳男性、1999年)

[ハルシオン、覚せい剤]  ハルシオンは仲間うちではアップジョンって言ってた(アップジョンは、製薬会社名)。お酒と一緒に飲むと、けっこういけるの。六本木ではやっていた。やりすぎてそのまま目が覚めない人もいたわ。ばかね、あの世行きよ。私も最初はハルシオンやってたんだけど、やくざとつきあうようになってシャブを始めたの。シャブをやると目がかすんだり、体が熱っぽくなったりして、ちっとも良くなかったんだけど、そのうちに気持が良くなってだんだんやみつきになったのね。(20歳女性、1998年)

[SM嬢、薬物体験、ラッシュ]  SMのお店で働いていました。ママは、ハルシオン、マリファナ、コカイン、LSD、覚せい剤など、一通りはやったと言っていました。私は一度だけ、ダッシュ(多分、ラッシュの間違い―院長)という芳香剤を嗅いだことがあります。肺いっぱいに吸い込んで息を止めると、頭に全部の血が登ったような気がして、私は突然意識を失いました。一緒にいた仲間によると、私は一息吸ってバタンと倒れたということです。お店の仲間のほとんどは、吸っても全然平気だったので、私が冗談でやっていると思ったようです。本当に意識が無いので、大騒ぎになったということでした。数分で意識は回復しましたが、それ以来、私は決して薬物には手をだしませんでした。お店のお客さんのひとりは、突然来なくなって、1年後に来たときに聞いたら、シャブで捕まって、刑務所に入っていたと言っていました。(22歳女性、2001年)

[エリート社員の大暴走]  超一流会社のエリート社員でした。ほんの出来心で、覚せい剤をやり始めました。 21歳の時です。覚せい剤について怖い話は聞いてはいましたが、自分は体力に自信のあるスポーツマンだから大丈夫だと思っていました。実際、覚せい剤、大麻、アルコールをチャンポンで使っていましたが、何の問題もありませんでした。25歳の時、仲間内でもっとも早く昇進し、大学を卒業したばかりのとびきり美人と婚約しました。そんなある日、突然会社で混乱状態になり、同僚や上司に殴り掛かり、大暴れしてしまいました。警察に逮捕されて取調中も支離滅裂の混乱状態が続き、精神病院に強制入院になりました。裁判では、懲役1年6カ月、執行猶予3年になりました。会社はクビになり、婚約は破談になりました。精神病院でも大小便の垂れ流し、昏迷状態が続き、大量の向精神薬を服用して、それでも改善が見られず、電気ショックまでして、3カ月後にやっと幻覚妄想状態から覚めました。(25歳男性、2001年)

[風俗嬢、酒とシャブ、内緒]  私は、関西方面では有名な売れっ子の風俗嬢でした。18歳からは、365日24時間酒が切れたことがありませんでした。20歳でシャブを始めました。注射とアブリの両方です。10回もやらないうちに捕まってしまい、懲役1年6カ月、執行猶予3年の判決を受けました。内緒だけど、実はマリファナとLSDも数回はやっていました。(21歳女性、1998年)

[家出娘、覚せい剤、売春組織]  彼は30代初めから、もう10年間もこの仕事をしていました。夜の町で家出娘を優しい言葉で誘って、宿を提供し、そのうちにただでシャブを使わせ、そしてシャブ漬け、セックス漬けにして、できあがったら脅して売春させ、飽きてしまうか、使いづらくなると、娘を売春組織に売り飛ばしていました。そしてまた、次の女を捜します。そんなふうにして、私が知っているだけで、この10年間に5、6人の女性と同棲を繰返していました。(被害娘のひとりに同情し、恋人になった30代元ヤクザ男による、多分、本当の話、1990年代後半)

[レイプ、シンナー、暴走族] 16歳のとき、5人の男にレイプされました。そのうち3人は知らない男、2人は暴走族仲間でした。私を含めて全員がシンナーを吸っていました。9年間、誰にも話せないで秘密にしてきました。消しゴムでゴシゴシ消したい記憶です。思い出したくないのに、私が忘れようとしても、事件の方が私を忘れてくれません。その時私は、シンナーを使用しはじめて数回目でしたが、事件の後使い続けになりました。捕まって、留置所に10日間、鑑別所に1カ月入りましたが、出るとすぐに使い続けました。(25歳女性、2000年)

[ラッシュ、合法ドラッグ?、安全?] ラッシュ(Rush)という吸引系ドラッグは最近高校生の中ではやっています。いわゆる合法ドラッグ(警察は脱法ドラッグと呼ぶ)です。昔はサーフショップなど限られた場所でしか手に入りませんでしたが、今は通販やアダルトショップなどで簡単に購入できます。カク(シャブのこと)とかキャンディ(正体不明)とかアーク(正体不明)とか危険な薬物を使っていた仲間の大部分は、今ではブタ箱に入るか死にました。俺は少しは賢いからそんな危険なものには手を出しませんでした。でも安全なドラッグだと信じて使っていたラッシュがやめられなくなり、専門病院に入院することになりました。ラッシュだけの依存による入院というのはこの病院でも初めてのケースだそうです。(24歳男性、2002年)

[シンナー、暴走族] 高1の頃は毎日シンナーをやっていました。新宿でC瓶(オロナミンCのビン)1本2千円でした。オレの場合は、暴走族に入ってからドラッグをやめました。シンナー、ドラッグ、マリファナ類は厳禁になっていましたから。その少し前頃、仲間がヤク中になったり、交通事故で死んだりしたからでしょうね。シンナーやめられない人たちはボロボロになって、暴走族組織からも抜けていきました。(21歳男性、1998年)

[援助交際、暴力団、薬物乱用]  高校1年の時、援助交際をしていましたが、たまたま相手をした男が暴力団関係者で、知らない間にビデオを撮られていました。学校と両親に話すと言って脅され、ずるずると売春組織に引き込まれました。最初はむりやり覚せい剤を注射され、そのうちに、自分から薬物を使用するようになりました。17歳の時、薬物の影響下で、死んでもいいと思って、カッターで思い切り自分の左手首を切りつけかき回しました。ぞっとするような醜い傷を作ったので、売り物にならなくなったと判断されたようです。ぼろぼろの状態で捨てられました。19歳の現在も、PTSDとアルコール薬物乱用で治療中です。 (19歳女性、2000年)

[大麻、密輸、サーファー]  ネパールから大麻をバッグに入れて密輸したことがあります。持って帰ったものの、密売組織なんか知らないし、どうやって売ったらいいか分かりません。時々、遊び仲間のサーファーにただであげました。日本で栽培された物より格段に質が良いと言われたこともあります。あの人たちがその後どうなったか考えると、罪悪感で胸が痛みます。多分あのうち何人かはドラッグ地獄にはまったことでしょう。私が駄目になるのは仕方がないけど。他人を巻き込むなんて、本当に私は悪い女です。他人にどう言われようと、売春に関しては、悪いことをしているとは私は思いませんが、薬物を売るのはひどいこと、ただであげるのはもっと悪いことだと思います。ドラッグをやると、周りのみんなを傷つけます。いまさら遅いけど、家族と仲間を傷つけたことについては申し訳なく思っています。(25歳女性、1999年。この供述の3年後に死亡)

[アングラ・ミュージシャン]  私たちロックバンドの仲間うちでは、ほとんどのメンバーが違法薬物を使っていたと思いますよ。マリファナは主食でしょ、シャブやLSDはおかずって感じ。確かに使うと音感がよくなるみたい。狂っちゃう人、捕まる人や死ぬ人もいるけど、みんなあんまり気にしなかった。えっわたし、私は今はもうやめたわよ。(22歳女性、1998年)

[やせたくないか?]
 渋谷のセンター街を歩いていたら、イラン人が近づいてきて、「やせたくないか?」と話しかけてきました。ちょうどダイエットで悩んでいる時なので、興味があったし、カタコトの日本語が通じるので、あれこれ話してしまいました。結局「絶対やせるクスリ」という殺し文句に負けて、怪しげなクスリを買ってしまいました。アイスだ、と言っていました。アイスというのが覚せい剤のことだとは知っていました。初めてだから使い方が分からないというと、銀紙を三角に折ってライターで下からあぶってとか教えてくれましたが、それでも分からないというと、ガラスの管を売ってくれました。アイスが4000円、ガラ管が5000円でした。アイスはワンパケじゃなく、0.2gくらい。仲間に話したら、高すぎる、ぼったくりだと言われました。(22歳女性、2001年)

[処方薬依存のホステス] 33歳、銀座のホステスです。アルコール+処方薬乱用で、接客中に寝込んでしまいます。また、年に2回くらい自殺未遂をしています。25歳の頃は、銀座のナンバーワンのホステスでした。最低でも月に200万円は稼いでいました。今は、月収30万円、売掛金(店への借金)が700万円位あります。(33歳女性、2001年。5年後に自殺)

[幻覚妄想の連鎖反応] いわゆる超一流大学の学生です。ある日、仲間の一人が海外から持ち帰った違法薬物でパーティーをすることになりました。4.5畳、2間のアパートに6、7人の男子学生がたむろして、マリファナパーティーになりました。LSDもMDMAも持ち込まれていました。一人が幻覚妄想状態になると、次々に連鎖反応のように参加者が狂い始め、大騒ぎになりました。(21歳男性、1999年)

[インターネット、通販、同じ道] 16歳からマリファナを、18歳からシャブ(アブリとポンプ)を使用しましたが、止められなくなり、22歳時に入水自殺未遂事件を起こしました。その時に精神科医療につながりました。しばらくは薬物には手を出さないようにしていましたが、ある精神科医にリタリンを処方してもらったところ、たちまちのうちに乱用するようになりました。3ヵ所の精神科医療機関をかけ持ちして、1日に10錠以上のリタリンをのむようになりました。それでも足りずに、インターネットや通販などで、メリディアやリダクティル、ゼナドリン(エフェドラ入り)などを片っ端から購入し追加しました。情緒不安定になり、マイスリーを1シートまとめのみして、ホスピタルに入院になりました。(26歳女性、2002年)

[合法ドラッグ、インターネット、HP] インターネットで合法ドラッグのことを知り、自分でも個人輸入していろいろ試してみました。得意になって、HPを作りました。日記と薬物使用経験が中心です。3年後、薬漬けになってホスピタルに入院しました。「正直に、入院したところまで、HPの日記に書きなさい」と言われたけれど、ウーン。勇気がありません。(29歳男性、2004年)

[宇宙食] インターネットの薬物マニアサイトの掲示板に、「宇宙食、売ります」という宣伝を見つけました。これは、シャブのことだな、とピンときました。メールで問い合わせ、教えられた携帯に電話してみたら、やっぱり覚せい剤でした。4、5回購入したところで、携帯が通じなくなりました。売人が逮捕されたのかもしれません。僕も危ないところでした。もっとも、2年後に専門病院に入院することにはなりましたけど。宇宙食が覚せい剤の別名だというのは、ホスピタルのHPで後から知りました。(20歳男性、2001年)

[ライターガス、コンビニの対応] 1本300円のライターガスを多い日には、10本吸っていました。1ヵ所では3本と決めていました。コンビニを3、4ヵ所廻って買います。毎日行くので、当然乱用していると分かるはずだけど、注意されたり、「やめろ」といわれたことはありません。(23歳男性、2002年)

[今がやりどく?] インターネットで調べて、Foxy、AMT、2C-I、MBDBといった現在売れ筋の「合法ドラッグ」を片っ端から試しました。AMTは、エクスタシーそっくりでした。数年以内にきっと非合法になるに違いありません。今がやりどくだと思います。今回はちょっとやり過ぎただけです。(2002年、ホスピタルに初回入院直後の22歳女性) (フォクシーの別名は、フォキシー、5-MeO-DIPT、ゴメオ。AMTの通称は、デイトリッパー) (フォクシー、AMTは2005年に麻薬指定された) 

[北朝鮮、覚せい剤] 北朝鮮から密輸入される覚せい剤の取締りが厳しくなって、供給量が少なくなったことを反映して、シャブの末端価格が高くなってきました。最近までワンパケ、2万円程度だったのが、今は3―4万円もします。その影響を受けて、代替薬としての合法ドラッグマーケットが大きくなってきているようです(多くの薬物乱用者からの口コミ情報、2003年6月)。

[DJ、マリファナ、ヘロイン、シャブ] DJ(ディスクジョッキー)歴12年です。私を含め、マリファナや脱法ドラッグを使っている仲間はたくさんいました。友人の一人に英国でヘロインにはまって帰国した男がいて、それを分けてもらったのがヘロイン使用のきっかけです。それが止められず、「ヘロインよりはシャブがまし」という別の友人の変な助言に従って、覚せい剤に変更。使い続けて8ヵ月後、結局は捕まって仕事も婚約者も、家族や友人の信用も全て失いました(34歳男性、2002年)。
 [TOPへ]


【 使用法、薬物使用のサイン 】


[シンナー、吸引作法] 新宿駅の東口でシンナー買って、買ったらすぐにティッシュにしめらせて、それを洋服の袖に隠して、歩きながら吸いました。ビニール袋で吸ったり空き缶に入れて吸ったりすることもありました。(20代前半男性による1990年代前半頃の回想、当時10代)

[シャブ、アブリ、ガラ管] 注射は怖いけど、アブリ(吸煙)なら、まあ大丈夫かな、と思いました。アルミホイルを2枚重ねにして、V字型に折って、毛抜きの上に置いて、真中にシャブを乗せ、ライターであぶって、ストローで煙を吸います。そのうちに、携帯に便利なガラ管(ガラスの筒)を手に入れました。(20代前半女性、1990年代後半)

[覚せい剤、スニッフ、CDケース] 最近はやりの覚せい剤使用法は、あぶりですが、私の場合は、スニッフです。ポンプ(注射)は何となく怖いし、あぶりも面倒だし、以前コカインを使っていた時と同じようにするのです。覚せい剤の結晶を耳掻きに一杯くらい取り、CDケースの上に置き、テレフォンカードで粉末になるまで砕き、紙幣を丸めて鼻から吸い込みます。コカインよりずっと長く効きます。最初は今の量の半分くらいの覚せい剤で十分だったことを考えると、使用量が少しずつ増えてきたようです。(20代前半男性、2002年)

[リタリン、スニッフ] 21歳の時、ちょっとうつになって、ぐずぐずしていたら、その時の精神科医がリタリン(メチルフェニデート、覚せい剤類似物質、処方薬)を出してくれました。たちまちのうちに乱用、依存になりました。インターネットでスニッフ(粉末にして鼻から吸引)の方が効果があると知り、やみつきになりました。25歳、40錠使用後にけいれん発作を起こして、救急車で運ばれました。救急病院を退院してからホスピタルに入りました。(25歳男性、2001年)

[覚せい剤、口渇、不眠不休] 16歳の長男が夜遊びをするようになって数ヵ月、ゴミの中に自然水やミネラルウォーターのペットボトルがやたら増えてきました。そのうちに2,3日も寝ずに大騒ぎをすることがあり、突然警察に補導されたという連絡がありました。後から知ったことですが、夜遊びや外泊、ペットボトル(口渇のため)、不眠不休の大騒ぎなどは、いずれも覚せい剤使用者の特徴だとのことです。親としてもっと気をつけていればよかったと反省しています。(38歳主婦、2002年)

[ロヒプノール、スニッフ] リタリンの使用法からの連想で、私はロヒプノールもスニッフしていました。午前中はリタリン、夜はロヒプノールがお決まりのコースでした。その他、ハルシオン、デパス、レキソタン、ワイパックス、ソラナックスなど、手当たり次第に使用しました。(28男性、2001年)

[覚せい剤、効き目] 午前2時に兄から電話がありました。誰かに追われているみたいだ、ということでした。すぐにシャブの効き目だとわかりました。効き目というのは、薬物使用中で薬物の影響下にあるということです。兄貴のシャブ中につきあって10年、この業界の用語にも慣れてきました。(28歳男性、2001年)

[ジュース、ポンプ、あぶり、覚せい剤] 最初は、粉末をジュースに入れて飲みましたが、1カ月後にはポンプ(注射)を使っていました。捕まって鑑別所に28日入って出てからは、注射痕が分かるとまずいので、あぶりにしました。(19歳女性、1998年)

[ヤク中仲間、ケイタイ連絡] 私たちヤク中仲間は、特に用はなくても、しょっちゅうケイタイで連絡を取りあっています。クスリの話を全くしないこともあります。仲間が捕まっていない、生きていて変りがないということを知ることが大切なのです。連絡が取れないとすごく不安になります。2、3日も連絡が取れない時には、薬物を自宅に置かず、かくし場所を戸外に変えたりします。この用心のおかげで、ガサ(家宅捜索)の時、何も見つからず助かったことがあります。(22歳女性、2000年)

[覚せい剤、瞳孔] 覚せい剤をやっている時は、瞳孔がぱっくり開いて、猫の目のようになっています。入ってくる光が多いのでまぶしくてしかたがありません。(20代男性、1990年代)

[シャブ、発見法、常同症] 彼がシャブをやっているかどうかは、私にはすぐに分かります。使っているときは瞳孔が開いていて、まぶしそうで、目がうるんでいます。それに話をすると、同じ話をくどくど繰り替えし、いつまでたっても終わりません。やたら動きが多いけど、同じことを繰り替えしているだけです。 医者は、この症状を「常同症」と言っていました。(20代女性、20代男性の恋人、1990年代)

[シャブ、洗車とワックスがけ] 友人が台風なのに洗車とワックスがけを2時間もやっているので、「シャブをやっていると、何を始めても、途中で止まらないんだってよ」と、冗談半分で言ってみたら、驚いたことに、本当に彼はシャブをやっていました。実はこれは、ぼくがシャブをやっている時の症状なのです。(ぼくも友人も20代男性、1990年代後半)

[シャブ、発見法、不潔] 私のボーイフレンドは、シャブをやり始めると、1カ月も2カ月も同じ服を着ていて、着替えも洗濯もしません。風呂にも入らないから臭くなります。(20代シャブ中男のガールフレンド、10代女性の供述、1990年代)

[ガンジャとエス、食欲] ガンジャ(マリファナ)をやると、食欲が出て、普段なら見向きもしないスナック菓子を食って食って食い続けてしまいます。エス(覚せい剤)の場合には、逆に何を食ってもまずいので、ほとんど何も食べずに、不眠不休で動き回ります。(20代女性、1990年代)

[覚せい剤、不眠、お喋り] 私の場合は、覚せい剤を使うと4、5日はほとんど眠らず、すごく活動的になります。ほとんど食事せず、喋り続けます。でも、それが切れたら、2、3日、ほとんど寝たきりになります。(20歳女性、フリーター、1990年代)

[キンギョ、ロケット] 友人は、お弁当にお醤油を入れる時に使う小さなプラスチックの容器に入った覚せい剤溶液を使っていました。容器の形によってキンギョとかロケットとか呼んでいました。(20代女性、1990年代)

[シンナー、記憶障害、発音障害] 19歳のボーイフレンドが、真夜中に電話してきました。2時間も話して、機嫌よく電話を切ったのに、翌日会って聞いたら、その時話したことも覚えてないし、電話をしたことすら記憶にありません。そういえば、キスした時、シンナー臭い気がしたし、前夜の彼の電話の喋り方、ラリルレロの発音が変でした。シンナーを吸いながら電話していたようです。怖くなって、そのボーイフレンドとは、その後すぐに別れました。(18歳女性、1990年代)

[チョコ、即席パイプ] 何にも知らない私は、チョコというのは、チョコレートのことだと思っていました。本当はそれはマリファナの樹脂のことです。台所用のアルミホイルをボールペンに巻き付けて筒を作り、先を折り曲げて即席のパイプにします。パイプの先に丸めたチョコを数個入れて、ライターであぶりながら吸います。深く吸って息を止めます。これを4、5回繰り返すと、頭がジンジンとしてきて、やがて体がふわっと空中に浮いた感じがします。これが私の最初のマリファナ体験でした。(20代女性が、1990年代前半の体験を供述。1990年代後半)

[シャブ、スピード狂] 私のカレシは、シャブをやると、スピード狂が一段とひどくなります。私もかなりのスピード狂だけど、てんぱってる時の彼のバイクには絶対乗らないことにしています。シャブをやるとスピード狂になるから、別名をスピードというのだと、ずっと思っていたのに、それって違うんですって。(20代女性、1990年代)

[覚せい剤の隠語] 仲間内の暗黙の了解として、シャブという用語は禁句になっており、「スピード」、「早いの」、「走っている方」、「冷たいの」などと言っていました。ほかに「覚せい剤を使っているか」、「覚せい剤を持っているか」という意味で、「レコード聴いてる?」とか「駄菓子食べてる?」というような質問をすることもありました。(20代女性、1999年)

[携帯用リタリン末] リタリンを3年間乱用していました。錠剤をすりつぶして瓶に入れ、ストローと一緒にハンドバッグに入れていつも持ち歩いていました。クリニックをはしごして、多いときには1日に16錠をスニッフ(鼻から吸引)していました。不安焦燥感、幻覚、妄想、離脱症状(脱力感、猛烈な眠気、いらいらなど)が出現し、ホスピタルに入院になりました。(30歳女性、2001年)

[シャブ、スピードという名称の由来] 覚せい剤は骨までしゃぶりつくすからシャブというのだそうです。でもどうしてスピードというのでしょうか。私の個人的体験ですが、シャブをやるとやたら時間がたつのが早いので、スピードと言うのじゃないかと思います。4、5時間があっと言う間に過ぎてしまいます。(20代女性、1990年代)(本当は、アブリですぐに効果が出るため、スピードと言い出したらしい --- 筆者注)

[ライターガスの吸い方] ビニール袋にライターガスを出して、それを口に持っていくのは、空気で薄まらないので、すごく効くけど危険です。ライターガス吸いながら死んだのは、ほとんどこの吸い方です。ボンベを直接口に当てるのが僕のやり方です。ほかにも注意があります。僕が18歳の時、ガスを吸っている途中でタバコを吸いたくなりました。それでタバコの火をつけようとしたところ、ボン!と目の前が真っ赤になりました。鼻から出たガスに引火、鼻毛がほとんど焼けてしまい、睫毛もこげてしまいました。
「気をつけよう。ガスとタバコの連続使用」。タバコのマナーの標語に応募したけど、ボツでした。(20代男性、2002年) [TOPへ]


ご連絡はこちらへどうぞ ⇒ address
または、昼間の時間帯に、当院PSW(精神科ソーシャルワーカー)にお電話してください ⇒ TEL:0279-56-8148

AKH 文責:竹村道夫(2000/06)


[トップページ] [サイトマップ]