【 DV被害者の手記 】
(改訂:04/05/12)
[はじめに]
桜井香於璃さん(ペンネーム)は、3世代にわたって暴力被害を受けてきた女性です。赤城高原ホスピタルにて治療中に書かれた手記を、ご本人の了解の下に転載させていただきました。
[目次]
(I. ) 父への出さない手紙
(II. ) 母への出せない手紙
(III. )桜井香於璃の家系図
[父への出さない手紙]
DV被害にあったACの私
桜井(さくらい) 香於璃(かおり)
目次
1. 女の子に生まれて
2. 私の青春時代
3. 子供の頃の夢
4. 父のいやらしい目
5. 夫の事
6. 母が倒れた
7. 私の入院
8. 母の死
9. 狂った父
10. 壊れた私
11. 家を継いだのに
12. 孫への暴力
13. 父からの調停
14. 父の新しい家族
15. 私の失った物
16. 私の怒り
17. ACとなった子供時代
18. 私の親孝行
19. ACの私
20. そして、今・・・
1.女の子に生まれて
お父さんあんたはバカだね。
私がまだ小さかった頃から、「お姉ちゃんは跡取りだからしっかりしろ!」って言っていたよね。それに、お姉ちゃんが男だったらって、いつも言っていたよね。私は自分が男でないことを、どうしようって小さい時からずっと悩んでいたんだ。私は女の子で男の子にはなれないのに、なんでお父さんは女の子である私を否定し、なおかつ跡取りになれって言っていたのよ。子供の私はどうしたらいいのか分からなくてずっと悩み続けたのだ。
中学生になって公民で夫婦になる場合、どちらか一方の姓を選べるって勉強した時、少し前が明るくなったよ。常に「養子はダメだ、財産をみんな持っていかれてしまうから。男は米ヌカ3合あれば普通は養子になんか行かないものだ」と、私にいつも説教していたよね。それで、私は結婚する時に私の姓を選べばいいのだと分かったよ。
2.私の青春時代
私は高校を卒業してN社に入社してから、たくさんの男性と知り合ったよ。みんないい人ばかりだった。社外のボーイフレンドだっていて、彼もとても紳士的な人だった。
でも、みんな長男だったんだよ。あの時代、グループ交際して、カップルになると、結婚を前提に付き合っていたよ。昭和50年代、私の回りではそうだった。でもみんな私の家に入ってくれる人はいなかった。それもそうだよね。国立大学を卒業し、大学院にいって勉強して修士号や博士号を持っている人が、高卒の学歴しかない、しかも財産、財産と言ったって、たかだか100坪の土地じゃないか。しかもその土地は、私が大学行くのをあきらめてやっと買えたんじゃないか。お父さん、忘れてないよね。お母さんと二人して土下座して、「大学はあきらめてくれ」って言ったこと。私はいつもあんたに殴られたり蹴られたりしていたのに、大学に行かないでくれって二人揃って土下座されてどうしていいか困ったよ。
3.子供の頃の夢
私は勉強が好きだったんだよ。中学生の時は一般住宅の設計士になりたかったから、H大附属高校の推薦が通っている時は、私はH大学の建築科に行きたかったんだよ。妹が生まれたばかりで、「長女にばかりそんなにお金はかけられない」って言われ、そして「何おー、女が大学に行くなんて生意気だ!冗談は顔だけにしてくれ」って私の話を真剣に聞いてくれなかったよね。
そもそも、設計をやりたいというのは、お父さんが大工だから。私はお父さんの役に立ちたいと思って考えた事だった。私の気持ちなんて全然わかってくれなかったよね。13歳離れた妹の面倒を見ながら、お父さん、あんたが暴れていない時を見計らって、私は勉強の時間に充て一生懸命やっていたんだよ。女だから大工は無理だけど設計という事で、お父さんを助けようとしていたのに。
Y高等学校に進学した私は、2年生の時までに卒業に必要な単位はすべて取ったよ。そしたら、クラブの顧問の先生が私を商学部に推薦してくれたよね。私は、その頃には設計士になるのをあきらめて、桜井工務店の会計をやろうと思って、会計士になろうって考えていたのだよ。会計の勉強は難しかったけど、数学の好きな私にはピッタリだったよ。そんな時だったよね。あんたたち二人揃って土下座して、「大学には行かないでくれ」って言って、「そのかわりここの土地の100坪はお姉ちゃんのものになるのだから」って
それなのに今はどうよ。私の別れた夫を養子にして、そこに一緒に住んで。
4.父のいやらしい目
私がN社に入って男性とデートしていると、何処の馬の骨だかわからないヤツと付き合うなっていつも言っていたよね。私がお化粧して出かける時、あんたは、いつもいやらしい目つきで私の事を眺め「目狐め!」って言っていたよね。私はとっても嫌な感じだったよ。
5.夫の事
そんな中、別れた夫 高志がお父さんに直談判したんだよね。「僕が桜井の家を継ぎます」って言って・・・そしたら、あんたは、「あんないいやつはいない」って言い出したよね。
高志は大学中退だし職も転々としていたのに。結婚するって決まってから電気屋に勤めだしたんだよね。同級生だったから家は近所だったけどそれこそ何処の馬の骨かわからない家だったじゃないか。
高志の母親の正子さんはメカケの子で、それを山田のおじいさんとおばあさんが、お金を貰って育てたという人だって私は聞いている。その正子さんが次郎さんを婿にして結婚したんだ。
山田の家にはもう一人弘さんという養子がいて、その後、実の子、男の子稔さんが生まれたんだ。
稔さんがいるにもかかわらず、正子さんが跡取りになった複雑な家。正子さんが43歳で亡くなった後、次郎さんは、フィリピンやマニラの女性を追い掛けて・・・山田のおじいさん、おばあさんが亡くなったあとはもうメチャクチャだったよね。次郎さんが借金を沢山作って、山田の家は無くなったよね。だけど、お店のあった家だけは何とか残ったよね。山田のお父さんは蕎麦屋だったけど、その頃には、お店を他人に貸していて2階だけ山田一家が使っていたよね。関西に住んでいるお兄さんやお姉さんの都内への遊びの拠点として残してあったんだ。
高志は私と別居してそこに住み着いたよね。調停では、住む家も無くアパート借りるから、生活が苦しくなるからって言って、慰謝料も財産分与も養育費さえも払わない男だ。
なのに、どうしてそんな男をお父さんは養子になんかしたの?
6.母が倒れた
お父さんはお母さんがクモ膜下出血で入院した原因を作ったんだ。私は知っているよ。2月16日の夜、母のことをボコボコに殴ったり蹴ったりしていたことを。それで、翌日起きられない母を、「病院に連れて行け」って私に言ったんだよね。
私は学校のPTAがあったけど、それをやめて病院に連れて行ったよ。お母さんはもう歩けない位だった。救急車を呼ぶって言ったら、お母さんはイヤがったから、タクシーで病院に連れて行ったんだ。K総合病院に連れて行ったけど、検査の結果、ここでは診られないって言われ、S大学病院に救急車で運ばれて、それですぐ手術が必要となって。お父さんに連絡してもなかなか来ないから、私はいろいろな書類にサインしたよ。お父さんがやっと来て手術まであと1時間あると言ったら、あんた家に帰って、酒を飲んでいたんだよね。
それから、毎日私は、病院に行ったよ。定期まで買ってね。あんたはたまにしか行かなかったけどね。「オレが行ったって、礼子はわからないから、行ってもしょうがない。それより、留守番しているよ」って言って、お酒を飲んでいたよね。
私が病院から戻ると、子供たちはお腹をすかいているし、あんたは一人で酒を飲んで大声で「メシはどうするんだ!」って騒ぎたてていたよね。お母さんはクリスマスツリーみたいに点滴をたくさん付けていて意識もほとんどなかったけれど、私の声にたまには反応してくれていたんだよ。ICUに入ったままだったから、子供たちは入れなかったけど、子供の声をテープに入れたり、雅(みやび)のピアノを録音したりして、そのテープを私がいない時、看護婦さんに頼んでかけていてもらったんだ。私はお母さんの為にヤマダ電機でラジカセ買ってセットしてあったんだよね。そしたら、あんたはそのラジカセを見て「礼子はいいもの持っているなあ。退院したら俺によこせよ!」って意識のないお母さんに命令していたね。
たまにしかお見舞いに来ないあんたは「香於璃(かおり)は一体何をやっているんだ。毎日病院に行っていたって、礼子はちっとも良くならない」って私の事を責めていたよね。あの時の私に何をしろって言うのか。私は懸命に母の看病をしていたんだ。私だって子宮筋腫をかかえていたのに。私は母が倒れなければ3月に手術する予定だったのに。母の容態があまりに悪いから、それをキャンセルしたんだ。私の体だってすごく辛かったんだ。それなのに、あんたは孫の事も気にせず、毎日酒を飲んでいただけだよね。
7.私の入院
母の容態が少し落ち着いた5月に私は急に手術する事になったんだ。夫とは調停中。母は入院。子供は妹の家に預けての手術だった。離婚を考えるだけでも大変なのに、その上、子宮までとらなくてはならないなんて。
私にしたら私の女性性を全てとられてしまうようなもので悲しかった。けれど悲しいなんて考えている暇はなかった。4人部屋で私だけ夫がお見舞いに来ない事についても寂しいなんて考えていなかった。あの頃の私は子供の頃から鍛えてあった、感情を無視する事で毎日を過ごしていた。
8.母の死
私が抜糸した翌日の夜、母が危篤になってS大学病院に行って、最期は看取れたけど、それはとってもつらかった事だと思う。でも、その時の私はテキパキと妹たち夫婦を使って母を家に連れて行ったよね。それで私はK総合病院に戻ってから、体がとても大変だったという事は覚えている。
あんたは娘の私が入院していても婦人科は女ばかりで行きにくいって言って1回しかお見舞いに来なかったよね。それも5分もいなかった。
そのあんたが、母の亡くなった翌日、私のベッドまで来て「いつまで病人やっているんだ!悪い所は取ったんだろ。それよりお母さんの葬式はどうするんだ!俺は葬式なんてやった事無いからわからないぞ!おまえが跡取りなんだからおまえがやれ!そもそもオマエ!香於璃が離婚するなんて言うからお母さんは心労で死んだんだ。香於璃責任をとれ!」って怒鳴って言ったよね。看護婦さんたちは後から「お父さんはすごいショックなのよ」って言ってくれたけど、結局、責任感が強くお父さんに認めてもらいたい私はお通夜、お葬式とこなしたんだ。妹たち夫婦の協力もあったけど、術後間もない私には体の限界だった。
9.狂った父
退院後、お父さんあんたはちょっと優しかったよね。でも、ご飯の事でよく文句は言っていたけれど。でも、何よりも恐ろしかったのは、子供たちが学校へ行った後、あんたは私をセックスの対象として見てきたよね。信じられないよ。私が拒否したら、すごい暴力振るったね。
私はあんたと二人にならないよう過ごしたよ。でも、しつこく迫ってきたよね。「オレも淋しいんだよ。オレだってまだ男なんだ。オマエも離婚するんで淋しいだろ」って
私はこの高台の家に居たら何が起こるかわからないと考えて、母の姉妹に相談したよ。母が暴力を振るわれていた事は、おばさん達は知っていたはずだ。なのに「一郎さんはいい人」とか、「香於璃がわがままだからいけない」と、言われた。おばさん達には暴力の事しか話せなかった。セックスを求められているなんて、その時の私にはとてもしゃべれなかった。
親戚にも私を応援したり、理解してくれる人は誰もいないとわかった時、どうしていいかわからなくなってしまったよ。
私は子宮筋腫の手術をして、退院して3週間も経っていなかったけれど、この家にいるのは危険だと考えて、とりあえず脱出する事を考えた。
まずは住む所。離婚は成立してないし、パートは辞めていたし、お腹は痛いしで、とてもつらかったけど、K大附属に通っている二人の子供の学区の範囲で部屋を探すことにした。6月7月と、とても暑い時期だったけれど、なんとか部屋を見つけた。
8月に入って引っ越す予定だったが、その3日前の8月4日に、いつも私や子供に暴力を振るっていたあんたは、真顔で「今日こそぶっ殺してやる!首を洗って待っていろ!」と言ったよね。
私はこれは本気だと直感して近くの警察署に相談に行ったんだ。話は良く聞いてくれたけど「妻を亡くしたばかりの父親が娘を殺す事はないでしょう」って言われ「何かあったら110番して」なんて呑気な事を言われたけど、「何かあってからでは遅いのです」って訴えたら「ドアをガタガタしたら電話して下さい」と、いう話になった。
それで子供と三人でおそるおそる家に帰ったら、「香於璃、ドアを開けろ!根性を叩きなおしてやる!お母さんを殺したヤツめ!」ってドアをガタガタやって騒いだよね。私は慌てて110番したけど、あんたはバールを持って追い掛けてきたよね。1階と2階をつなぐドアはとっさにバリケード作ったよ。そしたらあんたは大工だからそのドアを解体しはじめたんだよね。
やっと警察官が来て助かったと思ったよ。そしたら、あんたは私の事をドロボーと言っていたんだね。警察官が「盗った物は返してあげなさい」なんて言い出して・・・
警察官が帰った後、すぐ警察署から電話が入り「危ないからすぐ家を出てください」って命令されたのだよ。荷物をまとめようとしていたら、下では、あんたがまたドアをはずしにかかっていて・・・私は二人の子供を連れて、ハンドバックひとつで、危機一発のところで、家を飛び出したよ。両方の手で子供を引っ張って、走って走って逃げたよ。
途中、携帯に妹から電話が入り、「うちにお姉ちゃん達の保護命令が出ているから、うちに来て!」と、いう事だった。近くの駅で電車を待つ10分の時間がとても長く感じたよ。その夜、私は、妹の長山の家に行ったんだ。
10.壊れた私
それからの生活も大変だったよ。住む部屋はあったけど、布団は無いし、明日着る物も無い、お風呂はあっても石鹸も洗面器もタオルもない。食事も鍋も釜も無いから作れないし、まず箸も皿も無かった。
今までも怖い事は沢山あって殺されると思う事もよくあったけど、あの夜の事はあまりに恐ろしい出来事で、私の頭と心は完全に壊れてしまったよ。もう、何も考えたくない、考えられない私になってしまったのだ。
でも、あんたからの直接の暴力とセックスの要求が無くなった事は安心できる場所だったよ。
だが、不幸な事に、優も雅も負の遺産をしょってしまった。
しかし、今現在、親子三人何とか暮らして幸せだよ。
11.家を継いだのに
私の結婚式の時、「桜井家はこれで14代目」と言う事を仲人が言っていたよね。そして私はあんたの希望通り男の子を生んだよ。これで桜井家は安泰だと思っていたのに。
あんたが、暴力を振るう妻を亡くしてからは、その暴力の矛先を夫と別居中の私と子供に向けて来て、ついに、追い出したんだよね。暴力で。
私は私の設計した家を手離すのはイヤだったよ。私は家の権利を42%持っていたのだ。高志が35%、そしてあんたは23%の持分だった。子供の頃からお姉ちゃんが結婚したら、家を建てなおそうってずっと言っていたから、私は一生懸命貯金をしたよ。そしたら、そのお金が700万にもなって。超一流企業のOLで海外旅行にも行かずに貯めたお金を全て新しい家につぎ込んだのだ。それなのに・・・
12.孫への暴力
私があの家から逃げ出した後、今度は小学校に通っている雅を追いかけまわしたよね。何度も学校に乗り込んだりして、そのたびに雅は職員室で保護してもらっていたのだ。そしたら次は学校の近くの駅で待ち伏せするようになって、それで「腕の一本もへし折れば居所を吐くだろうって」言っていたんだってね。それから、「首に縄をつけて引きずり回す」とも言っていたんだよね。そう言って、妹の家に電話して脅かしていたんだよね。実際、学校の近くの駅では大変な事になってしまったし、ただ学校のお友達がたくさんいて雅の事を守ってくれたから大事には至らなかったけど。駅員さんが学校に連絡を入れて、先生が慌てて駅に着いた時にはもう姿を隠していたんだってね。
雅は、それまでにもあんたや父親から沢山傷つけられているのだよ。それなのに、その雅を狙うなんて許せない。雅はその後、学校に行くのが怖くなってしまったのだよ。K大附属中学に進学を希望していた雅はあんたに追われるのが怖くて、違う学校に進んだけれど、今までの環境とはあまりに違う学校で馴染めなかったんだよ。心がズタズタになっていたからね。あんたの暴力で。
13.父からの調停
その挙句、親子関係調整なんていう調停を起こしたんだよね。私の離婚調停が終わった半年後に。それで住んで居ないのだから家の持分をオレによこせって言う内容だった。私はこれ以上あんたから何かされるのが怖くてそれで私の持分42%をあんたに贈与したんだよね。子供から家を贈与される父親の話なんて、今まで聞いた事無かったよ。
そもそも、私が離婚調停をしているに時、あんたは私たちを暴力で追い出したんだ。離婚調停ではその期間中、高志が婚姻費用を支払う事になっていたにも関わらず何回か貰っただけだ。高志には婚姻費用を払い続ける義務があったにも関わらず、それがされてない時に、私たちは家を追い出された。だから高志が銀行から借りたお金の支払いは、高志も払わないし、もちろん私だって住んでいない家の高志のローンまで払いきれる訳が無い。婚姻費用が払われていない時のことだったから当たり前でしょ。それでローンが滞って連帯保証人のあんたの所に銀行が取立てに来たんだよね。「香於璃が払わないからオレが払った」って言っているらしいけど、それは違うよ。あんたが払ったというお金は、高志が銀行から借りたお金なのだ。親戚には丸で私が借りたお金を返済したかのように言っているが、それは違うよ。私はキャッシュで桜井工務店に
700万円払い込んだのだ。
高志の借金をあんたが尻拭いしたんだよ。高志は借金が無くなって良かっただろうね。
14.父の新しい家族
そして、高志を今は養子として迎えいれている。私にはあれだけ養子はだめだと言っておきながら、自分ではそういう事をやるのだね。娘が三人いたってあんたは満足しなかったのだね。
高志を養子に迎えた後、それこそどこの馬の骨かわからない、嫁と子供まで迎え入れた。その孫がかわいいって言っているんだってね。笑っちゃうよ。あんたが元気なうちはいいけど、桜井家は無くなるね。高志が山田姓を名乗ることは充分考えられるし、今は知らないけど、多分、関西の光男夫婦や良子夫婦のたまり場になっているのじゃないかしら。
彼らは関西からよく都内に遊びに来るから、その拠点になっているんじゃないかしら。
15.私の失った物
私の設計した家も山田一族に乗っ取られるのだね。私の身長に合わせて作ったヤマハのシステムキッチン、フットタッチの水道、ゆったり入れるタカラのホーローバスに24時間風呂、私の家事コーナー、ピアノやピアノのスポットライト、ハイセンスな照明器具におしゃれなクロス、星空が見えるように作った天窓、20畳の広さのフローリングリビングどうなっているかしら?観葉植物、置物、ヒロ・ヤマガタの絵、私好みのカーテンは今どうなっているの。新しい奥さんが来てみんな変えちゃったのかしら。ミントンのシリーズの食器、子供たち愛用のディズニーの食器、みんなみんなどうなったのかしら。
16.私の怒り
あんたのせいで桜井家は破滅だね。子供の頃からお墓を守っていくのは、お姉ちゃんの仕事だからって言われ続けたけど、養子が来たから、もうその心配も無くなったわ。他人の寄せ集め家族でせいぜい大事にしてもらってね。なんたって高志のローンまで払ってやったのだから。
でも残念ね。連れ子が女の子だからまた大変ね。もしかして男の子が生まれているかもしれないけど、あんたの血をひいている訳じゃないから。
お墓もいつまで守ってもらえるのかしらね。私が子供の頃、お墓を建て直す時、静岡からご先祖様の骨と土を持ってきて作ったお墓なのにね。あんたが入った後はどうなるかしら。ざまあみろだ!
あんたがずっと言っていたように養子に財産全部持っていかれるんだね。お母さんはお墓の中で何と言っているだろうね。おじいちゃん、おばあちゃんもどう思っているかしらね。
あんたは最低の人だ。父親とも思いたくない。
17.ACとなった子供時代
子供の頃から大酒を飲んで大暴れして母や私たちを殴ったり蹴ったり、それが日常だった。
特に悪い日、私たちが怖がっていた日はいつか知っている?それは建前の日。その日は必ずぐてんぐてんに酔っ払って帰って来る。若いもんに「棟梁大丈夫ですか」って言われ玄関に運び込まれ、そしてゲロを吐く。失禁する。家中臭くなるし、片付けるのも大変。その上わめき散らす。どうにもならなかった。ああ、本当にイヤだった。建前の日それは私にとってとても不吉な日だった。日常もひどかったけれど、建前の日はどうにもならなかった。
あんたは家の中を歩く時、ドシンドシンって歩くんだよね。丸で自分を主張するように。暴力を振るうときもドシンドシンだったし、私は今も男の人がドシンドシンと歩いているのを聞くと怖くなるよ。
あんたは現場では棟梁とか社長とか言われていたけど、そんな器じゃなかったよね。ただのバタラーだ。女・子供に暴力を振るう人で、家族を大事にする人ではなかった。
私が3歳の時、おばあちゃんの趣味で日本舞踊を習い始めて、2年に1回おさらい会があって、それに金がかかるって私に文句言っていたよね。5歳の私にそんな事、言われてもどうにも出来ない事をわかっていながら、2年毎に「金食い虫」って言って私の事を責めていたよね。私は自分が習いたくてやった事じゃないのに。自分の母親、おばあちゃんに文句言えないものだから私にぶつかってきたよね。私はそれが辛くてやめたいって言ったら、「ひとつの事をやり通す根性はないのか」って、また私を責めたよね。だからわたしは13歳まで続けたよ。後から入ってきた由美子ちゃんや典子ちゃんは13歳になった時、名取になったよ。私も当然そうしてくれるかと思ったら、「つきあいが大変だから、やめちまえ!」って言ったんだよね。私はそれまでずっと頑張ってきたのに。その一言でやめるハメになったんだよね。当時、おばあちゃんの権力も少し弱くなっていたからね。10年間、週3日のお稽古は、一体何だったんだろうって思うよ。
カトリック幼稚園の入園テストも大変だったよ。当時から都内私立か、K大附属に入る為にあったようなお受験幼稚園だった。私は家の中がとても大変だったから、大人の先読みが上手だったんだ。先生の色々な指導もすぐ飲み込む事ができ、何でもこなせる子だった。ただお絵かきが大嫌いだった。お姫様の絵は描けるけど、お父さんの顔を描いてと言われると何を描いたらいいのかわからなくて、隣の子の絵を見て、まねして描いたよ。
だいたい私はあんたの顔なんて良く見たことがなかった。いつも怒っていて怖かったから。あんただって私の事抱っこした事だって無いでしょう。私の記憶にある限りあんたは私を殴った事はあっても、抱いた事なんて無いよね。ましてや、ひざの上に抱き上げるなんて事もなかった。
そのカトリック幼稚園でも園長先生が都内私立を推薦してくれたんだよね。それなのに、あんたは理由も無くただ、「だめだ」って言って。れいこちゃんやゆうこちゃん、なおみちゃんは推薦も無く受験して、それでみんな入っちゃった。私は公立の小学校に入学した時、同じ幼稚園の友達が一人しかいなくて寂しかったよ。公立の小学校に入れる予定だったら、なにもカトリック幼稚園でなくてよかったんじゃないの。カトリック幼稚園は、躾が厳しかったから、私はいつもビクビクおとなしく、そして先生の先読みをしていたよ。家でもビクビク、幼稚園でもビクビク。小さい私は何処で息をしていたのかしらね。
小学校の父親参観日に1回だけ来てくれたよね。そして家に帰ってから「お姉ちゃんは学校で手を上げて発言しないんだよ。年寄りに育てられたから、引っ込み思案で三文安なんだ。あっはっは」って笑い者にしていたよね。私はあんたが後ろで見ているから怖くて手が上げられなかっただけなのに。
みんながクリスマスって言ってはしゃいでいる頃、私も少しうかれていたけどいつも現実は厳しかったよね。我が家にはクリスマスが無くて、妹がおどけて「お父さん、クリスマスプレゼント頂戴」って無邪気にいったら、あんたは目を三角に吊り上げて、「バカ言っているんじゃない!あれは、クルシミマスって言うんだ。大人は暮れになると大変だからってそう言うんだ!」って言って自分は酒を飲んで相手にしてくれなかったよね。
ただ1回だけ、私が小学校4年生の時、その日は飲んでも機嫌が良かった。それで、突然「これからクリスマスプレゼントを買ってやる」って言い出し私も妹も母もビックリしてあんたについて行ったんだよね。近所の洋品店に入って「好きな物を選べ」って命令して。私は何を選んでいいのかわからなかった。でも、この機会を逃したら買ってもらえないという事だけはわかっていたからあわてて探したよ。それで白いVネックのセーターを買ってもらったんだ。私はうれしかったよ。でもそれが初めての、そして最後のあんたからのクリスマスプレゼントだった。
夏休みになってもプールにさえも連れて行ってくれなかったよね。だから私は低学年のうちから他の大人に連れて行ってもらったんだ。あんたは連れて行くって言うばかりで実行した事は無かったよね。行くという日はいつも二日酔いでつぶれていて。
一度、組合の旅行で東京サマーランドに家族で参加したよね。あんたはバスの中から飲んでいてサマーランドに着いた時はもう出来上がっていて。それであんたはプールサイドで寝ていたんだよね。私と妹はうちの若いもんに遊んでもらっていたよ。私はまだ泳げなかったから、浮き輪をつけて波乗りなんかして楽しんでいたよ。そしたら、酔いを醒ましたあんたが近くに来て、「こんなもん付けているから泳げないんだ」っていって、嫌がる私から浮き輪をむりやり取ったんだよね。そして私は大きな波に飲まれて、溺れそうになったんだ。私は水をガバガバ飲んで苦しくて、泣きながら母の所へ助けを求めて行ったら、ドシンドシンと追いかけて来て「根性無し。泣くな!鍛え直してやる」って言って私の手を引っ張ったんだよ。私は殺されるって思って逃げ出したよ。サマーランドのプールサイドの端っこで小さくなって泣いている私を若いもんが探し出してくれたんだ。「お姉ちゃん、俺たちと遊ぼう。親方は一人で遊んでいるから大丈夫」って言ってくれたんだよ。楽しいはずのサマーランドはとても苦痛な一日になったよ。それ以来あんたは何かあると私の事を「意気地なし!」ってバカにしていたよね。泳ぎ方も教えないで、子供を溺れかけさせていてそんな言い方は無いと思うよ。
母の実家ではよく法事があって、その頃は家族4人で千葉に車で行ったよね。母方は親戚が多くて都内から行く私たちをとても歓迎してくれた。私は、いとこ達に会うのが楽しみだった。あんたの都合で日帰りになるのだけれど、あんたはおかまいなくお酒を飲んでいたよね。着くと同時に飲み始め夕方近くまで飲んで、一眠りして夜、道がすいてから都内に向かった。私たちは夜遅いから眠くなって、うとうとしていると、あんたは必ず荒っぽい運転をするんだよね。うとうとしている私たちは車の中で窓に額をぶつけたり、壁に頭を打ち付けたり、家に付く頃には、あちこちに打ち身ができるんだよね。その運転は、スバルサンバーからサニーになりブルーバードになっても変わらなかったよね。ホントひどい運転で私はとても怖かったし、無理心中でもする気なのか、それとも交通事故で本当に死ぬのではないかと考え、家に着くまで生きた心地がしなかったよ。
テレビでは、チャンネル権をあんたが握っているから、よくプロレス中継をかけていたよね。私は嫌だった。つぶされている人が丸で自分の事のように感じて残酷だと思った。それと同時に、あんたがまた技を覚えるのかと思うと見ていられなかった。赤い血が飛び散るのは、家の中で見るだけでたくさんだった。テレビの中でまで見たくなかった。それに相撲。力の強い者が勝つ。うんざりだよ。家の中で体験しているだけで充分だった。普段、角材を担いで仕事しているあんたには、私たちは太刀打ちできっこないのだから。
18.私の親孝行
でも、私がお勤めしている時、私は年齢の割には高級取りだった。あの当時で二十歳の頃には一回のボーナスで50万円から貰っていたよ。あんたの賞与より沢山貰っていて、暴力では負けるが、ボーナスでは勝つ事ができてとても嬉しかったよ。あんたはそれが気に入らなかったんだよね。ボーナスの時期になると「育ててもらった恩を返せ!」って言って二十歳の娘からこずかいを搾り取ったよね。私は現金で渡すのがいやになって、物で残そうと考えて、あんたの欲しがる物を買ってあげていたよね。マッサージ機、ラジカセ、銀の箸、そしてつぎは象牙の箸。一体なにに使う為だったのかしら。
それから、旅行にも連れて行ってあげたよね。保養所を利用して伊豆、箱根、伊豆高原、そして京都。私はとっても親孝行な娘だったと思うよ。私の短い独身時代にやって。その頃は、私が免許持っていたから安全運転で家族を連れて行けたのだよね。
昭和51年の春、私が18歳でお勤めし始め、その頃の初任給は77千円で、完全週休2日制だった。それで、私は母に食費として毎月2万円渡していたよ。そしたらあんたは、母に渡す生活費を2万円差し引いてしまったんだよね。母は、「お姉ちゃんがお勤めするようになって楽になると思ったら、お父さんにその分、差し引かれてしまって・・・」ってこぼしていたよ。あんたは自分の事しか考えない男だった。
19.ACの私
なにしろ大酒飲みで、暴れ者。ちゃぶ台のひっくり返る事は当たり前だったよね。一升瓶が転がり、ビール瓶が散乱して、子供を大事にしない。約束は破る。話し合いは無くあんたの機嫌だけで全ての事が進む。力の強い物・・・暴力に支配された家庭だった。だから私は普通の家庭というものがわからなく育ってしまった。
それなのに、私は家族を大事にしようとしたよ。あんたが壊した分、経済力のある私が何とかしようと思ってね。ちまちま社内預金をしながら。そして自分のお小遣いをけずりながら。
ただ、私はお父さん、あんたみたいな人とは絶対結婚しないって思っていたんだ。だけど私は失敗してしまった。
私には、あんたの考え方や、母の辛抱強さを見て育ったから普通の考え方や感じ方がわからなかったんだ。暑いのも寒いのも、痛いのも、つらい気持ちも何も感じないように、生きてきたんだ。
20.そして、今・・・
私はひどい事をされたにも関わらず、あんたの望む事を先読みしながら、一生懸命やってきたよ。
それはね、あんたに愛されたかったから。認めてもらいたかったから。
「香於璃良くやっているね」って言われたくて。あんたに褒めてもらいたくて・・・。
でも、それは無理だと言う事が良くわかったよ。
今、私は学習しているよ。あんたの暴力で追い出されて、そしていろいろ沢山の出来事が在ったけれど。
暑さを感じ、寒さを感じとる。心地よさを気持ち良く受け入れる。不快な事は、不快だと感じ、それに対処する事を。そしてなによりも安全に過ごす生活を味わい学び楽しんでいる。
今までになかった新しい生き方を。そして、自分と子供を愛せるように。
※この文章を本にしたいと思っています。スポンサーを募集しています。
[母への出せない手紙]
DV被害にあったACの私
桜井(さくらい) 香於璃(かおり)
目次
1. お母さんへの報告
2. 家族ごっこ
3. 私の役割
4. 母のコントロール
5. 母のメッセージ
6. 見捨てられ不安
7. 妹の誕生
8. 高校進学
9. 私の結婚
10. 離婚
11. 子どもたちの事
12. 入院して
1.お母さんへの報告
お母さん、お母さんの事「バタードウーマン」って言うんだよ。
ずっと殴られっぱなしで逃げる事も出来なかった人の事だよ。
お母さんが死んでから、大変だったんだよ。殴る相手を亡くしたお父さんはその暴力の矛先を、私と子供に向けてきて、ついに桜井の家から追い出されちゃったよ。それでね、あのウドの大木と言っていた高志を養子に入れて、それで新しい奥さんと、連れ子までがあの家に住んでいるんだよ。
私はね、長い間暴力の中にいたから、PTSDになっちゃって、今は赤城高原ホスピタルに入院しているんだよ。ここは、とてもいい所だよ。私の安全は守ってもらえるし、つらかった気持ちも話せる場所だよ。先生もワーカーさんも看護もとっても優しいよ。
私はずっと緊張のある生活をしていて、人の優しさなんて感じた事なかったけど、今は優しさに包まれている感じがするよ。初めてだよ。こんな生活。
お母さんとは、お父さんの暴力について話したり、高志の暴力について話したりしていたよね。それでいつも「こんな事は、誰にも言えないし、分かってもらえない。本当に困ったね」って言っていたのだよね。
私も仲良しのお友達にも話せなかったし、こんな事分かってくれる人がいるって事は知らなくてとてもつらかったよ。
お父さんに暴力的に追い出されて、いろいろな相談機関に行ったよ。女性センターでは、私と高志の間に起こっていることは「DV」って言う事を教えてもらったよ。それで私もバタードウーマンって知って、それから勉強したよ。沢山本を読んだり、講演会に出かけたりしてね。
お母さんは、お酒を飲んでいるお父さんにずっと殴られているのに、いつでも献身的にお父さんを支えていたよね。それで「私さえ、我慢すれば・・・」っていつも言っていたよね。
私は、お酒を飲んで暴力を振るうお父さんと、殴られたり蹴飛ばされたりしているお母さんを見ながら、私自身も暴力を振るわれていたから、私はACとして育ってしまったという事もわかったよ。
私は今ACの勉強をしているよ。私にとっては、まったく新しい生き方の勉強で、ちょっと難しいよ。お母さんが教えてくれなかった事を今、身に付けようとしているんだ。
2.家族ごっこ
殴られても、殴られても元気だったお母さんの誇りは、親思いの三人の娘達だったんだよね。私たち娘三人はお母さんの事が心配で、だからいつもお母さんの事を考えていたのだよ。
お母さんは、お父さんに殴られて、片方の耳は聞こえなくなっていたし、腰も蹴飛ばされたために、いつも腰痛に悩まされていて、足を引きずっていたよね。
私が二世帯住宅を作ってからは、20畳の広さのリビングで妹達夫婦を呼んでの、いろいろな行事をしたよね。1月はお正月でみんなが集まり、それから由香里の誕生会。2月は高志と由香里の夫の誕生会。3月は私達3人娘と雅(みやび)のひな祭り。4月は私の誕生日。5月はこどもの日。6月はお母さんの誕生日。8月は亜由の夫の誕生日。9月は敬老の日と、亜由の誕生日。10月は子供の運動会の後のお疲れさん会。11月はお父さんの誕生会。そして12月は由香里の子供の誕生日とクリスマス会をやったよね。
私は二世帯住宅作って、世間並みの幸せを感じたかったから、跡取りの私は頑張ったよ。みんなが幸せそうに食事したり、おしゃべりしたり、お酒を飲んだりする事を。そして最後はいつもカラオケだったよね。
飲むと暴れるお父さんも、そういう日だけはおとなしかったよね。って言うか、みんながお父さんを暴れさせないように気を付けていたんだよね。飲むと暴れたくなるお父さんも、マイクを握りしめカラオケに合わせて歌いながら、ドシンドシンと足でリズムを取っていたよね。2階が抜けるくらいの大きな足音で。
みんなが集まって楽しいひととき。ホームドラマのように、お父さんお母さん、そして三人の娘たち、それからその連れ合いと可愛いその子供たちが集まって和やかな時を、私は一生懸命やったよ。私の子供時代には味わえなかった家族のぬくもりのようなものを探して。
でも、あれは「家族ごっこ」だったんだよね。だって、いつも、お母さんはお父さんに暴力を振るわれていたし、私と私の子供は高志に虐待されていて。みんなが集まる時だけ仲良し家族みたいにしていて。
今考えると、とてもつらい気持ちになるけれど、当時の私は精一杯、良かれと思って頑張っていたよ。
3.私の役割
私の役割もとても多く、妻として母として娘として、長女として、跡取りとして、それから、近所では若奥さんとして、町内では役員をして町会の集まりに参加して、子供たちの学校ではPTAの役員をしたり、趣味の教室に通ったり、お付き合いのテニスをしたり、そして仕事を持ったりしていて・・・。とても忙しかったけど、みんなそつ無くこなしていたよね。お母さんの協力もあったけど、あの元気はなんだったのかしら。
幼い時から、頑張る事を押し付けられていた私は、忙しく動く事に生きがいを感じていたのかもしれない。
でも、今の私は、もう頑張れないよ。
4.母のコントロール
お母さん私、勉強したよ。そしたら、私の人生はお母さんにコントロールされていたって事が分かって。そしてお母さんは、嫁として妻としては機能していたけど、母親としては、あまり機能して無かった事を。
お母さんは情緒的なことは、何も教えてくれなかったよね。感情を表現する事や、自分の気持ちを大事にする事。我慢しなさいと、言う事は常に私に言っていたけどね。
私が幼稚園の頃、味噌っ歯だったので、歯医者に行くことになって、そしたらお母さんは、「痛くても、痛いと言ってはいけないよ。先生が治療できなくなるから、我慢するのよ」ってきつく言ったよね。私は、お母さんの言いつけをしっかり守って痛くても我慢したよ。そしたら、先生が、「この子は、ちょっとおかしい。痛いはずなのに痛がらないから、神経がおかしいかもしれない」って言われたよね。私は必死に、お母さんの言いつけを守ったのに、おかしな子として扱われる事になってしまったの、お母さん覚えている?
お母さんは、私を長女として、そして桜井の跡取りとしての重みを、押し付けたよね。お母さんは私が小さい時から、お姉ちゃんなのだからと言って、いろいろな事を要求してきたよね。ぐずぐず言わないでとか、お姉ちゃんなのだから早くしてとか、妹の遊び相手になってとか、お姉ちゃんなのだから言う事を聞いてとか、妹のお手本になってとか・・・きりが無いくらい。
何かあると、跡取りなのだからしっかりして、頑張ってと言われ続けたよ。私が中学生になった時からお正月の近所への年始回りは、私の仕事になっていたよね。毎年新しい着物を着て、髪を結ってのお年始回り。それから近所の噂話も、跡取りなのだから聞いておきなさいって、言っていたよね。近所の土地の境界線の事や、近所の家の事、近所の家の子供の大学や就職先や、結婚相手の事まで、細かく私に垂れ流していたよね。
私はね、お母さんを困らせないよう一生懸命だったよ。何でそんな事まで、私に言うのかなって、不思議に思った事もあるけど、お母さんの言う事を一生懸命聞いたよ。だっていつも困っているお母さんをそれ以上困らせちゃいけないと思って。
お母さんはおばあちゃんの言いつけを一生懸命こなしていたよね。子供の私が見ていても、とても大変そうだった。時々、台所で泣いていたよね。心配して側にいくと、「あっちに行って!」って言うんだよね。またある時は、「大人になると、わかるから」って言って私の肩を押して、その場に居させてくれなかった。私はとっても心配だったよ。
私は漠然と「大人になるのは怖いなあ」って思っていたんだよ。お父さんの暴力も、とっても激しかったから、生きていくのは大変なんだって考えていたよ。大人になる、明るいイメージが私には持てなかったよ。大人になるのが怖かった。だから、子どもでいたかったけど、この暴力のある家から逃げるには早く大人になるしかないと、考えていたよ。
5.母のメッセージ
私は今、ACの勉強をしているよ。そしたら、その中にお母さんから言われ続けていた言葉を見つけたよ。「本当の自分を見せてはいけない」「人を信じてはいけない」「失敗や間違いは許されない」「人に頼ったり甘えてはいけない」「人の期待を裏切ってはいけない」「弱みを見せてはいけない」「衝突は避けなければならない」「怒りを表現してはいけない」「つらいと言ってはいけない」「自分を第一に考えてはいけない」「自分だけ楽しんではいけない」「お姉ちゃんは周囲の人をケアする責任がある」と。そして私は、こんな自分ではいけないと、いつも家族の為に頑張らなくてはと、思い込んでいたよ。うちであった事はしゃべってはいけなかったし、酔っ払ったお父さんの言葉を信じてもいけなかったし、他人の言葉なんて決して信じてはいけないと、言われ続けていたよね。そして怖かったり悲しかった事は表現してはいけないと。
言っていい事は、自慢話だけだよね。洗濯機があるとか、カラーテレビが何台あるとか、ツードアの冷蔵庫を買ったとか、電子レンジを買ったとか、車を何台持っているとか、ピアノがあるとか、そういう事は、しゃべらなければならなかった。誰に何の話をしたか、お母さんは細かくチェックしていたよね。
だから私は、うちには暴力はあるけど、裕福でお金持ちで、私は幸せな子どもなのかなって、思っていた時もあったけど、今思えば、大きな勘違いをしていたよ。
でも、これからは取り込んでしまったお母さんのメッセージを入れ替えて生きて行こうと考えているの。それは、とても大変な事だと思うけど、少しずつでも出来ればと、思うわ。以前の私だったら完璧を目指すと思うけど、今の私は、無理して頑張らないの。少しずつ、ちょっとずつ、変わっていきたいと考えているのよ。
6.見捨てられ不安
うちでは、毎日のように暴力があったよね。実際は毎日ではなかったのかもしれないけれど、子供の私は毎日のように感じていた。いつも、緊張していていつ何が起こるかわからない状況。息が詰まる思いで、食卓に向かっていた。食べた物がおいしいのか、まずいのかがわからないくらい。
お行儀良く、緊張して食べて、いい子をしていても、お父さんの暴力は突然やってくる。たたかれ、殴られ、蹴飛ばされ、ちゃぶ台がひっくり返る。そしてお母さんの鼻血が飛び散り、妹は泣き、私はあわてて態勢を整え妹と、お母さんをかばうけど、いつもかばいきれないで、私は背中を蹴飛ばされていたよね。三人でかたまっているから、私が蹴飛ばされると、みんなで頭をごっつんこするんだよね。痛かったよね。お父さんの暴力の二次被害だよね。ほんと、悲惨だったよね。
私が小学5年生の頃、お母さんに、「暴力を振るうお父さんと離婚して!」ってお願いしたよね。そしたら、お母さんは、「お姉ちゃんは桜井の跡取りだから置いていく。私は由香里と一緒に暮らす」って言ったよね。私はショックだったよ。お母さんに見捨てられたら、私はどうやって生きていいか、わからなかったから。暴力者のお父さんと暮らすなんて、絶対にいやだったから、私はお母さんに見捨てられないように、更に一生懸命「いい子」をしたよ。
あの日以来、私は離婚の事については何も言えなくなってしまったよ。
7.妹の誕生
私はお母さんを守るのに必死になっていたよ。お父さんがお母さんに小言を言い始めると、私は学校で活躍した話や、友達の話、テストでいい点を取ったとか言って話をそらしていたよね。
いかにお母さんを守るか、その事で頭が一杯だったよ。
それなのに、私が中学1年の時、お母さんは妊娠して、赤ちゃんを産んだんだよね。信じられないよ。お父さんとお母さんが仲良くしていたなんて。私は一体何のために努力していたのか。ショックだった。
その頃、私は十二指腸潰瘍になって背中が痛くて辛かった。お母さんは「お姉ちゃんは神経質だから病気になるのよ」ってみんなにしゃべっていたよね。その時は、私もそうなのかしらと思ったけど、あれは、違うよ。私は自分の無力感を感じて病気になったのだと思う。家の中が滅茶苦茶なのに、赤ちゃんを産む事自体がショックだったと思う。
今、大人となって考えてみると、きっと暴力的なセックスによって、出来てしまったのかしら、と冷静に考えられるけど、そんな事言ったら妹に失礼だと思う。
三女として生まれた妹、亜由はとても可愛かった。いい子、お母さんを助ける私は妹の面倒を良く見た。由香里は亜由が生まれた事によって、末っ子としての甘えが許されなくなり、「私、お姉ちゃんになるのをやめた」って言っていたよね。でも私は、学校から帰ってくると、妹にミルクをあげ、オムツを換え、お風呂に入れて寝かしつける。中学1年の私は必死だったよ。十二指腸潰瘍と戦いながら。
その頃お母さんは、あまり妹の面倒を見られなかったよね。お父さんがお酒を飲んで暴れてばかりいて。だから、お母さんの出来ない分、私は頑張ったよ。妹が幼稚園に入る時、幼稚園バックに可愛い刺繍して、作ってあげたよね。妹は、お姉ちゃんが作ってくれたって、喜んでいたけど、あの頃お母さんは、そういう事が出来なかったよね。お父さんに振り回されていて。亜由の面倒は、ずっとみてきた。
亜由が小学校に上がってからは、勉強を見てあげていたし、先生に出すお手紙や細かい事は全部私がやっていた。
亜由が結婚する時まで、私は母親役をやっていた。式場を見に行ったり、披露宴でのお料理を決めたり、打掛やお色直しのドレスを決めたり、婚礼家具を決めたり、お母さんはお父さんが心配で家を空けられなかったから、私は亜由のために時間を作ったよ。
亜由の育児の経験があったから、私は自分の子供の育児の時にはちょっと余裕があったよ。沐浴させるのも上手だったし、離乳食を作るのも手早く作れた。二世帯住宅を作ってから、由香里のお産があった時も、私はお母さんの代わりをしていたよね。
だけど、育児はなんとかできても、私のぴかぴかの思春期は何処に行ってしまったのかしら・・・。
8.高校進学
私が小学生の時、珍しくお母さんとゆっくりおしゃべりした時があって、それで毎日のように暴力を振るわれているお母さんに、「お母さんにとって一番いい事ってなあに?」って聞いたら、「お姉ちゃんが、M高校に入学する事」って言ったんだよね。私はビックリしたよ。私はお母さんにとって一番いい事って聞いたのに、小学生の私にトップレベルの高校進学の話になって。でも小さかった私は、お母さんの望みは私にかけているのだと思い、お母さんの望み通りになるよう頑張ったよ。
そして中学に入っても頑張ったよ。でもね、M高校はクラスで一人しか受験できない事がわかって、私はがっかりしたよ。頑張って勉強したけど、クラスで一番にはなれなかったよ。それでM高校の滑り止めのH大附属高校には推薦されたのだよ。推薦入学の資格を取るのは、頑張っている私を先生がわかってくれたから。
私はH大附属高校に行こうと、決めていたよ。そしてH大学に行って建築について勉強しようと考えていたの。そしたら、お父さんが私立はだめだって、言い出して、「長女にばかりお金はかけられない」って言われて、大学に行きたいって言ったら「冗談は顔だけにしてくれ!」って言われたよね。それで、親の言う事を聞く私は、本当はイヤなのだけれど、素直に断念したの。
先生達は私が十二指腸潰瘍で体が弱っていたから、受験のプレッシャーに耐えられるか、心配してくれていたのに。
H大附属高校に推薦してくれた先生に、事情を話したら、「桜井の家は金持ちなのだから、もう一回親に頼んでごらん」って言われたの。だけど、私は家の中に波風を立たせると大変な事になるのはわかっていたから、言わなかった。私は行きたかったけど、また、暴力につながると考えると、自分の気持ちなんて、話せなかった。
高校に行きたければ、公立と、言われたので、私は違う公立高校に進学を決めた。
翌年、由香里の高校進学だったが、彼女はミッション系の私立に進学した。その事をお父さんに、「どうして妹は、私立でいいの?」って聞いたら、「由香里は嫁にいく子で、香於璃は跡継ぎだから」って言われた。私は納得できなかったよ。でも、その怒りは出すことが出来ず、いまだに私の体の中に眠っているよ。
頑張る私は高校でもいい成績を取っていたよね。だから、先生が大学を推薦してくれたよね。それなのに、お父さんとお母さんは私に土下座して「大学はあきらめてくれ!」って言ったよね。私は、普段暴力ばかりのお父さんが、私に頭を下げるなんて、びっくりしたし、どうしていいかわからなくなってしまったよ。
大学に行きたい。勉強もしたかったけど、大学生というものに憧れていたの。私は今その切符を手に出来るのに、諦めなければならない。どうしていいかわからなかったよ。
親から大学に行けっていわれて、しぶしぶ勉強している友達もいたよ。それはそれで大変かも知れないけど、私は大学に行きたくて、推薦も取れている。それなのに、諦めなければならないなんて・・・。私はとっても悲しかったよ。でも、私の悲しくてつらい気持ちなんて、わかってくれる家族はいなかった。
私は悲しい気持ちを無視して、就職試験に挑んだよ。超一流の企業に就職の内定が決まり、私は嬉しかった。そこは、修士号や博士号の人達の集団で私の憧れていた、私の持ってないものを手にした人達と、一緒に仕事ができる事は嬉しい事だったから。
9.私の結婚
高志とは中学の同級生。中学生の頃から私の回りをうろうろしていた。家も近く、高志の家は蕎麦屋をしていたので、出前を頼むと、必ず高志が配達していたよね。お父さんとお母さんは、店の手伝いをする高志を良く誉めていたよね。
その高志と付き合うようになったのは、中学のクラス会がきっかけだったよね。クラス会で盛り上がり、夜遅くなってしまって、私が家に帰るのが怖くなってそれで、送ってもらって、お父さんに謝ってくれたんだよね。その当時、門限は11時だったけれど、それを過ぎてしまって私が困っていたら、高志が付いてきてくれたんだ。
当時、私は社内の人と付き合っていたよ。でも、私が跡取りということで、結婚まで話がいってはいるけど、進展が出来ない。私はお母さんからの、強いメッセージでお嫁に行く事は、許されていなかった。桜井の跡取りとしての使命を果たさなくてはならなかった。
そんな時、高志がお父さんのところに来て、「僕が桜井の家を継ぎます」って言い出して。私はびっくりしたよ。なんで高志がうちに来るのって感じだったよ。そしたら、お父さんは、「今どきの若い者にしたら、しっかりしている」なんて言い出して。
それで付き合うようになったのだよね。
お父さんに付き合う事を許された高志は、毎朝モーニングコールと言って電話はしてくるし、会社にも電話してくるし、帰りはお迎えと称して、会社に車で迎えに来ちゃう。お母さんは、「愛されているのよ」っていつも言っていたよね。お姉ちゃんは愛されて幸せ者だとも言っていたよね。愛されて結婚するのがいいって、お母さんはずっと言っていたよね。
それで、結婚する事になったよね。お母さんのニーズは満たされて。
でもね、高志のとっていた行動は、私をコントロールする事だったんだよね。DVを勉強して、つくづく、教科書通りのパターンだとわかったよ。結婚して優を生んだ頃から暴力が激しくなってきたよ。
暴力の後には必ず、プレゼント。ダイヤ、サファイヤ、エメラルド、ルビーの指輪の歌がはやっていた頃はルビーの指輪を、そしてネックレス、抱えきれないほどの大きな花束、欲しがっていた洋服や、CD・・・。普段は紳士的で優しい高志だったから、私は愛されていると、大きな勘違いをしていたんだって事が、勉強してわかったよ。
プレゼントの数だけ大きな暴力があったという事になるよね。
でも、当時お母さんは、お姉ちゃんは愛されているのだからって、言っていたよね。高志が暴力を振るうのは、私に何か足りない所があるからだとも言っていたよね。
私はお母さんの生き方をずっと見ていたから、お母さんの生き方は正しいと思っていたのだよ。だから、私もお母さんを見習ってずっと我慢していたよ。
でも二世帯住宅作って一緒に住むようになってからは、お母さんのその生き方に疑問を持ったんだ。60歳を超えたお母さんが、毎日のように蹴飛ばされたり、殴られている姿を見て、私は高志との結婚生活に疑問を持ち始め、離婚を考え始めたんだよ。
10.離婚
お母さんは、殴られている私を何度も見てその頃には、離婚に賛成してくれたよね。それで、いろいろ協力してくれたよね。だけど、その調停中にお母さんは、お父さんに殴られてクモ膜下出血で入院して、何度も手術したけれど、ついに力尽きちゃったんだよね。
私は最大の協力者を無くして、とってもつらかったよ。あの修羅場の目撃者がいなくなり、他に私の事分かってくれる人が居なかったから。
離婚は大変だった。
最初の調停では、高志が離婚に同意しなくて、だめだった。二度目の調停でやっと、離婚が成立したよ。
その間に、私は子宮筋腫と卵巣のう腫の手術したり、お母さんのお葬式を仕切ったり、お父さんの暴力で、家から逃げ出したり、部屋を借りたから、支出も多く私は働きに出たよ。それで、私の精神状態がくたくたの時にも調停は、進んでいって。
調停委員には、「あなたは、ご主人ともうまくいかないし、お父様ともうまくいかないのは、あなたに何か責任があるのではないですか?」なんて言われて、愕然としたよ。私はただ、暴力から自分と子供を守っただけなのに、ひどいよね。
最初の調停から2年8ヶ月かかって、やっと離婚だけはできたよ。でも内容は悲惨なんだよ。あれだけ暴力振るっておきながら、暴力については、全て否定して慰謝料は無し。財産分与も無し。月々の養育費さえ、払ってくれなかった。ほんと、ひどい話だと思うけど、私の精神状態が落ち着かない中、新しい職場で働きながら、子供をケアしながらの状態だったから、とても大変だったのだよ。
弁護士さんや、調停委員に、「DVです」と、訴えても「DVってなんですか?」なんて聞かれる時代だった。今ではDVと言う言葉が認識されているけれど、あの時代はまだ市民権を持っていない言葉だったの。
でも、離婚が成立した日、私はとても穏やかな気持ちを味わう事ができたよ。
11.子どもたちの事
お父さんとお母さんは、優が生まれた時、桜井の跡取りが生まれたって喜んでくれたよね。お母さんは、私のお産の時に駆けつけてくれて、「男の子ですよ」って、先生に言われたとき、飛び上がって喜んでくれたのだってね。
お母さんは、優が小さいときから、跡取りだという事を呪文のように、言っていたよね。
二世帯住宅で一緒に住むようになってからは、お母さんは更に優のことを跡取りとして大事にしていたよね。
だから、お父さんの暴力で、あの家から追い出された時の、優のショックは相当なものだったよ。「あの家は僕の物なのに、なんでお母さんは逃げ出したのか」って、私に向かって暴力を振るっていたよ。
私はDVの勉強して、暴力は学習されると、教えてもらった時、「あぁ、遅かった」と、思ったよ。優は父親から激しい暴力を受けて育ったからね。
でも、今は自分で働きながら、大学に通い始めたよ。よく頑張っていると思うよ。優は勉強の好きな子だから、大学に行けて本当に良かったと思うよ。私の二の舞にならなくて、良かったよ。
でもね、優は、高校3年生の時に、センター試験を受けたんだ。それなりの成績をとって、希望する大学の合格ラインには入れたけど、入学金が私には用意できなくて、それで父親に会いたいと言いだして、父親に会って援助を求めたけど、断られてしまって、その年は大学を断念したんだよ。
その後、何回か父親にあって、なんとか説得して援助をお願いしたけど、拒否されて、頭にきた優は調停を起こして、父親の役割を求めたけど、既に再婚している父親は、無理だということで、優に援助はしてくれなかったの。その調停が、ちょうど2回目の大学入試と重なって、その年は落ちてしまったのよ。
優は働きながら、こつこつと受験料を貯めて、今回の受験に臨んだのよ。3度目の受験で緊張が一杯だったと思うけど、1月には成人式を迎えたの。だけど、その成人式の日に、父親から呼び出されていて、私は知らなかったけど、借りていたお金を、それを返せって言われたの。
それでね、優は父親に貯めていた受験料からお金を返したのだけれど、受験は目の前なのに、受験料が無くなってしまって大変だったの。
父親に今日は成人式だという事を言ったら、忘れていたって言っていたそうよ。一生に一度の成人式だというのに、借金の取立ての日にするなんて、許せない。自分だって、成人式の日に、親に揃えてもらった衣装、紋付袴で、セッタ履いてかっこ良く決めていたじゃない。それなのに、自分の息子には借金取りの日にするなんて・・・。
そんな事があったけど、2月の受験は無事過ぎて、晴れて4月から大学生になったの。
今は、彼の力を信頼して遠くから応援する事にしたよ。
家の中でのスーパーアイドルだった雅は、今高校生になっているよ。私が居なくても、なんとか生活しているよ。
雅はとっても生活力のある子に育ったよ。自分の主張は通せるし、喜怒哀楽の表現がとっても豊か。ただ、回りにとても気を使う優しい子だから、私にちょっと似ているかもしれないわ。
子どもたちは、元気に生活しているから、お母さんは安心していてね。
12.入院して
私は、雅と二人で暮らし始め、とっても苦しくなったよ。雅からの暴力もあったけど、私自身が、精神的なショック、トラウマから解放されていない事がわかって。母子家庭になって、一生懸命働いたよ。だけど、自分のケアが出来ていなかったんだよ。お母さんからのメッセージで、自分を第一に考えてはいけなかったし、つらいと言ってはいけなかったから。感じてはいけなかったから、感じないように頑張ったけど、頑張りきれなくなってしまったのよ。
それで、今入院しているの。
私は初めてだよ。パジャマ着て毎日のんびり寝る事ができるなんて。今までの私の辞書には、無かった事だよ。
朝は小鳥のさえずりで目を覚まし、大きな窓のカーテンを開ける。赤城山の新鮮な空気を吸い、のんびりと一日を過ごす。夕方には、西の山に落ちる太陽を眺め、ゆったりとした時の流れを感じる。こんなにも、ゆったりと生活できるなんて、私は知らなかったよ。もちろん、お母さんも知らないで逝ってしまったけれど。
私は今、新しく生きなおすために、お母さんからもらったメッセージを書き替えているよ。これはとても大変な作業だけど、私がこれからより良く生きていくためには必要な物なの。
先生や、ワーカーさんや、看護に手伝ってもらいながら、少しずつやっているよ。小さな事が出来ると、みんなが褒めてくれるよ。「良かったね」「出来たじゃない」って。私が小さかった時、もらえなかった言葉を、私は今もらっているよ。
私は今の生活に感謝しているよ。家に縛られたお母さんには、わからないかも知れないけど・・・。子どもと離れて住むことによって、子どもは、子どもの力を発揮していけるのだよ。そして、私も解放されて、一人の人間として生きていけるのよ。子どもは必要な時には、連絡してくるから、その時は母親になって一緒に考えるのよ。
私はACで、まだ回復は出来ないけれど、成長するよう、一歩一歩、歩んで行きたいと、今は思っているの。
お母さんには理解できないかも知れないけど、私たち三人のこと、天国から見守っていてね。
※この文章を本にしたいと思っています。スポンサーを募集しています。
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文責:竹村道夫(初版:04/05/06)