前史(ひょっとしたら第1回〜)
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「太田市教育史」より抜粋
教師と児童文化活動の取組み 昭和41年の秋、協働映画社の人たちが「もう一度、民族のふるさとに立ちもどろう」とよびかけて、国際アンデルセン賞をとった松谷みよ子の原作から、人形劇映画『龍の子太郎』を完成させ、それを上映するなかで、全国各地に「親と子のよい映画をみる会」が組織されていった。
太田でも、太田・新田教職員組合文化部が中心となって、当時のうれうべき映画状況に抗して、自主映画上映運動に取り組んだ。大都会でも農村僻地でも、親も子もすべて同一料金で運営し、自主制作自主上映を貫く「親子映画方式」は全国津々浦々運動の輪を広げ、太田でも児童・生徒や父母たちに大きな支持を得ていった。第2作は『黒姫物語』、第3作は『ちから太郎』、第4作『象のハナ子』、第5作『牛鬼たいじ』、第6作『おおあなむちの冒険』、第7作『鯉のいる村』、第8作『マヨコに雪が降る』と全国組織での自主制作が進み、S48年、第9作として、群馬の教師たちが中心となり、前橋市出身の児童文学者木暮正夫原作の『時計は生きていた』の映画化に取り組んだ。
以下、太田での上映があったかどうか不明なものも含め、親子映画の黎明期の作品を紹介します。
第9作 「時計は生きていた」 1973年 (昭和48年) 戦時下、県と前橋を舞台に「苦しさや貧しさに屈せず、戦火の中をたくましく生き抜く子どもたち」の姿を通して、平和の貴さ、命の大切さ・生きる自信と勇気と喜びを分かち合える映画作りにと、群馬県下6,000人の教師と、4万人の児童生徒が取り組む。 尾島小を舞台に撮影が行われ、太田の児童や教職員がエキストラ参加している。県教組も制作に全面バックアップ。 市民会館を会場に土日で6回上映、1万人以上が観覧。その後もアンコール上映あり。 |
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第8作 「マヨコに雪が降る」 1973年 (昭和48年) ここは雪国の貧しい出稼ぎ村。マヨコは5歳の女の子である。両親は出稼ぎに行っていない。留守はおばあちゃんとの二人暮らしである。ゆかいで、ひょうきんで、モノ白のおばあちゃんは、マヨコを寂しがらせないように、たくさんの昔話をしたり、唄を歌ってくれたりする。しかし、そのおばあちゃんの突然の死で、マヨコは伯父に引き取られることになり…。 「大地」の安作郎による童話『耳のそこのさかな』を元に映画化 |
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第7作 「鯉のいる村」 1971年 (昭和46年) 達夫の村は大小さまざまな池が沢山ある。村の経済を支えるために、ほとんどの家で鯉をかっているのだ。達夫は、父が稚魚をより分ける時、ものになりそうにないと捨てたクロという鯉をかっていた。 第二十一回芸術選奨文部大臣賞・第八回野間文芸賞、その他多くの賞を受賞した岩崎京子原作の「鯉のいる村」の映画化。脚本は松田昭三。監督は新藤兼人の助監督をつとめ、これが昇進第一作となる神山征二郎。撮影は南文憲がそれぞれ担当。 |
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第6作 「おおあなむちの冒険」 1971年 『古事記』『出雲風土記』から素材を求め、おおあなむち=大国主神の若き日の姿の中に、古代の民衆のヒーローとロマンを描いた長編人形劇映画。「はにわ」を象った人形のユニークな表情が、当時話題を呼んだ。 |
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第5作 「牛鬼たいじ」 1971年 宇和島に伝わる民話に取材し、農民の知恵と勇気を主題とした民話劇映画。 |
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第4作 「象のハナ子」 1969年月(昭和44年) 戦争下の動物園、象の生死をかけた三吉少年の活躍。日本の動物園にあった本当のはなし。 |
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第3作 「ちから太郎」 1968年 (昭和43年) 「龍の子太郎」「黒姫物語」に続く親子映画。勇気もあれば知恵もある、日本一の力もち、ちから太郎、石子太郎、み堂太郎の三人太郎が化物退治をする。 |
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第2作 「黒姫物語」 1968年 (昭和43年) 長野県に伝わる「黒姫伝説」から、瀬川拓男氏が作りあげた作品。村人に慕われる黒姫は、あれはてた故郷を楽しい豊かな村にと願って、山奥のふしぎな沼へと出かけた。ふと、若者に出会った…。 |
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大人の事情で 画像はありません (^_^; |
第1作 「龍の子太郎」 1966年 (昭和41年) 長野県に伝わる「小泉小太郎」の民話を採集して、松谷みよ子氏が長編童話として作りあげた作品、龍の子太郎が龍に姿を変えている母親に会いにいくものがたり。 |
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