身近な地方自治と弁証法 2006.9.5
タイトルはむずかしいものですが、身近な問題についての一考です。
最近地方分権がさかんに論議されていますが、政府、地方自治体関係者さらに学者、評論家など誰もが国の権限を地方に移して住民参加の政治を実現するというような主張を展開しています。確かに外交、国防、公安などの分野を除けば江戸時代の日本のように藩単位の運営でも福祉や土木などは十分可能だと思います。ただし、自治体のトップやそのブレーンの優劣で裕福な安定した暮らしができるところもあれば衣食住がやっとのようなところができても仕方がないことになります。現実に医療の面でみても、東京などの都市部や一部裕福な市町村は中学生まで医療費が無料などというところもあれば、乳児程度しか面倒をみられない市町村もあり、所得税、市県民税は同じ税率で納税しているのに給付が違うのは納得できないところもあります。
現在の日本は、建前はともかく基本的に内閣が国中をコントロールしている仕組みになっていますから、法律、政令、省令さらに担当官からの通知などで手取り足取り指導してもらって、負担金や補助金といった食料やお小遣いまでもらって行政が執行されているのも当然だと思います。それゆえ全国どこに行っても(特に田舎では)乞食、どうしんぼーなどは見かけませんから、中央集権だろうが地方分権だろうが関係ないと思っている(その前に意識もしない)人が多いのも当然です。
地方にはお金がないからよこせと言うのも勝手な話で、アメリカの開拓時代を考えれば当たり前のことなのですが、本当に必要ならば自分たちでお金、体力など必要なものを出し合えばよいのです。いやなら足が2本あるのですから、本当に困るのなら好きなところに行けばいいのです。自分たちのために喜んで進んで納税し、自然発生的な規範のなかで生活すれば幸せなことでしょう。

さて、国政レベルでは間もなく自由民主党の新総裁が決まり、小泉後継政権が誕生することになりますが、地方では知事、市長などトップがそれぞれの自治体に君臨しています。日本国では国会が国権の最高機関と憲法で定められていますから、責任の所在は国会にあるということになりますが、地方では大統領型の首長と議会が揉めることがしばしばです。我が群馬県でも「○○天皇」と揶揄されることもある知事と県議会や一部市長が対立を続けています。知事や市長は最近流行のマニフェストを必ず実現するということで血眼になっていますが、確かに選挙時の約束を実現しようとすることは大切ですが当選した自分が100%の得票をしたのではないことを忘れては困ります。
某隣国の将軍様も形式上は選挙で当選してその地位を占めているのだそうですが、得票率は100%だそうです。このような所では議論のしようがないですから当然独裁になるのですが、わが国ではそのようなことはないのですから同じ対象に対しても逆の意見もたくさんあるのが当然です。また投票者は、候補者のマニフェストにある全ての項目に賛同しているものでもありません。「まあ、あっちよりマシみたいだから入れてみようか」とか「あいつは嫌いだから、反対の候補にしよう」などという人も少なからずいるのです。群馬県内でも某歴史的建造物の保存よりも、50階建の「赤レンガヒルズ」でも建てて売り出そうという意見があっても不思議ではありません。
結局歴史は後の人たちが判断するということに収斂されてしまうのですが、国でも地方でも議会が住民の代表として十分に議論をして結論を出すのですから、市町村合併で議員を減らそうという考えは自分の首を絞めているような気もします。この社会がウエーバーのいう「禁欲的プロテスタント」的な人ばかりならば少なくてもいいのでしょうが、様々な人がいますからお金を出してでもいい議論をしていただいて、それを執行するのがいいですね。自分の主張があれば必ず反対の主張もあるという弁証法的な考えを十分にしていただきたいものです。ちなみに私はヘーゲルやエンゲルスが好きなわけではありませんので、悪しからず。