第44話  ロータスヴィレッジ住民広場についてNo1 

   トップページに掲載したように当施設の東側の土地930坪の土地造成工事が終了し「ロータスヴィレッジ住民広場」(略称「広場」)と名付けました。今回の独り言は住民広場と名付けた理由について書きたいと思います。今回と次回2話と長くなりますがつき合っていただきたいと思います。
   私が大学に行くと決めたのは中学時代でした。テレビで盛んに学生運動のことが放映されておりこれに影響されたのだと思います。特に中学2年の冬(1969年)、東大安田講堂の過激派と機動隊の攻防はTV生中継されその映像は今でも私の目に焼き付いて鮮明に思い出されます。「なぜ大学生はあんな戦争みたいなことをするんだろうか?」というのが素朴な疑問でした。当時の大学生は社会から一目置かれ、当時の大学進学率は15.4%(文部科学省学校基本調査から)でエリートでした。近くに住む慶応大学生であった人の指示には間違いが無く、あこがれでした。高校に進み大学で何を学ぶかという選択をするときに、当時、社会問題になっていた公害について学ぼうと思って化学を学ぶ選択をしたのです。勿論学生運動はするつもりでした。
 しかし、大学に入学してみるとあのテレビで見た風景は何もなかった。立て看板やアジビラはまだ健在でありましたが、どこかのんびりとしており、各クラブ活動の新入生歓迎ビラが氾濫していました。後で先輩に聞いた話では1972年の10月21日国際反戦デーで反民青系(日本共産党の学生青年組織として民主青年同盟(略して『民青』という)が有り、この民青に反対する学生青年組織として革マル派や中核派などがあるがこれらを一括して『反民青系』という)は負け、学生運動は終わったという。大学へ来た目的の一つが無くなったわけです。まじめな学生だったらここでもう一つの目的である化学を極める行動に出れば良いのでしょうが、何せ私は中学時代のテレビの影響が大きく、学生運動を経験しないことには大学に来た理由がないとばかりに民青が牛耳る教養部学生自治会(当時大学は前半2年の教養と後半2年の学部に分かれ、教養では法学概論・社会学や語学などの一般教養科目とやや易しい専門科目が各学部の1、2年生向けに講義が行われ、学部では専門科目の講義や実験が行われていた)の手伝いを行うことになりました。学生自治会の手伝いは学生自治会が加入する全国学生自治会連合(略して『全学連』と言い、当時でも各派の全学連が存在していました)の機関誌の拡販と代金の徴収です。今ひとつ否二つも三つも物足りなさを感じてしまいました。数ヶ月すると民青に入らないかと誘われました。資本論も読んだこともないのになぜ共産党の片棒を担がなければならないのか。これをきっかけに自治会の手伝いは辞めることにしました。年が明けていました。さーこれからどうする。たまたま生物科1年の同期生が公害問題研究会(略して「公害研」)に属しており私もこの研究会に加入させてもらいました。この同期生は、公害研の先輩達が助っ人として関わっていた火力発電所反対市民運動の女性メンバーの息子で、先輩達は良くこの女性宅に来ていて同期生とも顔見知りだったのです。更にこの女性は息子に公害研加入を勧めていたのです。

 公害研は大学の任意団体(当時私がいた大学の研究会や同好会はすべて任意団体で、設立など自由でした。唯一運動系のサークルは連合を組んでいました。今のようにパンフレットにサークル名が載ることもありませんでした。そもそも私立大学を除いてパンフレットさえなかったのです。)で反民青系(全共闘系)の人たちが学生運動の敗北した傷を癒す(?)ために1973年に創設しました。大学が用意したプレハブのサークル室はなぜだかあてがわれていました。この創設した先輩達も卒業研究や実習に忙しく公害研の集まりに来ることはありませんでした。つまり同期生一人きりのサークルだったわけです。見方を変えれば自分の好きなようにできるサークルなわけです。この同期生は弁は立つが、事務能力がほとんどなく、マルクス主義的な考え方もしない男だったので何人かの同期生や後輩が集まり、今で言う同好会的な色彩が強いサークルでした。ここに加入していた同期生達とは今でも交流があります。余談になりますが、この先輩達のその後ですが、ある者は東京都と自分の出身県の高校教員試験に受かり指導教授の助言もあり出身県の教員になり彼女と結婚し(この彼女の弟が私どもの大学に入学してきてオルグしたのですが入会しませんでした)、又ある者は農学部なのに道路問題を卒業論文にし環境アセスメントの会社に就職し、ある者は工学部にすすんだのですが優柔不断に愛想をつかされ彼女と別れ、ある者は大学を中退し印刷工になり、ある者は自営のみかん農家を継ぎました。
 公害研での活動は県内各地で起こっていた公害反対住民運動の応援でした。バイパス建設反対のデータ収集を目的とした既設道路での騒音測定、石油備蓄基地反対の住民勉強会への参加、原発反対のビラ配り、スモッグ排出反対のための風向きと高度別温度測定など様々でした。各公害反対住民運動組織が、我々時間はたっぷりある大学生を都合良く使っていたわけです。こういう中で公害研のメンバーの間にはこれで良いのかという意見が台頭してきます。助っ人ではなく主体的に運動に関わり合いたいという意見です。特にスモン患者を支える会を応援していたメンバーの意見は強硬でした。スモン一本に絞りたい、だから公害研も脱退したい、という意見でした。スモン病患者はキノホルムという整腸剤を飲んだ結果その副作用として神経、特に視神経が侵され全盲に近い方が多かった。当時、製薬会社は、スモン病はキノホルムの副作用で発病したことを認めていなかったのです。その為に患者の活動は製薬会社や行政への抗議活動が主たるもので、また活動を維持するための募金活動も重要な活動でした。これらの活動を行っていくためには誰かの援助が必要でした。この援助団体を公害研の先輩達が立ち上げ、「スモン病患者を支える会」をつくったのでした。私も製薬会社への抗議活動で患者が乗っている車椅子を押したり(この時撮られた写真が某政党の機関誌の一面を飾ることになり、患者達から就職を心配されました)、募金活動で駅前に立ちました。確かに主体的に活動できるという点では助っ人以上の高揚感ややりがいが有りました。
 しかし、公害をなくすという点では、地域に根ざした地域住民が自分たちのために、そして地域のために反対しなければ公害はなくならないという思いが、私を含めた反分裂派の公害研メンバーにはありました。スモン病は確かに薬害という公害で告発し、支援していかなければならない問題でしたが、これ一本にかけることが公害撲滅につながるのかというのが私たちの考えでした。議論は平行線で結局は分裂です。10名程度の公害研が分裂したわけです。過激派が四分五裂していく過程というのは、多分こういった過程を経てだんだんと小さくなっていき、その後は凄惨なリンチや内ゲバを繰り広げて行くんだなと残ったメンバーで話し合ったものです。私たちは、自分たちを「日和見集団」と捉え、他の政治的な集団も日和見主義者と見ており、相手にされていませんでした。重要なことは「公害をなくす」ことなのです。そのためにはあらゆることを利用しなければならないのです。現実的対応を求められるのです。「公共の福祉」のためには我慢しなさいと言うのが今までの行政や企業のやり方でした。「公共の福祉」のために自分たちが住む環境がどうなっても良いのかという疑問が住民運動や市民運動の原点です。行政や企業は「地域エゴ」として、この疑問を鎮めようとしました。しかし、自分たちが住む地域を自分たちの手で良くするという考えに立つ住民運動は益々盛り上がっていくのでした。




            平成22年6月30日  小林 直行


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