第44話  ロータスヴィレッジ住民広場についてNo2 

   住民が自分のために自分の力で自分の住む環境を良くしようという住民運動を支援する方針にのっとり我々の公害研は活動を再開した。助っ人要請があればどこへでも出かけた。九州には福岡県豊前市と大分県大分市に行った。豊前市は火力発電所建設に反対する住民組織(すでに亡くなったが作家の松下竜一が事務局長を務めていた。初めて会った松下氏は見るからに病弱そうで、この人が『草の根通信』を長く発行し自前で裁判闘争を続ける人には見えなかった。驚きであった。)、大分市は大規模コンビナートに反対する住民組織(今回の気象観測には地元テレビ局まで取材にきており、夜、私が暇だから行ったたき火が放送されたりテレビ局からバンドをもらったりで全般的に住民運動に好意的であった。)に要請された気象を専門とする静岡県在住の高校教師を、観測機器共々無事に九州まで送り届けそして観測をするという要請であった。このとき提供された車は我々公害研の活動に理解を示す会社員の所有物であった。この車はロータリーエンジン13Bを搭載したマツダルーチェステーションワゴンで、東名三島ICから名神神戸ICまでを快適に走行した(この辺が日和見と言われる所以である)。神戸からはフェリーで九州まで船の旅である。当時はオイルショック後ということでフェリーで食事しようとしたが、缶詰しか売ってなかった。帰りは神戸から大阪市内を抜け東名阪を通り志摩から伊勢湾を渡り渥美半島に着き東名豊川から三島に戻るコースであった。一緒に行った奴は公害研メンバーではないがなぜかこの時は一緒であった。こいつとは今でも付き合いがあり当施設を訪問したこともある。我々公害研は主義で集まる集団ではなく人間性で集まる集団ということが言えるだろう。
 大きな要請はこの2回だけで、そもそもそれほど要請が有る筈がない。住民運動には地域の様々な住民が参加しているのでその道の専門家というのが必ずいる。なるべくお金をかけず、お金がないので体力と知恵を提供し理論武装し、相手と対峙する方法が一般的であった。
 そうこうするうちに我々も学部の4年になり活動から身を引く時期が近づき、公害研活動の記念になることをしなければという気が起きる。じゃー何をするかということになった。静岡県内で活動をしている住民運動組織を一堂に会し、そこで現状を語ってもらい将来の展望につなげようと言うことになった。この会合を『住民広場』と称しその事務局を公害研が担当する事になった。メンバーの一人が『住民広場』を『People Forum』と訳し大学の英会話の講義で英語で話したところ外国人講師は頷ずいていた。何に頷いていたのだろう。今ならNPO法人という手もあるが当時は今ほど社会が成熟していなかったので暇のある団体が対応するしかなかった。会場を押さえ、県内にある住民運動組織の確定作業と出席依頼交渉を進め、司会者や会議次第の決定等進めていった。当日は県内から多くの団体が集まり会議も順調に流れ意義有る会合が持てたと思う。問題は会議録を作ることであった。テープ起こしという難問が待ち構えていた。3時間、4時間分のテープ起こしを誰がやるのか。業者に任せる代金を募るという事もしていなかった。完全なミスである。結局テープ起こしはできず、2回目以降の会合も持てなかった。あの時テープ起こしを行い、会議録を発送し2回目以降の会合を持てたら静岡県の住民運動の横の連絡が機能していたかもしれないという悔恨の念に駆られる。この悔恨の念を思いロータスヴィレッジ東側の土地を『住民広場』と名付けることにした。地域住民誰でも使え、自由に語らえる場を提供したかった私の思いである。
 結局失敗に終わった『住民広場』は今や全国各地でみられることになった。『住民広場』でGoogle検索を行うと309件ヒットする。自分たちの言葉で自分たちの運動や行動を語らう場は当時と比べ格段に増えた。企業や行政は昔のようにごり押しすることはなくなった。企業は環境優先を掲げ、行政はパブリックコミットメントを行うようになった。我々が目指した社会ができつつあるのは正直うれしい。一方、分裂派が支援したスモン病患者は裁判に勝訴し製薬企業や国との和解が成立してスモン訴訟は解決した。しかし、このスモン訴訟はその後の薬害発生を防げなかった。血友病患者に投与され引き起こされた薬害エイズ事件はその最たるものであろう。
 最後に分裂派も含め公害研メンバーその後を述べたいと思う(映画『アメリカングラフテイー』みたいになってきた。)。同期の者達は私を含めほとんど教員になった。一人だけ旧三公社系の一つにに就職した。一期後輩達は一人は地質調査会社に就職。一人は高校の同級生と同棲しその後中退していった。残念なのは残りの一人である。4年次の卒業研究のために富士五湖にバイクで行った折カーブで対向車線にはみ出し車と衝突し即死。就職も、スモン病患者を支援していた医師が開設する診療所に決まっていた。在宅医療をメインにする診療所だという。翌年1月に彼の出身地新潟市に墓参りに行った。上越国境は激しく雪が降る日であったが、新潟市はどんよりした雲行きであったことが鮮明に思い起こされる。





            平成22年8月31日  小林 直行


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