加藤アキラ(KATO AKIRA) 略歴

1937年 群馬県生まれ
1965年 群馬アンデパンダン展(ぐんまNOMOグループ企画)
1966年 第10回シェル美術賞展 佳作
第7回現代日本美術展(東京都美術館)
個展(ギャラリー創苑)
1969年 第5回国際青年美術展(東京都美術館)
1970年 第7回ジャパンアートフェスティバル(東京国立近代美術館)
現代美術の動向展(京都国立近代美術館)
制作活動を休止、後再開
1980年 個展(サトウ画廊、東京)
1982年 個展(ときわ画廊、東京)
1983年 個展(真木画廊、東京)
1984年 個展(かねこ・あーとG1、東京)
1985〜97年 個展(ときわ画廊、東京)
1995年 個展(有燐館、桐生)
1998年 「アートハウスの10年」展(ノイエス朝日&ペーパーテック1、前橋)
1999年 個展(アートハウス+ノイエス朝日、前橋)
 
企画コメント:
加藤アキラは、あの日本の現代美術の喧騒たる1960年代半ばに作家としてデービューした。高度経済成長に謳歌された環境が、制作活動の基盤になっていると考えられる。人々は、戦後を乗り切った自信に満ち溢れ、しかし何処かに疑念を持ちながらではあるが、新しい時代を夢見、あらゆる可能性に挑戦した。彼もその時代の勢いに乗じた一人である。
 当時、彼は美術表現に馴染みのない新素材を使って、自己の投影を印していく。その手法は、金属円板に回転運動でワイヤーブラシの痕跡をつける、極めて工業的な行為を応用していた。これらの作品は、1966年のシェル美術賞展から1970年のジャパンアートフェスティバルまでの幾つかのコンペを総なめし、高い評価を受けている。若い作家としては順調な滑り出しであった。
 ところが、1970年に横浜のこどもの国で開かれた野外展で、作家の表現と会場の管理上の問題で起こったトラブルに遭遇し、彼は社会の体制を前にした芸術の無力さに失望し、制作活動を休止してしまう。
 制作の休止は作家生命を絶つことを意味しているが、私には彼が体制への抵抗に屈したこととは別に、その陰にもう一つの理由が潜んでいるように思える。それは、彼を取り巻く環境の変化、「群馬NOMOグループ」活動の消滅と、彼の才能を開花させた金子英彦との離別であろうと考えられる。彼にとっては、まるで家族が離散し、親を失った少年のように、それまで自己の存在を確かめるべく手応えとしてあった精神的基盤を失い、不安を覚えたのではないだろうか。
休止と復帰準備に要した約10年のブランクを破って、本格的に再開を果たしたのが、1979年のふかまちギャラリー、及びぐんまアートセンターと、引き続いて1980年に開かれたサトウ画廊での個展からである。
 先ずは、円筒形のパイプから押し出されたグリスの塊が発表された。そこには自重で崩壊の危機に直面した緊張感があった。次に発表された作品では、天井に設置された滑車から下げられたロープの両端に、片方は重しになる木材が括られ、もう一方はゲル状のアスファルトに埋め込まれている。画廊には何時バランスを崩すか分からない緊迫した空気が漂っていた。
 その後、今日までの展開をみると、一つの完成に縛られることなく様々な変化を遂げている。
そして1997年に、ときわ画廊で発表された作品では、径を変えた二つの薄手の盆を重ね、その間に水を注ぎ込み内側の盆を浮かせていた。浮力と、水が盆の縁を乗り越えんとするぎりぎりのところに保たれた表面張力が、気流の変化や床の振動で内径の盆を微動させるその瞬間に、生命の気配を感じさせていた。盆の内側は黒煙が燻されているので、一見したところ画廊の床に大きな碁石が置いてあるようにしか見えない。だが、返って拒否的な視覚性に緊迫したな精神が集約されていた。
1998年11月の「アートハウスの10年」展では、他の作家と趣を変え、ひとり生活空間を意識して畳の間を使用した。普段の茶卓が置かれた状態をそのまま生かして作品に含め、畳の合わせ目にブリキの角柱を一寸程浮かせて這わせた構成をしている。日常と非日常の狭間に実在の不確かさを認識しようとしているようだ。
 彼の作品を通して見ると、純粋に素材の性質を引き出す手法は「もの派」に近いが、崩れて形が変わってしまう危機感があり、微動する気配に貫かれている。しかも私には彼が、無邪気にもその変化を楽しんでいるように思える。
この度の発表では、ノイエス朝日の二つのスペースを対比的に使って、水を注いだ鉄の器状の立体造形を設置し、翻ってそれまで気配としてあった力を能動的に扱い、音を振動に戻して物質に還元しようと試みる。
アートハウス 吉田富久一