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本についての話 5

 

That's goodと言った>

 アメリカについて書かれた本の話をしたい。アメリカとは、USAのことだ。ずいぶん前にアメリカについての本がたくさん出版されてブームのようになっていた時期があった。いや、今もたくさん出版されているのかもしれないが、もう自分で興味がないから気がつかないかもしれない。とにかく「アメリカ」と名が付けば本が売れるような風潮があったことを覚えている。ぼくもたくさん買って読んだ。日本人の女性にによって書かれた本が面白かった。

 1年前、訳あって物置の段ボール箱を探したら、宮本美智子『アメリカが嫌いだった父へ』、下村満子『アメリカの男たちは、いま』が見つかった。この2冊の本は特に良かった。彼女たちに日常があるからだ。彼女たちはアメリカに滞在して、日常生活を通して日本とはまったく異なった文化に接していく。日常の細々としたディテールが、自分個人としてのアメリカと日本の違いを見ていく。いわゆる「日本では…」「アメリカでは…」という、一種のエキゾチシズムを通り越したところで、日常生活のあらゆる場面でいろいろなやり方の違いや、その向こう側にある考え方の違いを自分の体で受け止め、体験としていく。こまやかな日常生活の領域で異文化に接していくのは時間がかかる。だから両方の文化の違いを完全に理解するにはいたらない。文化の質の違いや営まれ方の違いが何となくわかったあたりで彼女たちは日本に帰って来る場合が多いようだ。

 しかし日常のレベルで、感じ取ることは、男性のそれよりもはるかに鋭い。その感じ取ったものを自分の一部として日本に持ち帰ってから、日本に対して一瞬とまどう。ほんの少しだが、彼女たちの日本の見る目が変化した瞬間だ。わかってはいるけれど…という彼女たちが日本に感じるもどかしさに、アメリカに行ったこともなかったぼくは強く共感した。

 昨年、ぼくもアメリカを体験した。段ボール箱の中の本を探したのはそのためである。その時に偶然うれしい再会をした。1970年代中頃に発刊された『宝島』という月刊誌。今も音楽雑誌として残っている。当時の『宝島』は「ほんの少し」ではなく、日本を見る目まったく変えてくれるような雑誌だった。そうだ、『宝島』でアメリカのサブカルチャーのお勉強したっけ。この雑誌の影響で『緑色革命』『沈黙の春』『パワーエリート』などを読んだのだ。『宝島』で知った映画や音楽はぼくの土台になっている。

 当時の読者が20歳代だとすると、現在は40代である。マスメディアで活躍している人は多いはずだ。メディアの中でときどき「これは宝島だな」と直感することがある。せっかくだから『宝島』がどんな雑誌だったのか紹介しよう。初代『宝島』編集長「植草甚一」が辞める頃の文章である。

 「昨年の冬あたりから『宝島』って雑誌つまらなくなってきたんじゃないかな。そう言われるとそうかもしれないなと思って困ってしまうんだ。それはぼくの責任だし、ぼく自身はスタッフの編集ぶりはすっかり気に入っていたんだからなあ。そうするとぼくの目にはつかなかった変化がどこかで起こっていたことになる。

 こんなときにアメリカの雑誌ではどうするのかというと、ぼくはなんども感心したことなんだけれどスタッフを全部交代させてしまうんだ。そんなときどんな雑誌になるかと思って楽しみにしていると、やっぱり面白くなっている。なるほどなあ、そのときの編集長は、おれのやることに横ヤリを絶対に入れるなと言って引き受けていた。

 ぼくはこんど肩書きをはずしてもらうけど、こんなアメリカ式でやってきたんだ。また8月からアメリカへ行って勉強しなおしをしよう。すべてに限界点はあるんだ。…『宝島』(扉のことば)1976年7月号」

 毎月、雑誌『宝島』の巻頭に原稿用紙の直筆のこんな文章が載っていた。もうこんな面白い雑誌はないのだろうと確信しているが、もし植草さんが健在ならきっと「それはまた、ずいぶん前の話ですね」と一笑に付すに違いない。もっとも今を愛する人なのだから。

 ぼくはアメリカに関して『宝島』というバックグランドを持っていた。しかしアメリカ的なものにはすでに卒業して、日本を見る目は変化しているのだと勝手にうぬぼれて自慢したことさえ忘れていた。そんなことを思い出しながら、アメリカへ向かった。

 渡米してすぐに大学での研修は始まった。渡された講義のプログラムの中ですぐに「アメリカの家族」というテーマに興味を持った。「アメリカの家族」は、講義といっても大学の寮ラウンジで椅子も使わず膝をつき合わせての話し合いである。講義は予定通り夜7時に始まった。「よし、よし、いいぞ」。スタッフが模造紙に描いたアメリカの家族の手描きのイラストを見て、植草流で言うなら「うなってしまった」。

 「ステレオタイプ」「母子家庭」「父子家庭」「黒人」「クロスオーバー」「リタイア」「ゲイ」「レズビアン」等の家族が楽しいイラストになっている。これから予定されているホームステイにリンクさせた講義であるが、気がつくとぼくはそんなことにはお構いなしに質問していた。日本の家族像を説明した上で、映画『クレイマー・クレイマー』『トーチソング・トリロジー』を例にして、このような家族がアメリカの家族像だすることに何も障害はないのか、という質問に講師のジョッゼットさんはあっさりと「That's good」と言った。

 

<Umass(マサチューセッツ州立大学)>

 大学のあるアマースト近郊は、アメリカの中でも多様な人種の住む地域だ。リベラルな雰囲気の漂うのんびりとした環境で現地スタッフも日本通の方が多く、問題がないのが問題なくらいで研修を行った。ここでは研修そのものについて考えてみたい。

 まず研修プログラムの計画は、なかなかハードだと感じた人が多いのではないだろうか。「もしあなたが何かを学びたいなら、それについてできるだけ多くの情報をいつでも与えます」というような姿勢で計画されている。だから興味深い講義がびっしりと詰まっている。勉強したいというポジティブな学習意欲、それから夜の講義に絶えられる体力が要求される。しかし時間には制約がある。ほんとに知りたい、勉強したいと切実に思い、実践しようとする人には、時間的な制約はいかんともしがたい。

 そんなことはどうでもいい、と思っている人には逆に無味乾燥な内容で、つらく、長く、耐え難い。日本の一般的な研修の多くは、研修内容の選択やその成果さえもあらかじめ吟味され、設定されている。それを基準に評価も行われる。参加者は悪く言えば強制的に従い、絶えていればある程度の成果が保障されている。ネガティヴな人にはとても楽な方法なのだ。 

 大学での研修で特に興味を引いたのは、目的を達成するためのプログラムに参加者がどれだけ満足しているかどうかを重視していることである。そのために何度もガイダンスが行われ、一人ひとりに意見を聞いてくる。全員が一斉に一つの目標に向かって頑張ることではなく、各個人がそれぞれの目標に向かって、いかに取り組むことができたのかを重要視する。

 一人ひとりの要求に対処するためには多くの「情報」や「選択肢」と「柔軟性」が必要である。多くの情報や選択肢とは、決しておいしいとはいえない学食のメニューの豊富さから、多様な内容の講義まで、いつでも選んでいる。柔軟性とは、日本の常識では考えられない夜間の講義やもし参加者の多くがプログラム変更を望めばすぐに対応することである。多数でなくても個人の意見はいつでも全体へフィードバックされる。「無理しないで頑張ってください」「意見があったら話してください」は、スタッフのボス、ジョーディーンさんの日本語の口癖だ。

 基本的に多くの「情報」や「選択肢」を与え、そこから必ず自分で選ばせていくことが教育というか、人生訓のようになっているようである。生まれたときからそうしたやり方に馴染んでいるのだろう。このようなやり方で培われた能力とは一体何だろうか、という疑問が生まれた。そして「自立」ではないかと勝手に結論を出した。自分が選んできた結果は、否応なしに自分ではないか。選択肢の多さは人の真似ができないことを表している。そして自分で選んだものは間違いなく自分である。ごまかしは利かない。人と違うということが大切で、必ず人とは違う自分でいなければないということである。決定的に自分というものが意識されていく。つまり「自立」するしかないのだ。しかもここでは人と違う方が、はるかに友好的な対人関係つくることができる。

 たとえば…

 「アメリカ人は多様ですし、私たちの個人的な習慣や社会習慣や食べ物などは世界中のあらゆる国に由来しています。何かを一般化する場合は充分注意してください。「すべてのアメリカ人は」「アメリカ人は」で始まるいかなる文もおそらく誤りです。あなた方が日本で話す人々の多くは、アメリカ人に出会う機会が少ないか、あるいはマサチューセッツを訪れる機会がないことも覚えておいてください。あなた方の述べることがアメリカに関する彼らの見方の基礎になるのです。このように誤解や文化的事象についての否定的な類型化が偏狭な人々の心の中に住み着くことになるのです。…ジョーディーン『研修記念誌』寄稿文」

 人と違うことは問題ではなく、それは事実に過ぎない。彼らにとっては、それを前提とする社会を築くことである。そのためにも個人が「自立」しなければならない。

 さて、研修プログラムの内容であるが、教育、文化、歴史など多岐にわたり、現在のアメリカの抱える具体的な問題点を取り上げながら、プロのジャズシンガー、州会議員などを講師に招いたりしている。4つに分けた英会話のクラスの授業内容はそれぞれユニークである。まったく授業内容が違う。

 最終的に参加者が何を得たかは、別問題として、少なくともアメリカの姿の一部を理解するように努め、そこから日本や日本人の姿を改めて学び直そうということだろう。そのためにも「アメリカは…」「日本は…」といつまでもエキゾチシズムを感じているわけにはいかない。

 

 

<スペンサーのボストン>

 アメリカで何度も本屋へ行った。アメリカの本屋は素晴らしい。本売場の隣にレストランがついていて、これがまたなかなかいけている。レストランと言っても気取ってはいない。カフェテラスと言った方がいいのかもしれない。人気があって、いつも待たなければ入ることができない。でも客待ちリストに名前を書いておけば、本を見ている間に名前を呼んでもらえる。この待っている時間が実にいい。たとえば日本なら時間を潰す、という知性のかけらもない一言で終わりだろう。それだけで日常への強制力を強め、知的好奇心の遊びなどとうてい想像もつかない。

 「ヒトシサン」と愛想のいい定員がマイクを使って呼んでくれた。ぼくは、ボストンのこの本屋でエドワード・ホッパーの画集を買ってしまう。よく冷えたビールを頂戴し、画集を見た。欲しい本はいっぱいある。画集は重くて荷物になるので大変なのだ。

 写真集『スペンサーとボストン』(早川書房)が日本で出版されている。スペンサーとは、作家ロバート・B・パーカーが創作した探偵のことだ。スペンサー・シリーズの翻訳は『ダブル・ディースの対決』20作目になる。そのスペンサーの活躍する街がボストンだ。

 

…チャールズ川沿いにメモリアルドライブを下って行き、マサチュセッツ・アヴェニュ橋を渡った。橋からボストンの景色はいつ見てもすばらしい。

 明かりがつき、星空を背景に浮かび上がっている建物の線、海に向かって優雅にカーブを描いている川筋がくっきりと見える夜はとくに美しい。  …『ゴッドウルッフの行方』

 

…長年ボストンに住んでいると、とかく、ケイプ・ゴットを神の約束の地と思いがちになる。海、太陽、空、健康、気楽で賑やかな仲間付き合い、ビールのコマーシャルを地でいく生活。  …『約束の地』

 

 スペンサー・シリーズは日本でも好評である。特に探偵小説としては珍しく女性ファンが多く、また本格派ミステリファンにはどうも馴染めないらしい。ぼくには、どうでもいいことだ。

 パーカーは、ノンスペンサー・シリーズで恋愛小説『愛と名誉のために』を書いている。以前はこの本をよくプレゼントとして贈っていた。大好きな作品だ。主人公ブーンは大学で知り合ったジェニファーと恋愛関係になる。ブーンのジェニファーに対する気持ちは、日に日に強くなっていく。彼女はそんな彼の気持ちが怖くなり、やがて離れていってしまう。しかし彼の思いは変わらない、やがてすべてになってしまう。彼女は他の男性と結婚する。式場で彼は野良犬のように追い払われる。10年間放浪した後、自分を0(ゼロ)にする。そこから彼の「愛と名誉のため」の戦いが始まる。新しい自分を取り戻すためだ。

 1960年代のアメリカの情景や当時の青年ブーンの考え方やジェニファーの容姿などがリアルに描写され、読み出すとすぐに引き込まれてしまう。彼にとって彼女は、「生きるか、死ぬか」なのだ。彼女にとってふさわしい人になることが、愛と名誉のために、ということだ。

 この本が出版された頃「悩めるアメリカ」という言葉が流行していた。悩んでいたのは男たちだ。フェミニズムの台頭で男性はどう対処していいのかわからなかった。

 

…「そんなの通用しないわ、そんなのは、男性誇示にすぎないわ。そのために、人は殺されるのよ。無意味な死をとげるのよ。人生はジョン・ウェインの映画じゃないわ」  …『約束の地』

 

…円卓の騎士の一人、ガーヴェイン卿のようでありたい、ということなのよ。彼は生まれるのが五百年遅すぎたの」

 「六百年だよ」私が言った。 …『レイチャル・ウォレスを捜せ』

 

 フェミニズムに対してどうしていいのか、わからない。男性誇示にも裏付けが必要である。裏付けとは理論だ。理論で勝たなければならない。男性誇示だけでは話にならない。アメリカの基準は個人の持っている倫理観と常に新しいアイデア、考え方だ。スペンサーは果敢に立ち向かう。

 

…「父は、調理は女の子がすることだ、と言った」

 「半ば正しいな。女の子が料理を作るし、男の子も作る。大人の女が作るし、大人の男も作る」 …『初秋』

 

…「あなたはずいぶん深いものの考え方をする人ね、そんな図体が大きい人にしては」

 「きみはおれほどの大きさになったことがない。だから、理解できないよ」

 「あなたは人助けがしたい」

 「そう」

 「なぜ」

 「気分がいい」 …『残酷な土地』

 

…ホークが言った。「こいつが、ある男の妻子をふっとばしたのを、忘れたのか?…」

 「おれにとって、彼女がどんな人間であるかは、問題じゃないんだ」私が言った。「自分がどんな人間であるかが、問題なんだ」 …『ユダの山羊』

平成6年3月

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