バブル経済までの日本とアメリカ 日本はアメリカから何を学んだか?
資料T 「ロックの誕生」
…1950年代なら、きっかけさえあれば、誰でも目覚めることはできた。ジョン・レノンだって、プレスリーだ。
たとえば…。 メンフィスの7月。暑い夜に、16才の高校生アン・ボウリヌは、自室の窓をみんな閉めきって、なるべく動かないようにしていた。学校の予習をしながら、ラジオを聞いていたのだ。彼女は、自分のすぐうしろの本棚に置いたラジオの音を、大きくするのが好きだった。音が外に聞こえたりすると父親がうるさいので、暑いのをがまんして窓をみんな閉めきっていたのだ。
聞き続けていたレコード番組で、ある曲がかかったとき、はじめのほんの一瞬、彼女は、それまでと同じ状態で、聞きながしていた。だが、すぐに、彼女は、消しゴムのついた鉛筆の尻で、あけていた英語の教科書を軽く叩くのをやめた。それどころではなくなった。
彼女は、鉛筆をデスクの上に置き、次に自分の両手を平たくデスクの端に突き、立ちあがる寸前のような姿勢をとった。頭のうしろで、ラジオが、彼女に音を送りつづけた。聞いたことのある歌だった。うたい方やビートは、まるっきりちがうのだが、歌詞には、覚えがあった。よくラジオで聞く、カントリー・アンド・ウエスタンの、古い曲のようだった。曲名を思い出そうとしたのだが、記憶はよみがえらなかった。
あっというまに、曲は終わった。彼女は、真っ青になっていた。放心したように半開きになった口でなにかを言っていたのだが、声にはならなかった。彼女は、立ち上がった。本棚のラジオを、デスクにおろした。どこへでも持っていけるよう、彼女はいつもラジオは電池で聞いていた。ラジオを見つめながら、彼女は、みじかい感嘆の言葉を、心の底から驚嘆した人の低い声で、吐き出した。
ラジオを右手にさげて彼女は部屋をとび出し、父親がいつも車のキーを置いている居間の電気スタンドの横のテーブルまで走り、車のキーをつかみ、母親が台所にいるので、正面玄関のドアとスクリーン・ドアを蹴りあけ、ポーチをかけ降り、ガレージに走った。車の運転席に入ると、彼女はベンチシートのとなりにラジオを置き、音量をいちだんと大きくした。
車をバックさせ、急いでいたからうしろ半分を芝生に乗りあげ、ステアリングをフル・ロックさせて車をドライブウェイの外に向けると、かまわずにアクセルを踏みこんだ。
聞いている番組がどこの放送局から送られているのか、彼女は知っていた。WHBQ局なら、いつもその建物を見ている。彼女は、車でそこに向かおうとしたのだ。さっき聞いたあのレコードを、もう一度かけてくれるよう頼むためだった。
車で走っているあいだに、奇跡がおきた。DJのデューイー・フィリップスが「さきほどかけたレコードをまたかけます。リクエストしてくれる人がたくさんいるからです」と言ったのだ。そしてさっきの曲が、またラジオから流れた。彼女は車を歩道に寄せてとめ、ステアリングを両手で握りしめたまま、じっと聞いていた。自分が泣いていることに、彼女は、気がつかなかった。
曲が終わって車を走らせると、またしばらくして、おなじ曲が、かかった。彼女は再び車をとめ、全身で聞いた。とおりかかったパトロール・カーの警官が、心配して車から降りてきてくれた。いま聞いていた曲がきっとまたかかるから、それまでここに車をとめてラジオを聞いてもいいか、と彼女は警官に言った。レコード番組をラジオで聞いていてそのなかの一曲に彼女がたいへん感動しているのだ、という事実を警官に納得させるのにすこし手間がかかった。
車のなかにすわったまま、彼女は、3時間のレコード番組を聞き終わった。あの曲は、都合、7回、かかった。へとへとになって車で自宅へ帰る途中、彼女は、自分が今夜なにかに目覚めたことを知り、再び感動していた。なにに目覚めたのかは、自分でもわからなかったのだが。 (片岡義男著『ぼくはプレスリーが大好き』より抜粋) |
資料U ビデオ「ブルース・スプリングスティーンライブ」、CD「ラブ・クリスマス」
念願のブルースの『サンタが街にやってくる』を手に入れた。この作品は、クリスマスを代表するスタンダード曲になっているが、ロックン・ロールの未来と呼ばれたブルース・スプリングスティーンが、1975年にライブ収録したもので、コンビネーションアルバムやシングルのカップリングとしてファンの間では広く知られている。代表曲『明日なき暴走』を彷彿させる豪快な彼の歌と突っ走るかのような爽快感がたまらない。若き日のブルースのロック・ナンバーだ。
1980年代にブル−ス・スプリングスティ−ンのライブが観られれば奇跡だろう。ライブビデオのアンコール曲は、あの『明日なき暴走』だ。
「もう15年もこれを歌っている。今回のツア−では…今までと違うことをやらなくちゃいけないと思った。どうしようかとあれこれ考えたよ。 この歌も…昔とはだいぶ形が変り、意味が広がってきた。時代と共にね。俺が24のときの曲だ。故郷のニュ−ジャ−ジ−で書いた。
考えてみると、何にもわかっちゃいなかったんだな。だって俺はこの歌で問いかけたことを…今も自分に問いかけている。初めは自由を求める男と女の歌だった。駆けおちするのさ。ロマンチックな話だ。でも、てんでんにクルマに乗り込んだあの連中。いったいどこへ行くのだろう?
そこでふと気づいたんだ。個人の自由なんて…社会や友人とのつながりがなければ…無意味だと。この男と女は触れあいを求めてる。俺がここにいるのもそのためだ。これは原点に戻ろうとする2人の歌。君らに捧げたい。
いつまでもこの歌を友としてくれ。」というと、アコ−スティク・ギタ−を使い、彼は1人で『明日なき暴走』を歌う。 |
資料V 「その名は、ブルース・スプリングスティーン」
1984年、ブルースは、アルバム『BORN
IN THE U.S.A』でロック界を席巻した。「ボス」の愛称で親しまれ「彼と出会ったことが人生で最も大切な出来事だ」というアメリカの10代のファンは多い。(『ブルース・スプリングスティーン』ピーター・ガンバッチーニ著) この頃ブルースが初来日した。こんな話がある。国際理解教育に力を入れた東京のある高校で、アメリカの先生を招き、その先生の英語の授業を特設した。4ヒントで人物・場所などを当てる「Who am I ?」生徒に人気のあるゲームだが、この日はブルース・スプリングスティーンを全員答えられなかった。「アメリカの高校生ならみんな知っているのに…」と言いたげな先生、という話は愉快だ。
アメリカは、レーガン大統領が就任していた。まだソ連を悪魔の帝国呼ばわりする敵対姿勢をとり、中米の内戦を後押しする、というような時代だ。
1985年にブルースは、エドウィン・スターの作品『戦争』をカバーしている。
「60年代に青春を過ごした人たちは、テレビで戦争を見た。友人も参加したんだ。
俺は若い人にこの歌を捧げる。10代の君たちだ。俺が17歳や18歳だった頃には、いろいろなことを考える機会さえなかった。そして次の主役は君らの世代だ。多くの知識を得て、自分の道を選択してほしい。
1985年の今、国の指導者たちを過信していると、本当に命を落とすぞ。これを聴いてくれ」という、彼の言葉とこの曲の迫力ある演奏は、21世紀の今も実に説得力があると思うのだが。 |