(第192号 2016年12月24日 より


 

「私たちは、共に暮らす家族です」

       坂上神父 2014年12月

    高崎、富岡、藤岡、新町教会

西ブロック担当司祭  坂上 彰             

主のご降誕、おめでとうございます。

先月終了した「いつくしみの特別聖年」の期間に教皇様が書かれた『回勅 ラウダート・シー』は、今まさに私たちが祝っている、この待降節〜降誕祭に読まれる聖書箇所についての、豊かな示唆が述べられていように思います。そこで、愛する我がひとり子を私たちの元に遣わした御父の想い。遣わされた御子に託された使命。そして私たちに呼び掛けておられる、おん父からのメッセ―ジ。これらを、ご一緒に考えてみたいと思います。

“ともに暮らす家を大切に”という副題が付いているこの回勅で、教皇は「すべての被造物はつながっているのですから、愛と敬意をもってそれぞれを大切に受け止めなければなりませんし、わたしたちは皆互いを必要としている被造物なのです」(42)と問い掛けています。これに対する応えとして、今月22日の福音で読まれたように、「身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし」と、マリアは声高らかに宣言しました。

また教皇は、「『強力な利害関係に押されがちな議論においては、とくに貧しい人、弱い人、傷つきやすい人の必要』にもっと関心を払うべきです。わたしたちは一つの家族であるという自覚を深める必要があります」(52)とも説きます。この応えも、7日のミサの中で、山上でおこなった「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という、イエス様の使命に表れています。

 マリアは、神が自分を通して行われた業を“慈しみ”と捉え、「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった・・・身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たす」と、讃えます。実はこのような神のなさり方こそ、自分たちだけが神から選ばれた民であり、自分たちこそが神によって救われる唯一の民族なんだと信じて疑わなかったイスラエルの民の選民思想に対して突きつけた明確な否定でした。神は、すべての人・とりわけ当時の社会の中にあって弱くされている人・古い慣習のために虐げられ後ろ指を指されてひっそりと息を殺して生きることを余儀なくされている人々に対して、「あなたのことは片時たりとも忘れたことはないよ」という、神の呼び掛けに他なりません。

やがてイエス様の誕生を告げ知らされたのは、安息日が守れず、悪霊が棲むと信じられていた荒れ野で放牧生活を送らざるを得ないがために、人々から虐げられていた羊飼いと、ゾロアスター教を信奉する異邦人である占星術の学者たちでした。自分たちこそ救いに預かれると信じていた人々ではなく、そんな人々から排除されていた羊飼いと異邦人が、神の救いの第1歩を、誰よりも先にその目で見ることが出来たのです。

主の降誕を祝う今年は特に、「わたしたちは、いつも、自分自身から出て他者へと向かうことができる存在です。そうしなければ、それぞれの価値をもつ他の被造物を認めることはできず、他者のためになるさまざまなことへの配慮には無関心」(208)になってしまうと、教皇様は指摘します。

神の子であり、すべての人の救い主であるイエス様はなぜ、家畜小屋で生まれたのでしょう。もしかしたら、羊飼いや占星術の学者の別なく、誰もが敷居を気にせずに、気軽に生まれたばかりの我が子に逢えるようにとの、御父の配慮だったのかもしれません。    

私たちは今こそ、国籍・肌の色・言語などの違いを乗り越えて、お互い壁を築くことなく、神の子として「一つの家に共に暮らす家族」であることを再確認すべき時なのかもしれません。イエス様の誕生は、私たちを一つの家族となるよう招ねく“徴”なのではないでしょうか。

 

 

「救い主がお生まれになった」

  (新町、富岡、藤岡、高崎教会)

西ブロック担当司祭  國本 俊一

ベツレヘムという小さな町で起こった出来事、暗闇の中、馬小屋の飼い葉桶に寝かされたイエス・キリストのご降誕を祝うクリスマス、それは一年に一回やってきます。当然のことなのかもしれません。

けれども、2016年という一年を振り返ると、今年は、特別なことを感じる一年であったと、多くの人が感じているのではないでしょうか。国内ではいまでも地震、災害、震災など、外国で連続銃撃テロ、大地震で多くの人々の命を奪った命、この悲しく、辛くなることを通して、「今という時の大切さ」や「感謝」の思いを持ったり、考えることも多かったのだと思います。

しかし、時が経つと、その思いはやがてうすれていきます。あるいは、実際は全く逆のことを思っている自分がいる、自分をじっと見つめると、そのことに、私たちは気づきます。

今日は特に、「光は暗闇の中に輝いている」という言葉から、御言の世界に入っていきたいと思います。

 「世は闇だ」とは、よく言われる言葉です。イエス様も、はっきりと「世は闇である」とおっしゃっています。その闇の中に救いをもたらすために、命をもたらすために、わたしは来たのだ、と。そして、その闇を作り出しているのは私たちひとりひとりの心なのです。世の闇が私たちの心に入るというよりは、私たちの心の闇が世の闇を作り出していると言った方が正確だと思います。そして、そのことを自覚している、していないにかかわらず、私たちの誰もが「世は闇だ」と思っている。思っているからこそ、思わないようにしている。闇を見ないようにしている、闇などないかのように振舞っている。そういう面があるだろうと思います。そして、そうであるから闇の中に輝く、あるいは闇の中にしか輝かない光も見ていない。見えない。そういう面もある、と私は思います。

 闇を見つめるために、どこかに行く必要はないでしょう。戦場や無法地帯や貧困地帯に行く必要はありません。私たちは毎日のように、幼児虐待の悲惨なニュースを聞かされながら生きています。

ところで、神さまが最初にお造りになったものは何でしょうか?

「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(45節)。

「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(9節)。

 ここに描かれている光も、人の心を照らす光です。人の悲しみや苦しみ、絶望という真っ暗な人の心を照らす希望の光です。

 この光と命を持った言が人間になりました。簡単に言えば、神さまが人となって、私たちの世界に来てくださったのです。

神さまが、天の上におられたままならば、何を言っても、何をしても、私たちの心には届かなかったかも知れません。けれども、神さまが人となられたからこそ、人となって私たちと同じ苦しみ、悲しみ、絶望を味わわれたからこそ、私たちは神さまに心を開き、心を通わせ、癒されることができる。救われることができる。そのようにしてイエス・キリストは、私たちの苦しみ、悲しみを背負い、私たちを照らす光となってくださったのだ。そう思いました。

キリストという救いの光は、暗闇の中でこそ光り輝きます。人生に、苦しみや悲しみはないに越したことはありません。けれども、苦しみ悲しみのない人生はないでしょう。けれども、その暗闇に射す光があることを信じて、私たちは自分の人生を歩いて行くことができるのではないでしょうか。


 

あゆみ191号



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