(第193号 2017年4月16日 より


主イエスの御声によって復活する

 

西ブロック(高崎、富岡、藤岡、新町教会)

            担当司祭 國本 俊一

 

皆さんご復活おめでとうございます。

皆さんはこの言葉を聞いたことがありますか?

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」 (テサロニケの信徒への手紙I 51618)この言葉はパウロが復活したイエス様と出会った中から生まれた言葉と言われています。

皆さんはこの聖句を読んで、どんなことを感じるでしょうか。「いつも喜んでいる?」―いやなこともいっぱいあるのに、いつも喜んでばかりはいられないよ。 「絶えず祈る?」―そんな気持ちにはなれないな。「全てのことに感謝?」―腹がたつこともたくさんあるのに、そんなの無理! このように考える人が多いのではないでしょうか。しかし聖書をよく読んでみると、このような勧めが向けられている相手はほとんど例外なく、辛く苦しい状況に置かれていた人々だということが分かります。あるいはパウロのように勧めをしている当の本人が、非常に苦しく困難な状況の中で、時には牢獄の中からでさえ、いろいろな場所にいる信徒たちに励ましの手紙を書いたことが知られています。どうしてそんなことが可能なのでしょうか。

テサロニケというのは現在のギリシア共和国、かつてはアレクサンダー大王が君臨したマケドニア王国にある大都市でした。パウロがエーゲ海を渡ってマケドニアに福音を伝えたということは、キリスト教がはじめてヨーロッパへ伝えられたという点で歴史的な出来事でした。

パウロの伝道活動を通して、テサロニケの町にもキリスト教徒の群れが生まれたとはいえ、そこはギリシア文化の影響が色濃く残っていた土地であり、偶像礼拝も盛んな異教の世界でした。キリスト教徒たちに対する誤解や中傷や迫害も絶えず、少数派である彼らは常に不安と困難の中に置かれていました。そのようなテサロニケの信徒たちに対して復活したイエス様と出会ったパウロは、「いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する」ように勧めているのです。

 パウロの言う喜びや感謝とはどういうものなのでしょうか。単なる気休めなのでしょうか。決してそうではありません。それはこの世的な価値に縛られるのではなく、「復活したイエス・キリスト様にあって」喜び、感謝するという意味です。それは人が生かされている喜びであり、いろいろな弱さや欠点を持ったままで、復活したイエス様のとりなしによって、まるごと神に受け入れられていることへの感謝なのです。私たちがどのような状況に置かれていても、神さまはいつも私たちに目をとめていて下さる、決して見捨てることはなさらない、という復活信仰から来る希望であり、慰めなのです。その復活したイエス様、神の愛に気づく時に、私たちの生活が喜びと、感謝に変えられる、そしてそれを支えるのが祈りなのです。祈りは復活したイエスさまとの対話です。イエス様と対話することによって、この世的な価値に縛られる現実に生きている私たちだけに、徹頭徹尾苦しみや悩みの中にある人々の傍にそっと寄り添い、他者の喜びや悲しみに心を寄せて生きられた復活したイエス・キリスト様にならって、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」ことの出来る人になるよう努力したいものです。

 

 

 

 

 

これからの福音宣教

西ブロック(新町・富岡・藤岡・高崎教会)
協力助祭 根津 正幸

 

 忘れ得ない話があります。そのなかの一つが、20045月に高崎教会で松浦悟郎司教からお聞きした話です。

路上でわたしは小さな少女に会いました。その子は薄い服を着て寒さに震えていました。おいしい食事ができたらという小さな望みをもって…。わたしは腹を立てて神さまに言いました。『あなたはなぜ、これをお許しになったのですか。なぜ、このことに対してあなたはなんとかしてやろうとはなさならないのですか』。しばらくのあいだ、神は何もおっしゃいませんでした。けれど、その夜、突然、おっしゃいました。『その子を助けるために、わたしはあなたを創った』と」

 もし、私たちが、貧しくされている人や人間の尊厳を踏みにじられている人を見て、心が揺さぶられ、何かをしなくてはと思い、行動に移すならば、それは私たちより先にそう感じている神のみ心(神の呼びかけ)に応えたことになるはずです。

 このように神の呼びかけに応えて生きている人たちが私たちのまわりにいます。その人たちを見て、なぜ、この人たちはこのように暮らすのか、何がこうさせるのだろうかと関心を持ちます。

 昨年5月、教区部落差別人権委員会主催の「出会いと対話のつどい」が小山教会でありました。ゲストに民生委員をしている丸山三枝子さんという方をお招きしました。丸山さんは次のような体験を語りました。「子どもがゲームに熱中して、『死ね』と言うことがあります。私はその言葉が嫌いです。そんなとき、子どもに次の言葉を伝えます。『言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから』」。

これはマザー・テレサの言葉です。「思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。……」。丸山さんはキリスト者ではありませんが、暮らしのなかでマザー・テレサの言葉を大切にして生きていました。

丸山さんは若いころ、「自分は生きていていいのだろうか」と自問自答し続けた体験を話しました。そのとき聖書を読んだことがあったそうです。こうした体験を踏まえて、一人ひとりが大切にされる社会の実現のために働いています。丸山さんは自分が信じていることを、自分の言葉で、周りの人たちに伝えていました。そのことが印象的でした。あかしとは、こういうことではないでしょうか。

 さて、岡田武夫大司教は今年130日、「さいたま教区宣教・福音化の開始」と題するメッセージを出しました。そのなかで、「すべての信徒は福音宣教するように招かれています。それぞれの立場、それぞれの召命に応じて宣教すべきです」と呼びかけています。

福音とは、イエス・キリストによる救いが完成される神の国の到来を告げる“よい知らせ”です。救いは神による恵の業を指し、何よりもまず罪と悪から人間を解放するものです。神の国についてイエスは、「神の国は、目に見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』といえるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:21-22)と言っています。神の国は、私たちのかかわりのなかに実現していくのです。

フランシスコ教皇は「真の福音宣教者とは、イエスがともに歩み、ともに語らい、ともに呼吸し、ともに働いてくださることを知る者です」と述べています。宣教活動の中心にイエスの現存を見いだすことができなければ、私たちの熱意はすぐに喪失してしまうからです。祈りと親しい交わりを大切にし、それぞれの立場と召命に応じて、福音宣教に励んでいきたいと思います。

   


 

あゆみ192号



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