チャペル通信
CHAPEL NEWSLETTER

群馬キリストチャペル発行 第6号



あなたがたが年をとっても、
  わたしは同じようにする。
あなたがたがしらがになっても、
  わたしは背負う。
わたしはそうしてきたのだ。
  なお、わたしは運ぼう。
わたしは背負って、救い出そう。
           −聖書−

目 次


ショートメッセージ

神との結びつき


小杉正雄

 「彼女が六才の時に、母親は他の男性の元に走り、家を出た。彼女は母を恋しがって、ベッドの中で泣き続けたという。」
 彼女とはダイアナさんのことです。
彼女が「パリで死す」とのニュースを見たときに「かわいそうに」と感じました。
 装飾品やドレスなど十分な物は持っていましたが、決して幸せな人生とは言えなかったと思います。
 いつもどこかに寂しさがありました。
 幼児の時には、母親と別れるという体験。結婚してからは、夫と心が通じ合わないという悲しみ。いずれも心結びつきたい人と、結びつくことができませんでした。
 私たちはどんなに物を持っていたとしても、心結びあうものがなければ、満足することができません。
 ダイアナさんの寂しさの原因は、結びつくことができないことでした。
 日々の歩みの中で、私たちも同じような経験をするのではないでしょうか。人の持つ問題の九〇パーセントは人間関係といわれます。そして、問題の原因の多くは、心と心が結ばれないということにあります。
 聖書はもっとも大切で、ゆるぐことのない結びつきを教えています。それは、神と出会うことにより持つことができる、神との結びつきです。これにより、人は神からくる確かな平安、喜び、希望を得ることができるようになります。



主は我が巌

水野寿々子(高崎市在住)


 私は一つのことを主に願った。
 私はそれを求めている。
 私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。
 主の麗しさを仰ぎ見、
 その宮で、思いにふける、そのために。

       (詩篇二七篇四節)
 生い立ち

 私は明治四〇年に、林安之助、タカの次女として名古屋に生まれました。尋常小学校三年の時に第一次世界大戦を経験し、名古屋市立第二高等女学校を卒業したのは大正一三年のことでした。当時はまだ女に学問は必要ないと言った風潮がありましたし、兄弟が五人おりましたが、両親共に教育熱心な家系で、女学校まで出してくれたことには深く感謝しています。
 昭和五年、まんじゅう屋を営んでいた水野善市のもとに嫁ぎました。主人はまんじゅう職人としての腕は良かったのですが、商才に関しては、たけているとはいえず、結婚後は娘時代の生活とは一転して、経済的に厳しい生活が始まりました。そんな中、子どもたちも 次々授かり、生活はますます苦しくなっていきました。やがて第二次世界大戦が始まり、そのあおりを受けて、主人はとうとう商売をたたまなければならなくなりました。
 翌年電力会社に就職したものの、戦局の悪化に伴い家族は岐阜の笠原に疎開し、その地で終戦を迎えました。
 戦後中部電力の社宅に入居し、新しい時代の新しい生活が始まりました。末の祥子が生まれ、七人家族となりました。

 聖書との出会い

 わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
             (ヨハネ一四章六節)

 私の人生を変えたのは、一枚のトラクトでした。主人が中部電力にお世話になり、生活も少しずつ落ち着いてまいりましたが、私の心の中はいつも何か満たされない思いがうずまいていました。手渡されたトラクトを頼りに、天幕伝道に出かけました。そこで語られた聖書の言葉は簡潔で力強く、一言一言が私の心にしみわたり、聖書に書かれてあることがまさしく真理だということがその時はっきりと分かりました。私は、イエス・キリストが私の救い主であることを信じ、洗礼を受けました。昭和二八年一一月一五日のことでした。
 救いを受け、罪から解放された喜びを、周りの方々ともお分かちしたく、家庭集会を始めました。同じ社宅の中から数名の方が、信仰に導かれていきました。また、昭和三三年には長男が、三九年には次女と三女が受洗の恵みにあずかりました。子どもたちには毎晩寝る前に聖書の話をするのが日課となっており、話の先をせがむ子どもたちと過ごすひとときは大変楽しくまた貴重な時間でした。

 主の導きのままに

 主よ。あなたは、みことばのとおりに、
あなたのしもべに良くしてくださいました。

         (詩篇一一九篇六五節)

 昭和六二年の冬、主人が天に召されました。七九歳でした。主人は、私が信仰を持ったことに反対をし、集会に行かないよう強く言ったことも度々ありました。けれども、慈愛に富んだ神様は、そのような主人を心に留め、主人の心を変えてくださいました。周りの多くの兄弟姉妹の熱い取りなしの祈りもあり、主人は信仰を持って天に凱旋することができました。悲しみの中にあって、それは大きな慰めになりました。
 その後、私は住み慣れた名古屋を離れて、群馬に住む三女の祥子のもとに行くことになりました。祥子は、真摯な信仰を持つ天野さんと明るくぬくもりのある家庭を築いており、孫三人も共に温かく私を迎え入れてくれました。その時からこちらの群馬キリストチャペルの皆さんとの交わりも始まり、現在に至っています。
 近年の大きな喜びといえば、次男が洗礼を受けたことです。子どもたちの中でも人一倍心を砕き、それだけにいとおしさもあるこの息子のために、どれだけ涙を流して主に祈ったことでしょう。神様の愛と慰めを思って、ただ感謝しております。
 思えば、自分が救われたこと、群馬の地にまで導かれ、このような平安な毎日が与えられていること、どれも自分から出たものではありません。いつのまにかに主が導いてくださり、気がついたらこのようになっていたという感があります。
 つい先日、子どもたちが全員集まる機会がありました。食事をし、温泉に浸かり、菊を見て、散策し…。このような楽しいひとときが与えられたことにも、主様に感謝をささげ、主様をほめたたえたいと思います。この後天に帰るその日まで、神様に支えられ、家族や兄弟姉妹に支えられつつ、小さき者の歩みを続けていきたいと願っております。
(聞き書き・文責編集部)


 母の横顔

天野祥子

 それは朝ごとに新しい。
  あなたの真実は力強い。

      (哀歌三章二三節)

 朝早くから祈っている後ろ姿、昼は賛美の声、夜は、また聖書を持って祈っている…、そんな母の姿が今でも鮮明に思い出されます。
 母は、自分の兄弟や甥や姪、近所の人々に熱心に伝道していました。
 母が信仰を持ったのは、私が五歳の時でしたが、幼い私の目から見ても、母はとっても生き生きと輝いて見えました。
 子どもに対して強く叱ったりすることのない(姉も私も叱られた記憶がない)、優しいと言うより甘い母でしたが、こと信仰に関しては強いものを持っているような気がします。
 父は、母の信仰に反対していました。そのため、何かにつけて、母が集会に行けないようにしたり、時には怒鳴ったりと、家庭内が険悪な雰囲気になったことも度々ありました。
 そういう父の反対を押し切って、毎週礼拝を守ることは大変なことだったと思いますが、その時に必要な知恵と力が与えられ、礼拝だけは守ってきました。
 そんな母も、今はもう九〇歳を過ぎましたが、今でも日曜日、礼拝を守ることは絶対で、厳守しています。つい先日も、こんなことがありました。
 日曜日の朝、母が「頭が痛い」と言いますので、「じゃあ、今日は休む?」と聞きますと、「とんでもない。礼拝に出席すれば頭の痛いのなんか、直ってしまう」と言って休もうとはしませんでした。
 また、ある土曜日の夕方、急に「耳が痛い」と言い出しました。当番医に当たってみたのですが、耳鼻科の当番医は明日しかないということでした。やむなく母に我慢してもらい、日曜日の朝、前橋の当番医に連れていき、治療していただいたのですが、その日は結局、礼拝には出席できませんでした。
 後から、自分が礼拝を休んでお医者様に見てもらったことが分かると、「ああ、残念だった。礼拝に出席できなかった」と、涙を流して悔やんでいたものでした。
 そんな母の姿を目の当たりにして、私は、すっかり母に悪いことをしてしまったような気がして申し訳なく思ったのと同時に、改めて母の信仰の姿勢に教えられたような気がしました。
 苦労を重ねてきた母も、今では各地に、子どもが五人、孫が一〇人、そして曾孫が九人になりました。信仰の先輩である母から、まだまだ学ぶことは多くあると感じています。