チャペル通信
CHAPEL NEWSLETTER

群馬キリストチャペル発行 第8号



光はやみの中に輝いている。
やみはこれに打ち勝たなかった。
 −聖書 ヨハネの福音書1章5節−

目 次


ショートメッセージ

闇は光に勝たなかった


小杉正雄

 毒入りカレー事件が社会に衝撃を与えています。誰が、どうしてこんなことをするのでしょうか。
 犯人はまだ捕らえられていませんが、いずれにしても事件の背後に潜む、深い心の闇を感じさせられます。
 この事件に限らず、最近は人の心の闇を感じさせる事件が増えています。
 闇には力があり、人を悪に誘い、苦しみや、悲しみを生み出します。
 聖書によるならば、闇とはすべての悪、ごまかし、うそということができます。
 怖いことはこの闇の心に、私たちも悩むことがあるということです。
闇に勝つものは何でしょうか。それは光です。
光とはすべてのものを照らし、正しいことが何であるのか教え、希望を与えるものです。私たちが光を持つことが出来るとしたら、なんと幸いでしょうか。
聖書は私たちに光を教えています。
 イエス・キリストはご自身のことを「わたしは世の光です。」と言われました。
 キリストを信じたとき、私たちは心のうちに光を持つことができ、光のうちを歩むことができるようになります。



忘れないで いつもイエス様は

清水清美(高崎市在住・小児科医)


 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。
 「「主の御告げ。「「
 それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
(エレミヤ書29章11節)

生の中で、転機と呼ばれる出来事があります。その出来事には受験や就職、結婚のように自分で考え、選択していくもの、決断しなくてはいけないものも多いでしょう。けれども日々の生活の中で起きる出来事の中には、病気や事故をはじめ、思いもよらなかった事、自分の力ではどうすることもできない事もたくさんあるのではないでしょうか。
 私が神様の存在を信じるようになったのはそんな、自分ではどうすることもできないような出来事がきっかけでした。

が中学生の時のことです。最近のTVや新聞では、中学生のいじめや自殺、また中学生の子供達が「キレる」という問題を目にすることが多いですが、私が中学生の頃は違う意味で学校が荒れ、問題になっていました。校内暴力や非行あるいはつっぱりグループといった形で、子供達がいろいろな事件を起こしていたのです。私はどちらかといえば、親にも先生にも逆らったことのない、いわゆる優等生といわれるタイプの子供でした。ですから中学での校内暴力や不良グループの存在は知っていても、自分とは全く関わりのない世界で関係ないと思っていました。
 ところが父の仕事の都合で引越しをすることになり新しい中学校へ転校することになったのです。そして転校先で何も知らずに最初に親しくなったクラスメートが非行グループの一員だったことから、次々に事件に一緒に巻き込まれ、さらには転校生ということで上級生に呼び出され恐喝されるという事件が起こったのです。
 両親に相談することはできませんでした。担任の先生にも言えず、悩んだ末に相談した友人達は皆、「怖いから関わりたくない」「自分まで巻き込まれたらイヤだ」と、助けになってはくれませんでした。誰にも話せない、かといって自分の力ではどうすることもできない状況でした。

んなとき、ふとあの人に相談してみようかと切羽詰まった中で思い出したのがキリストチャペルの先生でした。その当時、ほんの二、三回、コンサートや講演会の案内を見てチャペルに行ったことがあったのです。中学生でしたから、特に信仰心があったわけでもなくキリスト教に関心があったわけでもなかったのですが、チャペルでお会いした先生の包み込むような優しい笑顔や、日曜学校に通うほかの子供達のいろいろな相談事を聞いて下さった姿が心に残っていたのです。
 そして次の日、数回、中に入ったことがあるだけだったチャペルを一人で訪ねたのです。半分泣きながら今の自分の身に起こったことを話しました。誰かに助けてほしくて必死だったのです。チャペルの先生は何時間も一緒に話を聞いて下さり、親にも担任にも話せない、友人も助けてくれない、と泣く私に聖書を開き神様の話をして下さったのです。神様が私の人生にご計画を持っていて下さること、一つ一つの出来事には神様の用意された意味のあること、神様は共に歩んで下さる愛の方であること…。初めて聞く神様の話はどれも新鮮で感動的なものでした。けれどもそのとき私が必要としていたのは、感動的な話ではなく、具体的に今の自分の状況を解決してもらうことでした。(神様の話はもういいから私を助けて!一緒に恐喝の場についてきてくれるとか、不良達を注意してくれるとか…神様がいるっていっても目の前に現れて助けてくれるわけじゃないでしょう?…)そんなことを頭の中で考えながら、でも何も言えずずっと話を聞いていました。
 そして帰る頃には少しずつ心も落ち着き、自分の状況と悩みを分かってくれた人がいる安心感とで自分なりに心強くなりました。次に何かあれば、恐くて黙っているのではなく、親や先生に話して学校に行くのをやめよう…そんな風に決めて次の日学校に行きました。

ころが、私がチャペルで泣いて過ごした一日のうちに、学校の状況が変わっていたのです。朝学校へ行くと、私を恐喝しようとしていた上級生達が私の前に来て謝り始めたのです。一瞬何が起きたのか分からず、奇跡でも起きたのかと驚いたのですが、後で経緯を知りました。ちょうどその前の日に、非行や恐喝のうわさを聞いた主任の先生方が、問題を起こしている上級生達を集め厳しく注意し、迷惑をかけた一般生徒達に謝罪するよう一斉指導があったとのことでした。それは本当にタイミングが良かった、あるいは偶然の出来事だったのかもしれません。私自身もよかった、先生方のおかげで助かった、と思ったのです。
 それでも一応話を聞いてもらってお世話になったからと、チャペルの先生のところに事件が無事解決したことを報告すると、驚きつつも、「皆でずっとあなたのことを祈っていたんですよ。神様が学校の先生を通して、あなたを助けてくれたのですね」と言われました。
 神様が学校の先生を通して助けてくれた、という言葉をすぐに納得して信じられたわけではありませんでしたが、このことがきっかけで、当時中学生だった私はチャペルに通うようになったのです。信仰を持つ持たないということより、私にとっては様々な自分の外側内側の悩みを聞いてくれ、いつも優しく受け入れてくれる大人の存在というものが魅力でした。そしてチャペルでの話を毎週聞くうちに、聖書でいう神様という存在が、何かを拝むとか何か願い事をすると御利益があるといった類のものではなく、自分の人生に意味を与え、共に歩み導いて下さる存在であることが、いくつもの出来事や聖書が語りかける言葉を通して少しずつ分かりました。
 そして大学生の時にイエスキリストの救いについてはっきりした確信を持ち、洗礼を受けたのです。

学では医学を専攻し、卒業後は自分の職業として小児科医の道を選びました。中学の時の出来事は大きな事件でしたが、医学生の時も研修医の時も、また結婚生活、出産子育てにおいても、大小いろいろな困難がありました。そのたびごとにチャペルの方々や聖書の言葉に支えられて歩んできました。
 学生時代にチャペルで覚え、今でも時々口ずさむ大好きな歌があります。落ち込んだとき、小さな事で心悩ますとき、この歌詞が心に浮かぶのです。

忘れないで
 いつもイエス様は
君のことを
 見つめている
だからいつも
 絶やさないで
胸の中の
 ほほえみを

だけどいつか
 激しい嵐が
君のほほえみ
 吹き消すでしょ
だからいつも
 離さないで
胸の中の
 み言葉を

忘れないで
 悲しみの夜は
希望の朝に
 変わることを
だからすぐに
 取り戻して
いつもの君の
 ほほえみを
 (詩・山内修一)


々の生活の中では、本当にいろいろなことが起こります。私は医師として病院で働いていますが、今の医学では治すことのできない病気もたくさんあります。難しい選択を迫られること、どうすることもできないと思えることもやはり起こります。けれどもクリスチャンになり、聖書を通して、自分の人生が大きな御手に支えられ見守られていることを知り、一つ一つの出来事にも神様の用意された意味があることを知った今、これからの日々に不安に揺らぐことのない人生の土台が与えられていることの幸いを感じているのです。
 今、母親として娘のことを思うとき、医師として自分の受け持つ患者さん達のことを思うとき、また、新聞やテレビで報道される、追いつめられ、自ら命を絶つ子供達のことを思うとき、誰にも言えない悩みやつらさをどうか一人で抱えていくことなく、人生を支え導く聖書の言葉にふれてほしいと願わずにはいられません。