チャペル通信
CHAPEL NEWSLETTER

群馬キリストチャペル発行 第12号



イエスは彼に言われた。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
  わたしを通してでなければ、
   だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
−聖書 ヨハネの福音書14章6節−

目 次


ショートメッセージ

道ありき


小杉正雄

 「『綾ちゃん!だめだ。あなたはそのままでは死んでしまう』そして、何を思ったのか、彼は傍らにあった小石を拾いあげると、突然自分の足をゴツンゴツンと続けざまに打った」 これは三浦綾子さんの自叙伝「道ありき」の中の一節です。
 小学校の先生をしていた三浦さんは、戦後の変化の中で生きる意味を見失い虚無的になり、先生を続けていくことができず、学校を辞めました。そのような中で出会ったのが幼なじみの前川正さんでした。クリスチャンになっていた前川さんは、病のため自分の命が長くないことを予感し、三浦さんに千通の手紙を書き、生きるように励まし、神様のことを伝えました。
 三浦さんが変わったきっかけは、自分の体を傷つけてでも生きていてほしいと訴えかける、前川さんの姿を見てからでした。そこに男女の関係を越えた、人格として愛してくれる愛を感じ、さらに、前川さんが信じているキリストの光を感じたからでした。
 道のなかった三浦さんに道が生まれました。それはキリストによりつくられた道であり、三浦綾子さんを変えるものであり、その後の多くの作品の基となるものでした。



私を変えた聖書の言葉

 佐藤栄子(高崎市在住・主婦)


 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。
使徒の働き十七章二八節

 中学一年生の時、祖父が亡くなりました。九四歳でした。年はとっていてもとても威厳があった祖父。それなのにだんだん身体が弱ってくると「死にたくない」と泣きました。
 学校で友達といるときは明るく元気に振る舞っていても、一人になると「人は何のために生まれ、何のために生きていくんだろう。死んだらどうなるのか。今、死が迫ってきたら私はそれに立ち向かい、耐えることができるだろうか。何か大きな力で私を支えてほしい。誰か死の恐怖から私を助け出してほしい」と思っていました。そのころは、病気になるとすぐに死を意識して「神様、私を助けて下さい。お願いします」と心の中で漠然と叫んでいました。
 生きる意味と死の解決をどこに求めればよいのか分からなかったとき、ラジオ福音放送を聞くようになりました。

神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
マタイの福音書六章三三節


すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
マタイの福音書十一章二八節


毎日聞いているうちに覚えた聖書の言葉です。この世界を造られた神様がいて、私たちをいつも守っていて下さる。聖書を読むと、そのことがよく理解できそうだと思うようになりました。
 高校に行ってから、図書館で聖書を探してみましたがありませんでした。
 高二の時、妹が学校でもらってきたトラクトを見て、手紙と小冊子がほしかったので、集会出席以外に○をして出しました。すぐに文通のような形で手紙のやりとりをし、聖書を学ぶようになりましたが、受験を理由にやめてしまいました。
 私が目指した学校にはピアノの試験があって、ピアノに触ったこともない者が一年間でバイエル百番まで覚え、楽典や声楽まで習うことになったのです。必死で頼んでやっと見つけた先生がクリスチャンでした。
 教室に行くなり「ピアノができても、人間的に豊かでなければ、よい保母さんにはなれない」といわれ、礼儀作法はもちろん、体にも心にも必要なことはすべて教え込まれました。上手にできるまで何度でもやらせ、行動も言葉も厳しくチェックされました。

 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。  
ヘブル人への手紙十一章一節


 先生は、結婚して九年目にご主人と死別し、一ヶ月後に生まれた三番目の子どもが重い心臓病だったと、実際に娘さんを私の前に出して、胸にある三六針の傷跡の話をしました。「神様がいてくれるから私は大丈夫。信仰がなかったら今の私はなかった」と聞かされていました。先生のご両親もクリスチャンで、私に会うと、「あなたのために毎日祈っています。主のみこころなら希望の学校へ行けますよ」と言ってくれました。私の家にはピアノがなかったので毎朝授業の前に先生の家のピアノを弾いてから学校へ行っていました。私の受験のために家族で応援してくれました。クリスチャンの人はなんて優しいんだろうと思いました。
教室に行くといつも温かく迎えてくれ、厳しく言われて涙を流すようなことがあっても丁寧に接してくれ、最後は太陽のような笑顔で送ってくれました。
 音楽教室をやめるとき、先生から「もうあなたに教えることはありません。よくついてきてくれました。私のことはいつでも忘れていいけど『目に見えないものを』この言葉を忘れないでほしい。いつも目に見えないものを追い求めて生きていって」と言われました。

 あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。
伝道者の書十二章一節


私が先生以外のクリスチャンの人に会ったのは、高商の文化祭の時です。その時、「この人たちは、同じ高校生なのに私にはないもの、本当の喜び、本当の希望を持っている」と思いました。
 そこで宣教師のベッコンさん夫妻の話を聞き、「受験が終わったらベッコンさんの家に行って話を聞きます」と約束して帰ってきたので、上毛新聞でベッコンさんの召天式のことを知ったときはびっくりしました。その時、三月になったら絶対に聖研に行こうと決心しました。ベッコンさんに会わなかったことを私を誘った人に謝ろうと思いました。
 春休みになって、土曜日の聖研に行ったら、タクシーの人が別の教会の前で降ろしました。そこに夫人のベッコンさんはいませんでした。
 電話帳でベッコンさんの家を見つけ何とか聖研に行ったのですが、行きの電車代とタクシー代でお金がなくなってしまいました。帰りの交通費を借りたので、次の日、お金を返すために集会に出ました。知らない人ばかりでしたが、皆とても親切にしてくれ、私の質問にもよく答えてくれました。そこで、春のキャンプに誘われ、学校が始まるまで暇だったので参加することにしました。

 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
ローマ人への手紙六章三三節


 キャンプで一番最初に聞いたのが罪の話でした。小さいときから私が犯してきた罪を全部見ていたかのように「あなたは罪人です。あなたには罪があります」と言われたとき、罪が赦されなかったら死の解決も永遠のいのちも得られない、今死んだら私は地獄だと思いました。ラジオで聞いていたので神の存在も、十字架の意味も説明されたらすぐに分かりました。

 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
ローマ人への手紙十章十節


 聖書の御言葉が与えられすぐに信じました。心の重荷がとれて、暗やみから光の世界に移されたような開放感を覚え、心の底から喜びがあふれてきました。一九七五年三月二六日のことです。

 わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。
あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。
イザヤ書四六章三,四節


 私が母の胎の内にいるときから、神様は天の窓を大きく開け、あふれるばかりの祝福を注いで下さっていたことを覚えます。それは今でも、また、これからも変わることがありません。

 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。
使徒の働き十六章三一節


 私は一九八二年に結婚をして一〇年間に五人の子どもが与えられました。
 最初の妊娠の時、先生から、順調に育っていないから中絶をするように言われました。「産んだとしても普通の子は望めない」
 主人と二人で二つのことを祈りました。与えられた子どもを受け入れることができますように。集会に出席できる体力が赤ちゃんに備えられますように、でした。産まれた子には心臓に小さな穴があいていました。でも三歳までに塞がりました。すべてが守られたのです。
 二人目は、前置胎盤で母胎が危ないと言われながらも普通分娩で生まれました。四歳までは、その子が激しく泣くと、そのままけいれんを起こして失神をする子でした。
 また、三人目は四二〇〇グラムと大きく、出産の時に首が圧迫されて頸椎マヒで左手が全く動きませんでしたが、二ヶ月の通院で治りました。子育て中は病院通いの連続でしたが、神様の守りと集会の兄弟姉妹の祈りと助けによって一つ一つのことが神様のご計画のうちにすべてが益にみちびかれてきました。今年七月に長女が、九月には長男がバプテスマを受けることができました。
 取るに足りない者に信仰が与えられて四半世紀が過ぎようとしていますが、ただただ主の恵み深い配慮に感謝しつつこれからも神様を見上げて歩んでいきたいと思います。

 私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。
テモテへの手紙第一 一章一四、一五節


 一人でも多くの方が聖書の御言葉に心を留めて、目に見えないもの「信仰と希望と愛」に価値をおく、もっとも幸いな人生を見いだしていってほしいと切に願っています。