木村めぐみホームページ
20070822あなたが幸せなら家族も幸せ
結婚して3年目に、ややあきらめかけていた私たち夫婦に、待望の長男が生まれました。そしてその後、6年目にしてやっと、今度はまちにまった長女が生まれました。
まだ幼稚園生だった長男も妹ができ、うれしくて仕方のない様子で、かいがいしく世話を焼いていました。長男は妹の名前を付け、おしめまでも代えるまめまめしさでした。そんな新しい家族を囲んでの様子に、私たちは何事もなく順調だと信じて疑ってもいませんでした。
ところが、娘が生後4カ月を過ぎたころから、頭をコクンとおじぎをするようになりました。心配になり、生後ずっとお世話になっている小児科の先生に相談をしましたが、発達も順調だったので様子を見ることになりました。
しかし、日増しにコクンとする回数が増え、夜泣きも続き、明らかに様子は悪い方へと進みました。そして、その2カ月後に県立小児医療センターで検査を受けると「点頭てんかん」であることが判りました。
1週間後、治療のために入院をしました。
これが私たち家族と娘の病気との出発点でした。
生後6カ月で入院した娘は、1歳半で再度入院、小学校5年、6年生と、服薬調整のために新潟市にある国立西新潟中央病院に入院をし、中学部3年、高等部1年には、東京都立神経病院にて脳梁離断手術、MST手術を受けました。
現在娘は高等部3年生になり、県立高崎高等養護学校に通い青春の真っただ中です。
発作は完全には消失していませんが、命を脅かす危険な発作はなくなり、毎日神経のすり減る思いで娘の安全を祈り、娘の苦しむ様子を見ていた私たち家族にとって、今やっと安らぐ日々を過ごすことができています。
こんな生活ができるようになったのも、≪のぞみの園≫臨床心理科を高崎市立養護学校PTAこすもすの会で見学したのがきっかけです。
そのころ中等部2年生の娘は発作が頻発し、大変危険な状態でした。
そして主治医であった新潟のドクターに服薬調整のための再入院をお願いすると、娘はほとんどの薬を試していて、これ以上の改善は難しいので入院の必要はないと断られました。まさしく、頼みにしていた医者から断られ途方に暮れているときでした。
その後≪のぞみの園≫の見学で出会った吉田先生、斎藤先生そして花岡先生に、大変お世話になるとは思いもしませんでした。見学をしたその日のうちに、心理科と外来の手続きをとりました。
あれからもう5年も経ち、その間娘は2度の手術をしました。心友会でお子さんが脳梁離断手術、MST手術をした親御さんがおり、大変勇気づけられました。
また臨床心理科の吉田先生にはお世話になりっぱなしですが、娘ときちんと対峙することを肝に銘じて学ばせていただきました。障害があるからといって、本人ができることまでも、親や家族、もしくは回りの人間がする必要がないという当たり前のことが分かっていませんでした。発作が頻発する娘をかばうあまりに、娘のできる力を阻害していたことにやっと気づいた愚かな母親でした。
しかし娘がやれることを実践していくには、家族の理解と協力が大切で、なかなか容易なものではありませんでした。あきらめず、繰り返し働きがけていくしかありません。
臨床心理アセスメントを受け、娘の障害程度をきちんと把握し、障害そのものに対する知識がなければ、娘の手を焼く行動はすべて障害のせいにしていたと思います。どれだけ心理外来学習会が役立ち、私自身、家族が救われたことでしょう。そして、それは娘にとっても幸せなことでした。
吉田先生、斎藤先生には、心から感謝しています。
何度も繰り返す入退院、そして2度の手術は、家族の支えと、私たちを取り巻くたくさんの人の力によって乗り切ることができました。
ともすればくじけそうな母親を、励ましてくださった臨床心理科の先生方、そして心友会の皆さん、本当にありがとうございます。
あきらめないでよかったと心から思います。そして人の力は無限だと感じています。
やっと元気に過ごすことができるようになった娘も、来年は社会に出るという現実が待ちかまえています。「障害があっても働きたい」という希望にたいし、社会の中で働ける環境は整っているとは言えません。しかし何より大事なのは、本人の社会に出て働くという気持ち、困難を乗り越えて行くという気持ちが育っていなければなりません。ですから親の責任は重大です。わが家も社会の中で働く意識を育てるために、日常の生活を大切にしています。うまくいくときもあり、うまくいかない時もありです。でも、「決してあきらめない!」の精神でいこうと思っています。
生まれ育った地域の中で、一生懸命に生きていく。
障害があっても働きながら生きていく。
そしてたくさんの人と、関わりながら生きていく。
自分の力を社会のために役立てていく。
人として生きていく。ごく当たり前に生きていく。
これは、障害を持つ子供の親の切実な願いです。
20000526 娘を連れて子どもの権利委員会会議に参加して (群馬子どもの権利委員会世話人 Yさんへの手紙)
今回初めて子どもの権利委員会に、障害を持つ娘を連れて参加しました。一見して障害を持っているようには見えない娘ですが、母親である私は、内心はらはらどきどきしていました。果たして娘がおとなしくしていてくれるかどうか。幸い参加をしている方の中に知り合いの子供劇場の吉田さんや、娘が通っていたサムエル幼稚園の水沼園長さんがいてほっとしました。
今回は4月30日に私たちの住む鬼石町で行われる「よかんべぇこどもまつり」に事務局として関わっている私が、8000人足らずの町で600人の参加のあった去年の第1回のまつりをうけて第2回へと実行委員会が立ち上がっている様子と今回の取り組みを話そうとやってきました。 ところが、いつもなら家族の誰かがうちで面倒を見てくれる娘を連れているので、気持ちは落ち着きません。隣に座った吉田さんに、いろいろと気遣っていただいて何とかしのいでいましたが、じっとしていない娘を抱きながら、どうせなら寝てくれればいいのにと思いつつ1時間半がすぎていました。そのうちに席を立って外を見る娘を見て、もう限界だと思い、順番を早めていただいて話をさせていただくことになりました。
さあ私の番です。 皆さんの前で話し始めると堰を切ったように涙が出て止まりません。話したいことがたくさんあるのに。こどもまつりのことを言わなくっちゃ....。みなさんも驚いたようですが、一番驚いたのは当の本人である私です。 「それぞれの場所でみなさんが活動を作るときに、この子のように障害を持つ子のこともどうぞ視野に入れておいてください。お願いします。」泣きながら色々と喋ったようでした。障害児を持つ母親として一番言いたかったのはこの言葉だったのです。子供の活動を作る側が、子供を選択していたのでは、本当の子供の権利は保障されません。この思いが吹き出ました。
私のこのぶしつけな発言にも関わらず、子供の権利委員会世話人の方々、参加者の方々が優しい応対をしてくださり心から嬉しかったです。そのとき娘にと頂いた手作り人形は大事に飾ってあります。ありがとうございました。 是非また参加をさせてください。娘と一緒に・・・・。