昭和62年2月中旬、私達関係者がまったく予期していなかった事態がK地区を中心に起きつつあった。それは、私達の不勉強さから事前に把握しえなかったのか、天災に等しく、まったく青天の霹靂の範疇として取り扱われる事象なのか、いづれにしても質問題より量的なものが優先されていた現状を打ち砕くかの如く、酪農界にとっての大問題が覆い被さった。勿論、本会においては、62年度より乳成分のアップに対応するため、クーラーステーションを先陣として陣構えをとり、各共販委員会を通じ、組織と現場が一体となって啓蒙指導に当り、着々とその成果があがりつつあった時でもあった。乳生産に当り、消費者に喜ばれ、消費拡大に当たって最もきめての1つである乳質改善、"濃くあって、まろやかな風味"をもつ牛乳生産を大きな課題にしつつ、歩み続けていた。折も折り、工場に送り込まれた牛乳が風味異常のレッテルをはられ、受乳拒否を受け、永い期間信頼の上に築かれていた取引システムに大きく、太い亀裂が走り、その日から、本会関係者、酪農家、県指導機関等多くの人達が苦闘し続けることになったのである。発生地域も日が立つにつれ、広域化の様相を呈し、当該農家は不安と焦燥、そして今後の絶望感など少なからずの混乱が生じ、加えて、連日牛乳の廃棄が続く中で公害問題が懸念される状況が散見されていた。この間、発生要因の究明、発生のメカニズム等十分解明されないまま、5月上旬風味問題は終息した。関係者は問題解決に励んできたが、本件については多々不明瞭な点が残されているにしても、問題究明、解決のためにとられた官民一体の足並みは誠に尊い経験を積むことができたが、この様な大きな犠牲を伴う本件を再び繰り返すことは許されない。したがって、本報告書は再発防止の手引きとしては不充分さは否めないとしても、二度と発生をみないための証として、経過を整理し、喉元過ぎれば熱さを忘れぬための警鐘となることを祈る。