◆掌編小説◆


   夢の中の逃走


 暗闇の中を走っていた。いつから走っているのか分からなかった。どこを走っているのか、どこまで走り続けなければならないのか、それも分からなかった。
 息が切れて苦しい。すぐにでも立ち止まりたかった。しかし何か得体の知れないものが後ろから執拗に迫ってきた。それが何なのか、振り返ってみることができなかった。
 暗くて足元が見えない。道の先も見えなかった。どこへ向かって走っているのか、今、何時で、今日がいつなのかも分からなかった。
 足が空回りして思ったように進まない。足がもつれて転んでしまいそうだった。気ばかり焦り、追いつかれるのではないかと気が気でなかった。冷たい汗が幾筋も額を流れた。いっそ転んで、なるようになれと思っても、次の瞬間、何が起きるか分からない恐ろしさに、身の毛がよだつほどだった。
 足元が見えないのに不思議と道はまっすぐどこまでも続いていた。
 ふと何も見えない暗闇の中で何かに足をとられた。前に倒れこもうとする身体を支えようと足を前に出そうとしても、罠にかかった獲物のように足が動かなかった。倒れる身体を支えようと手を前に出そうとしても両手が縛られたように自由にならなかった。
 頭から前のめりに崩れ落ちる。そう観念して固く目を閉じ、顔を横にそむけて歯を食いしばった。しかし予想した衝撃はなく、ただ深い穴の中にすっぽりくるまれるように落ち込んだようだった。身動きがとれないで、そのまま息を殺して追って来るものを待った。
 やがて遠くから風の吹き過ぎるような音が聞こえてきた。それが段々大きくなって、風の音ではなく大勢の人間が叫んでいる声だということが分かった。声はますます大きくなった。無数の人間が死に物狂いで身体の奥底から発しているような声だった。その声が外でしているのか、それとも自分の身体の中でしているのか分からなかった。自分自身叫んでいたのかもしれない。走っている時より心臓が高鳴り張り裂けそうだった。
 その声は大地を揺るがすような最高潮に達した後、潮が引くように遠のいて行った。あとには深い闇と沈黙があるばかりだった。自分の心臓の鼓動だけが余韻のように響いた。

 どれくらい時間がたっただろう。いつの間にか眠っていたようだった。目がさめると暗闇の奥に一筋の光が射していた。戸の隙間から居間の明かりが漏れているようだった。いつの間にか家に帰って来ていたのだ。深い安堵から大きく息を吐いて目を閉じた。
 頭といわず手足といわず全身が熱っぽく、意識が朦朧としていた。身体の芯で熱のかたまりが沸騰し、頭の中に過去のあらゆる時代の映像や音がこま切れにめまぐるしく入れ替わった。
 白衣を着た人が鋭く光る金属製の器具を握って何かをしていた。耳元で金属の触れ合う音が高く響いた。自分の胸から漏れる息が蒸気のように熱く湿っていた。意識の細い糸がもつれるように絡まった。  隙間の向こうで人の話し声がしたようだった。聞きなれたなつかしい家族の声だった。しかし聞こえるのは途切れ途切れのつぶやきのような声で、何を話しているのか分からなかった。
 やがて話し声が大きくなって、激しく言い争う声がしたと思うと、何かが壊れる音がした。食器やガラスの割れる音のようだった。暗澹たる気持ちで隙間から向こうを覗くと、家族だと思った二人はまったく知らない他人だった。自分がいつの間にか間違った場所に来てしまったことに気が付いた。しかし、ここへ来た道も方法も分からないように、ここから出て行く道も方法も分からなかった。どこへ行くという当てもなかった。

 身体の熱はいつの間にかすっかり下がっていた。まるで冬の大地のように冷たく凍りついたようだった。
 雨が静かに降っているようだった。いつから降っているのか分からなかった。ほんのり白んだ闇の中で、雨は永遠に降り続いているように思われた。夜が明けようとしているのか、それとも日が暮れようとしているのか分からなかった。
 狭いところに押し込められたように身動きできず息苦しかった。湿った土と枯葉のにおいがした。年月が静かに地層のように積み重なっていった。
 何年たったのか、何十年たったのか分からなかった。長い年月が過ぎて、ふと明るい光が頭の上に射したので見上げると、からりと晴れた青空が天まで突き抜けるように広がっていた。



   夏の小さな贅沢


「軽井沢にでも行ってみようか」
 日曜の遅い朝食をとりながら、その日の予定を話し合っていた妻に、圭一は名案が浮かばないまま苦しまぎれにそう言った。言っておいてから自分でも確かに行きたい気持ちが湧いてくるのが不思議だった。
 夏になると何となく軽井沢に行きたくなる。別荘があるわけではない。なじみの宿や行きつけの店もない。ただ旧軽井沢銀座の通りをぶらぶら歩き、店を冷やかしたり、アイスクリームを食べたり、写真館で昔の軽井沢の風景や町並みを写したモノクロ写真を眺めたりする。そしてつるや旅館のところまで行って同じ道を引き返してくる。ときには脇道に入って、テニスコートで紳士淑女がボールを打ち合う音を聞きながら、木立の深い別荘街に入っていく外車を眺めて、自分とはついに縁のなかった世界にほんの少し妬みと諦めを感じる。そんな庶民が背伸びをして普段は入らない洒落たレストランに思い切って入り、ナイフとフォークを使って上品な料理を食べる。ほんのいっとき贅沢な気分を味わう。ただそれだけのことだった。
 妻は以前ショッピングモールで買ってあったサマーセーターにロングスカートを穿いて、それなりのよそ行きの恰好になった。圭一は相変わらずの不調法でボタンダウンのシャツにチノパンという近所のスーパーに出掛けるのと変わらない出立ちで、妻にまた呆れられた。
 国道一八号を西に向かう。安中の市街地を抜けるまでは信号や交差点の多い道で、普段であれば嫌気のさす混雑も旅行となるとそう苦にならない。助手席の妻の話も自ずとはずんだ。
 松井田あたりから信号が少なくなり、山もぐっと近づいて、カーブや坂が多くなる。妻の口数も自ずと少なくなる。横川から碓氷バイパスに入るとすっかり山岳ドライブの趣だ。長い坂を登りどんどん標高が上がる。大きなカーブが右に左に続く。濃い緑の木々に覆われた山の斜面が近づいたかと思うと、ガードレールの先に空が開け、妙義の奇岩が迫って、その向こうにどこかの街並みが白っぽく小さく霞んで見える。センターラインをはみ出さんばかりの勢いで対向車線をトラックが下りてくる。バックミラーにスポーツカーの小さな影が映ると見る間に近づき、登坂車線によけて先にやり過ごす。幸い助手席の妻は居眠りをして連続カーブで車酔いする心配はなさそうだった。
 碓氷峠の最高点を過ぎ県境を越えて下り坂をエンジンブレーキで降りてゆく。眼下にゆったりした高原が広々と開け、奥にはいつも榛名や妙義の脇に控えている姿とは全く違う堂々とした山容の浅間山が悠然と土地の主人のように腰を据えていた。
 道がまっすぐ平らになって、山道の緊張も解け、碓氷バイパスから旧軽井沢に向かう道に曲がると、妻も目を覚ました。
「あら、もう着いたの。早かったわね」
 道沿いにレストランやカフェが並び、すっかり下界とは違う避暑地の気分が満ちている。周りの車も全国各地のナンバーの高級車が目立つ。夏の装いの人々が歩道を闊歩し、テーブルに憩う人、自転車を漕ぐ人、犬を連れた人、老若男女それぞれの流儀で避暑地の時間を楽しんでいる。
 旧軽井沢銀座は都会の喧噪をそのまま持ってきたような賑やかさだ。夏の陽射しは下界と変わらないが、高原の空気は心なしか乾いていて、日陰などひんやりする感じがする。
 堀辰雄の「美しい村」の面影を追うことは時代錯誤と知りながら、ひとたび脇道にそれ、人ごみと喧噪から外れ、深い木立の陰の夏でも湿っているような道を歩くと、苔むした庭、古びた別荘が見え、山の方から清冽な水が流れてくる。室生犀星の住んだ小さな家が深い木立の中にひっそり佇んでいる。
 旧軽井沢銀座がかつての中山道の通りだとすれば、つるや旅館を過ぎて更に奥へ道をたどれば、昔の碓氷峠に至るはずだった。峠の頂上には神社と茶屋と見晴らしの良い場所があるというのをいつか観光ガイドで読んだ記憶がある。
「この道をずっと行くと昔の峠で、見晴らしのいいところがあるらしいんだ。一度行ってみようか」
 車で旧軽井沢銀座を走るのは、道幅が狭く歩行者が気ままに歩いているので危ない。横道にそれると人通りは少なくなるが道は一層狭くなる。テニスコート、教会、しゃれた店が点在する。さらに奥へ進むと、別荘が林の奥にたたずんでいる。木立が深くなり、登り道になってカーブの多い、誰も通らない寂しい道が続く。
「本当にこの道で間違いないの?」
 新緑の時期には遅いが、それでも広葉樹の葉は滴るような鮮やかな緑だ。木漏れ日が漏れるが、斜面の下の方は木々に遮られて見えない。頂上まで上り詰め、空き地に車を置いて、展望台に続く最後の坂を妻を先に歩いて登る。
「わあ」と圭一も思わず歓声を上げた。
「こんなに景色のいい所があったなんて、知らなかったわ」
 関東平野が目の前に開けている。利根川がうねるように果てまで流れている。近くに妙義の奇岩。中ほどに榛名や赤城の山や低い丘陵。その先に野や林や町が霞んでいる。展望台を訪れた人が口々に歓声を上げる。自転車で峠を登ってきた集団も大きな声を出した。
 江戸時代の旅人もこの雄大な景色を堪能しただろう。山の中の道である中山道を京から信州まではるばる辿ってきて、この碓氷峠を登りつめ、眼下に開ける見たこともない広大な平野を眺めた時の気分はいかばかりだったろう。江戸の町まで見えただろうか。
 昔の人が大変な苦労をしてやっと味わったこの貴重な眺めをこんなにたやすく気軽に味わうことができるのだ。お金では買えないこの夏一番の贅沢をした気分だった。



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