topへ戻る


 その1『コピラス』

初期の漫画同人誌は、湿式コピーが主流でした。製図で使っていた
『青焼き』というやつです。たいして金持たない若い連中が作品集の本をつくるのに
1番手っ取り早く安い方法でした。金出せば、ちゃんと写植貼込んで製版して、オフ
セット印刷して製本する事だって出来たのですが。
今はコンビニがそこいらじゅうにあって、いつでもどこでもすぐコピー出来ますが・・
ただ、今でもコピー代高すぎる。

鶯谷のデザイン学校の中に漫画専科という1年の教室があって、小川哲男さんという
漫画家が主任講師であとプロの漫画家、デザインの講師、絵画の基礎を教える先生の
授業があるわけです。その時助手やっていた松林もとえさんがその後数年で似顔絵の
漫画家になっていましたね。何でもそうですが、学ぶというのは学生側の姿勢が大事
で、教師側は体系だった流れを示したりヒントを上手く与えたりするんですよね。 
夏休みの宿題で、ある講師は近くの上野動物園に行って動物100匹描いてこい。
専科は昼間部と夜間部の2部制で、パレットさんや私などは夜間部に通っていまし
た。私は、昼間はもちろん仕事してました。その夜間部に集まった仲間の中には、自
分で描いたまんがを自分の知っている同人誌等に発表してたりするのもいた。仲間ど
うしの情報交換がすごいわけで、何かの縁で知り合った仲間ですので、何かやろうと
いう結論になるのは早い。 
自分の描いたまんがを本にする・・自分のまんが作品を他人に見せたい願望の集団で
すから、作品集作りが始まります。 
作品集のタイトル。 夜間部→夜間→やかん→YAKAN・・はい、YAKANの出来上がり。
 
当時、ちゃんと仕事していた私は仲間の中では金持っていましたので、家庭用湿式コ
ピー機を買い作品集作りが松が谷のアパートで始まるわけです。その湿式コピー機の
名前が「コピラス」
作品集はB5版袋とじ、60ページとして50部刷ると1500枚コピーするわけです。このコ
ピラスはトレッシングペーパーを黄ばんだ薬品を塗られたコピー用紙にのせ光りを当
て薬品の水溶液の中に潜らせ、湿気たコピーがでてくるのです。1枚刷るのに1分以上
時間がかかる安物。以前買ったPCの立ち上がりみたいなもの。光りを当てたあと原稿
のトレペと液に潜らせるコピー用紙は人間の手で分ける、ほとんど手作業の機器。仲
間どんどん集めてアパートの部屋は作業場。


 その2 『YAKAN通信』

まんが作品集が出来上がると、たとえひとりの持ちページが少なくても嬉しいもので
す。また、読者も作者ともうひとまわりのごく限られた人です。で、感想が欲しいの
が描き手としては当然で、感想や思いを連絡し合うものが欲しくなります。作品集が
YAKANで、連絡紙がYAKAN通信。 現代のホームページ、書き込みの掲示板、メール、
オフ会、何か似てますよね。人間の社会的動物としての本質かも。ただ、今はスピー
ドが違いますが。
漫画専科に入学をしたのが53人で1年後卒業したのがたった15人でした。私は卒業し
ませんでした。学費半期分払わなかったのです。卒業近くまで出席しましたが・・。
その当時、卒業証書があっても何の資格もあるわけでなくそれがプロになる近道でも
なんでもないと思ったからです。専門学校は高い入学金や前半期の授業料で十分儲
かっていると思っていました。ただ、学校の学生課の前を通るのだけは嫌でした。各
講師からは何も言われませんでした。 パレットさんはちゃんと卒業ですよ。
卒業生の中に高橋きいちさんという人がいまして、私たちの夜間部の前年に昼間部に
1年通い、同じ様なカリキュラムを昼、夜と2年かけて学んだ人。YAKANの中心人物で
す。1年前の昼間部で学んだグループが楽書館というまんが同人誌の発行を始めてい
ました。
YAKAN通信は現在も発行され続けています。この10年は1年間に1回も発行されない時
もありますが。100号をはるかに超えて、超えすぎて今度発行されるのが何号かわか
りません?  20数年、青春を引きずってるわけですか。

その3 『例会』

堀内さんとこのオフ会に行ったことありませんが、20数年前も何かでつながっている
人が顔合わせをする、YAKANの場合「例会」と呼んでいました。10年位は月1回のペー
スで、ちょっとおおきめの喫茶店に集まりました。
学校に行っている時は、授業が終わると喫茶店への誘いが始まって、女の子がどれだ
け来るかが盛り上がりの決め手。その後、酒飲みに繰り出すのです。酒飲みは堀静雄
さん、友利英之さんや私が中心で、夜の授業が終わっての喫茶店、飲み屋と続くわけ
ですから、帰りは1番近い松が谷の3畳アパートがとにかくのねぐら。余分の布団ある
わけでなく、敷布団を掛けて寝るのなんてのは当たり前でした。ここで新聞紙の布団
代わりにする活用方法を身に付けました。その後の森下では寝袋持ち込んできた奴も
いましたね。
例会場所の一部です。
上野:喫茶店 ブルボン
御徒町:喫茶店 サンキュー
池袋:喫茶店 りりかる
毎月一日、午後6時半。よく続いてました。
誰が来るか分からないのに、待ち続けるわけで、インベーダーゲームなんてのをやっ
ていました。よく来たのが、郡司正樹さん、高橋きいちさん、戸崎裕康さんなど。多
い時は10人を超えることもあり、こりゃもうお祭り。次から次にいろいろの企画が出
され実行されました。若いと何でも実行してしまうのですね。街頭漫画展というのも
ありました。


 その4 『少女まんが家をめざして』

堀内さんが、「私から見ると年上の素敵なおねえさんもいました。気軽にお話出来る
ミノさんがうらやましかったです。」といっていましたが、社会の中の約半数は女性
で、当然まんが家をめざす仲間の中には女性がいました。
当時のYAKAN通信にこんなメールが載っていました。
「たびたび、お送り頂いているYAKAN読むにつけ、ご活躍の程が伺えてたのもしく
思ったりしています。さて、私は・・と申しますとあいも変わらず、まんがに恋して
いる状態でありまして・・・。何とつれなき恋人を持ったものよ・・と少々後悔の気
持ちもなくもなく・・毎日原稿用紙と顔つき合わせて奮闘しております。わずかな才
能すらも自分にはないのではなかろうか・・?と思いつつも暗中模索しながら あが
いている状態なのです。
もっともつと時間があったらと思います。もっと冷静に・・且つ余裕を持って自分自
身を見つめられたらと思うのです。
ただ、私と同じ様に、一つの目的を掲げ、頑張っている仲間がいるのだと思うと本当
に心励まされる思いです。
さぁ、私も頑張らなくちゃ!!
ただ今、30ページの作品に取り組んでいます。私の初めての作品なのですが、いささ
か自己満足的な感じもしないでもない。今はそれでいいのだと自分自身を慰めている
のですが・・・」 (中井めい子) 
「私は いま、32ページの作品にいどんでいます。出来上がったら、集英社へでも
持っていこうかなぁ。なんて考えながらやっています。一日一ページがやっと もう
頭痛がしてきそう。みなさんは卒業してからなにをやって過ごしていますか。作品を
描きはじめた人がいたら手紙下さい。」(内田美枝子)
「なまけものの私は、次回こそ、作品を出したいなぁ、と思っています。」(赤石実
千江)
「いつか聞いたんですけど歩行者天国の時、絵もって歩くと言うようなことチラッ!
と聞きました。私めは、ぜひやりたいと思います。みなさまもぜひやりましょうネ
!」(高木政子)
・・・ 『訪問記』「国津百合&須藤明美 6畳ひと間のショーゲキの対談・・!」
というイラスト入り対談も載っていましたね。

その5 『遠山道伸さん』

‘76年秋、柏駅前にある柏市民サロンで「YAKAN+風のように イラスト・まんがパ
ネル展」があった。風のようにという詩と絵画をやっているグループとYAKANの共催
で使用料の掛からない場所を見つけて来た。YAKANの参加者は松田誠一、ミノ・テ
ツ、遠山道伸、高橋きいち、戸井田隆、須藤明美。
当時柏市に住んでいた遠山道伸さん。この人のことを少し書き込みしたい。
四国・高松の出身で小さい時から漫画に夢中。「小さい時は、書店の店頭にある新し
い漫画はみんな読んでから家に帰ったものです。書店のおばさんもあっけにとられて
いました」そう、鉄人28号や赤桐鈴之助を夢中で読んでいたのであります。
COMが創刊され月刊で出版されだしたころ、四国・高松に漫画同人グループ『創作』
が誕生しました。真田伸二さん(当時、月刊まんがマガジンで活躍中)など中心に20人
余りが集まって肉筆回覧誌を発行続けました。本の厚さは5センチ位になったといい
ます。その仲間の中に16歳になった遠山さんがいました。
「その『創作』時代にグループ展やったんですよ。そしたら四国新聞、毎日新聞が取
材にきまして、新聞に取り上げられたんです」
「みんなは劇画が出てきた頃なので劇画を描いていましたが僕はギャグでひとこまか
ら四こまなどの作品を描いていました」投稿をしだした。読売、サンケイ新聞、モー
ターサイクリストなどに、月2回くらいは載りました。
『創作』は5年くらい続きましたが漫画家をめざして上京するものありなどでバラバ
ラになった。
遠山さんも会社の転勤で柏市に来た。「東京に来てからですねマージャンをおぼえた
のは・・・」
東京に出て来て、よく新宿に遊びにでた。行き先は漫画喫茶『コボタン』、ここでは
小田辰夫さんなどと友人になりました。
当時、プロにはならないの?と聞いてみた。「いまだに迷っている。自信のある時と
ない時が激しくて・・・。四国の田舎にいずれ帰るつもりだし・・・。プロになるの
はタイミングが良くないといけない」などと答えていた。
私は数年後、高松に遊びに行った


 


 その6 『イラストマップ』

堀内さんのホームページ・梅まつりの会場案内マップを見て、昔のイラストマップを
引っ張り出しました。B4版の「編集部への道」・・・森下の4畳半アパートの案内地
図。
森下に引っ越して間もない頃のものです。イラストは当時の仲間、きいちさん。ガリ
ガリとしたペンのタッチで、今でも変わっていませんね、あの画。
今では地下鉄も通り便利になっていますが、当時の最寄り駅は両国でした。地図に
は、建物を中心に20余りのイラストと文がはめ込まれていて、八百屋の角を曲がって
入ったアパートの入口付近までが克明な画になっているのです。
「きいちにこんなゴチャゴチャしたイラストマップは止めろといったんだが、2日間
もスケッチをしてまわったというので、YAKAN通信の表紙に使うことにした」(ミノ
・テツ)「2月28,29日曇り時々雨 しっとりとした日です。ここのところ雨が降って
いなかったので、でも妙に暑いなあー。車が走るとシャーと言う音が聞こえます。そ
してぼくの頭はグワングワンと鳴っています」(きいち)など喫茶店の紹介や信号機
の解説までしてある。
湿式コピーの周辺の色あせたものだが、自分が住んでいたアパートのイラストマッ
プって貴重です。

その7 『アシスタント』
 
漫画家になりたい仲間の中には、雑誌社に持ち込み、投稿などとにかくプロへの足が
かりになりそうなことは自分でやっていました。その中に漫画家のアシスタントとい
う仕事もありました。
「先日、アニメーション(グレートマシンガ―など)やっているといいましたが、四月
いっぱいでやめてしまいました。そして今、横山まさみち先生のアシスタントをやっ
ています。日曜日休みで、朝10時〜夜9時が仕事時間、そして、二日にいっぺん残業
(PM11時〜AM3時ごろ)まであります。連載もの5本ありますから、アシスタントも忙し
い。場所はアパートから歩いて8分くらいのところです」(吉村隆雄)
「ケン・月影先生のアシスタントになりました。資料の山の中で先輩アシスタントと
共にがんばっています」(泉信雄)
「高橋亘先生のワンダープロのアシスタントでやっています」(堀静雄)
「矢口プロめざしてがんばっています」(横塚和由)
アシスタントではあるが、自分の描いた背景や小物が作品の流れをつくる訳で、泉信
雄さんは熱っぽくメールに書きます。
「一つの基本として、デッサンはやはり欠かせないものだと思う。まんがを描く必要
上でたらめな描き方をしてきた事に今一つの反省をしてみた。線ひとつ描くにも、そ
の線がそのコマの人物又は風景にどれだけの効果をもたらしているのか知らなければ
いけないと思う。線一つにより人物が死ぬことも、生きているようにみえ動きのある
ものに見えることもその線にあるからだ。・・・・・」
泉さんはその後チーフアシスタントになり、自分の作品づくりのために自分の時間を
保障してもらっていました。
当時、「セン・泉」ってペンネーム持っていましたが今どうしていますかね。



 その8 『ふれあえる街頭漫画展〜1〜』

堀内さんも以前ちょっと触れた街頭漫画展。あれ2回開催したんです。第1回が’
75.8.3 第2回が’76.5.9。ここにガリ版2色刷りの感想文集があります。場所は上野
松坂屋向かいの歩行者天国路上。パネル画を展示したり、白い画面のパネルに落書き
をしてもらったり・・。ストーリー原画を彩色してパネルに張り込んだり。似顔絵か
くのがいたり、紙芝居までやりました。私はB全のパネル2枚を蝶番で留め、倍のパネ
ルを作り、くり抜いたりしたものに画を描いて、参加型まんがって言ってましたね。
第1回では、
「今、掃除のおっさんが、熱心にパネルを見ています。近くのゴミを掃きこみながら
・・・  小さな子供が『おかぁちゃん』って母親を捜しています、あっ見つかった
ようです。  2、3人の人がパネルの前で問答しています。絵を描いている人のまわ
りに人が群がっています、描いていた人は、びっくりして逃げ出しました。 半分の
人は身内で、でも楽しくっていいなあ」(中野住人 のりゆき)
「とうとう、やってしまったという感じだった。わざわざ、おまわりさんに許可を取
りに行ったりして、今考えると、なんせ第1回なので、大分ドタバタしたところが
あったが、今後は、マンガゲリラとなって歩行者天国を解放してやろうかと思う」
(鶴見寛)
「当日まで、私は人目に耐えられるだろうかと心配でしたが、当日になってみると、
別にどうという事もなく、自分の心臓が強かったということが、わかっただけです。
頭の中で、いろいろ想像する事するよりも、事実はもっとあっけらかんとしていると
思います」(赤石実千江)
「僕にとっては、大きな収穫があった。  マンガのそれよりも人間と人間のふれあ
いに文字どうり『ふれあえる・・』だった、いい体験をしたと思う」(きいち)
・・・少しは伝わりました、街頭漫画展の雰囲気。


 その9『ふれあえる街頭漫画展〜2〜』

第2回では、「この催しのために無料で宣伝してくれた各雑誌に感謝します」として
雑誌名が記載されている。ぴあ、シティロード、GORO、やんろーど、裸心版、落
書館。
その時の挨拶まであります。「街頭漫画展に足をとめて下さったこと、どうもありが
とうございます。私たち漫画好きの仲間は、同人誌などを通じて数少ない仲間だけで
細々と作品発表の場を作り出していますが、本来、漫画は多くの人たちの目にふれて
共感や批判を受けてこそ、その役割を果すものです。第1回に引き続き今回もこの催
しを計画しました。ほんの少しでも楽しんでいただければ、私たちにとってこんな嬉
しいことはありません」(ミノ)
「・・・ちょうど紙芝居をやっていましたネ。黒山のような群集(ちょっと、ほめ過
ぎ?)だったので、『お、貴奴ら、やってるんじゃねえか!!』と胸をときめかせなが
ら、尊敬の念をこめて紙しばいの画面をとらえたわたしでした」(アラン峰山) 
「やっぱり東京だ。日曜日の歩行者天国だから当たり前だけど、なんて沢山の人がぶ
らぶらと歩いたり、走ったり、ねころんだりしながら時を過ごしてゆくんでしょうと
思いながら歩道の上に座って人を見ていました。五月晴れ、初夏を思わす様なまぶし
い光のもとで絵を見たり描いたりするのは、とっても健全。若者らしい」(原悦子)
 「大変失礼なのですが、正直申しましてあれ程、反響があるとは思いませんでし
た。と同時に、マンガを求めている人があんなにもいるのかと思い。それも嬉しく思
いました」(山中敏江) 「久しぶりの上野なので、やっぱり気分よかった。こうい
うEVENTをやっている お人たちの姿みると、『あーご苦労さんです』という気持ち
で申し訳なくなってしまいます」(市川風音) 「とにかく、自分の描いた作品をオ
クメンもなく、大衆(まんがの好き者連中ばかりでないという意味です)の目の前にさ
らせるというのは、すごい!ことなのです」(今関富美子)
・・・・・
堀内さんも参加したし、現在読売新聞に似顔絵漫画を描いている松林モトキさんも来
て似顔絵描いてくれました。そして、数ヶ月前に『月刊やんろーど・4月号』のルポ
ルタージュ記事で知り合った小山さんの登場です。


その10『月刊 やんろーど』

昔、孤独な若者に受けていた雑誌があつた。全国の書店の片隅に置いてあって、何か
したい若者がひそかに読んでいた。私たちYAKANにも取材が来て「まんが新聞」、
「むげんりょこう」と共に紹介記事が載った。
その記事の一部では、
[「『YAKAN』という誌名はもともと、漫画科の“夜間部”からとってつけたもので、
十数人に及ぶ仲間の作品をコピーにとり製本した形で現在まで4号発行している。作
品を出した人は必ず一冊(250円)買うシステムで、コピー代を捻出するようにして
います」 と語るのはミノ・テツさん。 この『YAKAN』はB5判70ページという。こ
の種の雑誌の中では充実している。長大なストーリィものも掲載されていて熱気がプ
ンプン。それに、コピー形式という限定版の紙面が読者に親近感を与えてくれる。 
 「僕たちは他に『YAKAN通信』というタブロイド版(コピー35部、・最新8号のみガ
リ刷り50部)の新聞もだしているんです。これは漫画科を出た後バラバラになってし
まっている仲間たちと連絡をとろうと、近況報告や便りをのせた新聞なんです」と目
を輝かして語るのは高橋きいちさん。こうしたユニークな2人の他に『YAKAN』誌に
は、不思議と女性スタッフも多く、『少女マンガ』が掲載されているというのも同誌
の特長である。 「地味にシコシコやっていくのが、一番の強味だと思います」 そ
う語る彼らの『YAKAN』はもうじき第5号がでる](岩田薫)
連絡先の森下・4畳半アパート住所が載ったものだから、全国から手紙が届き始め
る。雑誌記事が孤独な若者の心のどこかに引っかかった訳で、福岡県、千葉県、横浜
市、静岡県富士市?・・・そうです、Kさんとの出会いはここです。
フリー記者の岩田薫さんはその後も、仲間の個人にスポットをあてて、「少女マンガ
家をめざして」などの特集記事書いてました。後年、岩田さん都下の地方議会の議員
やってます。
マスメディアって結構、簡単につながっていて、NHK番組出演話に発展していくので
す。


その11 『漫画芸術研究』

漫画芸術研究・月例集会「若い漫画家たちと語ろう」参加報告レポートがある。
労働漫画研究会というプロ集団で片寄みつぐさんを中心にしたその当時の労働漫画の
面々と若いまんが同人の数人が顔合わせをした。それ以前に片寄さんと知り合った私
が若い仲間と一緒に新宿の喫茶店『ナポリ』に乗り込んだ。「マンガサロン」岩本さ
ん、「楽書館」水野(弟)さん、「YAKAN」の郡司さん。
「今回のテーマを『若い漫画家たちと語ろう!』ということで、若者たちが今やって
いる同人誌活動などの話しを聞いてもらって、それを大きな輪にしていけたらいいと
いうようなことを語り合った。 印象的だったのは、片寄さんが戦後、兵隊から帰っ
てきて漫画家仲間と連絡を取り合って、私たちが現在やっている街頭漫画展のような
こと(内容的には違いも多いが・・・)をやった話しなどである。 また橋本勝さん
は『劇画はストーリーを通じて人生を描けるが、1枚物はその人生の1コマしか描き
表わせない。だから、劇画以上の1枚ものを・・・』と言っておられた。なるほど、
なるほど・・。 明治生まれのヤマザキサダオさんも出席されていて、戦前の漫画の
話しも。
“まんがっぽ”の代表、青木久利さんも出席されていて、出版界の裏話も。
『松崎』のペンネームを使って作品発表をされている千代原広幸さんの話しは豪快で
す。 山本成嘉さんは劇画はほとんど見ないとか。」
機関紙・漫画芸術研究では『戦争と漫画』、『日本労働漫画の推進者・中山二労を悼
む』、『キューバの漫画を楽しもう』などの特集が続くわけです、その後『若者の漫
画』なんてのもありましたね。
後日、ピカソみたいな絵を描いておられたヤマザキさんの自宅を仲間と訪れ、家庭菜
園で出来た野菜をつまみに酒飲んで、悪酔いしたのを思い出しました。
片寄さんは2000年に発行された『まんが新聞』でも作品を見ましたので、現役です
ね。片寄さんには当時、少し仕事紹介してもらいました。あっちこっち投稿しても採
用するのは編集者なので確実な小遣いに結びつかないのですが、紹介してもらったと
ころは原稿料が入ってくる。掲載してもらった農業共済新聞なんてのまだあるんです
かね、1枚もの、正月漫画特集だと当時でも1万円くれました。(飲み代になりまし
た)


 その12『NHKテレビに出演する』

えっ、あのNHK出演、堀内さん知らなかった? じゃあ、話しましょう。
雑誌に載ったら、その後いろいろと手紙来るんですが、その中にNHKのディレクター
のメールもありました。こちらは嬉しくなって、作品集や連絡紙を送るわけです。 
「スタッフ一同楽しく拝見しました。機会があればテレビの番組でお付き合いしてい
ただくことがあると思います。その節はどうぞよろしく。YAKANのご発展をお祈りし
ます」(NHK日曜家族スタジオ・佐々木)
で、とんとん拍子に出演話になるわけです。日曜日の夕方放映していた『日曜家族ス
タジオ』。
坂本九さんとアン・ルイスさんが司会をする家族バライティで1時間の公開番組。
渋谷のNHKへ、汚い格好の青年3人。私ときいちさんと楽書館の水野さん。係の人が
台本もって、客席の指定の場所に案内してくれる。おいおい、台本に私の名前も書い
てあるのに客席かよ。
番組始まって、司会者の2人が客席に降りてきて、客席でお客とトークするわけで
す。
九さんが私にマイクを向けて、何かやっているのと聞いてきて、漫画描いてますとい
う様なことをアドリブでしゃべる、じゃあ何かできる?、似顔絵描きましょうと、き
いちさんがスケッチブックに2人の似顔絵を描き、それを見て又アドリブでしゃべる
という様なことしました。
後日のYAKAN通信では「6月6日のTV見ました。お3人さんともTVより実物の方がよく見
えます。(アレ?)ほんと! 似顔絵似てましたよ。でもさ、あの番組はちょっとつ
いていけないです、な」(さべ あのま)
「TVの件、あの後水野さんは髪切りひげそりました。ミノはいよいよ自信を深めまし
た」(ミノ・テツ)
私は田舎の両親にテレビ見るように電話したのはもちろんです。司会者とトークして
るときはアップで何度も映りましたから。


 その13 『漫画芸術研究〜2〜』

ヤマザキ・サダオさんのこと
ヤマザキさんにYAKANの作品集や通信を送ると、私の森下・4畳半のアパートにカタカ
ナと漢字混じりで画の入った葉書や手紙がきました。金のない若者たちのためにか、
切手も同封されて。
手元に「ヤマザキ・サダオ シルクスクリーンによる漫画 作品頒布会」のリーフ
レットがある。目黒区洗足の千種画廊がすすめていた。今考えると、当時ヤマザキさ
んの原稿料での収入は多いとは思えない、周りの支えだったのではないかと思う。
リーフレットでは山崎定雄の略歴がある。「1910年 台湾で生まれる。 32年 北沢
楽天の時事漫画研究会で、漫画を学び松下井知夫等を識る。 38年 応召 中支で那
須良輔を識る。 45年 終戦 諷刺漫画研究所を岡朔朗、百合三郎と設立、鈴木善太
郎、谷内六郎、片寄みつぐ協力。 46年 諷刺漫画研究会(のち漫画研究会→日本漫
画家会議)に参加。64年 漫画家会議退会。」
リーフレットでは10人弱の仲間が「バカな1本道を歩むヤマザキさん」について語
る。
「山崎君との交友はもう30数年になる。お互いにまだ投稿家時代、私には一番頼りに
なる心の友だった。当時タクシーの運転をしていた彼の助手台に座り、客を拾いなが
ら夜通し語り合った昔が懐かしい。その頃から今日まで、変わらぬ彼の漫画家として
の姿勢は、現象的な時世に対する非妥協性であろう。漫画界に野心のある若い連中が
集まって、よく漫画論を闘わせた。そんな時黙って聞いていた彼の、『僕はそう思わ
ないね』の最後の一言で、皆シュンとしたものである。後にその仲間たちと、マスコ
ミ用の職業団体を結成したが非妥協的な特異の筆致の彼の原稿は、なかなか商品にな
りにくかった。・・・」(漫画家・松下井知夫)
「山崎君とは昔お互いに一兵卒として中国大陸で知り合った仲である。彼はたしか武
漢戦のあと、補充兵として来たらしい。・・彼は無口で常にニヤニヤ笑っていた。・
・しかし、話し出すとトツトツとして自分の主張をまげなかった。本質はすごく頑固
者だ。・・」(漫画家・那須良輔)
ヤマザキさんの家にまで遊びに行った私には、仙人ってこんな人のことを言うのでは
ないかと思えた。私たち若者が来たことが嬉しかったみたいで、押入れからすごい数
の作品を出してきて見せてくれた。そうとう長時間居て出された酒で悪酔いしてし
まった。
私は、まだ仙人にはなれない。


〔20数年前、まんが仲間の4畳半物語〕 その14『訪問記・戸崎裕康さん』

当時の連絡紙・YAKAN通信には毎号のように仲間を訪ねイラスト・ルポが載ってい
た。戸崎さんは訪問記の9回目だった。連絡紙はガリ版刷りで用紙はポリラミしたお
菓子の包装紙の袋綴じだった。
北区桐ヶ丘に住んでいる戸崎裕康さんを訪ねて、赤羽駅で待ち合わせました。スー
パーダイエーの中にある喫茶店「葉山」にて
戸崎さんは今、どんな生活しているの・・・
――夜中の3時ごろ寝て、昼ごろ起きて、親と顔合せないように食事して、ぶらぶら
している。仕事していないので親と顔合わせたくないんだ。
じゃあ、毎日、漫画描いてるわけ・・・
――熱中するのきらいなので、ダラダラしているの。らくなことが好きで、心配性だ
から、真剣にやるといろいろ考えていやになる。
今年は何か、やっていくの。
――いゃ、先を考えることがいやだ。
千代田(デザイナー学院)に入ったのはどうして・・・
――公務員へ就職するのに失敗して、ぶらぶらしてたら、親が千代田に漫画科がある
と調べてきてくれて、申し訳に行ったまで・・・
千代田で学んだことは・・・
――勉強という面では技術的にそんなに学んだことはなかった。いろいろな人がいた
ことが、卒業してからよかった。
漫画を描くということは・・・
――しゃべるの好きじゃないし、字では書けないし、自分で見る夢は、人に伝えるの
に形にして残していれば、自分のためにも残るしね。
あまりしゃべらない、この人が熱もって話してくれたのは、子供のころのこと・・・
――親戚の家が製本屋で遊びに行くと、風呂敷いっぱいに少年漫画のふろく持って
帰ってきた。鉄人28号などがあるとうれしくてうれしくて・・・
――小さな頃は、みんなと同じですよ。らくがき程度は描きましたけど・・・
描きたい時ってある・・・
――ある場面が描きたいから、ストーリーを作る。早くその場面にならないかと思い
ながら描く。気に入らないと何回も描き直す。他の人の作品みて、感動した時など描
きたいなーと思う。
――女の人を描けないから、漫画家には、なれないと思っていた。それがマーガレッ
トのアタックナンバー1みて感動して、これなら描けると思った。
ところで、お父さんも漫画家だったんでしょ・・・
――漫画描いていたって最近知ったんです。だから影響はないですね。
漫画家になるの?
――・・・ならないでしょう。  (訪問者 ミノときいち)



〔20数年前、まんが仲間の4畳半物語〕 その15『きんきょう』

YAKAN通信には、きんきょう、いろいろ便りの2つの定番コーナーがありました。「い
ろいろ便り」は同人誌仲間の発行したものの紹介やイベント情報を載せました。「き
んきょう」は郵便によるそれぞれの情報、近況でした。(インターネット時代の掲示
板そっくりで、驚いています)
「タバコの吸殻11本そしてその1本はきいちさん、1月30日のミノ・テツさんの部屋。
全員で5名ユニークな数時間、顔がくずれる。どうしよう 町を歩けない。そんな、
気ままな部屋」(樋口二美子)
「先日、友利君から沖縄で元気にガンバッテルと手紙が来ました。こちら現在漫画は
休業中ですが思うところあって油絵を始めようかと思っています。もちろん本職は漫
画ですが油絵から何か得られないか フト思ったもので・・・」(豊田誠)
「お元気ですか?本日岩田さん及びカメラマンの方が見えまして約2時間余りおしゃ
べりをしていかれました。私よりもっともつと必死にマンガと取組んでいらっしゃる
方のほうがよいのではないか・・・と思いつつ、えぃ!こうなったらまな板の鯉とば
かり覚悟を決めて取材に応じたのでありました。私にとってマンガとは?とか、何故
マンガを描くか?とか、いろいろ質問はあったのですが肩いからしてそして、マンガ
とはこうなのだと定義づけて描いている訳ではなかったので、多分マンガを描いてい
る数多くの人達と少なからず似た答えしかなかったと思います」(中井めい子)
「YAKANの皆様、お元気ですか。6号を毎晩繰り返し読んでいます。私も何かやらねば
と思いエレクトーンを始めました。7号発行の時には何かお手伝いできるといいんで
すが」(吉田昭子)
「YAKANの製本いつもご苦労様です」(須藤明美)
「カラーテレビを買ったのです。丸井で。もちろんクレジットです」(後藤敏博)
「我部屋には、いまだにテレビなし・・いいな、いいな!・・テレビは頭を悪くする
と信じているミノ」
休日には、森下の4畳半アパートは貧乏そうな男や女たちが出入りしてました。連絡
の為に電話は引きましたが、テレビはありませんでした。


関エツ子さんのこと。
堀内さんが喫茶店開業して忙しくしていた頃、上福岡には「まんが村」と称してまん
が仲間が移り住んで来ました。当時上福岡に住んでいたのは青山さん、郡司さん、島
田さん、小山さん、ミノ。軽オフセット印刷機を自宅に持っていた「月刊広場」の林
さんもいましたね。市の広報や地域のミニコミ紙もYAKAN通信を紹介してくれていま
した。多分、エツちゃんは広報か何か見て知り合ったと思います。エツちゃん自身も
「アルテミス」という同人誌発行していました。
エツちゃんのグループは女性中心でしたので、ちょっと年上の男たちがいるYAKANは
面白かったんだと思います。例会にはよく来ました。YAKAN通信にも美術展や展覧会
の見て歩きをイラスト入りで書いていました。
「S.エツ子の近況 コミケット20 3月21日」(YAKAN通信63号より 1982.5)
コミックマーケット第20回は前回と同じ晴海の国際貿易センター南館で開かれまし
た。我アルテミスは参加するつもりがどういうわけかできなくなって当日は一般参
加。でも、かしこい会員たちは1人としてあの行列にはならんだりせずにスタッフ顔
して入場しておりました。午後2時間ほどまわって買ったのは、・・・(省略10冊
位の誌名)あと「COMIKET年鑑15〜19」です。アニメフロアにはこわくて近寄れませ
んでした。漫画フロアの方もすごい人込み。まったくどこまで大きくなるのかわかり
ません。8月8日新館2Fだそうです。今度は最新号「あるてみすNo.3」をひっさげ、ア
ルテミスは突攻いたします! 体力に自信のある方はどーぞっ。
エツちゃん今頃どうしているんでしょうね。子育ての真最中かもしれません。イン
ターネットでつながりたいものです。