「青い背広と
黄色いリュックと
ピンクの傘」(2)
さとう ゆきお
十一 ふるさとへ
千春の傷心の日々が続いたが、何とか夏休みに入り、心は幾分落ち着きは見られた。千春はふるさとの桐林へ帰ろうとバスに乗り込むと、バスには康代が乗っていた。
「千春先生、やっと夏休みが来たわね。」
「先生の仕事って結構大変ですね。」
「一年経つと慣れてだいぶ楽になると思うけどね。」
「康代先生は何でも手際いいから、仕事ぶりを見てても気持ちいいですよ。」
千春と康代は他愛ない話をしているうちに
中之原駅に着いた。バスから降りて電車に乗り換えた。急行だったがかなり席はあいていた。二人はボックスの席に向かい合って座る
ことができた。電車が発車して間もなく、康代が話しかけた。
「今頃、涼子さんは掃除でもしている頃かな。あ・そうそう、涼子さんっていえば最近元気がないのよ。千春先生のせいかもよ。それはそうと涼子さんの彼、下田に住んでいて、その彼に知恵遅れの妹がいるのたけど、涼子さんは面倒みがよくて、休み中世話をしてあげるんだって。千春先生、涼子さんをあまり悩ませない方がいいわよ。来春正式に婚約するって言っていたわ・・・。」
「ショックだなあ。俺も悩んじゃうなあ。」
「まあ、若いうちは悩んだ方がいいのよ。もう天川だわ。ここで降りる。今度会うとき、笑顔で会おうね。」
「康代先生もお元気で。」
千春は真江崎駅で乗り換え、桐林駅で降りた。
十二 千春の母の交通事故
千春が家に帰ってから二、三日、和宏や友達の家へ飛び回っていて、家にいなかったが、久しぶり、今日は親子水入らずである。
「千春、先生稼業うまくいってるかい。」
「まあね。子供たちは素直で明るくて、やりがいがあるよ。」
「よかったね。お前が先生に向いているか心配していたんだけど。」
「子供のために一生懸命やれば、それが返ってくるからやりがいがあるよね。」
「千春、夕飯、何にする。」
「そうさな。中辰のポテトフライとポテトサラダが食べてえな。」
「じゃあおまえの大好きなポテトとサラダを買ってきてやるからね。」
「中辰までは遠いからいいよ。」
「自転車に乗れるようになったから、大丈夫だよ。」
「無理しなくていいよ。」
「可愛い倅のためなら何ってことないよ。」
「では行ってくるね。」
母が出かけてから一時間位経って、美奈子が仕事から帰ってきた。
「お母さんはどうしたの。」
「買い物に行ったのだけど。もう帰って来ていいはずなんだけど。」
「そのうち帰ってくるわよ。」
と美奈子が言い終わったとき、けたたましく電話のベルが鳴った。美奈子胸騒ぎがして、急いで受話器を持った。
「はいそうです、えっ・交通事故ですか、・・はい、・・高田病院へ運ばれた、お兄さん、大変よ。お母さんが交通事故だって!!」
美奈子のせっぱ詰まった声に庭にいた千春が跳んできた。
「美奈子、車の鍵、持っているか。」
「持ってるよ。」
「美奈子早く乗れよ。」
二人は急いで美奈子の車に乗り高田病院へ向かった。高田病院に着き、二人は焦る気持ちを抑えて、冷静に振る舞おうとしたがやはり受付に足早で行き、千春は大きな声で・・
「あ・の・う・・山東の家族ですが・・」
「山東マキさんですね。ご案内いたします。
と看護婦は言い、奥の方に部屋に通された。しばらくすると婦長が出てきてた。
「山東さん、二階の医師の控え室へお願いします。」
千春と美奈子がそこに行ってみると手術服を身につけた医師が待っていた。
「マキさんのお子さんですね。」
「はいそうです。」
「今、手術が終わったところですが、全体的に衝撃が強く、出血も多量に出て、足の骨も損傷が激しい状態です。今、意識不明の状態で私ども最善をつくしていますが、良くなるか、悪くなるか分からないところです。この二、三日が山場と思っています。お母さんに対するお子さんの強い心の援助をお願いします。良い方向に向かうことを我々医師団も最善を尽くしたいと思っております。」
「どうもありがとうございました。よろしくお願いいたします。」
「今、お母さんは集中治療室にいます。お母さんの様子が遠くから見られますから婦長さんの後をついて行ってください。」
千春は男らしくてきぱきと答えていたが、
美奈子は終始涙ぐんでいた。二人は婦長について行き集中治療室に入った。すると千春の母は管が体中に通され、目を閉じ熟睡しているような感じであった。美奈子は急に涙ぐみ、叫んだ。
「おかあさん!分かる、美奈子よ、しっかりして!」
美奈子は感極まったがしばらく、沈黙が続いた。婦長に促されて集中治療室を出る。
しばらく、沈黙が続いたが、婦長に促されて集中治療室をでる。その後幾人か親戚の者が駆けつけてきたが午前二時頃になると待合室には千春と美奈子の二人だけになった。
「疲れたろう、家に帰って眠ってこい。」
「そんなことはできないわ。・・・。お母さんよくなるといいね。」
それから幾日かマキの小康状態が続き、千春は夏休み中なのでほとんどつきっきりで、美奈子は会社へ行っても仕事が手に付かないらしく、会社の方でも配慮して、早く帰してもらって病院の方へ来ているようである。
入院して十日目頃病室には千春と美奈子が様子を見ていた。そこへ婦長が入ってくる。
「ずっとがんばってますね。あまり無理をなさらないでください。ここは看護体制がしっかりしてますから・・・・。ちょっと見て、お母さんの体が少し動くようになったでしょう。実はもう何とか命だけは保持できそうなんですよ。どれ程まで回復できるか分からないけど。」
思わず二人は歓声をあげた。
「よかった、よかった!!」
千春は嬉しそうに、
「動いてる、動いてる、ほんの少しだけど・・・・。」
と言い、美奈子も感極まり涙ぐみながら、
「本当によかった。お母さん頑張ったね、お母さん、芯は強いんだねえ。」
と言った。千春も母の様子を見ながら明るい声で言った。
「お母さんにもう少し頑張って貰わなければね。」
二人は喜び合い、特に美奈子の表情は急に明るくなった感じがした。その日から急に母の状態も良くなり、意識も回復してきた。
そうなると、見舞客も訪れるようになっていた。今日は日曜日とあつて、見舞客は多い。千春と美奈子は一人一人丁寧に応対していた。
千春は驚いた。見舞客の中に平川と佳恵が来ていたのだ。真江崎まで用事があったのでついでに寄ったとのことであったが後で聞いた話では佳恵の強い希望でお見舞いに来たということであった。
「お母さんの具合、如何ですか。」
「何とか命は取り留めました。」
「よかったですね。心配されたでしょう。」
「わざわざ遠いところすみません。」
「真江崎まで用があったものですから。」
「大変だったでしょう。でも、千春さんお元気のようで・・安心しました。」
「もうすぐ、二学期ですね・・。」
「もう意識が戻り、後はリハビリで、美奈子が当分休暇を貰えることになったので、月俣の方へ行けそうです。」
「それはよかったですね。」
「それではどうもおじゃましました。おだいじに・・。」
「どうもありがとうございました。」
と三人の会話が続いたが、平川も千春も里子の千春への細かい気遣いをしていることに気づいていた。
十二 教員住宅の火事
千春は母の状態も良くなり、二学期も間近に迫ったので月俣の教員住宅の方へ戻った。久しぶりに部屋の中を掃除していると相原が声をかけてきた。
「千春先生、今日いい酒と肴が入ったので今晩飲みせんか、六時頃待ってますから。」
「じゃあ、遠慮なく伺います。」
千春はしばらく掃除していなかったのでじっくり丁寧に掃除をしてから相原の部屋に行った。
「失礼します。」
「どうぞ、たいしたものないけど。」
「わっすげえ。さしみがある。久しぶりだなあ。こんな豪華なの。」
「貰い物ですがどうぞ。」
しばらく飲んだり食べたりしたあと、
「千春さん、知っている。涼子先生が結婚するのを、」
「えっ、ほんとうですか!!」
「急な話だけど四月十日にするらしいよ。」
「ショックだなあ!!」
「まだ招待状か来てないけれど、千春さんはどうする。」
「行く心境になれませんね。」
「好きだったんでしょう。涼子さんを。」
「あんなにきれいで優しくて魅力的な人あまりいねえもんな。」
「涼子さんも千春さんのことで悩んだらしいよ。相手とは長く付き合っていたという話だよ。」
「いくら悩んでくれても他の人のところに行っては何にもならねえよ。」
「やあ相原さん、今日はとことん飲ましてくださいよ。失恋記念と行きましょう。先生も飲んでください。」
「千春さんがそんなに乱れるなんて、めずらしいね!」
「涼子のばかやろう!」
「何言ってるんだい、佳恵さんがいるでねえか。平川さんが言っていたよ。佳恵さんは陽一君がけがしたとき、やさしくて逞しい千春さんにまいっちゃったんだって・・・・千春さんはあまり意識はなかったようだね。好いてくれる女の子の方がかわいいもんだよ。」
「相原先輩、今日はそんなこと言わないでくださいよ。失恋パーテイなんだから・・先輩うまそうに吸ってますね。私にも煙草ください。・、」
「どうぞ、どうぞ、千春さんはあまり吸ったことないんでしょう、ようし、千春さんの失恋のやけ煙草にカンパイ!」
二人は訳の分からないことを言いながら座布団の上に寝てしまった。どのぐらいたったろうか。千春はちょっと熱さを感じたのでふと目を覚ました。
千春は目を覚まして驚いた。灰皿の下の座布団が燃えていた。今、水をかければ消えるような気がしたが、とにかく相原を起こさなければならないと思い相原の体を揺すり
「相原さん、起きてください。」
と言ったものすぐには起きなかった。千春は相原の頬をたたき、体を引きづるようにして
「相原さん、火事です。」
と言ったら、相原は驚いた様子で目を覚まし、「大変だ。千春さん職員室へ行って、消防車を呼んできて!」
千春は慌てふためいて職員室に跳んでいった。相原は隣の住宅の康江と涼子を起こしに行った。まだ二人は起きていたらしく強く戸を叩くのですぐ出ていった。
「住宅が火事です。早く逃げてください。」
と相原が言うと康代がパジャマ姿で出てきて燃えている状態を見て、
「まだ消えるかもしれない。涼子さん、風呂場のホースをつないで!」
涼子は返事をする間もなくホースを引っ張ってきた。相原と康江と涼子、それに戻ってきた千春が懸命に消火活動をした。そこへ月俣部落の消防団がやってきた。団長の明石さんが言った。
「だいぶ消えてきたな。今度は俺たちが消すから、先生たちは大事ものがあったら出してくれ。あまり時間がないから。」
すると、康代と涼子はテスト類と大事なものが入っている箱を運び、土手下の芝生の上に投げた。千春も自分の部屋に戻り、とっさに玄関に吊してある青い背広と黄色いリュック等を芝生の上に投げた。そのうち、村の消防車がやってきた。真っ暗闇に赤い炎、赤い消防車、白い水だけがくっきり浮んだ。
「先生達、もう大丈夫だよ。後は見てておくれ。」
と言って放水活動を手伝っていた相原達をどかし、消防署員の手際のいい放水活動が始まった。すると、あっという間に火が消え、照明で映しだされた消失部分だけはくっきり黒く浮かんでいた。慌ただしい消火作業が終わり、あたりが急に静かになり相原と千春はことの重大さに気づき始めてきた。康江が顔面蒼白気味で言いにきた。
「相原先生、千春先生、警察の方が宿直室の方へ来てほしいそうです。」
二人は覚悟を決めたかのように、わざと落ち着いているように振る舞いながら宿直室の方へ歩いて行った。宿直室には恰幅のいい消防の幹部職員と、苦虫をかみつぶしたような顔立ちの警察署員が待っていた。何か重々しい雰囲気であったが相原が丁重に
「この度はいろいろお手数等かけまして申し訳ありません。」
「この火災、この住宅の西端から出火ということで、その辺の事情をお聞きしたい。」「実は二人で酒を飲んでいて、二人ともうとうと寝てしまって、気が付いたときにはこんな有様で・・。よく分からないのですが、もしかしたら私が煙草を吸っていたので、そこからひがでたのかもしれません。」
と相原がいい終わらない内に千春が、
「いや、私も吸っていたので、それが灰皿から落ちて、そこから燃えだしたのではないかと思います。」
「どちらがやったということでなく、今は出火の原因の概略を聞いているんです。そうすると、出火もほぼ四畳半の部屋の西側ですから、そうなると話が合うようですね。」
「大変ご迷惑をおかけて申し訳ありませんでした。」
相原が今にも泣き出しそうな声で言ったので、消防署の署員も注意めいたことも言おうと思ったらしいがあまり気の毒に思えたのか
「主な出火原因が判明したので、今日は皆さんはお疲れのことと思いますのでこのくらいにいたしまして、明日中之原警察署の方へ来てもらうと思いますが」
と言った。
「はい分かりました。どうもお手数をかけました。」
と相原は言って深く相原が頭を下げたので、千春も署員の姿が見えなくなるまで頭を下げていた。二人は頭は上げたものの、またうなだれてしまって、黙りこんでいた。少し経って千春が、
「相原さん、すみません。わたしのやけ酒がこんなことになってしまって。」
「そんなことはないよ、普段のだらしのなさがこんなことを起こしてしまって。千春は桐林に帰れれるから良いけど俺はずっとこの辺にいなければならないからな・・」
と相原は力無く言ったので、千春はすかさず
言った。
「私の心の乱れがこういうことが引き起こしてしまったのですから・・・・、あっ誰か来る。」
すると、校長と教頭が慌ただしく入ってきた。教頭は、
「これはどういうことですか。ふだん口酸っぱくなるほど言って置いたでしょう。この住宅は村の財産なんだから、火災は絶対起こさないようにと。」
千春はあまりの教頭の露骨な言葉にむっとして黙り込んでいたが相原は
「すみません。ご迷惑をおかけして」
と言うと校長はすぐさま、
「教頭さん、今日はそんなこと言わなくてもいいですよ。それより今日は遅いから、公民館に泊まってください。話が通っているし、女の先生が先に行って準備をしていますから、公民会の方へ行ってください。明日は片づけとか警察署に出かけくてはならないので、授業の方は私と教頭で出ますから、心配しないでください。」
校長と教頭は何か話合っているようだったので、二人は頭を下げて礼を言い、学校の隣にある公民館の方へ歩いて行った。中に入ると康代と涼子、それに公使の平川と佳恵も来ていて、寝具等の準備をしてくれていた。
「康代先生、涼子先生、本当にご迷惑をおかけして申し訳ありません。平川さん、佳恵さん、ありがとうございます。」
康代は二人に気を使わせてはいけないと思い、
「疲れたでしょう。一号室に布団がしてありますから休んでください。明日の朝食は平川さんが作ってきてくれましたので、この三号室においておきますから、食べに来てください。」
「平川さんどうもありがとうございます。」「佳恵が急いで作ったものですから、味の方は分かりませんが。」
「平川さん、佳恵さんどうもありがとうございます。」
と二人は礼を言い、疲れていたので部屋の方にいった。部屋に入った二人はすぐ布団の中に潜り込んだ。
.
十四火事の後
千春は差し込んでくる日の光に近づき、目が覚めた。目が覚めると、自分の犯した過失の大きさにたじろぎ始めた。しかし、思い直し、やってしまつたことは仕方ない。どんなで裁きで受けるぞと自分自身に言い聞かせると、幾分心が安らぎ、床を抜け出し、住宅の方へ歩いて行った。昨日の暗闇の中の赤い炎とはうって違って、相原の部屋は柱こそ燃え切ってなかったが、部屋中黒こげで、運びきれなかったものはほとんど形をなしていなかった。千春は自分の部屋も覗いてみた。水がかなりかかっているが、部屋のものはほとんど形を残していた。石垣の下に目を移した。青い背広と黄色いリュック等が無造作に置かれていた。千春は思わず飛び降りてしまった。そして、青い背広と黄色いリュック等を拾い上げると、急に足に痛みを感じ歩くことができなかった。少し経ち、そこへ康代と涼子が通りがかった。涼子が
「千春先生、どうしたんですか。大丈夫ですか。」
と声をかけた。千春は、
「そこから飛び降りちゃったんです。」
すかさず康代が
「いくら大事なものだからと言って飛び降りても仕方ないのに。千春先生らしく無鉄砲なことをするんですね。待っててね。今行くからね。」
「大丈夫ですよ。」
千春は照れくさくもあり、痛みも和らいできたので思い切って立ってみた。痛みは多少感じられるが歩くことができた。
「大丈夫、医者に行った方がいいのじゃない。」
と康代は気遣ってくれたが、千春は医者へ行くほどでないと思ったので言った。
「どうも心配かけてすみません。何とか歩けるようなので少し様子を見てみます。」
「よかつた。なに、大事そうに持っているものは、なるほど、これを少しでも早く取ろうとして飛び降りたのね。」
涼子はきょとんとしていたし、千春の心境としては涼子の顔をまともに見られる状態でなかったので、二人の視線は合うことがなかった。二人が行ってしまうと千春は青い背広と黄色いリュック等を持って回り道をし千春の住宅の方へ歩いて行った。千春の部屋の中に入り、水のかかってない壁面を選んで、大事そうにえもんかけに懸けた。とにかくよかった、この火災事件で失ったものが多いが、大切な青い背広と黄色いリュックとピンクの傘が多少汚れているものの無事で良かったという充足感が千春の脳裏に刻み込まれていた。
その日の朝、職員室に千春は相原と一緒に呼ばれ、
「中之原警察署の方へ行くように。」
と二人は校長に言われた。校長も言いたいことがあるようだったが、できるだけ抑えるようにしようという気持ちが二人にも感じ取ることができた。
「気をつけて行って来てください。こちらからは、教育長さんを通して話はしておきました。」
と校長は言ったので二人は礼を言った。
「どうもいろいろすみません。」
二人はバスの停留所の方へ向かった。ここが始発で、この時間帯はほとんど乗客がいないのだが、利春の母がバスの中に座っていた。利春の母は二人の方へ進んできて言った。
「いつも、利春がお世話になります。・・この度は大変だったね。でも、火が広がらなくて民家に移らなくて良かったね。結構なんだかんだ言ってうるさい人もいるからね。」
千春は、
「ほんとにご迷惑をおかけして」
と言いながら相原の隣の座席に座った。バスはキャベツ畑を通り抜けた。すると相原は
「この前は少しへんなことを言ってしまったけれど二人が思ったことを正直に言おう。」と言ったので千春もそれが一番いいと思い、
「そうしましょう。」
と言った。その後、二人は覚悟を決めたかのように外を見てるだけであった。バスは車に合うこともなく川と山との間を走り抜け中ノ原の警察署の前に着いた。二人は案内されて広い部屋に入った。そこには昨日、月俣小であった署員ともう一人署長らしき人であった。
「火災原因は煙草の消し忘れたものが落ちたということなんですが、煙草は二人吸っていたのですよね。」
と署員が言うと思わず千春が
「多分私の煙草と思います。」
と言ったので署員は、
「そういうあいまいなことは言わないでください。この際、どちらの火が火災につながったということは実証は難しいし言及されるべきでないでしょう。二人は酒を飲んだ後煙草を吸って寝てしまったということですね。」
と言ったので、二人は声を落として言った。「はいそうです。」
その後、酒を飲んだ時間、寝た時刻、住所氏名等の確認等行われた。二人とも相当細かいことまで詰問されると思っていたのに意外にも短時間で簡単に行われたので二人ともほっとした。最後に署長に、
「あなた達は教育長が話していたようにこれからの日本の教育を担う人たちです。若い過ちもあるでしょう。これからはこんなことの絶対ないように留意してください。言葉で教えなくてもあなた方のの言動を見てこどもたちが健全に育むようになるよう努めてください。」
と言われたとき、千春はクラスのこの顔が頭に浮かんできて、教育者として自分のやったことの重大さを自覚した。相原と千春は署長と署員に丁寧に礼を言い警察署を後にしようとしたとき、署長があわてて二人を呼び止めるた。
「大事なことを忘れていた。先ほど校長先生から電話があって、村の教育委員会の方によってほしいと連絡がありました。」
相原と千春はもう一度丁寧に挨拶をしてとから警察署を出た。二人はバスの出発時刻にはだいぶ時間があるので、近くにあるドライブインで昼食をとることにした。思いもよらず警察署を早く出ることができたので往きのバスの中の重苦しい雰囲気と違って、ほっとした雰囲気が漂い、椅子に腰掛けるとすぐ話が始まった。
「厳しい取り調べがあると思ったけれど、ちょっとした指導という感じだったね。」
「警察署長と言うよりむしろ、素晴らしい教育観を持つ教育長という感じだったね。」「あのときは参ったね。これからしっかりした気持ちを持って、しっかり教育しなければならないと思ったよ。」
「それはそうと教育委員会で何の用があるのだろう。」
「こちらの方がどちらかというと厳しい話があるのではないかなあ」
「まあ、どんな厳しい話でも覚悟しているよ。」
二人は注文したこの辺の名物の山菜そばをあっという間に食べ、バス停へ向かった。バスは間もなく到着し、バスは出発し、市街地を通り抜ける頃相原はいきなり言った。
「千春さん、涼子さんのこと忘れられる・・・・・。」
千春は少し躊躇したが、
「相原さん、それどこではないでしょ。こんなことになってしまって・・・・・。でも、まだすっきりしないですね。」
と言ったが、相原はそれ以上は何も言わなかった。まもなく、バスは村役場前に着いた。二人はバスを降りて役場の玄関前に行くと、
すでに校長が神妙な顔をして二人を待っていたようである。
「どうもご苦労様。急に教育長から電話があって呼ばれたわけなんだよ。教育長と会う時間はまだ少しあるので、その前に話しておきたいことがあってね。小会議室が借りられたから、そちらの方へ行きましょう。」
小会議室に行くと校長が窓際の方を座り、二人はその前に椅子を持っていき座った。校長は厳粛な言い回しで言った。
「今日午前中教育長から電話があって、教育的配慮から、警察署長とも相談して、明日の新聞には載るらしいが、原因は調査中ということになるらしいです。そのことについては誤解を招くようなことは言わないでいてほしい。法的な措置も情状酌量の措置になるらしいですから、今後このような村の人、地域の人に迷惑をかけることは慎み、子供達の教育のため全力を振り絞って頑張ってほしい。」
そのとき、千春は涙が出るほどうれしさを感じていた。千春はいいことか悪いことか分からないが、曖昧にしてもらった方がこれからの教育が円滑にいく。千春は今後保護者や子供達と立ち向かわなければならないところも出てくると思っていたが、このことがなくなると教育に専念できるので校長の言葉に感極まる声で
「ありがとうございます。」
と言って机の上に泣き伏してしまった。少し経って千春は言った。
「どうも、すみません。心乱してしまって、・・・ほんとにうれしかったものですから・・・」
しばらく沈黙の時間が続いたが、校長は「人間は失敗を踏み台にして大きく成長するものだよ。済んだことにくよくよしても、何にもならないよ。このことは忘れてこどものために頑張ってほしい・・・。あっそうだ。教育長に合う前に、総務課や教育委員会の方に挨拶をしてきましょう。」
と言って席を立ったので二人は校長の後を着いていった。校長は、
「この度は大変お世話になりまして。」
と頭を下げ、二人も校長の後に、何かほかの言葉を言おうと思ったが、
「大変お世話になりました。」
とただ頭を下げるしかできなかった。教育委員会の応接室で待っていると、
「教育長さんが見えました。教育長室にきてほしいそうです。」
と女子職員が言ってきたので、教育長室へいくと教育長は初めての対面であるが、愛想よく切り出してきた。
「昨日はよく眠れたかね。」
「はい。」
と二人は少し緊張した面持ちで言った。少し間をおいて、教育長は幾分厳粛な言い方で言った。
「今回の火災についてですが、教員住宅から火災が発生したことは誠に遺憾に思います。誰でも間違いはあることなのですが、教員は特に子供達や保護者に対して影響あるので、こういうことはできるだけやってほしくないのです。しかし、起きてしまったことは仕方ないとして、これからはこのようなことのないように、日常生活も十分留意して行動するようにしてください。今回のことに対して、教育委員会としてもあなた達の将来、子供達や保護者への教育的配慮によって措置しようと思っているので、本村の子供達のために精一杯頑張ってほしい。」
すると相原は、
「大変ご迷惑をかけて申し訳ありませんでした。これからはこのような過ちはしないようにしたいと思います。どうもご配慮ありがとうございました。」
と言い頭を下げたので、千春も深々と頭を下げた。すると、教育長はまた愛想の良い顔になり、千春に声をかけた。
「山東君、もう教員生活に慣れたかね。」
「はい、だいぶ慣れてきました。」
「君の勤務ぶりは校長からよく聞いてます。今回のことは忘れて、また、引き続き子供達のために一生懸命取り組んでください。」「ありがとうございます。」
二人の会話が終わると校長が立ち上がって
「教育長さん、今日はどうもお手数をかけましてありがとうございました。」
と言って三人は教育委員会を出た。校長は
「私はこのまま家に帰ります。相原さん、山東さんもそのまま片づけ等あると思うので帰ってください。」
と言ったので二人はバスのない時間帯なのでタクシーを呼んで帰ることにした。
千春は住宅へ帰ってみると大変だった。燃えはしてないものの水がかかっていて、このまま住める状態でなかった。取りあえず寝ることのできるように居間だけを整えようと思った。相原の住宅は建て直す程ではないが、かなり修繕をしないと住める状態でないので、取りあえず公民館の一室を借りることになった。千春は相原に手伝いたい気持ちもあったが、自分の所だけも手一杯だったので、相原に一言言って部屋の片づけや掃除を辺りが暗くなるまで夢中でやった。千春は蛍光灯をつけてみた。何とか今日は布団をひいて休めそうである。何となく疲れてお店に買いに行く気もなかったのでインスタントラーメンで我慢することにした。昨日からあまり睡眠時間をとってなかったので布団の中にはいるとすぐぐっすり眠り込んでしまった。
次の朝、教室に行ってみると子供たちが寄ってきた。
「先生、だいじょうぶか。」
「先生、夜眠れたか。」
「先生、どうして火事になったんだ。」
と矢継ぎ早の質問に最初笑ってごまかそうと思ったが子供たちがまた繰り返して真剣に言うので、
「火事になったけれど、昨日もよく眠れて怪我もなく元気だよ。火事になった原因はまだ分からないんだよ。」
と答えたので納得したようだったので、いつものペースで授業に取り組めた。帰り際、俊子を先頭に女の子が幾人かやってきた。
「先生の家、片付いたか。」
「まだ、片付いていないんだ。今日は土曜日だから、じっくり片づけようと思っているんだ。」
「それなら、おらあたち手伝ってやるだあ。なあ、みんな。」
「おらあも手伝う。」
「じゃあ、お母さんがいいと言った人は手伝いに来てくれるかなあ。」
「うちはお母さんから、行って手伝ってやれといってたよ。」
「先生、じゃあお母さんにま聞いてくるね」等と千春と子供達のやりとりの後、
「先生、待っててね。」
と子供たちは言って、教室を出て行った。子供たちが帰って、静まり返った教室の中で、子供に火事の原因を聞かれたとき、千春は事実と異なることを言ってしまったが、そんなことでよいのだろうかと、自問自答した。自分の気持ちとすれば裁きを受けたい気持ちもあった。といって周りの人たちの暖かい気持ちも無にすることはできない。うそをつき通すことも仕方ないことだと千春は自分なりに解釈してしまうと心が軽くなり、職員室へ行って校長らに挨拶をして住宅に帰った。千春は住宅に帰って、しばらくごろ寝してから、新聞を読んだ。しかし、本県版にもこの住宅の火災についてはに載っていなかった。全焼ではないのでニュースバリューがなかつたのか、ある筋が要請成したのか分からなかったが、先ほど放課後の教室で気持ちの整理がついていたので、千春の心に動揺が見られなかった。時間が余りなかったので昼食はインスタントラーメンにして、後かたづけをしているところに俊子がやってきた。
「俊子、昼飯食べてきたか。」
「うん、食べてきたよ。」
「みんな、まだ来てないけど、そろそろ来ると思うけど始めるか。」
「うん」
その後俊子がいって六畳の部屋へ入ってきた。部屋へ入ってすぐ言った。
「先生、青い背広、だいぶ汚れちゃったなあ。黄色いリュックもきたねえや。」
「火事のとき、外へ出しちゃったりしたからな。」
「先生、まずこれをきれいにしておくね」
「ざっとでいいからな。後で先生が時間かけてきれいにするから。」
「先生、どうして大事にするんだ。これ先生の宝物か。」
「そうだよ。」
「じゃあ先生の宝物きれいにしておくね。」「ありがとう。」
そんなやりとりをしているうちに靖子たち五、六人の女の子もやってきて、
「和江は玄関をはきな」
などと俊子は青い背広の汚れを落としながら女の子をうまく動かしていた。千春は天井などをきれいにしたり、タンスの移動などをしたりした。女の子たちは部屋の片づけや掃除を主にやっていた。ときどきわいわい何か騒ぐこともあったが、結構長い間みんな一生懸命千春の家の片づけをした後、子供達と千春が会話が始まる。
「お腹空いたなあ。」
「みんな、お腹空いたか。」
「うん。」
「それでは先生ラーメンを作ってやる。」「あっ忘れていた。母ちゃんがうちの鶏が卵生んだのでもっていけといったよ。はい。」「ちょうどいいや。卵ラーメンといくか。」 その後、千春は台所に入っていたら、俊子も後からついてきて、
「先生、手伝うね。」
と言って鍋を取り出し、水を入れ、ガスの火をつけた。しばらくたってラーメンができたので千春と俊子と持っていくとひ子供達ははしゃいだ。
「おいしいそう。」
「さあ、暖かいうちにたべよう。」
「いただきまーす。」
「先生、おいしい。」
「こんなおいしいラーメン食べたのは初めてだ。」
千春は子供たちのあどけない素直の子供たちの顔を見ているうち、教師冥利にしたり、やはりできることなら自分は教師をずっと続けていきたいと思いがこみ上げてきた。ラーメンが食べ終わり、千春はこどもたちを帰しほとんど掃除が済んだので、掃除用具などの後かたづけを少ししたら、以前より却ってきれいになったようである。子供たちが一生懸命手伝ってくれたおかげだと思った。
十四 千春に転任の話
その後、年も明け、相原の住宅も修繕も終わり、教頭のいやらしいお説教も幾分和らぎ、以前と変わらない素直で明るいこどもたちへのやりとりや和やかな雰囲気の職員室の中で、
千春は自分自身充実した日々を過ごしていると思った。そんなとき、康代が校長が話があるから校長室へ行くようにと伝えに来た。校長室へ入っていった。
「山東先生、急な話で申し訳なかったのだけど、実は教育委員会から臨時召集があって行ったのだけど、そのとき、来年度の人事の話が出てね。普通新採用者は三年はいることになっているのだけどちょっと事情があってね。桐林の方へ戻ってもらうことになったよ。」
すると千春は力無く、
「やはりこの村にはいられないのですか。」「いや、今度のことが関係ないんだ。向こうの教育委員会の要請でね。家庭の事情でどうしてもこの村に来なければならない人がいてね。こういう場合の人事は交換が原則になっていて他に適当な人がいないものだから、山東先生になったということらしいのだよ。」
千春は校長に言われたことを聞いて複雑な気持ちになった。千春はこの学校の子供達の素直さ、屈託のない明るさが大好きであった。もし、火災のことがなければ、千春の気質からいって率直に自分の意見を主張したであろう。やはり、火災の件は千春のこころに深い傷を残し、弱さがあった。千春は受け入れざるを得なかった。
「私としても、教育委員会としても折角慣れてきたあなたを返すのはできることなら避けたいがこういう事情じゃあ仕方ないですな。この話はここだけの話にしてください。内示まではほかの先生にも話さないようにしてください。」
と校長に言われ、
「はい分かりました。いろいろお世話になりました」
と言い校長室を出た。千春は五時を過ぎていたし、心の動揺を見られてはまずいと思い、職員室にはよらずに住宅へ帰った。そして炬燵へ入り、電気もつけずに、ウィスキーをちびりちびりやりながら自分の気持ちを整理しようとした。涼子の結婚話にショックを得たが今回の火災のことで心の痛手が転移した感じになった。周りの人の助力で何とかやり直そうと思った矢先転任とは・・・・。もっもつと今の子供たちと心をふれ合おうと思ったのに・・・・。そう思うと自然千春の目から涙がにじみだし炬燵の上に顔を伏せて
「おふくろ、どうしたらいいんだ。」
とふるさとの方を見ながら、つぶやいていた。少したって心を平静に戻し、短い間だけでも
「精一杯がんばろう。」
と自分に言い聞かせた。それから幾日経った日、放課後職員室ではほかの先生は帰り、住宅組だけが仕事をしていた。康代は急に仕事の手を休め、千春の方に向いて言った。
「千春先生、最近ばかに教室などでかたづけごとをしているのだけど、どうしたの。」「えっ、えっ。」
千春は一瞬はっとした。自分では人に気づかれないようにやっているつもりだつたが、矢張り分かってしまったのだろうか。心配していると相原が言った。
「ふだんあまりそんなことやらないし、といってまだ一年目だから転任するはずはないし・・・」
すると涼子が、
「ふとした気まぐれかしら。」
と言ったので千春は
「そう、そうなんです。ふとした気まぐれなんです。」
と言って、何とかみんなに転任のことを気づかれずに済んだ。
十五 別れの暗示
三月に入った暖かい日差しが感じられるある日授業が終わり帰りの会が終わる頃、哲夫が急に出した。
「先生、来年はもう自分の家へ帰ってしまうのか。」
すると俊子が、
「そんなことねえよ。新しい先生は普通三年いることになっているんだよ。ねえ先生。」と言ったとき、千春とすれば転任のことを言ってはならないし、と言って黙って言ってしまうのも気が引ける。千春はちょうどいいチャンスと思い、言い始めた。
「普通そう言うことになっているのだけど、こういうことは先生でも分からないんだよ。みんなは先生が初めて教えた子供達なので
是非来年も教えたいのだけれど、こればかりは何ともいえないんだよ。でもあと一ヶ月もあるのだから、先生も一生懸命教えるから、みんなも一生懸命勉強して、なかよく、楽しく悔いの残らないような学校生活を送るようにしよう。」
と千春は言い終わって子供達を見渡してみると、うなずいた子もいるが、意味が理解できずぽかんとしていた子もいたようであった。しかし、千春にとって転任を暗示するようなことを言ったつもりなので幾分、気分はすっきりした。
十六 ふるさとへの旅立ち
千春は涼子のことも時間が経つにつれ少しずつ忘れ、心の負担も少なくなってきていた。終業式も終わり、教室も住宅も一応整理がついたので、故郷の桐林へ帰ることにした。この一年間いろいろなことがあった、初めての教職体験、和宏の失踪、母の交通事故、失恋、教員住宅の火災等千春にとってては大事件の連続で一年間があっという間に過ぎてしまったように思えた。千春は部屋にかけてある青い背広と黄色いリュックを見ながら、母や和宏を思い浮かべ、感傷にしたりきっていた。 そこへ康代が通りかかり声をかけてきた。
「千春さん、千春さんにはすっかりだまされたね。」
「すみません。校長に極力秘密にしてほしいと言われたもので。」
「それにしても、誰も直前まで気づかなかったのだから演技賞ものよね。それはそうとこれでお別れ、相原さんと涼子さんには言ってあるの、もう家に帰っているけれど・・・・」
「相原さんに挨拶をしておきました。涼子さんには言いそびれちゃったので康代先生からよろしく言っておいてください。」
「分かった、よく言っておくね。子供たちには少しは言っておいた。」
「それとなく言ったつもりですが、全員が分かったどうかは分かりません。」
「それはそうと千春さん、青い背広と黄色いリュックかっこいいわよ。」
「ほんとかな。」
「最初は正直言ってアンバランスかなと思ったけど、何回か見たり、千春さんの話を聞いているうち、全く違和感がなくなってきたみたいよ。」
「この青い背広はお袋そのものなんだ。黄色いリュックは大事な友人なんだ。ぼくのそばにいていつも力づけてくれるんだ。今、お袋は交通事故で入院していて、友人は女性のことで失踪事件をおこしている。今、この青い背広も黄色いリュックも無理に使ったのでだいぶ汚れてしまってるが、わたしには大切で愛着のあるものなんだ。」
康代が意味ありげないい回しでいい始めた。
「もうひとつ忘れていない・・・。ピンクの傘は持っていかないの。・・・千春さん、今度はそのピンクの傘も千春さんにとって大切なものになるのでないの・・」
「そうか、大事なものを忘れていた。雨は降りそうもないけれどこの際持っていくことにことにしよう。」
「それはそうと佳恵さんが椎間板ヘルニアで中之原病院に入院しているんだって・・。」
「途中だし、時間があるから、お見舞いでもしてくるか。」
「ようやく、決心したわね。」
「青い背広と黄色いリックとピンクの傘か。みんな少し傷がついているけれどみんな大切なものなんだ。」
「知らない人が見れば、少し不格好に見えるかもしれないけど、この取り合わせ、彩やかで趣きがあり、暖かさがありとても親しみが持てるわよ。」
「ありがとう。さすが文学士、康代先生の言うことが違う。ようし、大切な青い背広と黄色いリュックとピンクの傘を持って、大切な人に会ってくるか。」
「では気をつけてね。」
「さようなら。」
康代は角を曲がるまでずっと手を振りながら見送ってくれた。千春は雨がまだ降っていないにもかかわらず、傘をさしたくなり、ピンクの傘を開いてさして歩いていた。停留所には女子高生もいたが赴任のときと同じ奇妙な格好を千春がしているにもかかわらず嘲け笑う者は一人もいなかった。千春も青い背広と黄色いリュックに対して一層愛着を増し、千春の歩き方も何か自信めいたもの感じられたせいかもしれなし、三つのものバランスも整ってきたかもしれない。千春はバスが間もなく来るにもかかわらず自然と月俣口の方へ足が向いていた。通りすがりの人は皆、青い背広を着て黄色いリュックを背負い、ピンクの傘をさしているこの若者の姿に対して違和感を感じることなく、却ってなんとも言えない親しみを感じているように見入っていた。
少し歩いていくと遙か離れた土手の上からであったが「千春先生、さようなら」
と言う声がしっかり聞こえた。陽一や哲夫たち男の子が五、六人だった。千春もすかさずキャベツ畑で仕事をしている人が持っていた荷物を落とすほど、恥ずかげもなく大きな声で言った。
「さようなら、元気でな。しっかりがんばれよ」
手を振る子供達が見えなくなって、又少し歩き出すと、千春は例の「広い大空と大地の中で」の歌を
「果てしない大空と広い大地のその中で、いつの日か幸せを自分の腕で・・・・」
と口ずさみながら、キャベツ畑の間をくぐり、赴任するとき歩いた山道を歩いて行った。千春は今にも雨が降りそうな曇り空の中を青い背広を着て、黄色いリュックを背負いながら、ピンクの傘をさして、ゆっくり胸を弾ませながら、力強く、ふるさとに向け歩いて行った。
ー 了 ー
YUKIOSWORLDヘ