江口きちについて
                                            さとうゆきお


 私は江口きちについては4年前には名前すら聞いたことはなかった。
昔の特殊学級担任の同僚達と尾瀬戸倉温泉旅行の帰り川場村へ行った際
幾人かの希望により江口きちの墓に寄ったことからきちについて知ったのである。
同僚からきちのおいたちや短歌の優れているところを聞かされたのである。
聞いているうちそれだけでは物足らず、インターネットできち関係の古本を買ってきちについていろいろ調べたのである。
どうして私はきちについて関心を持ったのであろうか。
きちの顔立ちや知的女性独特の感情高い性格もあまり好きではないし、
きちの短歌についても私の鑑識力不足で正確に受け止められている状況ではない。
両親の境遇や知恵遅れの兄を持つ同情か、愛した人が所帯持ちで恋を成就出来なかった同情か、
自分でも分からないところも多々あるので、まずきちについていろいろ角度から捉えて見たいと思うのである。
 今、江口きちについての著書も増えてきたし、きちの関係の本が出版されれば売れ行きが早いらしい。
全国にきちファンがかなり散在しているものと思われる。
 河井酔名が昭和十四年に発刊の「武尊の麓」の序文で「如何に多くの人々に読まれるか予期されないが、
少なくても二三千の眼に触れることは間違ひない」と断言し、
その理由として「息詰まるやうな苦しさ感ぜしめる歌集だと思ふ」と述べているところかも、
この本を「手放すことが出来ないといふほど深く同感を有つ読者も現れてくるだらう」と想定しているのである。
内容を読んで酔名は相当の自信を持ったものと思う。
 私たちの元特学担任の仲間もきちの生い立ちや短歌に惹かれるものが多く全員がきちのファンである。
きちファンが全国に広がっているという理由も分かるような気がするのである。


私のホームページ「私の随筆」から

18年11月6日
江口きちの伝記について
江口きちにっいて尾瀬方面の旅行に行くまでは名前さえはっきり記億がなかったのに、
きちの墓に立ち寄り仲間にいろいろ聞く内に興味を持ち始めた。
それは中風の父や知恵遅れの兄などを面倒もながら生活に根ざした短歌を書き続けたこと、
妻子ある男に恋をして緒局自殺に追い込まれる境遇に共感を覚えたのだろうか。
そこで江口きちにっいてもっと知りたくてインターネットから三冊の伝記を取り寄せた。
きちの墓にいたときは他の人が関心もって歌碑など写すしていたのに、
すぐその場を立ち去った私とはえらく気変りしたものだと自分でも呆れるほどであった。その三冊の伝記とは
島本久恵の「江口きちの生涯」
小野勝美の「かやつり草歌人江口きちの生涯」
草原三郎の「武尊嶺に漂う青春女啄木江口きちの伝記」
である添全国的に知名度がそれほど高くない歌人の伝記としては多い数なのはきちの波乱に富んだ人生によるものであろう。
内容等については長くなるので明日書くことにしよう。

11月7日
江口きちの伝記について(続き)
三冊の伝記、島本久恵の「江口きちの生涯」
小野勝美の「かやつり草歌人江口きちの生涯」
草原三郎の「武尊嶺に漂う青春女啄木江口きちの伝記」であるが
元を正せば文芸雑誌の杜友の関係でつながりのあった島本による伝記が一番実感のあるものであろう。
やや書き方に歯切れの悪さを感じるが実際きちの友だちや恋人にも会って、
その当時のきちの家に行っているので臨場感を感じきちの素顔が知りうることができた。
草原による伝記では親の戸籍など取り寄せたりして資料が豊富で短歌を適宜入れているのがよい。
そして、作家に自殺が多いことについて「自分の論理を押し通す潔癖性と過剰な感受性、情念をもって、人生をみる」ことが
一因としていることにも惹かれてしまう。
小野による伝記は資料も短歌も目立たないが小説風で括弧書きが多く気楽にきちの生涯が読み取れるのがありがたい。
私は三種の伝記を読めてよかったと思う。江口きちについていろいろな面から提えることができたと思うからである。

11月10日
きちを想う恩師の切なさ
ひょんとしたことから歌人江口きちに対して興味を持ち始め、インターネヅトからきち関係の古本を探していたが、
その中で「歌人江口きち女を偲ぶ」という本も頼んだ。
3000円の定価がついているからかなり厚く豪華な本だと思っていたら、100ぺージ昆らずの地味な小冊子であった。
しかし、読んでみたらすばらしい内容で私にしてみたら値の付けられないほどの価値のある本だった。
その中のきちにとっては恩師であり短歌を始めようときつかけをつくつた
田村晴子さんの文に惹きつけられた。
「十二月の某日
あなたの死を知った時の驚き
そして悲しみ惜しさ
涙がとめどなく流れ
三目も四目も泣き通しだった
通勤のゆき帰りに涙をふきふき歩き
電軍にの加ぱ窓に頬を押しつけて泣いた
わたしのわたしのだいじなだいじな
掌中の珠は一瞬に砕け去ってしまった

きっちやんどうレて死んだのよ
私には何にも言わないで
わたしの悲しみも知らないで」
教え子に対するこれほど切々とした想いを書かれた文は知らない。
私がこれほど胸にジーと来たことも希有なことではないかと思う。

11月11日
きちを想う恩師の切なさ(つづき)
田村晴子さんはこうも書いている。
きっちゃんは清純を愛した
きっちやんは情熟の人だった
きっちゃんはやさしく情深かつた
きっちやんは努力家だった
きっちやんはっっましやかな人だった
きっちゃんは真実ひとすじに生き通した
だからだからだから“
きれいなまま死んでしまった
きっちゃんには死は恵みだつたのか
死は一つだけゆるされた自由であり
歓ぴであり最後のわがままだったのか
この言葉によってきちを慕う人が多いことが分かったような気がする。
それにしても教え子をこんなに愛しく思つた恩師がいるとは私は思っても見なかつた。
きちがこのような人がいたから、人間性や短歌のすばらしさが後の世に知られるようになったと思う。

19年11月9日
  江口きちについて
 有明会の前回の旅行で江口のきちの墓を見に行ったのであるが今回も近くに来たので寄ることにした。
この会の人たちは江口きちに対して資料を集めたり、きちの歌のテープを聴いて楽譜をおこしたりして、
皆強く関心を持っているようである。
墓に刻まれている辞世の句「大いなるこの寂けさや天地の時刻あやまたず夜は明けにけり」を唱える者もいた。
確か江口きちの親族は今いないはずであるが、花も生けてあり墓も綺麗になっていた。江口きちが慕われるのは短歌の才能があったにもかかわらず兄が障害者で父が流れ者の家庭環境の悪さ、妻子持ちを好きになってしまって自殺をさぜるを得なかったところであろう。
帰りにきちの店跡を運転手さんの好意で見せてもらった。私もきちの真似をして短歌を作ってみた。
店跡を見たら直ちに現れて挿絵のごとくきちが見送りぬ 

11月13日
  江口きちが知られたわけ
 9日に江口きちが慕われわけとして「短歌の才能があったにもかかわらず兄が障害者で父が流れ者の家庭環境の悪さ、
妻子持ちを好きになってしまって自殺をさぜるを得なかったことであろう。」と書いてみたが
その後で「武尊の麓」の河合酔茗の序文による力も大きいのではないかと思うようになってきた。
「きち女は格別歌道専修に志してゐたのではないから、作品価値の上から言へば、第一流の歌人と肩を比べるわけにゆかないのは勿論だ。
(略)短歌本来の機構様式に照してみて、技巧の不備、格調の不自然、語彙の不足等の欠点を免れ得なかつた。
それにも拘はらず人を動かす力があるのは、きち女の気魂が歌の形を籍りて真実われわれに迫つてくるからである。
きち女の歌には、厳しさ、清しさ、寂しさ、正しさ、澄み徹る、しみら、などの言葉が好んで用ひられてある、が、
それらの言葉は如実に彼女自身の性格を反映せしめてゐるこの文を読んだらきちの歌を読んでみようと思うであろう。」
 とそれだけ酔茗がきちの歌に心撃たれた打たれたからこのすばらしい序の文が書かれたからであろう。
酔茗の短歌の読み取りの深さと短歌を人間的視点からとらえた短歌の原点から
表現力はこれからもこのようなすばらしい推薦文は出てこないと思うのである。

20年11/30
  江口きちの本
 江口きちという二十六才で自決した薄幸の歌人は歌を基礎から勉強したわけでないから
一流の歌人とは言えず技巧の不備や格調の不自然、語彙の不足等があるという。
それにもかかわらず江口きちファンが全国に散在している。師匠で有名な歌人河井酔名についてはあまり記述がないのに
江口きちについてはかなり詳しく載っているのである。
最近でも二冊の江口きちについての研究と物語の本が出版されてその二冊とも熱烈な江口きちファンで執拗に江口きちを捉えようと追求している。
私も三年前までは江口きちという名前を聞いたこともなかったが、
今ではあるったけのきちに関する本を取り寄せ江口きちの真の姿を捉えようと思っている。
最近インターネットで「肉筆版江口歌集」というのが゜目についた。
少々値が高く相当迷ったが買うことにした。
取り寄せてみるときちの肉筆が間近に見られ短歌も撰歌されない元のノートのままなのでとても良い本を購入したと思っている。
今のところ私は江口きちについて書こうと思うつもりはない。今出されている本をじっくり読みたいと思っているだけである。

21年1/27
  きちについて
 先日特殊学級の元同僚が教え子が書いたという「歌人江口きち」の本を見せて貰った。
なかなか良い本であったがかなり評判でもう残部も少ないと云うことであった。
爆発的な人気ではないが全国にはかなり「江口きち」ファンがいるらしい。
私は3.4年前までは「江口きち」の名前すら知らなかったのに、
元同僚達と旅行の途に「江口きち」の墓に行って友にきちについて聞いているうちに関心を持つようになり
現在では「きち」の関する本を10冊以上揃えるほど江口きちファンになってしまったようだ。
何がそんなに惹きつけるのであろうか。友達の他愛ない行為を責めたり、
罪のない兄を道連れにしたりする感情の高ぶりのある処は馴染めないが
流れ者の両親や知恵遅れの兄がいながら短歌を学び作り何事にも努力を怠らず
近所の子に勉強を教えたりして苦しい生活をしてきたこと、愛する人が出来たのに叶わぬ人であったこと、
ついに自殺しか考えられないほど追いつめられたきちの波乱に富んだ人生につい引きこまれてしまうのだ。

1/28
  きちについて
 先日元同僚から「今度会で会うとき江口きち関係の本を見せてほしい」と言われもう一度きちについて調べてみた。
B氏-きっちゃんは、あれだけの境遇にいながら、あれだけの歌が書けた。気性の激しい人。
朗らかな人だった。普段は「…ナウイ」とか言い、乱暴ないい方のときもあり、男みたいな口のきき方のときもあった。
C氏-親の生きている娘時代は朗らかであったが、こちらに(谷地小学校の傍の家)来てからは朗らかでなかった。
いつも悩みがあった。精神が安定せず、今で言う欝病かも。家の前に桐の木があり、薄紫の桐の花が好きだった。
F氏ーきちは勉強家で、飲み屋はここしかなく、もてたよ。
J氏-好き嫌いの激しい人だったけれど、一度仲良しになると何でも受け止めてくれた。
若いときから苦労を重ねた人だけに、人の気持ちの分かる人であった。
K氏きっちゃんは貧しさを必要以上に詠った。歌ほど貧しくなかったよ。(山口益之著「歌人江口きち」)
 きっちゃんは清純を愛したきっちゃんは情熱の人だったきっちゃんはやさしく情深かった。
きっちゃんは努力家だったきっちゃんはつつましやかな人だったきっちゃんは真実ひとすじに生き通した-潔癖といいたいほどの清さにき哲人のように思慮の深さに生きぬいたきっちゃん(田村晴子編「歌人江口きち女を偲ぶ」)
 きち女は格別歌道専修に志してゐたのではないから、
作品価値の上から言へぱ第一流の歌人と肩を比べるわけにゆかないのは勿論だ。
小学校を卒業しただけで深い学問もなく、只性来文芸の才能に恵まれてゐたので、
頓てそれが短歌の捗に現はれ、遂に七年足らずの問に千首にあまる収穫を遺したといふことにはなる。
もし短歌にゆかなかつたら或は詩に来たかも知れないし、或は創作を書く人になつたかも知れたい。
此集に加えなかつたノートの歌を一々読んでみても、きち女は日々夜々の生活感情を悉く歌にしてしまつてゐる。
その点は啄木にも似通つてゐるので、人間の真実性に基く直感を在りのままの言葉で歌に言ひ放たうとしてゐる趣がある。
従つて短歌本来の機構様式に照してみて、技巧の不備、格調の不自然、語棄の不足等の鉄点を免れ得なかつた。
それにも拘はらず人を動かす力があるのは、きち女の気塊が歌の形を籍りて真実われくに迫つてくるからである。
 きち女の歌には厳しさ、清しさ、寂しさ、正しさ、澄み徹る、しみら、などぴ言葉が好んで用ひられてあるが、
それらの言葉は如実に彼女白身の性格を反映せしめてゐる。(河井酔茗「武尊の麓」序文)
 瀬の色の目立た犯ほどの青濁り雪しろのはや交りくるらしと、
絶詠の二首
睡たらひて夜は明けにけりうつそみに鶏きをさめなる雀鳴き初む
大いなるこの寂けさや天地の時刻あやまたず夜は明けにけり
の三首が群を抜いて秀れていると思っている。
勿論ほかにもかなり高度な作品もあ乏然しほかの歌を全部没し去って、この三首だけのきちが作者であったとしても、きちの価値は毫も変らない。
群馬歌壇の歴史はもとより、日本歌壇の長い歴史の中にあっても確乎としてその存在を示すてあろう。
秀れた歌でさえあれば、萬葉集の有間皇子の様に僅に二首の歌をもって千古にその名を伝えている例がある。
小学校を出たでけのきちの暇名使いの誤りを言い、或は悲劇的なその死を背景にしてその名があがったなどというものもあるが、
要はその最高の作品がどの標高に達したかということで山の高さはきまるのである。
きちのこの三首は群馬の歌の歴史の中にあっても、男女の別を超えて第,一級に位するものであろう。(原一雄「作品から見たきち」)
「...『憤れるだけが私のとり柄なのよ、これで憤らなくなったらおしまひだわ』これがもう看板になって通った今は結句気楽です。
屈従というものが今の私には一糸もありません。さくのさん、あなたも不幸な人です。
性格的に不幸な人です。とても複雑で感受性が鋭いかと思ふと一面には私の手紙の矢表すら無関心にゐて、
何で憤るのか呆然としたりする如き、子供っぽさもあるのですね。例を上げれば先日の謝罪の手紙でも、
小児がすかされてゐるやうなものです。
何をおけいさんからきいて、素直にあやまってくれるものか私にすればいささかたよりどころの無気味さでした。」(山口益之著「歌人江口きち」書簡)
 私はきちを潔白で正直で頭の切れる優等生タイプで万葉的な歌風で情熱的な生活に繋がった技巧的ではないが
心に響く短歌を作った素晴らしい女性歌人であったと思う。とにかく短歌も家族の面倒も恋もとにかく精一杯一生懸命人生をやり抜いた人だと思う。



江口家の記録

〜江口きち/年譜〜川場村歴史民族資料館資料による
(敬称略)

「きち」誕生日は不二出版滑ァ「塔影詩社蔵/江口きち資料集成」(島本融先生/編)に準拠。
(他書に大正02年11月26日誕生の表記あり)
妹名は同上資料内直筆遺書より「たき子」で表記

嘉永01年 (1848) 01月02日  今井はる(きちの父熊吉の母)、千葉県印旛郡今井新田にて生まれる。        
安政02年 (1855)04月05日  金子キノ(きちの母ユワの母)、栃木県上都賀郡上永野村にて生まれる。
明治06年 (1873) 12月10日  きちの父熊吉、千葉県印旛郡十余一村にて生まれる。
明治08年 (1875)    熊吉の父江口喜助、死亡。
明治11年 (1877) 02月10日  今井はる、熊吉を連れ子して、千葉県東葛飾郡八柱村河原塚、飯沼仙蔵(天保 06年生)と結婚。
明治13年 (1879) 02月06日  きちの母ユワ生まれる(父不詳)。
      12月16日  金子キノ、ユワを連れ子して、栃木県安蘇郡大字秋山、景山庄次郎(嘉 永04年生)と結婚。
明治21年 (1887)06月03日  熊吉、千葉県印旛郡谷清村十余一から八柱村河原塚 へ転籍(飯沼仙蔵同居)。
明治36年 (1902)10月12日  飯沼仙蔵、死亡。
明治39年 (1905)    熊吉とユワ、川場村へ流れ来る。
明治42年 (1908) 02月11日  きちの兄廣寿、川場村「新井宅」にて生まれる。
       10月05日  熊吉、八柱村河原塚から群馬県利根郡川場村大字谷地村乙2021番地へ転籍。
       10月24日  熊吉とユワ、婚姻届。
大正02年 (1913)11月23日  江口きち、川場村桂昌寺近くの借家で生まれる。
       この頃、熊吉旅に出る。廣寿、脳膜炎となる。
大正05年 (1916)02月18日  飯沼(今井)はる、死亡。
       10月15日  きちの妹たき子、川場村「上の家」にて生まれる。
大正08年 (1919)    この頃、ユワ、景山庄次郎の援助で「栃木屋」開業。
大正09年 (1920) 04月  きち、川場村尋常高等小学校入学。
大正11年 (1922)    この頃、熊吉旅から戻る。きちの師、田村はる、川場に赴任。大正12年 (1923) 03月  きちの師、林卓爾、川場に赴任。
       04月  たき子、川場村尋常高等小学校入学。
       
大正15年 (1926) 03月  きち、川場村尋常高等小学校尋常科卒業。
    04月  きち、川場村尋常高等小学校高等科入学。林卓爾、きちの担任となる。
昭和02年 (1927) 02月23日  景山(金子)キノ、死亡。
    05月05日  米国世界児童親善会より、青い目の人形メリーチャンが贈られ、きち、学校を代表して受ける。
昭和03年 (1928) 03月  きち、川場村尋常高等小学校尋高等科卒業。林卓爾、川場村を去る。
    08月  小野忠孝訓導、川場村に赴任。
    10月  きち、沼田町の中田裁縫所にて、和裁を習う(〜昭和04年05月)。
昭和04年 (1929) 03月  たき子、川場村尋常高等小学校尋常科卒業。
    04月  きち、補習科に通う。たき、川場村尋常高等小学校高等科入学。
昭和05年 (1930) 02月  きち、沼田郵便局に勤める。
    06月03日  ユワ、死亡。きち、母死去のため郵便局を退職「栃木屋」を継ぐ。
昭和06年 (1931) 03月  たき子、川場村尋常高等小学校高等科卒業。田村はる、川場村を去る。
   04月  きち、河井酔茗&島本久恵による「女性時代」(昭和05年11月創刊)の誌友   と なる。双木恵の筆名で投稿。たき子の短歌、07月号で1等入選。筆名、飯田章子
       でも投稿。その後、凉子の筆名も使う。
    10月  たき子、東京の大場静子美容院へ7年年季で勤めるため上京。
昭和07年 (1932) 01月24日  小野忠孝詩集出版記念会を沼田町正覚寺にて開催。河井酔茗、川場温泉泊。
       「女性時代」上毛支部会を前橋で開催、河井酔茗来る。
昭和08年 (1933) 04月08日  きち、栃木県上都賀郡古峰ケ原、古峰神社代参。 帰路、庄次郎の死に逢う。
      04月11日  景山庄次郎、死亡。
昭和10年 (1935)    矢島けい、上京(〜昭和17年)。
昭和11年 (1936)    小林なを子、上京。この頃、きちの恋萌える。
昭和12年 (1937) 02月  きち、上京。
   08月  きち、八柱村河原塚を訪ね、飯沼善太郎(父熊吉の異父弟)に父の事を尋ねる。  
11月07日  きち、群馬県歌人協会(昭和11年03月設立)に在籍、秋季歌会出席。    11月  きち、上京。
昭和13年 (1938) 03月  きち、「歌稿ノート」をつくる。
    04月24日 ち、父母の墓碑を桂昌寺に建立、開眼供養。たき子も休暇をとり参列。
    05月14日  きち、最後の上京。
    05月15日きち「女性時代社」例会に出席。河井酔茗島本久恵と初めて(最後)会う。 
   08月  きちの歌、群馬県歌人協会刊「昭和13年版年刊歌集」に掲載。
       「たらちねの拙き文字に記されし家計覚えを見出しにけり」新万葉集第二巻刊行。    
   12月02日  廣寿ときち死亡。享年、兄・廣寿29歳、きち25歳。
    12月03日  廣寿ときちの葬儀行われる。
昭和14年 (1939) 04月  江口きち「武尊の麓」婦女界社刊。
    08月11日  赤沢保平(大正02年07月22日生)召集に先立ち、江口たき子と婚約。    
   11月  江口きち「江口きち歌集」書物展望社刊。
昭和17年 (1942)10月23日  熊吉、死亡。
    12月110日  赤沢保平、召集解除、帰還。保平とたき子、結婚生活に入る。
昭和18年 (1943)02月22日  保平とたき、柏崎転業開拓団員として開拓団柏崎村   (満州三江省通河県)へ。
    10月26日  たき子、お産のため、保平の実家、柏崎市大久保478番地に帰る。
    11月25日  保平、たきと入夫婚姻。
    12月25日  たきの長男満州男生まれる。
昭和20年 (1945) 05月  江口(赤沢)保平、召集。
    08月14日  江口(赤沢)保平、満州浜江省老黒山太平満付近にて戦死。
    10月05日  満州男、中華民国三江省通河県太古洞集団所にて死亡。
    11月10日  たき子の二男保夫、太古洞集団所にて出生、同日死亡。
       
昭和20年 (1946)08月27日  たき子、中華民国ハルピン市花園収容所にて死亡、 享年28歳。


 江口きちの参考文献

1939「武尊の麓」江口きち著 婦女界社 昭和14年5月26日五版発行1円50銭
    (3500円)
     ー河井酔名、島本久恵が作品日記等をまとめた、良くまとめ上げたきちに関する基     本的書籍ー 
1939「武尊の麓」江口きち著 肉筆版 書物展望社 昭和14年11月15日発行
2円80銭(4700円)
ーきちが渾身こめて書き上げた肉筆が何とも言えない情感が漂うー
1967 「江口きちの生涯」島本久恵著 図書新聞社 660円(1500円)
ー残された資料をもとに弟子の生涯を細やかに愛情込めて書き上げたきち伝、
きちについて親の事から愛しの人のことまで書き上げた力作、人間きちの素顔に迫っているー
1976 凜冽の詩魂「武尊の麓」江口きち著 清水弘文堂昭和51年5月30日初版発行      1300円
ー内容は島本久恵の後書きを除けば昭和14年版と同じ、字体は現代版で見やすいー
1979 「武尊嶺に漂う青春」昭和54年2月27日発行 (2500円)
ー元教員の自主出版書、系図等細かく調べ上げている。史実に基づいたきちの生涯が書かれている。兄についても白痴ではなく軽度の知恵遅れと述べているー
1980 「泰一郎・きち・雅林」みやま文庫昭和55年7月10日発行 (900円)
ーきちの短歌の解説としては専門的で分かりやすくきちの短歌を理解するには最適書
1991 江口きち歌集 「武尊の麓」より 江口きち著 至芸出版社 
    平成3年4月23日四刷発行 1000円
新書版で内容はカットされたものが多く携帯用ー
1991 「かやつり草」歌人江口きちの生涯 小野勝美著 至芸出版社 
    平成3年9月30日発行 1300円
ー通俗的でやや迫力に欠けるように思うー
2002「江口きち資料集成」島本融編 不二出版刊 5000円
平成14年2月発行
    ーとにかく凄い本だ。内容と言い、体裁と言い、こんな素晴らしい本はないと思ったくらいだ。
またきちに関しても少女時代の散文も載っているのはきちの違う一面が
    感じられる。今この本は古本屋でも見つけずらい貴重な絶版版だー 
2007歌人江口きちの恋「桐の花散る」藤井徳子著群馬出版センター刊1238円
平成19年5月18日発行
    ー小説的できちを知るには分かりやすく手っ取り早いー
2008「歌人江口きち」その境遇と作品 山口益之著群馬出版センター刊1714円
平成20年8月11日発行
ー薮塚在住の渡辺先生の教え子で、足できちの関係者に直接聞いたことをもとに、
今までの「聖なる薄幸の歌人伝説」に史実と短歌から、きちの女性らしい過度の潔癖さを示したり、
きちの読んだ本からの影響など、今までの見方と違った考え方はきち研究で新た見方を捉えたきち研究書としては最高級のものと思う。  



きち関係写真



































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