高崎五万石騒動(中編)
細野格城
著
佐藤行男
現代語訳
◎ 中 編
二十五
栗崎村地蔵寺での会合
一旦高崎を引き払い再挙を計るのに百姓達は十八日岩鼻県支配所綿貫村市ケ原の二子山へ集合するようにとの、命令を聞いた人々はだいぶ考えていたことと相違のある本日の顛末に、愚痴を言う者が随分おりました。しかし、谷口郡奉行のやり方では何ともとりつくことができませんでした。大総代が緻密な考えを持ち、命をかけて尽力しているので、
「我等はただ大船に乗っているつもりで、大総代の指示に任せて行動すればいいのだ。」
という者も出てきて、愚痴や小言は何時とはなしに消え、思い思いに家路に向かって帰って行きました。そして、各自が村に帰って家に残っている老人や妻子が今日はどのようであったか詰めかけ尋ねられても当惑しても、今日の様子を事細かく話しました。百姓達は明日はどうなることかと想い沈む者もいれば、また今日既に願書を取り上げになられたから今後どんな困難にあっても命をかけても願意の貫徹を見るまでは止めないという勇ましい者もあり、千態万様でありました。
一方、大総代や他の総代達は我が家にも帰れず、その足で栗崎村の地蔵寺へ密かに集まって、明日の会合のおよその方針を決めるについての準備会を開き、万端の準備、打ち合わせをしました。その夜はそこで夜を明かしこれからの困難や障害を予想し、行く末どんな迫害を受けても初心が通るまで互いに意思を継続することを誓って百姓の苦しさを軽減していきたいと、終夜語り明かしたことは何と心打たれることでしょうか。そこで百姓の引き払った後の高崎はどうであったかというと、一時は全町黒こげになるのではないか、物持ちは家などを打ち壊されでもされないかとか等心配したようであります。しかし、この用水を閉鎖したのは全く百姓でなく他の者の悪戯ということが分かりました。また打ち破ったり、打ち壊したりなどの行動もなく、至極穏やかであるのを見て、大いに安心して喜び合い、ここで始めて百姓が減納意外には他意のないことが全町民に分かりました。そこで各町の有志が俄に集合して何の同情を表すことができることか話し合い中、百姓達は既に引き払ったとの知らせが入ったので遺憾に思った者もありまし
た。また中には思い思いに飲食物など調えて、大信寺や安国寺や延養寺へ慰問方々携え来る者もいたほどで、静かに引き払ったことを聞いて、益々同情の念を深くしたということでした。
二十六 清水寺の僧田村仙岳
石原村に清水寺という新真言宗の寺があります。年々皆様が十寒夜にお参りになって知っていると思いますが、ここに田村仙岳という一寸性格の変わった豪勇肌の僧がおりました。その人格についてはなかなか多種多様で物議も多かった変わり者で人が企図しない美徳を持っているいう正体の知れない僧で随分面白い経歴を持っていました。
元治元年(一八六四年)世間は鎖国攘
夷で大混乱をして、水戸の浪士が筑波山へたちこもって市騒動を引き起こして開国党と雌雄を決しようと一味徒党の勇士等、準備をして京都の朝廷へ何か嘆願するため中仙道目指して出かけようとする計画
が分かりました。そこで、幕府は征討の令を諸藩にくだした高崎藩もその命に接し筑波山へと出征したところが、戦いが不利でやむなく退却しました。その折り戦地へ運ぶ武器その他の物品をこの僧田村仙岳師と高崎新町書籍店主人の澤本氏で取りまとめ高崎藩の本営まで運搬してきたために、藩においては両氏の尽力により少しの損害も受けませんでした。そこで大いに両氏の徳を認められ藩に出入りを許され、澤本氏は当時の功により一躍士分に登用されました。
田村仙岳師はその他にもこのような戦功が認められ優待されました。そこで田村師は多少才知もあり、世間に手慣れた人だから藩主の優待してくれる好機を逃がすまいと、その後は全ての事柄に口を挟むようになってきました。この百姓の減納嘆願についても口ばしを入れ、藩と農民の間に入り仲裁の労を取ろうとしたが、ことは既に昨十七日郡奉行谷口忠左衛門殿をもって公然と申し渡された後のことだったので、手のつけようがありませんでした。しかし、そこは策士の能力を発揮して知恵を絞りだし、百姓側の内情を探し出しました。そして、本年の不作ではとても年貢の上納どころでなく食うことができないということをつかみ、このままにおくと益々重大になり何時解決のつくものと見込みがつかないので、ここ一番自分の弁才を振るおうと役人を説き伏せ、百姓側を諭して、朝廷の労を取るのは名前を高める近道であると考え城内に入って重役に会い減納嘆願についていろいろ話し合いをしました。こういうことは相当の手腕がないとできないことでありましょう。
二十七 綿貫村市ケ原での集会
高崎藩ではようやくのことで門訴した農民を引き取らせてからも、総代の行動に不審の点があるとして密偵をつけて捜索してました。その夜総代等は栗崎村の地蔵寺で協議をしているとき告げ口をした者がいて十八日早朝大目付三上春一郎、白井喜平、米見鈴木藤平、清水寺田村仙岳僧等の諸氏が地蔵寺へ乗り込んできました。大総代等の驚きは非常で今や密議の真っ最中へ役人が押し掛けてきたのはどういう訳か分かりませんでしたが、とにかく我等の集まりを解散させるためだとして、慌てる心を落ち着けさせ控えていると、三上殿が寺の玄関前で馬から下りて、続いて白井貴八殿も下馬されて大総代等がいる部屋に入ってきて、引き続いて田村仙岳、鈴木藤平の両氏も次の間にいたが三上、白井の両氏が大総代等に向かって言われました。
「その方等の願いは昨日言ったようにこれ以上は何とも致し方ないのでこれより各村々の他を検見し実際不作で上納が難しいときは充分少なくするので今度は穏やかに引き取り、お前達より百姓一同に伝えて、決して郡中を騒がしてはならない。」
との注意を事細かく言っていましたが、大総代等はこれくらいの説諭で納得するような意気地なしは一人もおりません。願意を貫徹するまではたとえ断頭台の露と消えても魂がこの土に留まって援護しようと誓っている義民の鏡、大盤石の精神でいるので先程の仰せでは農民の苦しさを救うことができません。全部でなければ納得ができないと一概にはねつける訳にもいかないのが人間の情であります。そこで大総代非常に当惑の面持ちをしていると、隣の間から田村仙岳が出てきて、大総代にも役人にも丁寧にお辞儀をし、ご機嫌を取るような態度で話しかけました。彼の動作はまるで芝居の高野師直が若狭之助の怒りを慰めているときのようで実に見苦しかったですが田村和尚は坊主頭を撫でつつ言ってました。
「今年の不作は全くこれまでになかったことで農民一同にとっては気の毒だけれども、減納がとても聞き入れになれない訳は皆様のご承知のことであれば今年のことは仕方ないので年貢を拝借むすることとし、早速拝借の願書を差し出す手続きをされてはどうか。もしそうする場合はわたしが及ばずながら尽力したいが。」
と言い、また役人に対しても、
「今年の分は是非拝借できるよう取りはからい願いたい。」
と述べました。雄弁と言うほどではないが、急場の間に合わせの仲裁としてうなずけないこともないと、大総代も一時的にこれを承諾して一同の者に伝えて、その手続きをするよう返答をしました。また役人の方もこの延納の件はすでに重役等の協議で決まっているので直ちに承諾されました。そこで役人等が、
「見受けるところ今日も大勢が岩鼻支配所綿貫村市ヶ原へ集合していることを聞いているが既に延納を聞き入れるから早速引き取りなさい。」
と言いました。大総代も強いて反論するのは益ないことと考え承諾の旨を答え、急速にこのことを市ケ原の集合所へ通じ、ともかく大総代諸氏の思惑もあろうとここはひとまず引き払うことを百姓達にへ知らせました。しかし、大勢の者はなかなか強固な態度を取って、拝借ぐらいでは満足しませんでした。却って大総代のこの取り扱いに不満を示し、談判人を選んで厳しい話し合いをするということになりました。大総代もこの不平を尤もと思っていたので、その鎮撫策にほとんど当惑のように見受けられたがこれは一時の策で我々も満足しているわけでない、その内には適当な方法をたてるという内心を明かすわけにはいかなかったから、ともかく一同の者に中仙道まででてくれるように話されたが大総代の心中にどんな計画がなされているか知る者はいませんでした。そこで一同の者は中山道並木まで出てくるようにとの命令でありましたが、並木まで出てきてどうするつもりであるかその策略を知る者はいませんでした。しかし、深遠な才知に長けた総代のことだから何か考えがあるものと、ひとまず引き払うということになり、台新田
、倉賀野等を経てその日の夕刻にまた集合してきました。
一方、役人の方は今日は大総代を説得して市ケ原集合の者を追い払ったので城中へ帰っても首尾は上々と少しは心も引き緩み、村の名主五十嵐所次郎の家へ寄り、茶菓の接待を受け、暫時休憩して帰途につき、日光奉幣使街道で高崎へ向かわれました。しかし、倉賀野を過ぎて並木に差し掛かると、前の方に百姓が連続して行くので市ケ原集合の者が引き払っていくものと思っていたらしいが行けども行けども百姓で一杯になっていました。そして帰村する様子も見えず、粕沢に至る頃いよいよ帰村しないと見込みがついたから、そのまま帰城するわけに行かず、何れ寺院へ連れ寄せ今日大総代に話したことを説明するためにその辺に小総代を呼び出し、下之城の方を指し
「あの寺は何と言う、ここは何村か。」
と尋ねられた総代は
「寺名は徳昌寺、村名は下之城、ここは上佐野の粕沢である。」
ということを答えた。すると上佐野には寺院がないかと言われたので、小総代は
「西光寺という寺院がございます。」
と答えると、役人ははその寺院を案内してくれと言うので小総代は先に立って上佐野の西光寺指して案内しました。また一同の者にも集合するように言いつけられ、役人初め一同の者が西光寺へ着いた頃はもうすでに冬の日は短く黄昏になっていたのでありました。
二十八 西光寺の会見と大根投げ
漸く西光寺へ着いたがはや夕刻であったので仕方ないと俄に役人達に夕食を出す仕度をしました。急なことなのでなかなか厄介でしたが、あれこれしているうちに数百人の百姓達は西光寺へ集まりました。百姓は寺の玄関前の広庭へ全体に筵をしき、その上に座り込みました。少し経つと役人も食事が終わり、玄関の方へ行き、やや高いところへ座を構え、大総
代を真っ先に呼び出して、
「今朝栗崎村の地蔵寺で堅く約束し
たにもかかわらず、大勢の者を各村へ引き取れさせることができなかったのは誠に遺憾なことである。」
と事細かく責めましたが、大総代の方もこのように叱責を受けるのは百も承知でありましたけれど、たとえ一時のがれの約束とは言いながら約束は約束ですから、弁解する余地はないのです。何とかしてこの説明を妨害して、仕方なしに役人達を引き取らせるために一策を考え、先ず大総代が空咳を二、三回します。それを合図にあちらこちらで空咳が始まり、
「えへん、えへん。」
と一時はなかなか喧噪を極めましたが、その内に上佐野村の関口源七という老人が立ち上がりますと、ここに居合わせた数百人の者が一度に立ち上がりました。役人の方ではこれを取り静めようと立ち上がりました。そうするとここに実に滑稽な大根のお話があります。どういうことか言いますと今や一同の者が立ち上がろうとしたときに、寺の玄関の入り口の脇に何百本との大根が垂れ下がっておいてありました。そのうちの大根を一本抜き取り食べた者がいたので側にいた者が
「大根を抜くな、食うな。」
と注意したのが、丁度騒ぎと同時でありましたから、自然と制止の声が大きくなってきました。それを他の大勢の者が今や立ち上がり、それを制しようと役人が立ち上がろうとしたときで「抜くな抜くな」という声を抜いたと聞き誤り、大勢は抜けたなら助けるなと勢い込み、今度は全くほんとうの大根を干し縄より抜き取り、防衛のつもりで数限りなく、役人見かけて投げつけました。役人の方では突然のことであり、大根が雨霰のようにふってくるので避けようとも思ってもする術もなく、呆然としていました。このときもやはり田村仙岳師もおりましたので、百姓たちは日頃うっとうしく思っていたので大勢は張り裂けるような大きな声で、
「清水寺の田村坊主は隠密にきているのだ坊主を引きずり出して叩き殺せ。」
などと口々に罵り、中には師をめがけて瓦の破片などを投げるようになりましたので、役人の方も今や早とても鎮めるどころでなく、うかうかしていると自分の身が危なくなってきたものだから、寺の裏口の雨戸を破り逃げ走って行きました。その中で、寺の裏の溝へ落ちて履き物は勿論大切な物をなくして、雫のしたたる衣服をそのまま絞りもしないで這々の体で城下目指して駆けつけそのことを重役に訴えた者もいました。又重役においても出張していた三上等の帰城のないのは只事ではないと大いに心配していたときですから急速に鉄砲二十五人、弓二十五人、重役は騎馬で現場へ出かけようとするという大騒ぎになりました。しかし、その原因を探求すれば、一人の百姓が一本の大根を抜き取り、それを食べようとしたことから起こったので、悪戯も時によっては大変な騒ぎを引き起こすようなことになりますから、何事によらず慎む上にも謹まなければなりません。
清水寺の田村仙岳師に対しては幾分疑惑を持たれた折りでもあり、藩の隠密と邪推したのでこれを懲らしめんために騒いだのですが、見当違いでも今は役人まで逃げてしまうということになりました。多分逃れ出た役人は城内に帰り、一部始終を話すだろうし、藩でもこれを聞いたらこのままにしておくはずがなかろう。そうすれば我々もこのまま引き上げるという訳にいかず、このことを領分内一同へ知らせて、もしもの時に備えておかなければならないということになりました。、丁度寺より二丁(約二百メートル)ばかり西南にあたり関口弥蔵という総代の竹藪に大きな竹がたくさんありましたのでこれを切り倒し、竹法螺を作って領内に知らせる準備に取りかかりました。いやはや並大抵の混雑ではなかったのです。
二十九 中山道並木
さて、大勢の百姓たちは関口氏の竹藪て切り取った竹で竹法螺を作って、これを吹きたてました。五万石領分の者に知らせようと盛んに吹きたてた音といったら随分大きな音で、よく遠方まで聞こえました。特に深夜でしたので、一層よく冴え渡り聞こえましたので、なかなかものすごい感じがしました。百姓達は西光寺を出て中山道の粕沢目指して繰り出しました。一方城内からは白井、三上諸氏の命により繰り出した鉄砲組や弓組の者が丁度上佐野の西光寺付近まで来ましたが、最早百姓達は残らず西光寺を引き払って粕沢目指して出て行ったと聞きましたから、馬の頭を立て直し粕沢目指して追いかけました。百姓達はさほど急ぎもせずに歩いていたので、騎馬の役人は現在の佐野小学校の前ぐらいのところで追いつき、一同の者を呼び止めました。一同の者もこれまでと覚悟を決め立てどまったので、並木あたりは人で埋まってしまいました。このとき大目付岩上元右衛門、郡奉行谷口忠左衛門の両氏は馬上で一同の前へ出て
「特に聞かねばならないことがある。総代の者をここに呼べ。」
と馬から下りて馬は馬丁に引かせ一軒家という家の前で各村々の総代を呼びだして、郡奉行谷口忠左衛門は
「今日代官金田節右衛門を使わしお前達の願いも十日ぐらい経てば分かるから、穏やかに帰村して稲刈りをして知らせを待ちなさい。」
と厳重に言われたので無下に聞かぬ振りもできないので仕方なくその場を引き取ることにしました。その場の有様といったら、一軒家の北西側を鉄砲組の休憩所としてその前方に鉄砲が三挺ずつ組み合わせてずらりと並べ、また弓は弓できちんと並べてありました。また少し離れたところには何かあったら一同の者をかけ散らさせるための応援の十五、六頭の騎馬武者も警戒しておりました。役人も大勢が一度に竹法螺をブーブーと吹き立てていたものだから、初めの内は余程驚いていた風でしたが、いろいろ説諭をしてみたところ案外穏やかで聞き入れる様子も見え、各村へ引き取るようになったので大いに安心されました。この後悪い取り扱わなければ決して不穏の挙動をして郡中を騒がしてはならないといとも丁寧に訓示をされました。その訓示中東方より大目付岩上元右衛門を見かけて、徳利を投げつけた者がありました。徳利は岩上殿がかぶっていた陣笠にあたり、割れて顔にあたって怪我をされ鮮血がだらだらと流れましたが知らない風に装っていました。このとき上中居村の富豪清水三郎次という人は突然役人の前に出られて、貸
し金の請求をされました。その貸し金というのは藩において百姓に肥やし料金を貸す際に都合上各富豪より借り上げ、これを更に百姓に貸し与えたのですが、百姓の方も期限に返済ができなかったので藩においても、自然各富豪へ返す訳にも行かなく、この場において貸し金の請求を受けることになったのです。それから清水三郎次は利息計算を知らなかったか、利息は一割というというわけであったが、その一割とはどれほどになると尋ねました。大勢の者は口々に
「それは問題外である。やめろ、やめろ。」
と注意をしましたので、清水氏も後で話そうという風で下がりました。なお、また役人が説諭に取りかかろうとするとき、下佐野村の松田氏は各総代を説きまわっていました。それというのは減税がとても聞き入れてもらえる見込みがないから、今年の分は全部拝借する方がよい。また借りるということなら充分見込みがあると、懸命に歩き回ったが耳を傾ける者は一人もいなかった。松田氏は藩の重役に懇意な者がいて、この間三回呼びつけられ、頼まれたからこのよう狂ったように走りまわっていたのだということでありました。しかし、ついにその効果がなくまことに気の毒なありさまでした。これは実際見ていたのでありのままに話すのですが役人も百姓達も静かに、各自村へ引き取るというものであるから安心して帰城されました。この夜も大変寒気が強く、赤城おろしの風が強く、寒さが身にしみて骨を刺すようで、耐えることができないのであちらこちらで焚き火をして暖を取っていました。その数は確かに百カ所以上でありました。それもその筈、先発の者は下之城村を通り越し、呼び返されて同村の鎮守の森のの近くで焚いた
薪だけでも十数ぐらいありました。このようなわけでありますから人数の多いのと寒気の程がお分かりになったでしょう。さて一同の者も役人の前でこそ帰村いたしますと答えましたがなかなかそのようなわけに行きません。今このまま役人の説明を聞いて各々村へ帰り、稲を刈り取ったとしてもそれで今後の処置が良いか悪いかが容易に判断がつかないから今夜は最早余程更けているので、明日改めて柴崎村天王森へ集まり、稲刈りについて慎重に討議し、そのうえで決戦も遅くないからついては余り大勢では協議もまとまりづらく、集会のことも知れやすく、各村より総代三人以上集合してほしいと大総代より話しがあったので、その夜はいずれも我が家に帰り、床についたのは真夜中でありました。
その時から別手、米見、岡っ引きの方は各村々の重なる総代の一挙一動に注目して、片時も偵察を怠りませんでした。もしも説諭に背いて稲の刈り取りもせず、集合の場所に立ち寄る素振りが見えたら最後、否応なしに直ちに引き捕らえて詰問をするというような、物騒で危険な圧制なことばかりでありまして、ですから何れの総代も全く我が家へ帰って寝るというようなことは難しいので、一人でも我が家に帰ったというような者はないくらいでした。中には遠い他領の親戚の家へ客のようになって、寝泊まりをして、集合のある度毎に顔を出すという風でありました。いずれにしても家に残った子供達は長い間、父の顔も見ることができず、親は最愛の我が子の顔を楽しく見ることができないという悲しい事態になりました。一家団欒という家庭での楽しみから離されるようになり、妻子等寂寞とした家で寂しい月日を過ごした有様は想像のほかでした。
三十 大総代佐藤三喜蔵、家族、親戚との別れ
さて大総代佐藤三喜蔵氏は状況に応じての策略や将来の見通し等についていろいろ心を砕いて考慮されていましたが、すでに今日も各村の総代へ明日天王森へ集合いたすよう指示を出したので、百姓は二百人位は来るに相違ありません。しかし、大目付、郡奉行の言うことには今年は稲を刈って年貢を拝借するとしても、永年の困難は容易に抜けきることができず、やがてまた取り立てになるのは分かり切っていることで、最初嘆願した減納については思いもよらず、困難の上塗りをするようばかり、こうなっては仕方ありません。以前大総代三人で協議したように藩の方は埒が明かないので、岩鼻県へ願い出て、もし取り入れてもらえないときは東京へ繰り出し、民部省、太政官へ門訴するより他に策がありません。このようになっては我が身はとてもとても再び親族の者に遭うことができないでしょう。幸い今夜は穏やかでもあり、密かに忍び帰るのに好都合と、ここに佐藤三喜蔵氏は久しぶりに我が家に帰りました。岡っ引き等に気付かれないように奥蔵の二階へ上がって家の者を呼び集め、それとはなしに言うことには
「今夜、親族のものに会って篤と懇談したいことがあるので、一度に多人数がこないように注意してこちらへ来るように。」
とそれぞれ内々に使いを出して呼び招きました。なおまた紺屋職人、百姓雇い男等拾数人は村内の腕利きの若者のと協力して、村の入り口、出口に張り番をおいて、
「もしも藩より私を捕まえるために米見や岡っ引き等が来たら密かに知らせよ。」
と言われたので、番頭や職人頭に伝え、また村内の若者達にもその趣きを話したところ、皆尤ものと快く承諾して直ぐにそれぞれ手配をして、非常の用意を怠りなく厳重に監視しておりました。幸い例年冬になると火災盗難用心のため、村内で申し合わせて順番に寝ずの番をし小屋を建て、そこにおり一夜のうちに六、七廻り村内を回り各戸に「火の用心をなさいませ」と大声を出しながら拍子木を打ち鳴らして警戒のために廻っていました。若い者はこの火の用心番とも心を合わせて取り締まっていました。
そして一方、佐藤家近親の者たちは午後十一時頃までに十人ばかり集まりまして一応の挨拶が済みますと三喜蔵氏は親戚の者に向かい、
「皆様もご承知の減納願いの件は今もって吉報に合うことができず、ただ今の様子ではとても聞き届けてくれないので手段を替えて願うつもりです。その方法は今、近親の方々といえどもお話するわけにはいきません。これは大総代我々三人の他は知る者がいません。もっとも明日は柴崎村天王森へ各村総代集合する手筈になっていれば、その席で詳しく話す予定ですのでご理解ください。つきましては私の身の上でありますが、身は元よりこのことがらの起こり始めたときから既に覚悟していましたが、その他のことについて頼みたいことがあって深夜わざわざ出かけてきた戴いたわけです。もっとも家には既に相続人も決まっており、ことに数人の孫までいれば心残りはなくこればかりは誠に安心しているのですが、今皆様に頼むのは自分のことでなく、我々大総代三人の者がもしや不幸にして未だ願いの叶わないで召し捕らわれるようなことのあるときは大総代三、四人を立て、もしもこれらの者も同じく捕らわれることがあったら、第三を立て、第四、第五とあくまで願いの叶うまで領分の人のいる限り、必ず致すよう皆さんによく頼ん
でおきたい。なお我が家のことは息子勝右衛門に助力をしてほしい。」
と述べられた。そのしっかりした語調、厳然とした決心、頑強なことは大盤石のようで揺るぎのないこの覚悟に対し列席の近親等はどうこういう者がございましょう。一同も「後々のことは心配無用、そのようにいたします」と快諾しました。そこで家人においても用意しておいた酒肴を持ち出し、門出の酒宴を開き、この雰囲気を盛り上げたのは家人の心の程で、ほんとうに奥ゆかしく感じられました。総じてこのような愁嘆のときには涙がつきものですがこのために折角の決断力がにぶり勇気が挫折することは間々あることですが、よく家人が情にほだされないで、女々しい振る舞いがなかったのは素晴らしいことで、並の者には決してできることではありません。これでこそ五万石領の人達の願いを背負って、末代まで名を留めることができたものではございませんか。そこでまた夜番の若者達は終夜廻り続けて隅から隅まで目を配り、垣根の外や裏道はことのほか、注意しておりましたところ鎮守の森の木陰より、身にはトンビ合羽を被った二人の黒影が現れでて、こちらの方に来るから、若者も火の用心の声を張り上げ近寄っていくと
、倉賀野宿三国屋の子分の岡っ引きで手には取り縄を持ち、腰には太刀を付けて、
「お前達はそこで何をしている。」
と先方よりやってきたが若者達に言うと、その若者達もなかなかの強者で屈せず、怖れず答えた。
「我等は当村の若者で夜番をする者であなたこそこの深夜に神の森にいられるのが返って怪しいではないか。」
と詰問したところ、岡っ引きも
「我々も城内役人に言いつけられて、御領分を見回りの者、決して怪しい者ではない。これ、若者たちよ、今年はどうして稲を刈らないのか、早速明日より稲刈りをせよ。お前達がもし稲刈りもせず、減納などと唱え大勢集まって郡中を騒がす者があれば、片っ端から召し捕り、牢に入れるから心違いのないように、お上は無理なことをするはずがない。近所の者にもこのことをよく話しておきなさい。」
と言い残して上中居村の方へ引き返し、どこか姿を隠して行ってしまいました。この影を見送った若者はたちはほっと一息入れた。この一部始終を三喜蔵氏に知らせた。三喜蔵氏は
「こうしてみると私が帰ったのを知らないのは先ずはなによりの幸せ、天が私を憐れんでこのようにしてくれたのだ。」
と喜び勇んでその夜を明かされました。この時分はどこでもこのようなことが多く、どの村でも総代となって少しは人の先に立って、役所の方に目を付けられた者は我が家でゆっくり寝るなどということは実際できませんでした。総代達は皆困難や苦労を経た者で、丁度冬で用水堀へ水が流れていないから藁などを敷き、その上に布団を敷いて、またその上に藁を散らして、藁と布団の間に潜り込み、一寸見れば藁の散らかっているように見せかけ、そこで暖かでない夢を結ぶという有様ででした。あるいは又宅地内へ藁などたくさん広く高く積み上げます。その中に隠れて夜を明かすというような困難は皆がしていたがこれがまた大変なことでした。
またこの当時この辺ではトンビ合羽というものが流行り始めましたが、まだ百姓は一人も持っていないという時代で、それを着用する者は役人で岡っ引き等が領分を巡回に歩く時などに防寒にもなり、忍びとして使うときは人の目に付かず、至極重宝がられて夜などは必ず着ていました。現在はトンビくらいは着ない者はいないくらいですが、その時分はなかなか幅の利いたもので、トンビ合羽さえ着ていれば、両刀をさしていなくても城内の役人と見たくらいで、実際必ずそのようであったので、道路を通っていても遠くにトンビ合羽を着た者を見れば、なるたけ会わないように用もないのに迂回して脇へ避けて通ったもので、常に会わないように注意したものでありました。
さて若者達の知らせにより三喜蔵宅では役人達に知られていないのは天の助け、神仏の加護によるものと喜んでいるうち、夜も早、暁の東雲の頃になり、出発の身支度をして家族はじめ近親の者に暇を告げ、快く出て行かれたが、神ならぬ身で知る由もなく、三喜蔵氏は全くこれが永遠の別れとなってしまいました。その年の暮れ、城内、役人多人数に取り囲まれて捕まり、ついに翌年春死刑に処せられて五十二才をもって敢えなき最期を遂げられたのは気の毒な極みであります。相続人は勝右衛門と言って温厚篤実の性質で隣家を憐れみ、人望も高く、養父の遺志をついで忠実に世話をしたのは感じることでありました。
三十一 大総代高井喜三郎、家族、友人との別れ
さて高井喜三郎氏は並木より一同の者が引き払った後に残った大総代二人と寄り合い、
「今日はあのように役人は言ったがもしその言うとおりに刈り取ったならば長い間の苦心も水の泡になり、減納は思いもよらず、ただ領内を騒がし、悪名だけ残って少しも百姓のためにならない、折角総代となって責任を果たさなければ長い間悔やむことになるので、明日の集会には三人で話した通り、その手段を取るより方法はない。」
と話し合いました。幸い今夜は世間も静まっているので、今夜はこれで話し合いを終わりにし、明日集会のときは三人の決心の程を発表しようと他の二人と別れました。
永らく帰っていない我が家、村の路では人に会わないようにして、田圃を通って帰っても、家の様子を見て、八方に目を配らせながら静かに家族の者を呼び出し、裏口より忍び入り、今日までの様子を大体述べられ、ついては親戚の者や友人へ言っておきたいことがあるので呼び寄せてくれるよう、人を使い招き寄せたが、喜三郎氏は皆の者に向かって、
「この度、減納願いについて今日栗崎村で役人と約束をし、ただ今も一同の者と粕沢で分かれ、明日当村天王森で稲刈りの相談をする集合があるので、少し時間があったので幸い帰ることができた。私たち今日までの行動の結果では初志を貫くこともできず、明日より他の方法を考え、実行するつもりである。そのようになるときはどのようなことになるかも知れないのでそのときはよろしくお願いしたい。」
と心中を表し動作し、難しい言葉は一つ一つはこころの奥底からでてきた真実の言葉で博愛的な義侠と言うべきでしょう。そのとき側にいた友人は
「自分は学問もなく世の中の状況もよくわからないが、今あなたの考えを聞き、感心はしても、王政復古の第一階段を上っている状態で、今二、三年経てば世間も静まり、仁政も行き渡るようになると思うので、何もそんな危険を冒してまで減納を願わなくても自然と減免をえられるもののと考える。もし木内宗五郎のように願いの採否は第二として先に立つ大総代等の一家断絶の憂き目に見るようになれば実に取り返しのつかないことにもなるかもしれない。仮に家門断絶の厳刑を免れてもあなたの生命は実に危険なこと、薄氷の上を重荷を背負って渡るようなもの、自分から進んで危ない場所へ近寄って一命を刀の露に消えるより、ここ一番思いとどまって、お上の言うとおりにしておけば四方丸く収まるわけでよく考えて行動をしてほしい。」
と理路整然と熱ぽく話したが、喜三郎氏は別段深く考える様子もなく直ぐに返答をしました。
「ご忠告に対してはありがたく深く感謝しますが、お説のように年貢も二、三年も経てば、減免になるかもしれません。しかしながら私も男、一旦大勢の者に推選により命をかけて依頼に応じた上はどんなことになろうと今更思いとどまる訳にもいかずまた一歩譲って、わたしが思い留まっても他の大総代の諸氏はなかなか思い止まるものでもない、だから、減納の願いはやっぱり継続してやらねばならない、そうして大勢の人に高井は命が惜しくなったので逃げたなどと一生涯皆に後ろ指を指され、白昼道路を通行できず、何でそんなことができましょう。人の命は必ず断絶するもの、断絶しないのはその名である。古人が虎は死して皮を残す、人は死して名を残すと言ったが私不肖ではあるが五万石領分の数十ヵ村の者の推選を受け長い間の農民の苦しみを軽減して多くの人達の幸福を増進するのが、私達大総代の責任であります。今自己の利害に関する些少のことで領分全般の重大問題と交換するのは私が不本意というだけでなく、汚名を後世に残し冷笑を万代に伝えるのは誠に残念なので、折角のご注意は大変ありがたいのですがこの件
お止めくださることはお断り申し上げます。」
となかなか聞き入れません。きっぱりした拒絶にさすがの忠告者の友人も勇者の心動かすことが難しいとみてとり、しばし唖然としておりましてそれ以上は何も言いませんでした。側で聞いていた喜三郎の妻は夫の側に縋りより
「ただ今の言葉で夫の決心も大勢の者に断ることができないことも聞きましたが尤ものことでお止めは決して致しません。しかし、万一にも願いが叶って五万石の領分の農民の大喜びになったら結構ですが、それに引き替え、我が家はあなたは元より私を初めとして一家断絶するようなことあっては・・・・・」
と言って泣き伏したが側にいた者も何で泣かずにいられましょう。この場の光景は悲惨極まるもので、全くしばらくは無言で、ただ音がするのは心臓の鼓動と涙を払う音だけで、悲哀の感に打たれていたが、喜三郎の妻のおかんは気を取り直して起きあがり、
「もしあなただけの処分になったらそのときはどうしますか。」
と問いかけました。その時喜三郎氏も妻の意中を推察して胸も張り裂ける思いで感情も高ぶってきたが、夫婦間の愛情も大切であるがこの場に及んで女々しい振る舞いもできず涙を呑んで顔に表さないで
「私がもし処分を受けるときは娘に婿を迎え、家督相続するように。」
と言い渡しましたが、その内に夜も白々と明け軒下で飛び交う雀まで何となく静まって見えました。しかし、そうこうしているうちに朝飯もでき、久しぶりに喜三郎氏は家族揃って食事をとり終え、世間話をしているうち、早くも天王森へ行く人の声も聞こえ、五、六十人集合しているとの連絡も入りました。これを機に近親の者やそこに集まった人々へ暇を告げ我が家を立った喜三郎氏もこれが全くの別れになってしまいましたが、実に家族の者は断腸の思いであったろうと思います。
三十二 大総代小嶋文次郎、家族、親戚との別れ
小嶋文次郎氏も他の大総代と同じく皆が引き払うのを見届けて永らく村へ帰らなかったものだからどうなるか分かりませんので久しぶりに我が家に帰り、老父母に会い、心に決別をしようと帰途につかれました。皆さんご承知のとおり粕沢より上小塙村へは高崎を通らなければなりませんが、もし岡っ引き等などに会えば面倒なので大事なことが目前に控えているので、警戒して岩押村に出て長野堰きの脇を通り、飯塚村へ出て、帰村しようとしましたが、他の二人の総代の下中居や柴崎へ帰るのと違って、かれこれ二里(約八キロメートル)の遠路で道中は全て高崎付近を迂回するのだからなかなか危険な所でした。ちょうど若者で粕沢へ帰る者がおりましたので、腕利きの者を選んで警護してもらいましたが、幸い何のこともなく帰村されたのは天の助けでありましょう。
そこで小嶋文次郎氏も他の総代と同じように親戚の者を呼び集め、一同の者に向かって、
「皆様もご承知のとおり減納願いもなかなか思うようにならず、このように過ごしても少しの効果も現れず悩むだけで、いつ苦しみから抜けるとも分からない。そこで我々大総代の話し合いの結果、非常の覚悟をもってその手段を取ることに決まり、明日稲刈りの可否を決めるため、柴崎村の天王森へ集合する際発表しようと思うが、幸い今夜は少し時間的な余裕ができたので老父母の顔を拝見しどうされているかと心配して帰ってきた。」
と感情豊かに話し親孝行の気持に溢れていたので涙しない者はいませんでした。小嶋氏は両親に対して常に細かい配慮して、両親のことを少しでも忘れたことのないほどの孝行者で近所の者も慕わぬ者はないほどでした。父の名は政次郎といって八十五才、母はハナ子といって八十四才、妻はキチ子といって文次郎氏と同じ年の四十四才、長女はハル子といって容姿端麗でそのときが十五才、次女はユク子といって九才、長男 次郎吉は三才でありました。後に長女のハル子へ婿養子を迎え、次女ユク子は室田町の某家に嫁入りをし、長男次郎吉氏は親戚へ養子に行ったということであります。このように小島家は和気あいあいで、波風は少しも立たず、今文次郎は老後の父母を私に代わって孝養するように妻に言いつけ、相続についてはこのようにと指示をして、心おきなく安心して世間話をして夜を明かしたのは実に美談中の美談であります。
ちょっと言い添えておきますが、この佐藤三喜蔵、高井喜三郎、小嶋文次郎の三氏についてはその当時聞いた記憶そのままをお話しいたしましたので推測によるものでないことは断言しておきます。
三十三 天王森での稲刈りの評議
明けて十九日となり、昨夜中山道で大総代より明日天王森へ集合して郡奉行、大目付の諸氏の説諭に基づき稲刈りとりの可否を決するためと話しておいたので、まだあまり夜もあけない頃から徐々に寄り集まり、八時過ぎ時分には早予定の人達は皆集まりましたので、佐藤三喜蔵、高井喜三郎、小嶋文次郎の三氏は大勢を集めて、
「昨夜役人のから聞くことによると、金田節右衛門殿が減納願いのことについて東京へ伺いのために行ったので、十日くらい経てば許否は分かるだろうから各々引き取り、穏やかに稲を刈り取るようにとの説諭があった。その役人の言葉に従って引き取ったが我等総代は減納願いについて熟慮していろいろ考えたが、このことについて聞き入れてもらえることは殆ど期待できない。我等の愚案を申し上げて一同の意向を受け、方針を確定しておかなければとても願いの叶うことと思えない。」
と悩み溢れた表情で相談を持ちかけられ、一同も何でこのようにするべきか、大総代諸氏へ事件の初めより信頼して万事万端指揮を任せたのであるから、どんな手段を取るつもりかと問いただました。
大総代は
「とてもこれまでの方法では難しく、まず我等としては岩鼻県にこのことを訴願して、同県知事へ高崎藩へ相談して貰う手段をとるが良いと思う。万一不幸にも同県知事が取り上げてくれなかったなら、もしまた高崎藩へ話し合うことができても受け入れてくれないようになった場合、やむを得ない。そのときは大勢して東京へ繰り出し民部省や太政官へ門訴する他に良策がないと思いますが、みなさんの忌憚のないご意見をお聞かせ願いたい。」
と問いかけられたが、一同の者も今更大総代の意見の固い決心を聞いては異議の唱える者はあるでしょうか。ただの一人もいませんでした。今日はここで稲刈りの可否について懇談するはずでしたが重大問題が出されましたので、自然お流れになり、稲刈りの話はなされませんでした。
「やはり、先ず我等総代の間ではこのように意見が一致してその方針を取るとしても、一応全体へその趣旨を知らせ一般の人の意見を聞くのが穏当である。」
との意見もあり
「先ず明日よりそのことに着手しよう。一同の者には綿貫村市ケ原二子山へ集合して手分けして岩鼻県に訴願するようになった。」
と、各村よりここへ集まってた者は帰村してそのことを伝えました。一般の百姓も適当な処置であると一言もとやかくいう者がなく、大総代の意見を是認して一同大歓迎をし、岩鼻県の知事が取り上げてくれるよう密かに期待して翌日の来るのを待っているのは無理からぬことでした。そのとき
「ただ今城内より一小隊の兵士が繰り出した。」
との知らせが入り、一同も驚きひとまず、他領へ引き払う方がよいだろうということになり、天王森を引き払い、市カ原目指して引き上げたのでなかなかの混雑でありました。
三十四 綿貫村堀米方での願書書き
昨日に引き続いて今日の天気は風もそよそよ、空にはいっぺんの雲さえなく小春日和の暖かさに各村より集まってくる人々も大総代の意向を聞いて心中何ともいえない感慨にしたり踏む足も軽く、遠い道も苦にせず集まり、割合に早く競うように集合所へ駆けつけました。しかし、この噂が岩鼻県庁へ知れたと見えて、岩鼻県庁より役人がやってきて、大総代三人が普賢寺へ呼び出されました。そこで、大総代も早速出頭して訴願しようと普賢寺へ行き役人に会って農民の困難な状況を度々藩へ訴えても聞き入れてもらえないことについて詳細に陳情をしましたが、役人が言うには
「あなた達の趣旨は誠に曖昧であるのでその趣旨を急いで願書に書き差し出すようにしなさい。」
と繰り返して言いましたので大総代も非常に満足して大いに喜び、何分よろしくお願いしたいと礼を述べました。しかし願書を書くにつき一応協議をしなければならないので、同村堀米氏の座敷を借りることにしました。大総代と主な総代五、六人が協議をし願書を書いていると、どうして知ったか郡奉行谷口忠左衛門殿を初めとして十数人がどやどや入って来ました。大総代等は少しは狼狽しましたが、皆直ぐ落ち着いて何食わぬ顔をしていました。すると郡奉行谷口殿は早速口を開いて、
お前達は昨夜あれ程に各村へ帰り、稲刈りをするように話したところ、納得して引き取りながら、未だそうすることなく、なんと他領まできて訴願するとはもってのほかこの上ない。ただ今見受けるところ、何か願書に様なものがあったようだ。願書をここに差し出しなさい。」
と手を延ばして奪い取りそうな剣幕だったので、大総代の一人が俄に願書を懐に入れ、裏口より抜け出し、この家の竹の込んだ藪に入り込み、漸くのことで願書もでき捺印もすみましたからぐずぐずしてて探し出されては面倒と普賢寺へ行き先程会った岩鼻県役人へ願書を出しました。どんな文面だったでしょう。
三十五 岩鼻県庁へ訴願状の提出
先に岩鼻県の役人に面談して口頭で願書を提出するように言われたので、堀米氏方で密談中に郡奉行の来襲で協議の真っ直中のところで踏み込まれました。従って充分な協議の末の内容でありませんでしたが提出された訴願状は次の通りです。
訴 願 状
恐れながら書状をもってお願い申しあげます。
我等村々の米納は至極難渋この上なく、田畑の延口米は一石につき五斗四升八合六勺で納めるのは困難で、近年麦作も夏作共不作で生活するのに途方に暮れています。今般万民が難渋のときは救助してくださるという趣意のおふれがありましたので恐れ多いのを省みず嘆願をする次第です。地域が違うのにお願いするのは自藩では取り上げてくれず、嘆願する者は入牢させるなどと脅し、所詮支配所役場において取り入れてもらえないからです。米納一石につきやっと五斗五升の延べ口では難渋が少なくなく、家が潰れたり、立ち退きをしなければならず、実際当惑し難渋をしております。何とぞ慈悲をもって年貢の方法を岩鼻県同様の延べ口にして、数十カ村の百姓がかすかにも生活、相続できるよう朝廷様の威光をもってこれを取り上げていただければ数十カ村の百姓にとってありがたき幸せでございます。
十月十九日
高崎藩支配所四十五ヵ村総代
下中居村 三喜蔵 印
柴崎村 喜三郎 印
上小塙村 文次郎 印
岩鼻県知事
小室信太夫殿
右記のような訴願状でありました。大総代から差し出すと役人も取り上げになり、大総代の心中もようやく安堵してきました。一方堀米氏宅で置き去りにされた郡奉行谷口忠左衛門どのは怒髪天を抜き、憤懣を耐えることができなかつたようであるが、他領のことなので何もできず、やむなく使いを普賢寺にやり大総代へ早速来るようにとの急便を出しました。このときの役人も郡奉行の憤りの様子を見ていたので自分たちも自然憤りを表に出し、普賢寺の玄関より押し上がり、怒気を含み大総代等に大声で
「郡奉行のおられる席へ出頭せよ。」
と言ったものだから正面にいた岩鼻県の役人が怒り出し、
「お前達は無礼であるぞ。我々の席に乱入して、一応の挨拶もせず大声を出し、失礼なその振る舞い黙ってみているわけには行かない。彼らを引きづり出せ。」
と立ち上がりますと岩鼻県より役人に付いてきた者達が総立ちとなり、使いの者をつかみ出そうしました。初めの威勢のいい様子はどこへやら、平蜘蛛のように顔つきまで真っ青になり、失礼の段を謝まりました。その姿を見て総代たちも気の毒がり、岩鼻県の役人も抱腹絶倒に耐えないというう程でした。岩鼻の役人も一度はその無礼をとがめてみたが気の毒にもなり、その罪を許し、なお総代にも
「とにかく出向いてみなさい。」
と言ったのでここで初めて、高崎藩の使いの者は安心し、今度は礼を厚くして総代達を連れ堀米氏宅へ帰りました。大総代も何事かと思って帰ってきましたが、谷口氏は怒りの顔色もなく何となく落ち着かない様子でした。しかし谷口氏もなかなかの知恵者自分が怒鳴り散らしたところで解散しないだろう。それよりおとなしく話して反省させようとして丁寧な語調で
「未だ稲刈りもせず、騒いでいるのは良くないことである。その辺のことを考えて一同の者に伝え帰村するようにしなさい。」
丁寧に話されられたが一同の者はただ「はい、はい。」と何気なく返事をして、一向帰村する様子もなく、しかも馬耳東風と聞き流して少しも効果がありません。谷口殿も持て余し気味で呆れるばかりで、
「皆、考え直して帰村するように。」
と言い捨ててお帰りになりました。結局一同の者は先ずは厄介払いをした気になり、うるさくなくて結構と普賢寺に向かい、役人が帰庁するところだったので、これ幸いと役人に付いていき岩鼻に行き県庁へ出頭しました。しばらくの間待ってほしいとのことで控え室で待っているとその夜の十時頃知事小室信太夫殿は親しく大総代を呼び出し自ら大総代に向かい合い
「願書の趣意は承知した。追って連絡をする。」
と言ってくれました。大総代も
「何分よろしくお願いします。」
と礼を述べて退席をしたが最早そのときは深夜でしたのでその夜は万屋へ宿泊することになりました。市ケ原の二子山へ集合の者へはその旨を知らせ、一同も大喜び、言い知らせ一刻も早く来るように祈っておりまして、一人として帰る者がいませんでした。
ここで大勢の者が困ったことがあります。それは三度の食事のことであります。前に稲刈りをして弁当の用意をしたことはお話ししましたが、日数も経ち第二の廻り刈りをしないと弁当米が欠乏するだけでなく、市ケ原にいる者を救うことができないので、夫の身に危害のないように、願いの筋も聞き届けられるようにと神仏へ祈願した女子供達は第二の廻り刈りをしました。その刈り方が大変異様でありました。前に申し上げました通り、一筆の田の廻り三尺(約九十センチ)刈り取ってこれ以上は刈れない習慣でありました。第二の廻り刈りをするということですが、窮余の策では仕方ないでしょう。そこで十五才から六十才までという少年から老人までいる集合場所の市ヵ原へ毎日近くの者が取りまとめて代わる代わる運搬しました。これも普通の道を行けば訳もないのですが、例の岡っ引きや米見等に出会うと面倒なことになりますので、遠く迂回して市ケ原に行かなければなりません。朝の弁当は前夜に運び出し、昼の分は朝早く持っていく風に普通はできたのですが、しかし、朝食が昼頃になったり、昼食が夜になったりすること
も珍しくはありませんでした。
一方市ケ原にいる者も同じ道理で時間が来ても食事ができず、吹きさらしの中で、天幕でもあればまだ我慢できるがそんな設備をする暇もなく、少しの枯れ草や落ち葉をかき集めて暖をとって夜を明かすのはどんなに困難だったか想像の他であります。増してこの時節は関東名物の空っ風も吹いて霜柱や薄氷のことも毎朝のようでその中で野宿するのですからたまりません。それも訴願に対する熱意があったができたもので、古人の言葉に精心一到何事かならざらんと言いますが実にその通りでただ感心するほかありませんでした。
一同の熱意に押されてか岩鼻県知事小室信太夫は遂に十月二十一日右の願書を持って東京へお発ちになったとのことで、これを聞いた一同は小躍りした喜びようは言葉で言い尽くせないほどでした。吉報を一刻も早く耳にして家で留守をしている老人や妻子に吉兆を知らせるが遅いと心配するくらいでありました。それから、一日も過ぎ、二日も経って既に同月二十八日の十二時頃岩鼻県庁より大総代へ早速出頭するようにとの連絡が入りました。待ちに待ったことですから、直ぐ出頭していきました。少し待っていると小室県知事もお出ましになり、
「皆さん方からの願いはその筋に伺い、高崎藩とも相談し東京へ行った役人も早速減納するようと言われてきたので、そのようになると思うので帰村して命令を待つように。」
と言われたので総代達も大いに喜び、ありがたき幸せと礼を述べ、退出して万屋に帰りまして、なお後々の願いの手続きなどを打ち合わせて吉報を待っていました。
三十六 一年限りの減納
さて、大総代等は万屋で万端の用意に余念がありませんでしたが、高崎藩より達しがあったとの情報がございました。
その藩支配地上州群馬郡四郷畑方永納並びに延口等減納のこと、また藩県一致の制度のこと、御趣意に付き速やかに御料所同様改革なるはずと心得ます。難渋申し立てのこと、一応尤ものことだが、土地の善し悪しもあり且つ従来の定額で昨年まで無滞納でありながら、当年になり岩鼻県同様にしてほしいと強訴に及び暴挙に至るのは愚昧で不束であり、税則を一時に改めることは大変難しく、他地域へも影響し民心の関係の大事件につき追々処置を行うが、古い慣習に従い農業に精を出すように、当年の不作についてはその藩に応じて相当の納め方を採り計るようにしたい。
十月二十日
太政官
覚
田方延口米新領三五村同様のこと
畑方居屋敷は永納のこと
麦、大豆、綿代を時の相場で買い上げのこと
右の願いについて
御支配所農民の代表者より願いの趣意聞いている。当年は田方稀な不作で事実難渋相違なく深く憐察するので一ヵ年限り知事様により願いを別紙のようにいたすのでありがたく心得よ、永世法取り立てのことは朝廷に伺いを立てているので沙汰あり次第伝えるので心得違いのないように。
十月二十八日
高崎藩役所 印
西郷肝煎名主
石原村
太郎平
大総代等は右の達し書を拝承したが何分一年限り減納を聞き届けてくれるとのことでは願い書のの本旨に添いません。五郷農民の願意はこの年が不作だから減納してくれというのでなく長年取り立てが重いから将来を通じて減納になるとの精神だったのです。
今、一年限り聞き届けるというだけでは何となく物足りない気持はするのではあるが、ともかくご配慮を戴いた知事にこれ以上哀願するわけにもいきませんでした。ひとまず、万屋を本陣として直ちにその由を一般に通知してしばらく休憩滞在し、世論はどうか伺っていました。中にはたとえ一年でも聞き入れてもらえるのは結構なことだなどと言う連中も少しはいましたが、大勢の者はなかなか承知しません。どうしても初心の貫徹をきして一毛たりとも譲歩する気持はないばかりでなく一層進んで強固なる手段を採るようになってました。
そうこうする内に飛報が入り。
「城内では到底このままでは鎮静しないから大総代三人を召し捕り究明すれば少しは人心も静穏にさせられる。今や召し捕りの手配を厳しくなる。」
とのことでこれを聞いた人々の心痛は穏やかでなく、たとえ他領分であつてもそのような噂があれば安閑とはしていられません。ついては岩鼻付近で会合するので自然高崎に知れやすく今度は方向を変えて、寺尾村辺りに密会しようと約束をしました。さて佐藤三喜蔵、高井喜三郎、小嶋文次郎等の急進派の諸氏は小室岩鼻県知事の訓示やら、藩の通達などを聞きましたがそれくらいでは満足できません。そこで会合場所を改め、それぞれ道を変えて人に知れないように集まり、寺尾村の永福寺を借りようと同寺の世話人矢嶋五郎平氏を訪問しました。矢嶋氏に事情を話して住職より承諾を得て、本堂の奥深いところで極僅かの主導者がたちより密談をしました。しかし、この会合には同志の者だけで決して他に知る者は一人もいないはずなのにどうして知れたのでしょうか。後で聞けばその夜寺の床下へ密偵が忍び寄り会合の模様や相談の内容等事細かに聞き取り、これを高崎藩に報告していたらしいとのことでした。従って藩では厳重にその手配をし、捕り手の役人は密かに大総代を捕らえて、恩賞にありつこうといろいろな手段や方法を取
りながら後を付け窺うとは実に少しの油断もできませんでした。
大総代佐藤三喜蔵氏等は既に民部省へ出訴する手筈もでき、用意万端整いましたが、なお完璧を期するため、多少の日数も要するので時々潜伏場所を変えてむ、岡っ引き等気付かれないように苦心し知恵を絞り、役人の目を逃れていたのは臥薪嘗胆、将来の成功をきして長い間苦労する思いでございました。しかし堅固の思想が障害に合う毎に益々強くなる見え、不撓不屈、どんな困難にあっても自分の意志を通す本領を発揮して勇進されたのは後世の鏡でした。そこで永福寺の総代の矢嶋五郎平氏は気の毒にも総代密会のため寺を貸与するために奔走した罪により、藩の民政所へ呼び出され役人の取り調べを受け、入牢されました。しかし、十五日目に村役人預かりとなって帰宅を許されました。
三十七 別行動隊の協議
宿大類村その外の他藩へ訴願をした村々ではこの度一年限り減納聞き取りのおふれがでましたので羽鳥権平氏、久保田房次郎氏等の総代は早速村々へ稲刈りの急回文をその趣を伝達して、その内に何か沙汰があることを待った模様でありました。
今その回章を参考のために申し上げましょう。
略儀、回文でもって申し上げます。今般村々で検討したことについて総代を以て嘆願しましたところ、格別の御慈悲を以て、願いの通り当年だけ聞き入れてくれるとのことありがたき幸せにおもいます。来年よりのことは朝廷に伺い沙汰があり次第、報告するとのことです。付いては稲刈りを一同二日より刈り始めるよう連絡をお願いいたします。
各村名の下に時刻を入れて回してください。
十月二十九日 午後八時出
村々総代 兼
宿大類村
房吉 印
文吉 印
南大類村 宿大類村 矢嶋村 西嶋村 下新田村
大友村 江田村 新保田中村 上新保村 井野村
西貝澤村 東貝澤村 下新保村 上大類村 江木村
石原村 乗附村
右村々御名主衆中様
右記した回文を回したもので、かれこれ一ヶ月騒ぎ、これといって家業も手に付かずお上の沙汰を待っていたときでもあり、来年のことは朝廷へ伺い中と言う文面もありその内に減納になるだろう。たとえ一年でも猶予があればありがたき幸せと言う至極穏和な語調だったので、どうこう言う者もなく、皆それぞれ二日の日より稲刈りを始め秋の収穫に取りかかったが、不作のことは実際不作であって穂先も例年よりは軽かったが、秋の仕事もそれぞれ片付いていきました。
さて先立つ者が既にお上に対して減納を願うという有様になってみれば、自分も自然そのつもりになって、平年より一層倹約をして減納を願って誠意の程をお上にも知らせようと協議して、百姓達の声を聞いたところ、もっとものことということになり、万事総代の意見にまかすことになりました。総代等はその規約の起草に取りかかり、万事言行一致の態度を時世にあった条項を列記して誠心誠意をもって感動させるという主義で、いろいろな方面で検討し、幾日かのうちに脱稿しました。その条項は後で詳しく申し上げます。
三十八 郡奉行各郡へ出張
高崎藩では領内百姓が減納の訴願をしようと寄り集まり協議をし、領内を騒がし隣県、藩の厄介になり、ついに一年限りにしても聞き入れたので、自然藩の収入上において、少なからぬ損害を蒙りましたが、なおも農民等は満足しないようであるから、一応損失の内容を説明して満足してもらおうと、各郷へ出張し百姓を集め説明されました。そのうち下郷は柴崎村の名主桜井佐助氏方へ郡奉行谷口忠左衛門殿が出張して弁明されました。
「藩でも、この度願いの趣きを聞き入れた仁政は皆の者ありがたく、よく心に止めておかねばなりません。各自の上納額では少しでも知事様の損害は大体十六万両あまりに達する大金である。畑方年貢が一万三千俵余りで見れば代納となり、一俵の米は四斗三升六合八勺であるからこの根取り米が二斗七升一合二勺二才で、これを一両に付き一石二斗五升相場仕切故、一俵の代は二貫百七十文に総投資積算すると二千八百二十一両となる。これを一両につき九升相場でで換算すれば五万八千五百両余りになる。前の分を差し引けば畑方で五万五千六百七十九両余りの損害になるので皆の者この辺の所をよくのみこみ殿様の懐を察し、そうそう騒ぎ立てないで、家業に励んだ方がよろしい。そのうち太政官でも諸事仕方が変わり皆も追々楽になり、殿様も一般の難渋を察せられこそ、このような莫大な損害を蒙っていらっしゃる。」
世俗に長けて悪賢い感じの話し方で説明されたので一同も少々煙に巻かれた気持で、誰も何とも言いませんでした。勿論当時の人達が藩の財政がどうなっていたか分からないので、どんな説明をされても、たとえ勝手気ままのことを話されても全然分からなかったという人が多かったようです。このように各郷を巡回して民意の鎮撫に苦心されたのは時にとって懐柔的策略でございました。しかし、百姓側では願意の貫徹を期して再び岩鼻県に願書を差し出しました。その文は
お恐れながら書面を以て嘆願申し上げます。
高崎藩支配所上州群馬郡四十五ヵ村総代下中居村百姓造酒之助他二名が申し上げます。
私共、畑方年貢米納、田方延口米その他諸藩と相違があって極めて苦しい難渋の生活を強いられております。
先般当県へ嘆願申し上げたところ憐れみある処置を戴き村々一同の者感謝しております。ご領主より村々へ廻達によると愚昧な下民の故昨年まで数年来小物等に至るまで滞納なく上納してきました。当年に至り至り田畑年貢上納難しくなつてきています。年貢差替金と称し村役人が連印証文を差し入れ、隣村身元の者より沢山のお金を借り受け、米納の不足の分にあてています、お触れにより一年限り減免になりますが、右借財の返済も行き届くようにお願いしたい。転居したりして村の住居も繁栄せずにいるのは如何に難渋の生活をしているか分かるでしょう。そのわけは
天明時には 四十五ヵ村に家三、五一九軒、人一五、八一九名、
現在 家二、五三二軒、人一二、五一一名
差引き家 九八七軒 人 三、三○八名
でかなりの家屋敷、人数が減少しています。
右四十五ヵ村の内新後閑は亡村になりました。それは畑方米納田方延口米の強納によるものであります。このままでは百姓一般を継続するのが難しく転居等強いられることになります。この一年の減免により去る人も少なくなっきています。私共の身分についてはご理解ある上中里村名主勘右衛門へ引き渡しになり帰村されました。今般総代相立ちこのままにしておくと国中闇になりますので召し捕り、村役人より請書手配をして戴きたい。
当県は対応極めて厚く 幾重にも難しいことを承知していますが私共極めて難渋しておりますので、別紙並びに借用証文写しを相添えてお恐れながら嘆願申し上げます。
以上のことをお聞き入れ戴き各々安心して村に住めるよう、偏に憐れみのお沙汰をくださいますようお願い申しあげます。
明治二年十一月二十日
高崎藩支配所上州群馬郡四郷
四十五ヵ村総代
下中居村百姓
造酒之助
柴崎村百姓
喜三郎
上小塙村百姓
文次郎
岩鼻県知事小室信太夫殿
下並榎村の名主清水吉兵衛なる人物は藩と百姓との葛藤を仲裁しようと四十五カ村の総代を岩鼻町郷宿万屋方に訪問拒絶される。藩においては左の注意書を出す。
厩入草の件願の通り相場をもってお買い上げ、納方は取り調べの上沙汰をする。
下並榎村吉兵衛においては不正の筋なくその段心得ちがいのないように、大小百姓、社寺門まで洩らさず早めに伝えてほしい。右の願いにはその筋の申し出者によるものである。
右の通知五ヵ村郷へ刻付き触れを出す旨心得よ。
十月二十三日
三上真一郎 印
三十九 大総代佐藤、高井両氏捕まる
十一月二十六日
東雲の空もほの白く
農家の鶏鳴は早暁を告ぐ
月は武甲山の頂きより
寒き薄き光を放つ
夜陰未だ深く
耳に聞こえるは
冬木の枝の枯れ葉の音目に遮るは
木末、まばらに照らす月
後ろにもの哀しく
赤城おろしがそばだつ
我が足音さえ気をおき
一人胸中に秘して
中山道歩む人影あり
これ五万石減納願い
大総代の筆頭三喜蔵氏なり
三喜蔵氏は昨夜所用があって忍んで倉賀野上佐野等へ行き、小総代三人にどうしても会わねばならない用をたして、世間はまだ白川夜舟の頃合いに岩鼻町御宿万屋指して帰る途中に宿端ずれも遠のき岩鼻町へ差し掛かる中ほどの田圃に梅の木というところがあるが、ここまで来ると突然にも前後左右より待ち伏せていた十余人の岡っ引きが現れて三喜蔵氏目がけて
「御用、御用。」
と声高に呼ばれ手に赤の八つ房付きの十手を振りかざし、捕り縄を手にして四方八方より取り囲みました。神ならぬ三喜蔵氏は、こんなところでこんな風に出遭うとは夢にも思いませんでしたが、そこで心を取り直しこうなっては仕方ないと直ぐ身構えして逃れようとしました。ともかく身長は六尺(約1メートル80センチ)体重は二十五貫(約95キログラム)もあり、若い頃は鎮守の夜相撲もとった程であるから相撲の手も心得ていて腕力に優れていたり、撃剣の道も心得ていて度胸も胆力も備わっていました。
しかし何分突然のこと一度は驚いたがこうなったら百年目と十余人の岡っ引きを相手として満身の勇気をもって暴虎の群羊に入ったが力戦奮闘、暫時の間格闘をしました。しかし、相手は多人数入れ替わり立ち替わり攻め寄るから、衆寡敵せずのたとえのように追々力も尽き遂に遺憾ながら組敷かれ、無念ながら彼らに捕らわれました。そして倉賀野宿上町にある三国屋へ引き連れられて行かれたのは実に気の毒の至りでございました。
そして岡っ引き等は百姓騒ぎの大総代の筆頭の三喜蔵氏を捕まえましたので三人ばかりで三喜蔵氏を護送して残りの十余人は直ぐ同所より岩鼻町万屋へ高井喜三郎氏召し捕りのため向かいました。万屋はまだ女中だけ起きて朝食の準備中の様子だからまだ早いと引き返し人目にかからないように潜んでいました。その内どこの家でも朝食を済ましてそれぞれ仕事に出かけ、最早潜んで隠れても入られずいよいよ万屋目指して向かったとき、その主人岸根常吉氏は床屋へ行って不在、他は妻女や子供に雇いの女中、県庁へ来た名主たち約二十人ばかりいて、茶を飲みながら雑談中でありました。捕り方の者はその席へ踏み込み、親分三国屋は子分の腕利きの喜三郎に注意のため高声で
「喜三郎気を付け。」
と申しますとその座にいた高井喜三郎氏は突然大勢の岡っ引きに踏み込まれ自分の名まで呼ばれたので私を召し捕りのため来たのだろうと少し狼狽の体でありました。喜三郎は
「未だ願いも目的通り叶えた訳でもなく、今捕らわれてもしや死刑にでもされたら、今までの苦労は水の泡に帰し百姓の困難を救うことはできなくても、ともかくこの場を逃げ、再挙を謀ろう。」
ととっさの考えでこの席を抜け出ようとしました。岡っ引き等は元より高井氏の顔を知らないので高井氏がこの席にいるかどうか苦慮していたのですが
「血相変えて逃げだそうとすのが喜三郎に相違ない。」
とここに初めて彼らも御用の声をかけ十手捕り、縄を取り出し高井氏目がけて打ちかかりました。高井氏は大勢の岡っ引きのために捕り押さえられたのは実に気の毒なことであった。これまた三喜蔵氏同様三国屋へ引き連れられ行きそれから少し休憩を捕って両氏をいよいよ高崎城内へ護送することになりましたが、この変事は倉賀野宿の者初め知る者は一人もなく岩鼻郷宿万屋よりの音信で初めて農民が知りましたが如何にせん時間が余程経ちましたのでどうすることもできませんでした。そうこうするうちに近郷隣村の倉賀野、下佐野、上佐野、下之城、下中居、上中居、中里、栗崎等の各村々へ知れ渡り各村の誰彼となく聞く者皆容易のことでないと判断し、大総代二人護送の途中において奪い返そうと倉賀野宿へ行く者、又中山道並木へ駆けつける者は何百人といました。その混雑の有様は右往左往であたかも蜂が飛ぶようで全然狂乱の態で何とか奪い返そうと老若の別なく、馳せ集まりましたのは実に優勢なものでありましたが、何分、烏合の勢でありましたから結果はどうなりましょう。
四十 粕沢石橋投石事件
今、万屋で大総代が捕らえられたとの急報が入ったので護送の途中奪い取ろうと中山道へ駆け集まった者は数百人以上にも及びました。ちょうどその日は下ノ城村の米量り日でありましたから幾百俵となく米俵は郷蔵の近くへ集められていました。百姓達がその辺一体に筵を敷き、米見等が今や米の検査で手直しをしようとすでに七、八人ばかり手直しを言いつけられて準備中のとき、大総代の変事を聞いたので、そこに居合わせた者は筵を覆いかけ始めました。これを見た米見は
「今年六月より諸役人の役名変更して米見役民政使となった。」
役人は納入人が何となく落ち着きなく心中穏やかでないように見えるものですから名主にどうしてかと聞いたら、このようでありますと述べたので、役人は大いに喜んでいるようでありました。しかし、そこにいた百姓たちは大いに怒り米見役も敵の片割れであるから筵巻きにして殴り殺せと罵り騒ぐ者もおりましたくらいでありましたたから、米見役人の方も少々気味が悪くなって納入人等が米に筵をかけ並木や倉賀野へ駆け行く者にを呼び止め、
「今日は無検査で直ぐに入俵を許すから米を処分しなさい。」
と引き止めても誰もこの言葉に従う者がなく皆ドシドシと駆け出していってしまったので、やむなく米量りは延期となりました。このようなことだったので誰も彼も並木目指して集まっていったので、三国屋の岡っ引きは大勢の百姓が駆けつけるのを見て、万一にも先に召し捕った大総代を取り返されては一大事と直接護送の手筈を定め徒歩で前後十七、八人で三国屋を出発しました。このとき百姓衆はまだ早かったのでわずか四、五十人位であったものですから手の付けようがなく、隙があればと思いつつ空しく後ろに付き添い段々進みました。岡っ引き等がいよいよ上佐野村の粕沢へ差し掛かる所近くに来るとちょうど倉賀野分と上佐野分との境界に四間ばかり(約七メートル)の用水堀があり、これにかけた石橋の付近に上佐野、下佐野、下ノ城等の百姓数十人集まり石橋の下や用水路の中に入り、ここへ岡っ引きが大総代を護送して通過すれば不意打ちをして、奪い返してその辺の小石やがれきを拾い集めて、今や遅しと待ち伏せていましたが、岡っ引きは手に手に刀を振って警戒して石橋を渡ろうとしました。しかし、兼ねてから待ち
続けていた百姓の方では一斉にがれきを投げ始めました。岡っ引きは抜刀で防いでしばらく闘いました。残念ながら百姓の方には、抜刀も、弾丸もなく、頼みのがれきも少なくなってきたのを見てか、岡っ引きの方では抜刀を打ち振り、水路の中に飛び込んで来て、切り捨てるような剣幕だったので、眼前にいる大総代両人を奪い返すことができませんでした。百姓達は遺憾ながら歯ぎしりをしてみすみす敵に委ねてしまったのは誠に残念なことでした。岡っ引きも一時は余程持て余した様子でありましたが、わずかに飛んでくる小石で怪我をするくらいでついに岡っ引き方が優勢になり彼らは威勢良く高崎目指して急ぎました。しかし、以前西光寺を引き上げ並木で郡奉行が説諭をした粕沢の一軒屋へ差し掛かると、大総代両人はどっと座り如何に岡っ引き等が騒ぐとも身動きもしませんでした。これには岡っ引きも大変当惑していたようであるが、大勢の岡っ引きはどう脅かしても、なだめても動かないのでやむなく大総代の手を取り足を取り遂に引き連れていきましたが、両氏の心中を推察すると胸が詰まる想いがいたします。この場の騒動で岡っ引きの負傷者が少なかった原因は大総代両人を的にして卑怯
にも彼らはその影に隠れ、飛び来る小石はかえって大総代に当たる訳になったので百姓側もこれでは大総代に申し訳ないと遂に投石を止めてしまったからであります。
四十一 三国屋へ百姓が乱入
倉賀野目指して引き上げた百姓達はまだ多数倉賀野に留まっているらしい。残りの総代も捕らえると思い、ここ一番
「こちらから襲って先程の仇を返してやろう。」
と言いだした者がいて、一同もそれに賛成して、遅れて先を越されるようであれば、なおさらの一大事と三国屋へ押し寄せたが、その勢いといったら脱兎のようで誠にその早さは素晴らしいものでした。三国屋というと倉賀野上町にありました女郎屋で、当時倉賀野は今日のように鉄道もなかったので江戸より利根川を川船で荷物を輸送して上州は勿論信州路へ多数の荷物は皆倉賀野の川岸へ陸揚げして馬の背に乗せ、信州へ碓氷峠を越えていったもので、中山道の宿駅の中でもなかなか盛っていた場所で女郎屋もたくさんありました。三国屋はその中の女郎屋も兼ねていて、岡っ引きの親分としての幅を利かせ、悪徳商法で暴利を貪っておりました。
なんと言っても烏合の衆、現在の主導者の大総代を引き連れられて行くのを見て奪い返そうとしたけれど成就できなかった百姓はあたかも雪崩のような勢いでどやどや同家へ押し込みました。こてこの騒ぎはひと方でなく、上を下への大騒ぎで残っていた岡っ引きも衆寡敵せずのたとえのように急に卑怯になり、隠れ座敷へ逃げたり、天井の板を破って次の間に潜り込んだりして、いやはやこの騒動のこの場面は実に気の毒であり滑稽でもありました。
多人数で見張っているので隠れ通すということができず、見つけられて引きづり出されて棍棒で殴られたり、薪で打たれる等さんざん打ち据えられる者、東隣の浪元屋へも逃れる者、烏川へ飛び込んで対岸の阿久津方面に逃げる者等がおりました。一時はやかんの沸くときのような凄ましい有様でした。
このとき、同宿の問屋場へ毎日高崎城内より立ち会い兼監視という遠藤氏が袴の股立ちを取り、太刀を持ち落ち着かない様子で
「皆の衆は何を捜しているか。穏やかにしなさい。私を案内してくれ。」
と一寸愛嬌を振りまきながら奔走していた遠藤という方は、数年来晴雨に関係なく毎日倉賀
野の問屋場へ出張されていましたから、今ここに集まっている百姓を知らない者がなく、百姓の方でもこの方を知らない者がいないくらいで、日頃あまり憎まれていない方でしたから同じ城中の家中でもこの方ばかりには手向かう者は一人もいませんでした。
よく人間は感情の動物だと言いますがこの騒動で女郎たちは昼寝の夢を破られて寝髪を掻き上げながら右往左往逃げ回る有様といったら実に見苦しさそのものでした。そんなこんなの内に三国屋へ押し入り捜索した者の注意により浪本屋へ押し入った者を待っていると赤縞の丹前を着た三十六、七才位の者が中央の柱により下って土間へ降り平伏して何やら弁解していたが、顔を上げると、表にいた群衆が雨戸を打ち破り入ってきて、彼の体をところかまわず殴りつけましたので相当参っているようでした。
側で見ていたその屋の主人並木代次郎氏は悪漢とはいいながら隣家の者でありますので、まず命の絶えない内と筵を持ってきて最早命も絶えました。と尤もらしく言って筵を横臥している体にかけました。大勢の者はよく見届けもしないで並木氏のいうがままに任せてしまいました。当時はこのような場合筵をかければ死人として取り扱い、たとえ後に息を吹き返しても構わぬといった風習がありましたので実際一命をひろったものです。誠に危機一髪の時に機転のある隣人愛によって救われたのでした。
四十二 倉賀野が血の雨に
こんなわけであちらこちらで大混乱で皆は毒食
えば皿までという感じでむやみに捜し回り勢いに
まかせて乱暴をしました。まだ一人位ということはないと隅々に至るまで目を付け捜していると案の定行灯部屋に隠れていた岡っ引きを見つけだしました。岡っ引きもかなわないと覚悟して表の方へ
逃げ出しかけた。すると後ろの方より誰か知らな
いが薄刃の鎌で無闇に打ち込んだものだから、
辺りは一面が唐紅色に変じました。
一方浪本屋のまた東隣に住んでいる花形氏は
裏で打つやら、蹴るやらしていたので、早速飛び
出してきて筵を投げかけました。
そうこうしている内に「このような暴行をしていると必ず城内より打手がやって来るに相違ない。この上たとえ一人でも捕らわれたら勢力が減退する。とにかく、綿貫村二子山へひとまず引き上げよう。」と主なる者が指示したので皆引き上げようとしたところ、先程増花屋の裏口で打たれた三国屋の倅は傷も浅いと見えて、ムクッと跳ね起き馬屋の横木を抜き取り大上段に振りかざし、
「さあ百姓ども、先程はよくも惨々俺を打ったな。さっきの仇、今よりおまえらを、打ち殺してやる。」
と大きな声でどなりちらしながら大勢の者を追いかけ回していました。その内のひとりが三国屋ののせがれの背中を後ろから金熊手で打ち込んだのでその場に倒れ、その上他の三、四人が石垣より大きな石を打ち付けました。しかし、的が外れてたので一命はとりとめました。
大勢の者は先ずこれで幾分の腹いせをしたので、凱歌を奏して二子山へいきました。時刻は早、日が西山に入りかけたころ、一天俄にかき曇り、風さえ吹き出し霰がパラパラ降りだした。想像外のできごとのため一層の困苦を蒙ることになってしまいました。
四十二 二子山での竹槍製造
一同の者はここまで何事もなく引き上げることができましたが、
「今日の状態を他の岡っ引き等を聞くならば必ず復讐にくるだろう。我等は大勢といいながら無手では限度がある。何とかしてそれに応ずる準備をしなければ・・。」
との意見が出ました。それはもっとものことだということになり、応急の方法として竹槍を使うことにしました。そこで同村の千葉のある家の竹藪に行き、お願いしてその竹を残らず買い取って、片っ端から切り倒したり、枝を払ったりしました。また市ヵ原では数十ヵ所へ焚き火して竹槍の穂先をあぶっては土中へ衝き込みあぶってはそのように作りました。数百本の竹槍があっと言う間にできあがりました。このように火にあぶり竹の油をつけなければ堅くなりません。つまり先がまくれて物の役に立ちません。用心のためにたくさん作りそれを持ち警戒しながら台新田の村の東入り口まで進み、今や三国屋勢遅しと手ぐすね引いて待っている、と言えば大袈裟のようであるが実際その通りでありました。
すると推測通り三国屋の若者十数人が後ろ鉢巻きにたすきをかけ、威勢良く進んで来まして、台新田村の西入り口辺りまで来たその凄みと剣幕に圧倒されたわけでもなかつろうが踏みとどまって一戦に及ばず本隊目指して退却しました。というのは卑怯というのでなく偵察隊で本隊への連絡のためであったのでしょう。三国屋の方もその通りわずかな小勢で二子山まで肉薄して突貫せず強いてそこより進まないので衝突も起こりませんでしたが、今少し近づこうものならそれこそ大血戦が始まり、忽ち修羅の巷と化して死人の山を出したことでしょう。
四十四 高崎城内より役人が出張
倉賀野の三国屋より急きょ使者を城内に行かせたので、初めてこの騒動あることを知り、これは一大事とこのまま放って置くことができない、どんな椿事を引き起こすか分からないということで、四、五十人ばかりの部下を引き連れ、御大将として谷口忠左衛門殿、続いて代官大瀧司殿等の面々が駆けつけてきました。しかしこれ等役人の来た時分には早百姓は退却して散り散りばらばらに失せていた後のことでもあり、一揆騒乱の様子も見えないのでそれより先は無理に進めない様子でした。
それから岩鼻方面に廻られたので、岩鼻県知事小室信太夫殿はこの有様を見て大変ご立腹されたのことです。これはもっとものことでこのように大勢して他領地へ行く場合は前もって通知等の連絡をしておくのが当たり前で武士気質はこうではなくてはならないのにその手続きを踏まなかったのは確かに手落ちといえるかも知れません。
このとき流言飛語をして百姓どもを驚かせたのは大砲が幾門におかれたということでした。幾ら高崎藩に人材がないとしてもこれほどの事件のために何で大砲を引かせて威力をもって鎮圧しようなどと愚にもつかない計画を立てるものでしょうか。なお岩鼻県知事の立腹は大砲を領地内へ引き込んだというのは憶説で無理に高崎城内に知者がいないということを強める気の毒な話であります。勿論巷の風説ですから力を入れて言うほどのことではありませんでした。
話は替わって大総代が捕らわれたということが五万石領全体に知れ渡りますと、悲嘆の声は女子供ばかりでなく、鬼をも恐がるような強者も拳固で鼻をかみ、顔を背けて泣き伏すといったようなことが随分あったようです。このようなわけでありますから、佐藤三喜蔵、高井喜三郎の両家の家族、親戚の方々の嘆きの程は想像の外だったでしょう。この悲報に接した中小総代は勿論、一般の百姓達も取りあえず綿貫村市ケ原へ駆けつける訳でありますから、夜には数千という大勢の人達が集まりました。ここで幹部の人達がともかく岩鼻郷宿万屋へ引き上げ、諸人に根岸氏に依頼して小室知事殿の意向を伺い、是非とも大総代を救い出す方法を協議しようと数十人が万屋目指してでかけました。
四十五 岩鼻県へ大総代についての嘆願
百姓側の本陣である綿貫村二子山を引き上げ御宿万屋にいる主なる人々は善後策について話し合いをしました。その結果このように集会を開いても大総代が捕らわれては手の付けようがないので岩鼻県知事を煩わして何とか少しでも助力をお願いしよう、というこになりました。ことに万屋の主人根岸氏の尽力もあるので早速、柴崎村の秋山孫四郎、下和田村の浦野嘉吉、上小塙村の小嶋文次郎、和田多中村の馬場安五郎の四人はすぐさま岩鼻県に出頭嘆願して訴えました。
「下中居村三喜蔵、柴崎村喜三郎の両人高崎藩の者に捕らわれてしまいました。何とぞこの両人を救いくださるように」
とむ逐一細かく嘆願したので岩鼻県でも初めて承知したものと見え、知事殿におかれては、
「高崎藩が無断で我が領地へ踏み込み勝手に大総代を召し捕るなどは我が県を無視した無謀なやり方で無礼極まることで黙っているわけには行かない。」
として高崎藩にその旨伝え、両人を放免するように注意ましたが高崎藩では弁解を繰り返すだけで、なかなか岩鼻県の意向に従いませんでした。ただ多少大総代に対しては虐待の手を緩めたそうです。また高崎藩へ護送された大総代は広小路桝方の側にあります不浄蔵の中に押し込み、番人をつけました。その番人は罪を憎まずして人を憎むというような取り扱いで残酷な仕方でありました。もっとも別に足軽を二十人ばかり剣付き鉄砲を持って警戒していましたが非常に厳格で昼夜ともずっと継続していました。
五日になりようやく本牢に押し込まれましたが両人においては願意の貫徹を願って奔走し、未だ少しの曙光を見留めないうちに既にこのように恥ずかしい目に遭いましたのでその失意は一通りではありませんでした。望みの半分でも達したのならば八つ裂きにされて断頭台の露と消えてもいとわないが今このようなことでいいのだろうか、第二の我が代わりがでるにしても意気消沈していることは明らかであります。といってここで何を考えても何の効もありません。偏に神仏に祈誓をしこの願意が成功する事を願い続けたそうで、実に我が身を忘れて皆のために犠牲になることに甘んじた心遣いは誠に後世の鏡、義民の模範でありませんか。
四十六 弁当運び
この度起きた倉賀野付近における椿事以来、うかつに帰村でもしようものなら岡っ引きの毒手にかかってしまうと怖れて実家に帰る者は一人もいませんでした。といってもここでも食べていかなければ飢え死にしてしまいます。そこで起こるべき問題は弁当問題で、婦女の居る家庭のように落ち着いているわけにはいきませんでした。
また城内役人側はどうかというとたとえ小総代でも召し捕れば恩賞に預かることができると昼夜五郷各村へ手分けして出張し鵜の目鷹の目で捜索しましたが誰一人帰村していませんでした。残って稼業しているのは老人や婦人ばかりでたまたま途中で呼び止め詰責すれば病人ができて迎えに行く者とか、葬式に出向く者とか実によんどころのない人ばかりでありました。ですから、さすがの役人も、岡っ引きもこれらの人を召し捕る訳に行かないから捜し疲れて単に毎日毎夜火の用心に五郷各村に行くようなもので、誠に他の目から見ても張り合いのない仕事のようでした。
ここに滑稽なことが起こりました。それは下佐野のある者がちょっと帰宅して再び集会地へ行こうとしたとき運悪く岡っ引きに呼び止められていろいろ尋問されたとき、その者はなかなか頓知の利く目先の早い男で尤ものことを言えば捕らわれてしまうから知恵を絞って申すには、
「実は近所に病人ができたので呼び迎えに行くためでございます。」
と弁舌明瞭に述べたので、捕り手の方も真実と思い懐から手帳と筆を出し住所、姓名等を書こうとしたとき筆の穂先がバッタリと前の方に落ちたので捕り方も微笑しながら言うことには
「これ、見よただ今お前の名前を書こうと思ったら何の前兆か筆の首がおちた。本当に迎えに行くのならよいが二子山近くへ行くのなら必ずこの筆のようにお前の首がコロリと落ちるだろう。」
と言われ、相当脅されたそうです。このように一寸のことでは通行できないようになっていたから、弁当も都合良く運ぶことができず、他領の親類縁者を尋ねて腹を充たし夜を明けさしてもらうという有様でしたが、ちょうど、この頃は稲の穫り込みはしても麦蒔きの最中で米に摺って仕上げたものはなく、飯米が滞り、稲をこき籾を摺り米をついて飯米を調えるという次第で、夜具など勿論間に合わないが二子山で天幕も張らず、野宿したことを思えば結構完備した宿屋へ泊まるよりもよいと各々喜んだものです。また私も実際二、三回出合ったことがありました。普通我が家で暮らしていれば用を家族の者に言いつけることができるので我が家での安楽さを初めて知りました。
かれこれ三、四日も経ち岩鼻県知事小室殿より藩へ厳重な注意があり、一同もやや安心して各々我が家へ帰るようになりましたが、別段その前のように召し捕り方もうろうろしてないから稲を刈りその後麦を播く等いたしました。
日数も追々経ってその年即ち明治二年も暮れようとしていました。
四十七 年貢減納とその影響
高崎領内こそ年貢減納で領内百姓は騒いでいるが他世間もなかなかのの騒ぎで、今日言う政府の太政官では各藩の動勢を調査してて漸次移転され、藩主を藩知事に、町奉行を市令、留役を市政方録事、同心を捕亡、町方役所を市政局と改称し、一から十まで改廃になり太政総覧の実施で施行中で万事目先の変わりやすいときでありました。
本藩は岩鼻県知事の尽力もありその年の年貢上納はどのようなったかという根取り即ち田方は延口米を免除、畑と居屋敷は根取毎を一石二斗五升の相場で金納となり、ともかくもこの年だけは願意がかなったわけですがそれでも上納米がない者もありました。それは不作に加えて弁当米になったからです。中には年貢が残ってほんの印ばかりの餅を子供らのためについて寂しい新年を迎えようとしました。
そういうことであれば各村々で無駄遣いをしないで極力質素を旨とするようになったのは大変結構なことでした。これから東郷における実例について述べてみたいと思います。
四十八 東郷並びに西郷各村の勤検議定
ここに、東、西郷の内、江木村、宿大類村、南大類村、矢嶋村、西嶋村、上大類村、石原村、乗附村、新保田中村、貝澤村、江田村各村の主な者が集まり、岩鼻県に減免の願いを差しだし、漸く幾分の減納を得て目的の第一歩を進めることができました。
しかしその一年限りという期間は満足できないが、藩知事へ減納を誓願する以上は自分たちも節約して名実ともに協力しなければならないと、師走の忙しいときに熱心に相談したのは比較的忠実なことではありませんか。
議 定 御領主様より御領分内城付き貧村へ御仁恵をもって総百姓を救助戴き感謝する次第です。
・ 右の救助の筋を忘れず外の筋には願いをしないこと
・ 村々昔に立ち戻りおごりを謹むこと
・ 祝儀のときは組合限りで、酒は一升でその他は無用のこと
・ 葬式は他村親類は格別村方に、質素倹約して親類、組合以外はたちいらないこと
・ 近来衣類に大金を使い縮緬やビロウド等を買い調える者が居るが、
祝言のときの手織絹太織りの外は無用のこと
・ 村々神社参詣するとき日帰りをし宿泊をしないこと
・ 賭け勝負は勿論御法度、打ち寄り酒なども謹むこと
・ 総代等の身分をもって不立ち回る者あり、見受け次第その筋に知らせること
・ お上及び名主、組頭、百姓代の言うことには従うこと
・ 正月の餅つきはお供えだけにし練り餅は無用、門松、内祝い等は奢らないこと
・ 五節句はお互いにやりとりを謹むこと
右数カ条村々の総代が相談の上決めたので必ず守るように。もっとも他村々において嘆願の筋叶い当十一村総代を共に引き受け命賭けても成就したい。我等百姓慎んだ生活をし、慈悲の沙汰を待ちたい。
右のことで不都合なことができれば、村々総代一同立ち会いの上相談したい。この議定相談が行き届き取り違いなきよう後証のため連印一札入れ置きます。
明治二年十二月
宿大類村総代 房 吉 印 酒造之助 印
上大類村 同 惣次郎 印 鉄五郎 印
矢嶋村 同 熊 吉 印 栄次郎 印
南大類村 同 勇 造 印
江木村 同 幸太郎 印 吉五郎 印 忠次郎 印
新保村両組同 吉 弥 印 卯兵衛 印 八百吉 印
西嶋村 同 九郎右衛門印 仙之丞 印
乗附村 同 市左衛門 印 金五郎 印
東貝澤村 同 六三郎 印 西 半三郎 印 東 金右衛門 印
新保田中村同 源三郎 印 清兵衛 印
石原村 同 勘 六 印 角次郎 印
右のような趣旨で一同の動揺を鎮圧して一時を過ごしたがこれで以て閉めたのではありません。即ち一年限りという救助であるから、幹部の面々の胸中に何か企図し決心して、減納訴願貫徹の経路を開こうとしたのは先見の明があったと言って良いでしょう。五郷各村及び東郷十一カ村と運動方法に置いて、緩急両派に立ち分かれても目的は同一なので互いに気脈を通じて便宜を謀り最後の成功を期したことは実に立派なことではありませんか。もっともこの減納訴願に対してその根本より影の力を添えられた方がおりましたが後で詳しく述べたいと思います。
ここに入牢中の啓次郎、巳代吉、孫四郎、三左衛門、定七、文次郎、喜三郎、酒造蔵の七人は闕所蔵より呼び出され、取り調べの上口書の文
御支配所村々お年貢の筋減納の願いのことに付き徒党を組み強訴した下中居村百姓酒造之助、柴崎村同喜三郎は郡中総代になり重ね法を犯した。大勢徒党を組み暴動を募り、城下町まで強訴に及び、巧みに他県知事へ事実と相違の願書を差し出し、村々から高割集金受納し酒食に使い果たし、倉賀野百姓啓次郎、巳代吉は大勢徒党を組み暴動し、城下町までさし迫り強訴に加え、役人へ悪口におよび乱暴におよび、重なる不行き届きにつき追って沙汰を申しつける。
二十六日造酒之助他六人は本牢へ護送されるこの日左の書面を上中居村清水元吉方に届いた
十二月二十六日造酒之助自筆を以てお知らせします。本日本牢へ入るのでお見舞いくださいますようお願いいたします。
お役人三軒の内一人はお頭様牢番五人
金 十五両 これはお役人三軒のかたへ
金 二十五両 牢番五人の方へ
金 三十両 牢内総代八十五人へ
右の通り早々取調急いでお送りください。
十二月二十六日
酒 造 之 助
喜 三 郎
文 次 郎
啓 次 郎
三 左 衛 門
孫 四 郎
定 吉
右相談しました。時間があまりないので借りるなりして早々とお届けください。
清水元吉氏は幸い預かった二分金が二、三合あったからこれを送ろうとしましたが改め見ると何れも偽物で用をなさず、さりとて広く相談する時間もないので、その夜、上、下中居の総代人を集め協議の結果金策をして翌二十六日これを届けたといいます。
四十九 東郷斬新派の活動
年の瀬は何時しか騒がしく明治二年も過ぎ前述のような議定もあり、皆形式ばかりの質素な新年を迎えることになりました。昨日まで寄るとさわると話題になった訴願のことも新年は新年だけに各自の頭にはさほどめでたいというわけでないが、それにしても慣習や礼儀を無下に打ち捨てる訳にも行きませんでした。しかし総代等の頭には初春を祝うということはできませんから、房吉、酒造之助、等諸氏総代は帰って世間がのんびりしている松の内に協議を調え東京へ行きました。しかしなかなか手軽に行かず、知己を訪ねてかんだ小川町にしばらく泊まり、その後番町に移り名古屋藩士で太政官書記官を努める服部氏の邸宅に泊まることになりました。そして何かに付け太政官のことや世間の形勢を聞いて大いに得るところがありました。また時々本県甘楽郡一之宮町の撃剣家で上京していた山口藤十郎というかたにもいろいろ世の動きについて聞き、その手の届く限りを尽くしてついには太政官民部省に出頭に及ばれたとのことです。
お恐れながら書状を以て嘆願申し上げます。
上州群馬郡
高 関 村 稲
荷 新 田 村 上 並 榎 村 西 新 波 村
乗 附 村 上 小 島 村 保 渡 田 村 北 新 波 村
浜 尻 村 上 新 田 村 南 大 類 村 菅 谷 村
下 新 田 村 下 並 榎 村 萩 原 村 寺 尾 村
倉 賀 野 村 中 里 村 柴 崎 村 下 ノ 城 村
新 後 閑 村 和
田 多 中 村 川 曲 村 宿 大 類 村
正 観 寺 村 下 新 保 村 井 野 村 下 飯 塚 村
菊 地 村 大 八 木 村 赤 坂 村 石 原 村
上 小 塙 村 上 新 田 村 上 飯 塚 村 上 大 類 村
南 新 波 村 浜 川 村 東 貝 澤 村 中 尾 村
前 箱 田 村 江 木 村 矢 嶋 村 大 澤 村
佐 野 窪 村 上 佐 野 村 上 中 居 村 栗 崎 村
下 中 居 村 岩 押 村 下 中 居 村 下 和 田 村
西 嶋 村 下 小 島 村 小 八 木 村 西 貝 澤 村
新 保
田 中 村 楽 間 村 筑 縄 村 我 峰 村
下 小 塙 村
右村六十一ヵ村総代宿大類村百姓酒造之助房吉が申し上げます
王政一新につき万民塗炭の苦しみが救われる趣意誠にありがたく感謝しています。知事様のご仁恵にも感謝しています。朝廷様より通達を誤って聞き取ったところがあります。文意はもとより愚かな農民が規則をわきまえませんでした。
安藤対馬守検地より籾一升につき米七合三勺に摺り立て上納しました。天料旗本料と比べ多分の反米納となり、これが一般の難渋の原因となり、且つ畑方年貢は永納になりまた米納にお直し籾一升に米七合三勺の摺り立て上納をおおせつけられました。その時分は諸作よく実りましたが、天明三年浅間山噴火のため大焼砂が降った以来土が衰えその時分気候も良く諸作のできがよく凶作まれでしたがその後天保年間より追々気候が変わり近年まで度々作柄が悪く米穀等格別に高値となり百姓一同困難に至り生活が苦しくなってきました。このことについては以前に嘆願いたしました。一昨年まで諸税まで無滞納で当年にあたり岩鼻県同様愚かな強訴は謂れなき願いです。これまでと難渋困窮は相違なく、王政復古の政務一新なく嘆願しても詮なきと心得てましたが今般総督様のお触れには塗炭の苦しみを救われたきとご尊慮より目安箱を差し出されたり願いをきかれたりしています。御触書を心得これまでのご高免と今般のご聖代を相慕いお願い申し上げます。
これまで通り畑方米納並びに七合三勺の摺り立て上納仰せ付けられては村々の難渋は少なくはありません。このままでいくと百姓が潰れていく者がでてきて誠に嘆かわしい次第であります。この難渋をお聞きいただいて畑方屋敷永納は勿論田の方も御料所または外料分並に摺り立て納方をしていただければ城付数ヵ村の窮民、百姓ともずっと奥深く盛んに生い立ち相続できるようになると思います。
天長様
ご威光をもって昨年通りにして戴きたいと思います。この願いを聞いて頂けたら城付数十カ村の百姓ともありがたき幸せに思います。
明治三年正月
上 州 群 馬 郡
宿 大 類 村
百 姓 文 吉 印
同 房 吉 印
民 部 省 御 役 所
御 当 番 衆 中 様
右のような願書でありましたが高崎藩で言うような強訴と言うほどではありません。また多領或いは徳川領など同じ様な恩恵に預かりたいというだけで規道を逸したような不条理なところはありません。実に穏当な願書で尤もなところでありますが、採否は調査の後でなければならないからそのまま留め置きになった文吉と房吉はやれやれと幾分胸も落ち着きました。その後、用があったら呼び出すとのことで退出しましたが、その喜びようは大変なものでした。それより両人は国元へ帰らず国元の動勢を音信により時々聞くくらいで月日は経過するだけでした。また、これといった知らせもなく役所よりの沙汰が一刻も早いことを心中に祈ってなすこともなく世間の有様を見聞するのみであり、ただ日数を指折り数えるばかりでありました。
この頃、この騒動の話の中での一大恨事が起きていたのであります。
五十 大総代両人の処刑
話は替わりまして高崎藩の処置はどういう風でありましたというと、随分高圧手段をって、それに干渉する者は片っ端から逮捕して抑えようとしました。枝を払うより根を掘れと言う方針によって岡っ引きや同心等を使い極力鎮静しようとしました。しかし、岩鼻県知事の小室氏の理解、同情によりいろいろ高崎藩に交渉されたので藩でもそう厳しくもできずやや緩和の方針を取らないわけにはいきませんでした。それでも一旦捕らえ入牢させた大総を放免するという英断のなかったことは今から考えると多少遺憾に感じる面があります。そこで大総代はどんな糾明を受けたかというと別段強いて拷問も受けたわけでもありませんでした。
日は一日、また一日と過ぎていき、正月も終わり二月四日となりました。この日の空は何となく灰色の雲が被って空っ風も吹かず、穏やかな天気のようでもあったが、言うに言われない寂しさも感じられました。
三喜蔵、喜三郎の両氏は牢獄に囚われ鉄窓の下で将来の画策について胸中無量の感慨をもって充たされていましたが、今は命を天に任せておくほかなく、早く身の潔白が明かされてほしいなどと思いに耽っていました。その朝牢番から呼び出しがあったので両人は何事だろうと行ってみれば丸駕篭が二挺そこにおかれていました。丸かごというのは当時囚人を護送または転送するのに用いれられた駕篭であります。両人は胸中異様に感じましたが乗れと言う命令であるから仕方がない否応なしに駕篭に押し込められてしまいました。両人はどこへ担いで行かれるかと思っていましたが城内へ入る様子もなくだんだん町から離れて行くようだから不思議に思っていたらあるところで急に止まりました。すると付き添い役人は両人を下ろして、厳格な態度で監視しています。ここは今の無縁堂といって亡くなった人を火葬にする場所でありました。両人を座らせて付き添い役人が
「今、おまえたち罪状を言うから神妙に聞け。」
と言って左の文面の一通を渡しました。ああこれはなんということでしょう!!!
下 中 居 村
百 姓 三 喜 蔵
柴 崎 村
百 姓 喜 三 郎
右両人減納願いなどと称して徒党を組み総代になり郡中を騒がし高割金を受納し、酒色横領に使い捨て、法に背くこと極まりないので打ち首に処する。
明 治
三 年 二 月 四 日 高 崎 藩 役 所
何という不法の申し渡しでしょう。
控訴する間もなければ弁護を頼む間もなく、即決執行で全く裁判で審判するのでなく、ただ、ただ、勝手な役人の判断によるものなのです。同時に右と同様の文を板に記載し、高崎の南出口の中山道の新喜町に掲示されました。これを見た人達は容易ならない大事件と牢屋へ駆けつけましたが、既に無縁堂に護送されたということで、また急いで刑場へ駆けつけていきました。
しかし両人は既に無惨にも哀れにも獄吏の毒手に遭って刑場の露となって消え、減納訴願の犠牲になつたのであります。追々このことが知れて随分多数の人が出向きましたが惟がやがやと騒ぐのみでありました。
両人が処刑当時のありさまはどうであったかといいますと、その言語、動作共如何にも五郷幾千万の農民の代表者だけあって大変立派なものでありました。今、役人が罪状を読み終わろうとするとき怒髪天をつき胸中の偽りのない想いが表れでて、役人達に向かって
「私達は願意貫徹して打ち首となるならばもとより命を惜しむわけでないが、今採否の途中でこのことに遭うのは残念でならない。五郷数十村の者より依頼を受け不肖であるが総代になり既に一命をなきものと思い、確然とした決心と不動の覚悟をして、たとえどんな極刑でも謹んでありがたく命に従います。しかし、願意が叶わないだけでなく、今言った罪状は何事ですか。高割り金を酒色に遣い捨てとそのことを以て打ち首にするとは無法のいいわけである、私達はそんな覚えはみじんもなければ心中やましいところはひとつもない。」
と言い切りました。何という卑怯なやり方なんでしょう。首を断つことができても志はくじけない、私達の魂がこの願を守り続けなければ安らかに眠ることができないでしょう。怒りの顔色が現れ、この志気の凄さは寒気厳しいこの場の光景は見る者を涙しないわけにはいきませんでした。獄吏の者だけはそんなことに頓着せず遂に刑を執行しましたが、その場に臨み我が身を忘れて訴願の貫徹を願い天寿を全うされたのは哀れで、悲惨で、気の毒なことでありました。
これを聞きました両家の家族はむろんのこと親戚知人等の嘆きは想像の外だったでしょう。それでせめて両人の霊を慰めるためとにかく死体を引き渡すようにお願いしました。さすが冷酷一片の温情ない役所でも多少の同情に惹かれたのか早速引き渡してくれました。そこで厚く死者のために三喜蔵氏は仏葬に荘厳な埋葬をし喜三郎氏は壮な神式で執行されました。五郷数十村の人々が会葬する者が幾千百といっても過言ではありませんでした。古語に人は一代名は末代とありますがこの両氏は多くの人々の犠牲となって万人が敬い慕いするその義侠の精神がすばしいではありませんか。実に死して光栄ありと言うべきでしょう。
五十一 中里留吉素っ裸で奔走
話替わってここに佐藤三喜蔵、高井喜三郎の両氏並びに小島文次郎氏等入牢になると三氏の居村の下中居、柴崎、上小塙の三か村から牢番一人ずつ差し出すように各村名主へ連絡があったので、各名主は組頭等と協議をして、下中居村では中里留吉という人が選ばれて牢番になりました。これらの人達は何れも助役であって、本役は足軽の中より選抜されてこの任に当たるのであります。この本役牢番に竹内三次郎という人がいました。その妹のイク子というのが下中居村の高橋重五郎氏のところにお嫁に行きました。この重五郎という方は早く両親に別れ孤児となったので近所でもあり、遠い親戚でもあった佐藤三喜蔵氏には何かと世話になり、また三喜蔵氏も我が子のように寵愛してくれるので両人の間は真の親子も及ばぬ程でその細やかなことと言ったら人の羨むくらいでありました。こういう間柄ですから竹内三次郎氏も妹イク子の所へ行ったとき重五郎氏より三喜蔵氏には真実の親も及ばぬ程の世話を受けていることを聞いていました。そこで自分の妹のため、且つ義弟のためにということで佐藤家に挨拶に行ったので自然懇意にな
り、非番の時など佐藤家に泊まって帰るようなこともありました。この度、妹の義弟が恩人の佐藤三喜蔵氏が領分大勢の百姓のためにこの牢舎に繋がれているので竹内氏は気の毒でしかたないから、他の入牢者と自然取りあつかいも変わっていたとのことであります。こんな訳ですから佐藤氏は他の在人ほど苦痛を感じなかったといいます。
また藩においては佐藤、高井両氏をいよいよ打ち首に処することになったので、その首切り役を竹内等数人に命じました。ところが、竹内氏にはどうしても佐藤氏の首を切るわけにいきませんでした。しかし、順番から言えばどうしても佐藤氏の首を切らなければなりませんでした。竹内氏も仕事である以上やらねばならないと思いつつもどうしても妹の義弟の恩人の佐藤氏の首に刃を加えることができません。同役に順番を替えて貰うように頼みましたが容易に聞いてくれません。だんだんそのわけを話す内に漸く替えて貰うことになりその夜は交代して自分は家に帰りました。
話替わってその悲報が下中居村に伝わったので高橋重五郎氏はその事実を確かめようとその夜妻の生家の竹内家を訪問しました。しかし、竹内氏は留守で義姉にその悲報が風説か実説かとうか問いましたが、姉は少しも知らないようであったのでそのうち竹内氏も帰宅するだろうと姉と世間話をしていたがなかなか帰ってきません。いつも帰る時間よりも三、四時間も遅いので両人は気をもみ始め、姉は夫の身を案じ、高橋氏も三喜蔵氏を気遣い、二人は話しもとぎれがちになりましたがそこへ漸く竹内氏が帰ってきました。そこで竹内氏にそれを聞いてみると風説でなく事実でありましたが執行の日は牢番でも知らされてないとのことでした。高橋氏も直ぐに暇を告げ帰宅して直ぐ佐藤家へ行ってそのことを逐一知らせていたので、家族の者や近親の者の悲しみ嘆く有様はとても私達の力では言い表せないほどでした。その夜は鶏鳴の頃各自家に帰りました。
明ければ二月四日の四つ時ただ今の十時に二挺の垂れ駕篭が牢舎の前に置かれて付き添いの役人は佐藤、高井両氏を呼び出し、このかごに乗り込ませ何れかへかきいった。本牢番は駕篭に従って行くのでこのとき竹内氏はそれと分かりましたが下中居村へ知らせる余裕がありませんでした。しかし下中居村の牢番手伝いの中里留吉という人がいて、その留吉がこのかごについていき駕篭が無縁堂の方へ向かい始めたので両氏を斬首するものと思いました。留吉はこのことを家人に知らせようと寒い中素っ裸になり下中居目指して駆け出しました。
また一方佐藤家では斬首の日は分からないが、今日執行されるかも知れないと思い先発の者が上中居村の反町の稲荷神社の前まで来ると高崎の方から素っ裸の男がハアハアと喘ぎながら走ってきました。不審に思って見ているとそれが留吉だったので、ただ事ではないと思い彼らも走り出し、ばったり行き会うと留吉は張りつめた気持がゆるんだのかそこへどかっと倒れてしまいました。皆は早く様子を聞こうと問いかけるがただ目を見張り、口を動かすばかりで何の答えもない、留吉を介抱して漸く聞くことができたのはそれから二十分ぐらいたってからでした。それからそこにいた者が二手に分かれ、一方は下中居の方へ、一方は無縁堂の方へ気が狂わんばかりに突っ走って行きました。
このとき丁度三喜蔵氏の首を既に斬ろうとして振りかざそうとしたとき、三喜蔵氏は泰然自若として係りの役人に向かい
「少し猶予を戴きたい。」
と言いましたので役人もこれを許さないわけに行かないからその願いを受け入れると、三喜蔵氏は目礼して左のような辞世を詠じられました。この心事に至っては誰が涙を惜しむでしょう。悲哀凄絶で誠に気の毒の至りでありました。
望みなき身は今日限りちりぬる茂ななたび生れかなへてやみむ
五十二 榛名山麓蛇塚での集会
「大総代三喜蔵、喜三郎両氏の突然な処刑、大総代の小嶋文次郎は岩鼻県へ駆け込み願いのまま留め置かれ遂にこれも高崎藩に引き渡された。このように大総代残らず捕らわれ、二人まで斬首の刑にに処されたので士気を鼓舞し、捲土重来の策をなし、あくまで急激な強固の決心を以て第二の大総代を選出していよいよ活動をする。今日までは時々岩鼻県付近で会合していたが不便を感じるので今度は方面をを変えよう。」
と中心的な上小塙村の小嶋喜伝次、正観寺村の福田子之七、和田多中村の馬場安五郎等の意見で急に各村へ檄を飛ばし今後における運動方法を相談したい、ついては蟹沢村で大体の方針を協議して同一歩調をもって一大運動を開始しようと通知を出しました。各村々においても先に大総代を非法にも打ち首の処刑を行なってから怒りが各自の胸に溜まっていたのでいつかはこの報いを晴らしてくれようと思っていたおりでもありましたから、天王森より、桝方へ押し寄せたときよりも多かったくらいでありました。その日は大総代の処刑された翌々日の六日だったので幹部の総代諸氏は蟹沢で朝早くから、相談や準備をして、大勢が集まるのを今や遅しと待ち構えていましたが四つ時今の十時頃には相当広い蛇塚も人でいっぱいになったので頃合いがちょうど良いとして総代の福田子之七氏が発言して言いますのに
「皆さん、大総代の両氏は既に打ち首となり、無念の恨みを呑んで地下の人となられたが残る大総代の小嶋文次郎氏一人となったがこの方も今は獄中の人で何時如何なる変事あるかもしれない。ここで二人の大総代を選出してご依頼してはどうか。」
と皆に諮問しました。この期に及んで何の異議がありましょう。その後推薦等により上中居村の丸茂元次郎氏と正観寺村の福田子之七氏が大総代になることが決まりました。両人も快く承諾して命をかけて領内百姓の意に添うことを誓いました。それより減納願いの書面数通をしたため今までの方法を採らず一村少なくても三十人ぐらいずつおよそ二千人ばかり上京して民部省へなり、太政官、弾正台等へ門訴する事が決まりました。その指揮役は丸茂氏と福田氏は国元で諸般のことを司ることなり、そこで宿割りともいえる任務もかねて先発されたのが小塙村山田勝弥氏で氏は直ぐに旅装して上京しました。それより各村々の総代は勿論のこと、一般の百姓達も上京の仕度に取りかかりましたが、
「もし途中で高崎藩士に捕らわれたら騒動するよう思われては残念であるから総代初め皆めいめいで願書を携帯した方がよいだろう。」
とここに願書数十通を用意することや旅費の工面や等で数日を費やし、いよいよ大勢が出発となりましたのはその月の十五日でした。幾千百人の大勢だから人目を隠れて上京することはなかなか難しいことでした。人が二十人も集まって伊勢参宮やその他の神参りのような旅行なら何でもないが藩の方でも近々百姓達が上京するとのことを聞き込んでいたものだから要所要所に役人を配置して通行する者を監視して百姓が上京できないようにしていたので実に通行するのが面倒になっていました。百姓側でもそんなことで中止もしないが大勢が阻害されても困るのでこの間総代等の苦労は大変なもので、一人でも多く上京させるということは容易ではありませんでした。
そこで一人二人ぐらいずつ田圃に行くような格好で中山道を行くことが難しいから藤岡町方面から児玉町、小川町、松山町、川越町等を経て行こうとする者もあれば、例幣使街道を歩き玉村町、境町、木崎町、太田町、館林町、栗崎等を通って奥州街道より東京へ入り込む者もいれば、高崎界隈は一番物騒だから前橋方面へ向かってそれより伊勢崎町、大胡町、桐生町とだい迂回していく者があるという次第でありました。なるべく人目に触れないように変装してもそうそう隠れ切れるものでもなくどうしても普通の旅人と違うところがありますから高崎藩でもその内、気付きそのままにして置くわけに行きませんでした。早速ところどころに取り押さえや引き戻しの役人を派遣し捜索させていましたので大概途中でとれ抑えられたり、引き戻されました。中には板橋町或いは川越町、または千住町等で取り押さえられた者もおり東京に入るのは大変難しいことでした。中にはまんまと東京へ乗り込むことができ安心して馬喰町辺りの宿へ泊まり込んで皆の者が上京するのを待っている間にどう捜したものか高崎藩の役人のために取り押さえら
れ護送されるという者もあり、折角の苦労も水の泡になって無念ながら国元へ送還されてしまいました。上京の総指揮者で大切な任務をもっている丸茂元次郎氏も入京することができず川越町で遂に高崎藩派遣の役人のために取り押さえられ遺憾ながら送還されることになってしまいました。この時上佐野村の総代関口弥蔵氏も同じ様な運命に遭い丸茂氏と同時に送還されたがその時関口氏は丸茂氏に
「漸くここまで来て返送され高崎に着けば必ず入牢となる、ここは役人の隙をねらい逃走するのが良かろう。」
と言ったが丸茂氏は
「私もそのようにするのが良いと思うが私にはそれができない。今私の体調も悪いし一旦逃げることができても必ず再び取り押さえられるのに決まっている。そうなると入牢は勿論のこと、ことによると三喜蔵、喜三郎両氏のように処刑されるかもしれない。そうあっては大勢の者に申し訳ないから逃走のことは私に免じて思いとどまってくれ。」
とその事情を説明したので関口氏もやむなく同意しました。二人は高崎まで護送され、郷宿に預けられ、十日目で調べを受け将来を戒められ帰宅を許されました。
話は戻り大勢の内すでに入京した者も高崎藩より町奉行へ頼んであるのでその町の奉行の役人に取り押さえられても何れも国元へ追い返されました。また後からでた者や迂回して入京しようとした者もこの取り締まりの厳しさを知らなかったので千住、板橋、新宿等へ差し掛かると何れも町の入り口に通行人を問いただし高崎藩の百姓と分かれば直ぐ留めておき、四、五十人溜まるのを待って役人が付き添い国元へ引き戻されました。いやはや大変な騒ぎでありました。そこで協議して今度は大勢で行くのはやめて大総代とその他七、八人がの総代が入京して民部省や太政官へ訴願することになりました。
五十三 丸茂元次郎の上京
第二の大総代に選ばれた丸茂元次郎氏は先頃多くの百姓達と上京するなかで川越町まで乗り込みながら国元へ返され、それでも幸いにも帰宅を許されたので再び上京することができるのは不幸中の幸いと言うべきでしょうか。丸茂氏は常に信仰しているところの居村にに来ると稲荷の社詣でしきりに祈念をしました。それより柴崎村の高井喜三郎氏の墓前に詣で
「自分は第二の大総代になってこの度大勢の百姓を引き連れて民部省へ門訴して願意貫徹をしようとして上京の途中一旦引き返されたが、幸い赦免となって、今回は少数の者と願意貫徹を期するつもりですから陰ながら力を添えてください。」
と祈念し、今度は下中居村の禅宗普門寺の墓地へ行き、墓碑の塵を取り払い、心ばかりの手向けの鼻を供え、静かに墓前に跪き
「この度第二の大総代に選ばれ、ここに貴殿等の減納訴願の考えに基づき、願意貫徹をするように尽力をし一般百姓のために一日も、一刻も早く安心させようと思っていますので、今はいる世界が違いますが草葉の陰から私達を守り力を与えてください。第二には非理非道な藩の貴殿に加えた侮蔑はきっと恨みは晴らしますので今しばらくお待ちください。」
全ての心情を表しても尽きずややしばらくの間感慨にに打たれ墓前を去ることができませんでしたが気を取り直し冥福を祈り、あたかも生きている人に言うように告別の辞を述べてもの寂しく立ち去りました。それより道を谷中村方面へとり、今や五本辻を取りかかろうとしたとき急に物陰より三人の岡っ引きが現れてまっしぐらに丸茂氏の傍らへ飛んでいき、前後左右より取り囲んで
「お前は旅支度でこの辺を通行するところを見れば百姓騒ぎの頭取であろう。それにそういない。神妙にしなさい。」
といって前後より飛びかかっていきました。そこで元次郎氏は今はこれまでと覚悟を決めて逃げるだけ逃げてみようと飛びかかっていきました。岡っ引き三人を相手に右往左往に払い退け、しばらく格闘していましたがこれが天の助けか三喜蔵氏の霊の加護か私は判断できませんが岡っ引きの二人が傍らの用水路に足を踏み外し真っ逆様に重なり合って落ちたので残りの一人は一寸その方に目を向けました。その隙にここだと思い渾身の力で尽き退け一目散に矢中村に駆け走りある百姓家に飛び込み潜伏して息を殺して様子を見ていると岡っ引きがその近所をあちらこちら鵜の目鷹の目で必死に捜索していました。その近所の者にも尋ねてみたが皆知らないというので岡っ引きは捜しあぐみ残念なことをしたという風で失望落胆してやむなく引き上げました。この矢中村の隣村は皆高崎領ですがここは岩鼻支配所であるので家宅捜索も充分できず村民に嘲笑されるのも見苦しいので倉賀野目指して引き上げて行きました。丸茂氏はその後ろ姿を見届け家人に礼を述べ栗崎村を経て藤岡を通り八幡山、小川、松山を経て今度はうまく入京することが
できました。
(中編 了)
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