「五万石騒動」の評価について

「五万石騒動」についての評価は単行本で、研究会誌、論文、新聞紙上等に於いて明治から平成の現代まで数多くのものが書かれている。どれも皆五万石騒動をいろいろな面から捉えている。しかし、全部取り寄せることも難しいし、かなり類似なものがあるので、私の手元にある資料の内、私の心に残った資料を掲げ、それについて述べてみたいと思う。


一 群馬郡誌から
今本件の記述を終るに當り敢えて一言して大総代たりし諾氏.の英霊を慰めんとす。諾氏は本件に関して絡始一貫目的徹底のため邁進せられ、臥薪嘗膳不屈不尭一身を願みす萬民のため尽くし、假令一年限りにせよ減納の効果を見たるのみならす、終に衆のために犠牲となるを甘んせられたる義侠的精神に至りては義民佐倉宗五郎にも比すべく、實に後世の亀鑑義民の模範として永く郷民の欣慕する所にり。諸氏たるもの死して尚余榮ありと謂ふべきなり。
群馬県群馬郡誌(大正十四年十月群馬県群馬郡教育会刊)

この群馬郡誌は教育者によって作られたという珍しい郷土誌と思うが、かなり専門的でこの「五万石騒動」も十五ページにわたって事細かく書かれており、大総代三名についても人物編で細かく述べている。この三名についての論評等はこの郡誌によるものが原本になっているほどである。ここに引用させてもらったのは「五万石騒動」の文末の部分である。義侠的精神について、佐倉宗五郎と匹敵するとして「義民のお手本として末永く語り告げられていく」という最大限の賛辞を述べていることが特徴といえよう。

二、高崎市史から
 明治二年(一八六九)には全国藩主の藩籍が奉還され、藩主大河内輝声(はじめ輝照)はあらためて藩知事に任ぜられた。大参事以下の官吏も旧藩士が任ぜられた。それは六月のことで、その年の秋にはいわゆる五万石動が起った。五万石騒動は城下農民の「百姓一揆」である。
高崎城主は八万二千石を領していたが、安藤氏時代からの旧領を城付五万石といっており、高崎城をめぐる旧五万石領に起?た納税減免運動が「五万石騒動」である。この五万石領は、新領あるいは他領に比して重税だった。従来も永年にわたって重税にあえいでいたが、王政復古、明治新政府の新らしい恩恵に浴そうと意を決し、農民が一致団結、要望の貫徹を期し、大総代佐藤三喜蔵(下中居)高井喜三郎(柴崎)小鳥文治郎(上小縞)の三名を逮び、結束を固めで、猛運動をした。
 五万石騒動はやがて廃藩置県を迎え、大きな割合いにはあまりはっきりしない結果になってしまい、農民の犠牲が大きかったようであるが、無知な農民に団決の力の偉大さをさとらせた。
 この年、戸口調査を行なった。戸数二二九一、男四一三九、四一六七、計八三〇六という人が数えられている'が、これには医師、神職、僧職などが含まれていない上に、藩士の数が入っていない。しかも旧高崎城下の町家だけである。
高崎市史(昭和四十五年三月高崎市史編纂委員会刊)

これは記載された全文で短くまとめられているが、騒動のそのものの成果より、農民が一致団結した行為を賞賛していることに注目したい。

三 郷土文化誌「鼎」から
□騒動の顛末□
 この処分の発表があり処刑後は、ほかの各村の総代については別に調べもなかった。これまで役人の調べを恐れて、遠くの親戚に行っているものも次第に戻って来るようになり、こわごわながら自分の家で過ごしていた。
 この騒動に要した金は農民側だけで、弁当代や宿借り料を含めて、二万五千余両に及んだとされ、それに伴う大総代の活躍は多くのエピソードを残した。
 明治四年七月十四日、太政官は全国各藩の名義を廃して県を置いた。いわゆる廃藩置県である。これによって、大河内右京亮も高崎藩知事を免ぜられ、政権は名実共に中央政府の太政官に移り、長年農民の慣りの的であった藩政も自然に消減し、税金も他県と同じになっていった。
 八公二民という重税に苦しめられた高崎領五万石の農民は、悪政に対して騒動を起こしたものの、ついには政府の裏切りと高崎藩の横暴のまえに屈服させられてしまった。この騒動による処分者が出たすぐ後に、廃藩置県になっているのだから皮肉である。しかしながら、五万石騒動をふくめて、この時代全国各地で頻発した農民の一揆が新政府を動かし、より早く廃藩置県へと行政がすすんでいったものと考えられないでもない。
とすれば、五万石騒動の発端となった羽鳥権平の行動も、それなりに評価されていい。
因に、この羽鳥権平は久保田戻次郎と共に、常に佐藤喜三郎らの一隊と別行動であった。このへんのところに、なにか謎めいたものが感じられないでもない。この二人は、丸茂元次郎と山田勝弥が民部省へ強訴のとき、東京にあってその手筈を整えている。
 しかし、それも失敗に終わると、九月二十日に二人だけで民部省へ減税の訴えを出そうと出願の手続きをし、民部の大輔玉野東平の訊問を受けているのだから、杞憂であると言ってしまえばそれまでである。
ともあれ、高崎市は現在県下にその名を誇るまでに成長したが、ここらで、自分たちの先祖の残した、確かな足跡を振り返ってみる必要があるのではなかろうか。
郷土文化誌「鼎」昭和五十年二月号あさを社刊

ここに掲げたものは二十ページの長い論調のなかの最後の部分であるが、堅い論調の多い中で、弁当代、廃藩置県との関連性、羽鳥権平の行動等、他ではあまり見られない重要なことを、思うままにいろいろな視点から述べていることがユニークだしすばらしいと思わないわけにはいかない。「高崎市は現在県下にその名を誇るまでに成長したが、ここらで、自分たちの先祖の残した、確かな足跡を振り返ってみる必要があるのではなかろうか。」と義民について忘れがちな現在の人々に対して大きな警鐘をしていることもこの雑誌の論調の特徴であろう。

四 萩原進著「群馬県人」
 群馬県人の、あまりにも人を疑わない愚直の最もいい例が、明治維新の夜明けに発生した悲惨な五万石騒動である。慶応四年(明治元年。一八六八)徳川慶喜の大政奉還で、倒幕方に政権が移ったが、天下の諸藩、諸民は必らずしも全面的に薩.長.土と公卿による新勢力である、いわゆる官軍に低抗なく服従するという自信はなかった。そこで、新しい権力者は天皇を表面に立てた錦の御旗を先頭に、京都から東海道、東山道、北陸道の三手に分けて東京へ進軍した。途中各藩の恭順を確かめ、民衆への鎮撫と無言の圧力を加えつつ新政府の威光を示した。三軍の総裁を有栖川宮熾仁親王とし、各道の指揮官も公卿が選ばれた。
東山道先鋒総督は公卿岩倉具視の弟具定であった。この一行は、相楽総三を利用して軍資金などを調達させ、さんざん利用しておきながら、彼等を利用したことが不利とわかると、正義の旗印の不正が明瞭となるので、偽官軍の汚名を着せ、これを斬るという醜行を敢てした、薩・長の好悪な連中である。東山道を進みながら、鎮撫のためには偽りの布告も平気でやれたのはもちろんである。要は新権力側に平穏裡の服従をさせる目的が達成できればよかった。(中略)
 しかし、明治二年の秋の収穫をしてみたところ意外の凶作だったので、領民は実力行動に訴えることになった。大総代三人はこうして選出された。この闘争はただの付和雷同の暴動ではなく、ちゃんと実情を調査し、数字を基にした陳情をしている。岩鼻県を経由して新政府にもこの騒動が伝えられたものであろうが、太政官から高崎藩に対しての通達には、新政府は藩と県を同一規準にするようにという趣旨であるが、五万石領の村民が、岩算県支配村と同じにし磁て欲しいと「下民共強訴に及び・終に暴挙に立至り候次第、愚昧賎劣とは申し乍ら不逞の至りに候」と述べており、農民を虫ケラ畜生と見ている、それこそ不邊の役人の新政府であることを暴露している。しかし、高崎藩は依然として虎の威をかり強気に出て一歩も引かず、領民は明治御一 新の布告への希望も踏みにじられ、悲壮な決意のもとに傘連判状をつくり、団結を誓って戦った。十月十五日、最後の直接行動を、高崎藩庁に強訴というかたちで押寄せた。藩側も嘆頗書を受取り回答することになったが、その間にもおどし、懐柔などあらゆる手段を用いて切崩しをやった。
一応和解というかたちになったが、首謀者の三名は村預りの軽い処分にして、領民側の気勢をくじいた。明治二年十一月三日のことである。しかし、結局大総代三名を処罰することになり、佐藤三喜蔵、高井喜三郎の両名を明治三年二月に斬罪に処し、小島文治郎もまた斬罪に処された。
もちろん、藩では新政府に対して伺いを出して許可されてやったことであるが、政権を握った新政府の幹部が、新時代に処するのに自信がなく、人気取りの布告を出し、それをまともに信じた高崎藩五万石領の農民の主張を罪あるものとして処断したということは、少なくも現代においては許されるべきものでない暗黒政治の一断面といえよう。新政府のずるい本心を見抜くことができず、愚直にこれを信じた群馬県民の悲劇の一つである。為政者の偽まんに踊らされた例は他にもみられ、内村鑑三が上州人は馬鹿正直だといったことを歴史的に物語るものといえよう。
「群馬県人」萩原進著昭和五十年三月 新人物往来社刊

この文は他の論調とは一風変わって「五万石騒動」を県民性から捉えているところが興味深い。冒頭から「群馬県人の、あまりにも人を疑わない愚直の最もいい例が、明治維新の夜明けに発生した悲惨な五万石騒動である。」と書かれていることが衝撃的である。時代の流れや政府や人の心の裏まで考えつかなかったのは残念であるが、私は「人を疑わない愚直さ」も群馬県人の長所であり、この騒動を「人のために協力して闘おう」という意識が育ったことはすばらしいことであると思う。この論調は「新政府のずるい本心を見抜くことができず、愚直にこれを信じた群馬県民の悲劇の一つである」と結んであるが、私はそうと思わない。騒動の直接の成果は少ないが、農民同士の団結や協力姓について大いに得るものがあった。現代において大いに学ぶべきものがあると思う。

五 青木幹昌氏の研究論文より
 以上の結果から、次のように総括捉することができよう。
 幕末維新期の高崎の農民の生活は、年貢負担、助郷負担、経済混乱による米価高騰や天候不順による凶作などによって逼迫していた。まさに、農民が百姓として存続できない状況に直面していた。騒動は、このような状況の中、百姓が自らの存続をかけて起こしたものである。その行動を支えたのが、身分意識としての御百姓意識であり、その意識のもと、支配者に仁政を要求していったのである。この身分意識は、きわめて政治的な意味合いをもっていた。しかし、農民は社会変革を求めたのではなく、御一新という「幻想」に支えられながら、支配体制のあるべき姿「百姓成立」がかなうような治者のなすべき仁政を求めていたのである。百姓の生活が危機的状況に陥ったときに現れるこうした行動は、支配体制を否定するといった姿勢ではなく、あくまで治者を治者として容認した上でその治者のあり方に対して異議申し立てをするといった政治スタンスである。それ故、騒動に際して農民は、御百姓としての立場を強調しながら、御百姓であることに正当性を見出して要求をつきつけていったのである。
 ところで、一挨を支えた意識はこうした御百姓意識だけではない。そこには、農民としての一体感、共同体意識がはたらいており、それが一揆集団をより強固なものにしていたのである。そして、その集団の構成単位は、個人ではなく「家」であった。さらに、一挨を支えたものとして、義民信仰があった。この義民に対する意識は、身分意識や政治意識とは次元の異なる、農民の内面に根ざした意識であった。さらに、こうした意識は、維新後、明治政府がそれまでの身分制を解体させ、農民を撫育の対象として扱わなくなった後も農民の中にそのまま継承されていった。農民は、明治政府の近代化政策に対して急激に意識を転換させることはなかったのである。そのため、中野秣場騒動では「旧慣」の継続を求め、生産会社の行動を「私欲」と見なしたのである。しかし、こうした意識は単に継承されていったのではなく、農民の中には久保田のように伝統的な意識を継承しながらも変質を遂げていった者もいたことを見逃してはならない。そこには、「民衆」という言葉で一括りにできない複雑さかあるのではなかろうか。
ところで、こうした農民の身分意識、政治意識、共同体意識、義民意識といった一揆に関わる意識は、農民の日常の生活に直結しているものであり、その延長線上に位置するものである。こう考えると一揆は、安丸氏の言うような日常の逆転した世界とは言い難く、むしろ一挨は日常が表出している闘争であるということができる。そして、こうした一揆の意識は幕藩制解体後も農民の中に変質を遂げながらも受け継がれていったのである。
上越教育大学大学院、学校教育研究科 青木幹昌氏 「幕末維新期における農民の行動と意識」ー高崎藩五万石騒動の考察を通してー

この論文はA4で百二十八ページに及ぶ長いものであるが、ここでは最後の部分を載せさせていただきたいと思う。青木氏は「五万石騒動」を多角的に捉え、結果的に今まで捉えることのできなかった、「五万石騒動」の本質を捉えたような気がしてならない。この騒動は多くの一揆と違い「支配体制を否定するといった姿勢ではなく、あくまで治者を治者として容認した上でその治者のあり方に対して異議申し立てをするといった政治スタンスである。それ故、騒動に際して農民は、御百姓としての立場を強調しながら、御百姓であることに正当性を見出して要求をつきつけていったのである。」というように打ち壊し的なものと異なり、強い要求を行動に現したものだと思う。
 またこの騒動の特徴のひとつとして「農民としての一体感、共同体意識がはたらいており、それが一揆集団をより強固なものにしていたのである。」 と捉えていることは 他の一揆ではあまり見られない、仲間意識を大切にした、農民の行動があげられる。 また自分のためだけでなく、家のため、村のため、人のために尽くす義民信仰的な考え方が「五万石騒動」の強い結束の根底にあったのではないかということが、青木氏の論文により伺い知ることができたと思っている。
(さとうゆきお)

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