丸茂元治郎翁伝
五十嵐伊仙著
はしがき
この書は義民になれよと人の子に教えるためのものではない。義民と呼ばれるような人は暁星のように甚だ少数であって、容易になれるものではない。ただ封建時代と明治維新以後の今日と庶民の生活程度においてどんな違いがあるかを知らせたいと思って書いたのである。特に庶民が武士のために極度の圧迫を加われたていたことを知らせておきたかったのである。これを後世に伝える手段として高崎藩の農民運動の経緯を述べ、「丸茂元治郎翁伝」と題しその血族等に配布し同意を得て不朽の碑を立てたいと思うのも、あながち無意味でないと信ずる。これから学問に志す若き青年諸君等よ、これらを是非了解してほしい。 昭和3年5月
元治郎の生い立ちとその資質
元治郎は天保五年(1834年)3月22日に群馬郡上中居村に生まれる。しっかりしていて男らしく逞しく、欲はなく、上の人におもねないで且つ下の人にも侮らず、専ら地域のため尽力していた。父は幼名弥五郎、通称は勘右衛門であった。維新以後朝廷は衛門左衛門を廃止することになり、勘八となのった。母なかは綿貫村の徳江氏の娘であった。元治郎の家は代々組頭に勤しんでいた。父は農事において堪能で家計も安定していた。昔は農家は化学肥料を使わず、市より下肥えを購い田んぼの肥料とした。元治郎の家は郡奉行の谷口忠右衛門の下肥を取っていた。よって忠右衛門の家と元治郎の家はかなり親しかった。ある日元治郎は弟の藤弥と共に忠右衛門の家につきあたった。幕府の頃は庶民が武士に対して礼儀に背く行為があるならば「無礼打」と言って直ちに惨殺されたものだ。しかし武士に対しては少しの咎めもなかった。忠右衛門の家と家老深谷藤弥の家は隣同士で、元治郎は用事があるごとに弟の藤弥を呼んだ。その声はかなり大きい声なので家老の名を呼んでいるようで大変無礼のようであった。忠右衛門の妻はこのことにほとほと困り抜き、元治郎を呼んで「私は藤弥と呼ぶ声が隣の家に聞こえるのを気遣っている。藤弥と大声で呼ばないように」と言っても元治郎は意に介せず、「藤弥」と大声で呼ぶものだから忠右衛門の妻は唖然として目は皿のようにして憤慨していたようであった。
農民頭を持ち上げる
元治郎は人権に雲泥の差をあることに常日頃憤りを感じていた。天運循環して明治維新となり幕府の権勢がゆるくなり、一陽来復(冬が去り春が訪れること)し草木が萌え始めるようににわかに動きだし荒れ狂う大波のように地頭に減税を迫ったのである。明治二年のことである。当時これを五万石騒動と言っていたが実は城附古領四十五ヶ村の騒擾のことである。元治郎は共感を覚え奮然とこの運動に参加したのである。この時、三人の大総代は聞くも怖ろしい打ち首の刑に処された。これこそ柴崎村の高井喜三郎、上小塙村の小嶋文治郎、下中居村の佐藤造酒蔵であった。実に根強い農民運動でその村は数少ないといえども傘連判というものを作って結束を固くしていた。これら大総代の処刑後元治郎は二代目の大総代に選ばれた。明治二年十一月二十六日の未明に造酒蔵は倉賀野宿の下田甫字梅の木で喜三郎は某所で逮捕された。このとき文治郎は岩鼻の万屋にいたが、秋山孫四郎と共に喜三郎等二人の大総代助命のため岩鼻県へ出訴していた。岩鼻県は天朝の直轄地であったからである。だから文治郎等は直ちに高崎藩に送られた。喜三郎、造酒蔵の両人は悲しいかなその志を遂げずに明治三年二月四日高崎東の無縁堂で打ち首に処され、文治郎は因循日を経て同年九月七日に刑に処された。
大総代の願いは減租が目的
ああ藩吏が文治郎を刑するにあたり、理由もないのにもかかわらず、「大総代が強訴などしなくても廃藩置県となるのは当然で彼らは全く犬死である」と嘲る者がいたが、これは一を知って二を知らないようなものである。明治維新の大激変を未然に防ぐことができないため永遠に藩吏は自家を擁護すべく惨殺するのに対して庶民が騒動を起こすのは当然である。そして三人の大総代の刑を処するにあたり、「総代の立場を利用して高割り金を領内より徴収し徒党を組んで、酒代に浪費したことにより打ち首に処する」と藩吏は正に一揆と決めつけている。その所以を尋ねようとしてその運動の中で高割金の取り立て帳を持っている者が二人いた。一人は柴崎村の大澤定吉でもう一人は上小塙村の八木杢弥であり、定吉は倉賀野宿の遊郭で明治二年十一月二十五日の夜に五、六人の仲間と一緒に藩吏に逮捕された。藩吏はこの際高割り金の取立帳と重要書類を没収し、この好機を逃すまいと打首刑に処し藩政の非道をかばおうとした。誠に人の道に反する極みである。一方定吉と五、六人の仲間は大罪を犯しながらわずかに十両前後の罰金を課されただけであった。実に大総代の処刑は騒動の弾圧手段で真の懲罰でなかった。まして杢弥のように罪を犯しながら少しの咎めもなく、明治四十四年九月七日、八十一才天命を全うして没していた。大総代達は専ら庶民のために困苦を救うため愛郷心を揮っていたのに、藩吏は如何に高割り金に浪費したように見せかけても、全くその事実はなく、人々は大総代のために大きな石碑を建っている。今もなお現存しているのである。三人の処刑の理由の根拠は何もなく「大総代になって高割り金を徴収して酒代に浪費したというのは全くのえん罪である。
騒動の原因
騒動の原因は勿論王政復古にあるが、その第一原因は高崎藩が幕府の掟に背き一一五の延口によらず、一五五の延口米を掛けたということである。「善く見付けたり雪隠の蛆」と俳人の鶴乗がうたっているが農民も侮りがたく藩吏の急所を見つけこのように一一五以上の延口米を掛けていたことは事実である。またその領地において税法は誠に不均衡で最も甚だしいのは延口米で、一領内に三種類あった。藩吏は「延口米の上下は土地の状態による」というと農民は「畦を一つに境にして延口米の上下あるとは何ぞや」と藩吏を責めた。その中で最も多いのは古領の四十五ヶ村で、古領の延口米は意外にも籾一升に対して米が正に七合三勺であるとした。だから二五の米へ一一五の延口を加えることになりこれがいわゆる七合三勺掛けの法である。また三五村という領地は六合掛けであった。そのほかに新三五村という領地は五合掛けとして古領のような延口米を掛けていなかった。五公五民の法によって同じようにできないものか。その差を知ると税法の不均衡はこのようである。加えて天間や山役などおびただしい夫役を課せられてために農民は始終あくせく働いていたけれど田畑は荒廃していき、米の収穫は四斗五升入りの物で三十四俵に過ぎなかった。そして古領の税は田畑、宅地共皆米であった。だから獲れた米は殆ど税として取られてしまった。昔から幕府は農民を貨物の如くうまく使い、武士達も庶民を呼ぶにも敬称を用いなかった。、高崎藩吏たちも皆これに習っていた。安藤対馬守様の頃井野村に茂左衛門という名主がいたが、「釣下三合除き」という法のあることを知り、安藤様へ上訴すると裁きがあり、上を恐れぬ無礼のやり方として結局打ち首に処されてしまった。その後右京様になっても農民は一向願い事を言い出す者はなかったという。そして領内はますます不況が続き精神的にも疲れがひどくなってきた。ことわざにも「高崎領へ嫁に行くか、裸で茨を背負うか」と言われ彼らは食う米もなく学ぶ処もなくその生活は家畜に近く武士の圧力は誠に怖ろしいものである。
名主や組頭は特別の待遇
農民は苦しい生活を強いられていたが、独り名主や組頭は特別の待遇を受けていた。従って名主達は藩吏のために尽くすざるを得なく、上中居村に組頭吉井某という者がいてその運動の機密をしばしば城代家老長坂六郎の元に告げた。そのため騒動が収まった後、その功により名主に命ぜられたという。けれど元治郎においては組頭の職も顧みず奮然と騒動の渦中に身を投じて農民と共に猛虎のように地頭に減税を迫るも、藩吏は借金取りのように農民の気持ちを受け入れなかった。農民は大いに憤慨してむしろ他藩に訴えた方がよいと思い、ついに岩鼻県の知事小室新太夫に越訴した。小室知事はその情状をあわれんで精一杯努力をしてくれた。ついに高崎藩吏も農民の願いを受け入れた但し一年限りと言うことであった。明治二年十月二十八日のことであった。これより藩吏は小室新太夫に対して事実と違う願いを遂げたとしてもの凄く総代を恨んだ。しかも減税の辞令において「延口のことは新領や三五村と同様のこと」とこれによれば税法の不均衡なる説明がなく、また武士が庶民を極度に圧迫していたかがお分かりになるだろう。
元治郎鴻恩(大きな恵み)感激する
越訴によって一年間減税とはなったがこれより藩吏は頻繁に民衆の過失を探ることが多くなった。前記のように大総代は逮捕となり処刑されて予期せず大総代を失ったがまだ願意は通らず農民はこれを憂いた。元治郎は第二の大総代に選ばれた。柴崎村の孫四郎、上小塙村の勝弥との三人であった。孫四郎と文治郎は前記のように大総代助命のために岩鼻県に出訴して高崎藩に送られ獄舎に入れられた。よって勝弥と元治郎とは東京に走り臥薪嘗胆(がしんしょうたんー仇を討つ志を持って辛苦をこらえ自ら励ますこと)、民部省に出訴した。時の大久保加賀守の藩士の葭野外記氏は元治郎等のために積極的に力を貸してくれた。時の民部大臣は明治維新の三傑の一人木戸孝允公であった。大臣は細かに元治郎の願意を裁断した。明治三年八月十八日のことである。遺憾ながら元治郎等のその志は遂げることはできなかったが、このために木戸公は大いに現状を察知し、いろいろ調整や努力してくれた結果、明治四年をもって藩を廃し、直ちに県を置くこととした。あえて言う、元治郎等の功労が少なからずあったと。大総代の逮捕以後農民は高割り金の納入に苦しんでいたので元治郎はしばしば自財を訴願の費用として使うことに努めた。惜しくも元治郎等は機会を得ずその志を遂げることはできなかったけれど、民部大臣は元治郎等の情状をくみ取り、強訴の罪は軽くないにもかかわらずついに死罪を赦しその藩吏をも十年の刑に処した。勝弥は牢死し元治郎は満期出獄で天命を全うして没した。明治三十八年七月三十一日、七十二歳であった。同じく第二の大総代孫四郎については僅かに十両の罰金で免ぜられている。同じ大総代でありながら、死刑があったり徒罪、罰金刑があったりしたり、あるいは重かったり、軽かったりしてあるいは遅かったり早かったりしたて、一揆の徒党の事実を証明することは出来ない。知恵のない藩吏を待たないで判断するべきである。しかも古い義民と言われる人たちは概ね死を免れない。しかし元治郎のように幸いにも死を免れる場合はほんとうに稀のことである。これも王政復古のおかげであろう。元治郎は憲法を発布を見ている。元治郎は私達甥妹に「お前達よ、この鴻恩、大きな恵みを忘れてはならないぞ」と言って小躍りして喜んでいた。元治郎は実に差別撤廃の先覚者であった。そしてしっかりしていて男らしく、欲はなく、上の人におもねないで且つ下の人にも侮らなかったことからもその義心を推し量ることができよう。
元治郎の妻は貞女
最後に元治郎の家族構成を記したい思う。妻きくは当村清水氏の出である。元治郎は弟が一人、妹が三人いた。弟の藤弥は綿貫村の徳江氏を嗣いでいる。一番上の妹はゆくで柴崎村五十嵐氏に嫁ぎ、二番目のきちは元治郎の分家に嫁ぎ、三番目のたけは別家した。妻きくは二男三女を生んだ。長男又七は家を嗣ぎ、次男永吉は別家し長女ゆきは上佐野村の松田氏に嫁ぎ、、次女かう、三女しかは共に伯母の家の柴崎村五十嵐氏の本新両家に嫁いだ。妻きくの性質は柔順で舅によく仕えていた。元治郎は農民のために長く家にいなくてもいささかも意に介せずしきりに業を励む傍ら愛児たちに教え続けた。だから家政は衰なかった。近所の者できくの徳を褒めない者はいなかった。元治郎あってこの妻があるというのは自然のなりゆきである。また血族が相談し元治郎の徳行を後世に伝えようとして私に文を書くことを依頼してきた。私はあえて断らずただちにその概略を記し、明治維新の大激変を描いて、世の人の教訓となればと思っている。
小島文次郎源正治小傳
小島文次郎源正治小傳序文
私は本小伝を読んで文次郎の性質や行動を考えると聡明で、父母には孝行し、友情には厚く、侠気に富み、人のために尽くしていて尊敬し信頼さぜるを得ない人であると思った。天命で年は元気盛りで、領民の事を考えない領主に遭い、幾十万人のために願書を捧げること一二回ではないが、虚しく囚われの侮辱を受け遂に信友同志二氏と共に刑場の露と消えてしまった。文次郎の行為と精神は実に桜惣吾とよく似ていると共に道徳的な善行の最高峰で、誠実で優れていて、志の高い思いやりのある人といえよう。自分を殺しても人のために尽くすと言う人である。古い封建制度でのもとでは揃って期待できない政治の元でいるものは不幸で短命で終わる者が多い。憐れむざるをえない。今や王政の手厚い恵みを湿し、文次郎等のように命を失う者があってはならない。文次郎の嗣子は父のため碑を建て父の偉業を称え父の慰霊を慰めている。私はこの小伝を通読して感慨やまず一言述べさせていただいた。
大正6年11月
鳳鳴居士 保岡亮吉
小島文次郎小伝
文次郎は正治と称し上小塙村の政右衛門の三男である。長男は升五郎といって分家となり、次男は左四郎といい碓氷郡金井淵村へ養子となった。文次郎は三男で家を継ぐときに二十二才で妻として静野喜十郎の長女きちを貰って、二人は夫婦仲がよく、久松、次郎吉、ちょう、はる、せん、いくの二男四女の六児をもうけたが、久松、ちょう、せんの三児はいずれも病没するところとなったがはる、いく、次郎吉の三児は幸いに成長して、次女はるに分家升五郎の政吉次男を貰い嗣子とした。そして四女いくは室田村芹沢の清三郎方に嫁ぎ、次男次郎吉は小島の佐藤太方の養子となった。
幼い頃より文次郎は聡明で書画、数学(十六才の時江戸に出て勉学)、謡曲(観古流)、生花(遠州流)より武芸(十九才の時、馬庭源太左衛門の門弟となって、先生と共に千代田城において二ヶ月あまり大名を前に武術の技能を披露した)に至るまで何一つ通じてないものはなく、特に農事に至っては技術は素晴らしく
一意専心し、その改良に取り組み、遂に彼の有名な申年の凶年に定量の十六俵の貢米をなし、藩主の激賞を授かった。通常の鍬だけによって成し遂げたことに村民も驚嘆した。そして文次郎は温厚で孝心深く父母に逆らうことなく、義侠心に富み人が困ることがあると聞くとどうしても救済しようと思いその手だてを講じてやまなかった。また、喧嘩や言い争いがあれば必ず調停者に選ばれ円満な解決をもたらした。だから人々からの尊敬心は一方からだけでなく、どんなことも文次郎に決裁を仰がないことはなかったほどであった。
高崎領は従来、遊興的な事業は絶対禁止だったので芝居などは夢にもなすことが出来ないほどであったが、文次郎は何とかして村民に芝居を見せたて、日頃のうっぷんを晴らしてあげようと慎重に考えた末に一策を案じた。その方法とは明治二年の端午の節句高崎町大善寺において領主の大奥の花見会のときに文次郎は絶好の好機を逃げしてはならないと大善寺の住職の手を握って願い乞いをした。それで芝居の興業の許可が出た。というのは大奥においても領民の日頃の疲れを癒そうという考えもあって遂にその許可をたのである。端午の節句の日公然と興業されて、村民に非常な喜びを与えることが出来たのである。
文次郎四十五歳の時、明治二年五万石騒動起こるや、村民の苦難を黙しすることが出来ず、世間の人も文次郎の義侠心のある性格を知るものであるから、下中居村酒造之助、芝崎村喜三郎と共に大総代に推された。そこで高崎領四十五村数万人の喜び悲しみを双肩に負い、東奔西走、苦心惨憺、あちこち忙しく駆け回り、心を砕いて熱心にやった結果、一年で十六万両の減税を行い、数万人の愁眉を和らげた。このため文次郎等は藩主の激怒をかい、斬首の極刑に処せられても、その功労は永久に没すべきではない。
明治元年維新の大召還が発せられ王政復古についての告諭を聞くや、高崎藩の圧政暴虐に苦しめられている人民は従来の苦痛を脱しきれることを楽しみにしていたが、予期に反して二年になっても更に軽減の恩恵に浴することができず、却って収税は一層の厳密さを加え、岩鼻県領に比べ雲泥の差を生じることになった。特にこの年凶作が合い続き普通の貢税でも容易でないのに、田租は七分三厘の米納を命ざられ、加えて家屋敷に至るまで、ことごとく米納を命ざられ、また五里四方の無債務役に毎月数回課せられ、被服料として木綿を徴収し、あるいは木運びと称してへんぴな山へ人を集め、油代としてエゴマを貢がせ、籾すりと称して人夫を集め人民を使役し、木屑を拾いさせ、飼馬料としワラを徴収し、箒、竹、松等数え、人民より無代で徴収するものを挙げても数えられないほどだ。そうなれば人民は疲れて弱り、規定の貢米及び貢租を収めることができず、高利を忍んで藩主より借用することを余儀なくされたが次のようである。
金 百七十三両二分
米 百九十二俵
慶応二年より明治一年までの滞納分 下小鳥村
金四百八十五両 上小塙村
金二十両
米八十四俵 上小鳥村
金三百三十七両三朱九百三十七文 年貢差替分 筑縄村
米百二十四俵 年貢分 借分
金二百七十三両二分 下小塙村
米二十八俵
以上のように記録に残っている三十九カ村の滞納借用の合計をみると、実に二万七千六百八十四両二分一朱と銭七貫百八十匁、米千九百七十八俵の多数を示している。もし、高崎領全部の調査がなされれば驚くべき数になるのに違いない。
上小塙一カ村分の年貢
五百二十石一斗八升四合 総石高(上小塙村総石高)
百八十石五斗九升一合 年貢総石高(上小塙村)
内訳
四石二斗三升一合 石数一町五反の年貢米
百四十一石一斗九升 田三十六町七反六畝十八
三十四石九斗六升七合 畑二十一町七反二畝十七
しかし実際の徴税は種々の名目を元に行われる。
六百九十九俵四合 三年の上納分
内訳
六百二十七俵一斗八升八合 上納元高
三十七俵二斗七升二合 右口米
三十六俵三斗七合 種貸元高
七俵二斗四升五合 右利米
上記のように既に規定されている年貢米より多額の口米三十七俵余と言い、このような無慈悲な高利貸しやり方にそっくりである。このようなことは人を治める人がやってはいけないことである。
ーしかもそのほか大豆の十四俵と豆の二俵一斗、麦の十一俵、綿の三百匁等、
何れも人民の血肉を搾取するようなものである。そうなれば高崎領の人民は苛政暴虐、税金を高く取り立てて人民の生活を脅かすような政治に耐えかねて他領に逃げ出したり、或いは愛児を闇から闇へ葬ったり、悲惨の極みの状態は次の表を見ればお分かりになるだろう。
寛政、明治の人民比較表 四十五か村の計
寛政年間
戸数三千八百八軒 人口一万四千二百六十二人
明治二年
戸数二千四百六十五軒 人口一万二千五百七十二人
ああ、遅鈍の人民といえどもここで奮起しないわけにはいかないだろう。
ましてや維新の天皇の重大な決意をお聞きしてのことであるからなおさらのことで゛ある。ましては岩鼻領は苛政が行われていないので俄然村民は奮起した。そして文次郎はその先頭に立った。しかし村民の領主に対する軽挙なる形振りに対して文次郎は戒め嘆願を提出した。日頃尊信する文次郎の言葉により村民の賛同を得て訴願となった。よって、文次郎は筆を執り次の文章にして村民の願いを領主に要望した。
(中略)ーこの辺になると筆字がかなり流ちょで判断が難しいことと内容がそれほど
重要でないと判断して省略した。できることなら全訳したかったが・・・
文次郎事の次第を父母に話して許しを得て、嗣政を招いて告げるよう、この行司からの生還を期してこのことの正否あることの成り行きで数十カ村数万人の喜びを見て私が粉砕してもかまわない。しかしこのこと既に進んでおり、もし途中で刑場の露と消えても恨むことはない。お前達私が死んだとしても決してあわてることなく、家業に励んで、翌夜夜中を利用して、再び岩鼻へ出向き、苦しいことも忍んで、永福寺にいき小総代等の集会に行くのも警戒して行ってほしい。それに昨夜、酒造之助、喜三郎が逮捕され高崎に護送された。これより先、蚊蝿の徒輩の文次郎らの苦哀を察する中、重要書類を持って倉賀野町で連日快夢を費やすことを酒造之助、喜三郎の両人がこれを聞いて一大事と思い倉賀野町へ行ったときは既に高崎藩吏に引き上げられてしまっていた。両人の痛恨は察するにあまりある。しかし予想の出来ないことがおこり、岩鼻へ引き返そうとしても万事休すで前もって密偵をつけて高崎捕吏たち数十人が取り囲み遂に逮捕されたのである。これは明治二年十一月二十六日の夜のことであった。
文次郎は以上の話を聞いてすぐ、二人の助命を乞うために岩鼻県に駆け込み願いをした。このときの県知事も心機一転文次郎の助命願いを聞き、届けていない者を出願という形になった。翌日放すときに二人の斬首の極刑に処せられたことを聞いた前橋、吉井、小幡、七日市等の諸藩より急便で処分を行わないように申し込みがあった。特に天朝よりも斬首を差し控えるよう示達が来て、県吏そのまま入牢を言いつけた。
高崎藩吏これをおおいに喜び高崎藩へ引き渡すことを願った。県吏は初めはそれを拒んだが遂にその要求をのみ、十二月二十三日高崎へ送った。高崎藩は仇敵視している文次郎等を捕まえれば日頃の鬱憤を晴らすためのはこのときばかりとやっていることは悪行為といってもあまりにもひどいやり方であったと思う。
文次郎は他の二人と異なり、岩鼻県において厳重注意されたとしても寛大の措置ではないことはない。他の二人は刑場の露と消えても、文次郎は処分が決まらず、取り調べもほとんどなく、わずかに三年正月十九日一回呼び出され、「門訴、強訴したのは不届き」とその後入牢されただけであった。文次郎は獄中で二総代の処刑についても、そのようなことはあると予見していたので悲嘆の様子もなく、自分も死期の近づいていることを感じていた。一日過ぎ、二日過ぎ、
三日過ぎても呼び出されず、二ヶ月過ぎても何の変化もなかった。これは不思議と怪しんでも今日か明日かと考えていた。文次郎は友情厚く冥福を祈り、供養したことは二回に及ぶ。友義に厚いこのようでもはや心に残るものはなく、いずれ二人の友の後を追うものと死期の近づくのを待っていた。そして九月七日になり、あくまで総代等を悪者とする高崎藩吏のために斬首の申し渡しは次の通りである。
上小塙村
百姓 文治郎
此の者郡の総代となり法を犯し大勢を集め遂に城下町まで押し寄せ、強訴 を繰り返し、他県へ事実と相違した内容を差し出し、高割り金を集め酒食に 遣い、此の所業不届き至極により斬首を行ったものである。
前述の捨て札は事実に相違しており、高崎藩において自己の苛政を顧みず、総代の行為を悪く見て斬首を申し渡すため事実と異なる捨て札を立て、大詔があったにもかかわらず極刑に処したのは高崎藩の仕業はあまりにも悪すぎる。読者このこと了解してほしい(記者)
文治郎は前もって覚悟していたので驚いた様子もなく心静かに刑場の無縁堂に引かれていた。近村の数千人がこれを聞きここに来て念仏を唱えていた。その中に文次郎の嗣子の政吉がいた。政吉は人をかき分けて前へ進み出て、獄吏に「親子の情せめて水を給して併せて暇乞いをすることを許して欲しい」と乞い願った。獄吏も人であった、これを許した。政吉は器に水を盛り父の前に出た。文次郎は駕篭の中でこれを受け、「あとのことはよろしく頼む」との一言を以て、哀れや一生の別れとなった。獄吏は背後から刀を構えたが、文次郎はこれを押し止め辞世を吟じた。
人のため草場の露と消ゆれども名を後の代に残す嬉しさ
既に四十六を一期として前途のある有為の偉人も身首は忽ち異にして、呼べども還らず、群衆は声を放してそれぞれの所へ帰った。我らの救世主は去ってしまった。今後誰を頼って安全を図ろうか。文次郎が亡くなって騒動をするのみで統一もなく規律もなくなってしまった。
廃藩置県の制定された翌四年の九月までに騒動が続いても、支離滅裂、要領を得ることなく騒動が終わってしまった。
ああ、文次郎は大和氏族の典型というべき人物であった。
嗣子政吉は遺骸を累代の墓に納め、碑を建て厚く葬った。その文は次の通り
人は必ず死ぬものである。死は重いか軽いか、栄光か屈辱か。
ああ、小嶋文次郎の死刑は軽いか、重いか、栄光か、屈辱か。
これを知ることはできない。ああ、これを知るもの者もいないだろう。
※小島文次郎伝は筆字で読み取れないところもあり、一応おおよその意味を獲れるようにしたつもりであるが、正確な語訳ができず、誤訳になってしまっているところもあると思います。
誤訳等気がついたところがありましたら佐藤までご連絡ください。