五万石騒動の年表
明治2年(1869年)
五月上旬−季節はずれの北風で農作物被害。
七月十三日−榛名山の南麓に集中豪雨。
ハ月中−羽鳥権平等三人運名で減納願いの相談
について、通知状発送。
九月二日−佐藤三喜蔵、高井喜三郎は、上中居
村の正観寺で、下郷組十二か村の集会を開く。
九月三日−羽鳥権平等は、宿大類村の慈願寺で、
東郷・西郷・中郷の九村十八名の集会を開く。
九月上旬−上郷組は、上小塙村大森院で集会を
開く。
九月七日−下之城村如意寺に、五郷五十六か村
の農民代表が集合し、組織・役員・費用分担・
出動心得等決定。
九月二十九日−北矢中村天神の森に、大惣代以
下二十数名集合、訴願の文案を作成。
九月二十九日−漸進派により、小幡藩・七日市
藩・前橋藩一阻止された一・岩鼻県に陳情。
十月一日−大惣代佐藤三喜蔵・高井喜三郎・小
嶋文次郎の三名は、佐倉宗五郎霊堂参詣のた
め出発。
十月十五日−貝沢村五霊神社の境内へ農民約四
千人集合(夕方から夜にかけて)。大目付下
石丈右衛門、代官諸田順之助等に解散させら
れた。
十月十六日−柳原観音において、大惣代等善後
策を協議。
同日−夕刻から夜にかけ、柴崎村の天王森へ農
民約四千人集合。
十月十七日−幣束を先頭に農民の部隊出発、通
町木戸を破り、農民四千余人が桝方御門に押
寄せ、減納願書提出。
同日−高崎藩では、対策を協議、代官金田節右
衛門に右願書を持参させ太政官に指揮を仰ぐ。
同日夜−大惣代達は栗崎村の地蔵寺へ集合して
善後策を協議。
十月十八日−早朝大目付三上春一郎等に同所を
急襲され、田村仙岳の仲裁案を承諾した。
同日−綿貫村の市が原に農民集合。
同日夜−上佐野の西光寺に農民が集合し、高崎
藩の役人や田村仙岳に大根を投げつける。
同日夜−農民は竹法螺を吹きながら粕沢の中山
道並木に集結、高崎藩の弓・鉄砲を持った騎
兵隊に解散させられた。
同夜大惣代の三人は、それぞれ自宅に帰り、
家族や近親に別れを告げる。
十月十九日−柴崎村の天王森に農民代表等が集
合し、新しい運動方針を決定。
同日−岩鼻県庁では、役人を綿貫村普賢寺へ派
遣して願書を受理すると共に大惣代から事情
聴取した。
十月二十一日−岩鼻県知事ぱ、右願書を持参し
て東京表へ出張。
十月二十八日−岩鼻県知事は、大惣代等に束京
表の状況を説明。
同日高崎藩から一か年限りの減納を通知。岩
鼻県知事は大惣代三名を徒党の罪で処分し、
中里村の名主に預けた。
十月二十九日−漸進派は稲刈りの急回文を廻し、
十一月二日から一斉に稲刈りを始めた。
十一月中−羽鳥権平、久保田房次郎は、藩に転
向弁明書を提出。
十一月中−高崎藩では、一年限りの減納による
藩の損失の状況を各村に説明。
十一月二十日−農民側は、岩鼻県へ再度願書を
提出した。
十一月二十六日−大惣代の佐藤三喜蔵は梅の木
で、同高井喜三郎は萬屋で逮捕。
同日農民達は、中山道倉賀野と上佐野の境界
の石橋付近で護送される大惣代の奪還を計画
したが失敗。
同日農民達は岡引の親分である倉賀野の三国
屋に乱入。
同日農民達は、綿貫村市が原二子山へ引上げ
竹鎗数百本製作して気勢を上げたが、高崎藩
の谷口郡奉行以下四、五十人がこれを鎮圧。
十一月下旬小嶋文次郎以下四人が岩鼻県庁へ
大惣代の釈放嘆願に行き逮捕される。
十二月中宿犬類以下十一か村は、節倹力行を
約した議定書を藩に提出。
十二月二十六日−
逮捕の七名が、藩の本牢へ移
された。
明治3年(1870年)
一月−漸進派の文吉・房吉は、民部省へ嘆願書
提出。
二月四日−大惣代の佐藤三喜蔵・高井喜三郎は、
無縁堂で打首。
二月六日−榛名山麓蛇塚に五郷の農民大集合し
第二大惣代を選出した。
二月十五日−農民約二千人が東京へ出発。
弾正台に直訴。
八月七日−丸茂元次郎、山田勝彌、岡田友右衛
門の三人は民部省へ強訴して逮捕きれた。
八月十二日−馬場安五郎、静野幾太郎、堤和三
郎の三人は賄賂請託の疑いで民部省で取調べ
られた。
九月七日−大惣代の小嶋文次郎無縁堂で打首。
九月二十日−別動隊の羽鳥権平、久保田房次郎
民部省へ出頭、帰郷後漸進派の運動は終息。
十月上旬−榛名山麓蛇塚に農民数千人集合。
十月八日−高崎藩・前橋藩・岩鼻県の役人が箕
輪村下田邸へ出張して農民代表と協議、三分
の救助を決議。
十月中−堀口六左衛門・湯浅巳代吉が高崎藩に
逮捕される。
十二月二十五日−関口彌蔵・木村主馬吉.高井
伊十郎に高崎藩から出頭命令。翌日逮捕。
十二月三十一日−福田子之七・小嶋掃部次.大
沢富太郎・清水徳次郎・秋山孫四郎・松田作
平・馬場安五郎・清水元吉・堤和三郎・堤清
右衛門・小平国太郎・菊地笹太郎・竹井馬吉
等高崎藩に逮捕。
明治4年(1871年)
一月十二日五万石騒動関係者の処分発表。