大総代について
1佐藤三喜蔵
佐藤三喜蔵は佐野村下中居の人で、人柄は温厚で誠実で相手の立場を考える人で、近所の人への面倒見もよく、勇気があって礼儀正しく、多くの人から信頼されていた。身長188p、体重90s以上で、力においても体格においても、村内は勿論、近隣の村にもかなう者がなく、当時田舎相撲の横綱と言われたほどである。村の中央にある稲荷神杜の前に大きな杉の大木があったが、三喜蔵は両手で押すとその大樹が動いたという。また、約70s入りの米俵4俵を両手に吊したほどで、これでだけでも力持ちの一端をうかがい知ることができる。三喜蔵は染め物業を営み職工十数人を使用した大きな店だったが、傍ら農業も兼ねていた。現在(大正14年頃)はひ孫の時代なり、染め物業はやめ農業を営んでいても、まわりの人は紺屋(染物屋)と呼んでいる佐藤和蔵宅は三喜蔵の生家である。当時連年の不作で農民は生活に困り果て高崎藩の四十五カ村の村民ポ会合して、年貢米の減額訴噴の運動を起こし、三喜蔵は大総代に推され嘆願したにもかかわらず、聞き入れてもらえなかつた。それにより高崎藩五万石が騒動に陥り、三喜蔵と同じく大総代に選ばれた大類村の高井喜三郎と六郷村の小島文治郎両人
と共に捕らえられ騒擾罪(高崎藩五万石を混乱に陥いらした罪)により、斬首の刑に処せられた。処刑される一瞬、無縁堂(元の高崎市火葬場)の刑場に坐り、落ちついていて、少しも怖がらないで、普段と変わらない様子で次の辞世を残し五十二才を区切りとして、計り知れない思いを胸に秘め、刑場の露と消えていってしまった。居合わせた人は勿論、係の者まで着物の袖に涙を濡らさないわけにはいかなかったという。明治三年二月四日のことであった。
望みなき身は今目限りにちりぬるも七度生まれてかなへてやみん
(顧いは達せず、今目限りで命は果ててしまうが、七度も生まれ変わってその願いをかなえてみたい)
三喜蔵の死後、村民は相談をして下中居の普門寺に英霊を祀り墓碑を建てた。碑の高さは丈(10尺は3メートル)を越えるという。(体重90sは細野格城「五万石騒動」では35貫=120s)
2高井喜三郎
高井喜三郎は大字柴崎に生まれ幼いときから、賢くてものわかりがよく、勉強が好きで武術もたしなんでいた。ふだんはその素振りを全く見せないが、いざという時に普通の人なら怖添ってしり込みする所を、平気でやり遂げる勇気と胆力を持ち合わせ、思いやりのある人で、仲間の間ではすでにすぐれた才能が認められていた。明治2年高崎領内で五万石騒動那起こると心に感じて奮いたち、放ってはおけず人々を救おうと決心し、佐藤三喜蔵や小島文次郎と共に四十五か村の村民の大総代となって杜会的に意義ある活動のために自分を忘れて減税に力を注いだ。しかし、城主の怒りに触れ、いろいろなところに移り、難しい局面を凌ぎ苦しい状態で活動していたが、不幸にも遂に目的をやり通すことのできないうちに捕らわれてしまった。四十二歳を区切りとして断頭台のうえで露と消えてしまったのである。
辞世は
吾人のためなれと身をすてていまいけにへとなりしうれしさ
私は人のためになるとおもい命を捨てて今ひとのために犠牲になるうれしさを感じる
その勇ましい肝っ玉と一身を犠牲にしても村民を助けてやろうという精神には現在も尊敬され慕われている所以である。
墓は柴崎の進雄神杜の側にある。
3小島文次郎(六郷村)
文次郎は正治と言い、上小塙の小島政右衛門の三男である。書画、数学、謡曲や生け花に長け、且つ武芸もこなす。性質は極めて温厚で自分の事は犠牲にしても、親に孝行しようという純粋な心を持ち思いやりに富み、人が困つたことを聞きつけると、何とかして助けてやろうとその方法を考え実行し、けんかや口論が起こると文次郎は仲介してうまく解決をしていったそうである。従って文次郎は尊敬し慕う慈母のごとく村民からの信頼はあつかつた。
当時高崎領内では、遊び的のことは絶対禁止だつたので芝居の興行も思うようにいかなかつた。けれど文次郎氏は村民の労をねぎらおうと、慎重にある一策を考え、直ちに大奥へ願いでをし、許可を貰い、端午の節句におおっぴらに興行をし、村民は非常に喜ばしたことがあつた。
またその当時高崎領の村民は税金をたくさん取り立て、人民の生活を脅かすような、血も涙も無い政治に耐えかねて、これを免れようとしていわゆる五万石騒動が起きる。文次郎の性質として黙っていることができず、村民の苦しみを救おうとし、推されて大総代となった。そして中居村の三喜蔵や柴崎村の喜三郎等と共に高崎領四十五か村数万の村民の運命を引き受け、東奔西走し、苦労を重ね、遂に一年で、少しの金品の減税をおこなわせることができ、数万の村民の心配事を一時忘れさせることができた。
しかし、このため文次郎等は藩主の激しい怒りに触れ、斬首の極刑に処されてしまった。
辞世の歌
人のため草葉の露と消ゆれども名を後の代に残すうれしさ
人のために草葉の露として生えてしまうけれど、名前を後世に残せることはうれしい。
(以上三名の記述は大正十四年発行の「群馬県群馬郡誌」の記述を佐藤が口語訳したものである。)
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