西部ニューギニヤ戦記 著者 佐藤 耕太郎
無断転用を禁じます
   
始めに 一二
召集令状 一三
入隊 一五
出発 一七
パラオ諸島コロール島入港 二〇
一期の検閲 二四
ニューギニヤに向かう 二六
ウエワーク上陸 二七
西ブーツ警備 三一
ポートモレスビー攻略戦 三三
ニューギニヤの生活 三六
ブーツの日々 三八
中隊本部の移転 四二
昭和十九年一月頃 四七
再びブーツ海岸の生活 四九
住吉少尉の死と千葉少尉の配属 五三
アイタベ猛号作戦 五六
ソナムに自活の準備 六〇
自活地への避行軍 六九
自活地への行軍と山地土人の暮らし 七四
続く行軍 七五
クインバの自活生活 八〇
前線への道 八四
ジャメ作戦に参加命令降下 八五
ミラク攻防戦とその後 八八
ライスカレーが待っているワンパク陣地 九五
マルンバ周辺第二の陣地 一〇〇
痛手を負いてマルンバ周辺第三陣地 一〇四
小マルンバ付近第四陣地 一一一
予備隊と成って 一一五
アリス陣地八月近き頃玉砕命令下る 一二〇
敗戦 一二四
行動開始 一二七
ムッシ島の捕虜生活 一三〇
後書き 一三四
大戦時の西部ニューギニヤに於ける軍の食糧事情 一三八
ウエワーク当時 一三八
ブーツに移動してから 一四一
サクサクについて 一四二
スナム河近くにての明け暮れ 一四四
アイタベ作戦 一四五
山の奥深くへ 一五〇
つれづれにノ二 一五二
山を越え平原へ 一五六
土人との暮らし 一五九
敵軍に包囲される 一六三
新参戦の歌 一七四
政界 一七五
山と川歌会 一七六
春暖 一七六
訪問飛行 一七八
水仙集 一七八
春の雨 一八〇
興亜青年義勇軍報国隊日記 一八二
内原義勇軍訓練所 一八三
荒れ海 一八四
羅津港 一八五
大陸 一八五
勃利訓練所 一八六
秋近し 一八七
九月集 一八九
ハルビンにて 一九〇
帰還 一九一
義兄の戦死四月一四日 一九二
師走の頃 一九四
四万の宿 一九五
一二年から一六年山と川より 一九六
五九年五月より 一九七
六二年頃 二〇〇
潜流選歌集 二〇九
萩の旅 二三一
編集後記 二三三
    
         始めに
 
 ニューギニアの戦闘に於ては、食糧、弾薬、塩分の欠亡や、ビタミン不足のマラリヤによる下痢、身体の衰弱、消化器の障害に依る病死者が最も多く、戦死者はこれに次ぐものであった。
 口に入る物は何でも喰い、しかも栄養失調に成り、過労が重なり、
ことごとく病人の如くに成っていた、行軍中、道端には白骨化した死者が散乱し、
小屋には落伍者が食糧も無く、薬も無く、ただ死を待って居た。
水を呑みに行けば頭を水に突っ込んで死んで死ぬ者の有様は、地獄絵巻その物であった。
 こうした悪条件の中を氣力だけで生き、草木の葉等なんでも喰って、其の日が過ごせた者だけが生還出来た無惨な戦線であった。
戦争に勝つとか負けるとか、そんな結果的な事を考える余裕などあるはずがない。
その日、々を生きて行く為に窮々として居ながら死ぬ事すら考えない。
 自分が何の為にこんな日々を過ごさねばならないか、それすら考えていない、
精神異常に成った者達の集まり、
それがニューギニア戦線の総てで有ったと帰還して始めて知った。
 そうした異常とも言える戦争体験記は、其の立場に立ってみて初めて真の解読が出来るのではないかと、知りつつも ただ私達の体験記として書き連ねる。
 
         召集令状
 
 満洲事変も満洲国の建国で一段楽となるや、軍部は昭和十二年支那事変を勃発せしめ、軍は関東軍を満洲国に駐留せしめ、又軍は十一年微収兵から北支那へ送り、
次第に中支那南支那へと其の戦線を広げていた。
 昭和十四年国より派遣で満洲国へ渡り同年帰還、その後戦時下の青年団活動の為活動、十五年より青少年団長として戦争遂行の為に日夜活躍していた為に、父(万太郎)と身重の妻(あき)と妹(みさ)が主力にて農耕に当たらざるを得なかった。
満洲に兵籍を移動してあった為、動員令も来ず、いよいよ戦局悪化するや 昭和十七年四月十日遂に令状が来た。
 時に食糧増産の為畑全部に馬嶺薯を植え付けていた時、久住正七君が赤紙を持って来た。戦局益々悪化しつつあり、男で有れば皆一線の兵としてかりだされていたので、
団長仲間達も殆ど北千島へ行き、私は最後と成った。
入る隊は四月十四日、東京都下東村山箱根ケ崎にある東部七十八部隊高射砲部隊との事であった。
 十日の通知にて十四日入隊との事なので家の事等の整理、外交関係の始末、十三日には各団体の送別会だが、酒も特配肉も無し、でも熊の肉が手に入ったとの事だった、
適令期の男は殆どいない、ささやかな送別会であった。
 十四日朝家を出て神社にて区民の送行を受け、中之条東武自動車会社迄で出征兵士を送る旗に送られてバスに乗る、渋川駅にて無料パスを受け八高線に乗り、村山に向かう、
高崎より箱根ガ崎迄四時間余かかる、この僅かな時間を有効に使いたいと持って来た軍人に賜証書の暗記に費やした。
 駅を出て葉の繁った桑畑の間を通り、暫く歩く、まだ近年できたばかりの兵舎が有った、支那事変下に造られた野砲隊を航空戦に備え高射砲隊に替えたものと思われるが、
砲舎は全部空であり、みな各々の部処についていた。
 我々は簡単な身体検査が済むと、もとの砲倉庫であった広いコンクリートの上に菰を
敷いただけの中に座る。我等二百七名はここで一夜を明かす事に成る。
 召集兵は最高令者三十九才、予備兵、補充兵が二十七才位で国民兵も二十五、六才で
九割位をしめ、現役は十名余あとは尉官四名であった。
 
 
 
         入隊
 四月半ばと言っても、まだ寒いコンクリートの上に毛布一枚敷き一枚掛けての一夜である、私は要領良く二枚敷いて寝た。起床ラツパで一斉に起きる。
毛布の整理が済むと朝食である、二百人、知る人は一人として居ない。それに私服だから皆同格である。私はいろんな事で、こうした事には慣れているから要領良く立ち回る。
 朝飯は現役の兵達が運ぶ、我々はまだお客様気どりで何も用事も無いし、知る人も無いから、ただ黙りこくって座って居た、朝飯が済むといよいよ軍服が渡される。
初年兵は着古しの服が当り前なのに全部新品ばかりである、しかも夏服である、友達は皆北千島へ行ったらしいから、我々も寒い処へ連れて行かれるのかと思って居た。
支給された衣類は防暑衣袴、防暑略衣袴、防蚊手筒、防蚊網、防暑帽等、あまり聞き慣れない物ばかり、其他防毒マスクとか鉄帽も有り陣営具にも三十人用の蚊帳とか浄水機等、日本では思い付かない物が渡される。寒いので袴下下着等重ね着した。
 最後に階級章の番に成った。下士官から先で最後に残ったのが星一つだけに成った、
馬鹿氣だけれど仕方がない、二等兵は星一つであった、これ迄通り金でも最下位で俺より下は無い。軍隊は星の数の世界だから諦めなければと心に決めた、しかし同じ星一つでも一日早く入隊すれば、先輩とは気にくわなかった、今からは大きい顔をして居ればビンタが飛ぶ。それが軍隊で一般人とは全く異った世界に引きずり込まれてしまった。
 家から着て来た服は全部小包にして家に送り、髪の毛を切り、氏名を書いた封筒に入れ遺髪として隊に預けた。これで何時何処に行って死んでも悔いが無いはずだ。
 父が口癖の様に言った、上官の命令は其如何を問わず、ただちにこれに服従し云ぬん、その言葉が脳裏に閃いた。
朝飯は現役兵が飯上げに行ったが、階級章が着いたからには星一つが出番だ。地方に居ハイとやらねばならない、乞食でも村長でも星が多い者が偉い。それが軍隊だ。
昼飯上げは星一つの二等兵の役目だ。私は軍隊の経験も有るし満洲での訓練で知っていても星が無い、しかし要領は誰よりも知っていた。
 炊事場に行くと何中隊と記してあるから持って来る。上の者は呑氣に座っているが、こちらは、てんてこ舞いだ。
氣違いの様に成って飯を口に押し込む。一番先に喰い終って食缶を二個吊し炊事に駆けて行く。食缶と言っても平時と違い戦時だからといって使う正油樽は重く、又洗っても飯粒がなかなか落ち無い。早く返納しないと炊事上等兵の意地の悪いのに、どやされる。
軍隊は要領だと知っている。初年兵が一個洗って後ろに置き、後の一個を懸命に洗っていると、洗った樽と摺り替えて返納する。悪いとは知りつつも自分が可愛いからしかたない、
それが軍隊の教育なんだ。洗ったシャモジを持って来たり、
だから呑きな初年兵は何時もビンタを頂載している。
 隊に帰ると次の仕事が待っている。早く終わらないと休む間が無い、現役と違う俺も歳からすれば予備兵で呑氣がして居られる歳なのにと遅い召集が悔やまれる。私達の中隊は照空隊との事二日目には編成があった。
 照空隊には照空燈が六基六分隊から成りその他通信班、計算班、監視班それに中隊本部とから成っていた。私は監視班との事であった。監視班は二等兵が多かった。その点恵まれたと思えばそれまでだが、何か働きがいの無さそうな班で張り合が悪かった。
 被服の支給は済んでいるので午後は兵器の貸与であった。白布で巻いた騎銃と弾薬六十発、水筒、飯盒、テント、靴、地下足袋など、それに靴下二足に米を入れ乾パン一袋、鰹節、三角布などである。其夜もまた同じ処に寝る。今夜は自分が一番下っぱと言う意識が先にたって寒さも感じず熟睡した。
 
        出発         
 
 入隊四日目の四月十八日には装具全部を身につけて七十八部隊のコンクリの兵舎とも別れて、貨車に載せられ、いよいよ何処かに行かねばならなくなった。
東海道線を一直線に広島へ、着く其の頃から誰が云うともなく南方へ送られるのだとの噂が流されて来る、しかし南方の何処なのか解らないけれどパラオ辺であろうなどと勝手に想像してみる。
 我々の大兵機である発電車六台は既に列車に積込んで有った。広島で休憩時間が有ったので持っていた葉書に行動の事等書き、行軍中女学生にポストインを頼む。勿論途中から手紙を出す事など禁止だし、初年兵がそんな事は出来るはずがない。秘密な行為でことに行く先は兵にも漏らさなかった。
 其夜は貨車にて寝る。そして十九日早朝から輸送船に兵器の積込を済ませ、いよいよ兵達も乗り込む。
佐伯湾を同日出航した。輸送船五隻に高射砲隊照空隊船舶工兵飛行場設定隊等など乗っていたらしいが軍の秘密なので我々の知る処ではない。船団は五隻でそれに警備艇二隻が警備していたが何時の間にか警備艇は見えなくなり大海原に波を分けて進む。輸送船五隻だけに成ってしまい何か寂しさを感じざるをえなかった。
佐伯湾を出航して暫くは南に向い進んでいたが右に方向を替えたり左に替えたり、じぐざぐに進んで行くので、目的地が何処なのか迷う。敵機の襲撃を避ける為の行動であるから直行は思付かないとの事であった。
船中では食事の時炊事場に食事取りに行く。食べ終われば食缶返しに行き時折避難訓練が有る他何もする事も無い船室でごろごろして居たり、甲板に出て海を眺めたりの明け暮れである。
船室と言っても元々貨物船であるから船底に近い処にようやく座れるくらいの狭い所にやっと這い込んで、ござの上にゴロ寝であったが、船の中なのでコンクリートの上に寝るのと比べれば寒く無いだけ良いが、その代わり敵機の來襲が心配になる。
 中隊は二百八名で関東人が主で有るが、北海道からも京都からも居た。兵は二等兵三十人、一等兵八十人、上等兵七十人、兵長下士官で二十人、尉官六人位であった。その二等兵の中にも十六年十月入隊者と十七年一月入隊、それに我々四月入隊者二十名位で二等兵にも三段階あり、我々は初年兵の中の又初年兵、最も下の階級であった。
 軍隊は一日でも先に入隊すれば先輩である。したがって同じ一つ星でも何なに殿である。
私も家に居る時団長とか会長とかばかりしていたから一番下端では、ばかげた話である。かと言って殿と呼ばなければビンタが飛ぶ。
パラオに着くまでの間、狭い船室に居てもつまらない。知人も無くどちらを見ても星の数が多い者ばかり、世間話もうかうか出来無いし、只ハイハイと従っていれば円満であった。
軍隊生活の経験は有っても最下級の兵隊経験は初めてである。あまりにも変わった生活に船室に居るのも飽き飽きして殆ど用事の無い時は甲板に出て海を眺め潮風に当たって氣を紛らわす事が多かった。
 たまたま話掛けてくれた一等兵が居た。十月入隊の東京生まれの神田良作氏だった。
彼は法政の夜間出のインテリであり中隊本部の事務室に勤務していた。
私は初め監視班員であったが、船中似て配置替えがあり監視班から一分隊に移動に成り離隔操縦機の係に成っていた。これは照空燈から五十米離れて照空燈を遠隔操作する機器であり、聴音機からの高度方向の数を受けて敵機に合わせ照射し、この高度角度を計算班にて割り出し高射砲に指示するという役であった。
神田氏も同じ一分隊なのが幸いだった。毎日の様に甲板に出ると神田一等兵、鈴木一等兵、日野一等兵の三氏と一諸に成る。皆十月入隊で私一人だけが二等兵のペエペエだった。
何日かつき合って居る内に四人はすっかり打ち解けて、最後には死んだら生きて帰る者が骨を持って帰ってくれる様にとまで約束する間柄になった。
或る日、神田氏が中隊で電氣工務兵が一人必要だが佐藤志願しないか。俺が中立てするとの事であった。そこで願ったりと申請した。色々話したうちに電気の事など話した事が神田氏の頭に有ったからであろう。
 翌日、本部付の住吉少尉から呼出しが有ったので少尉の処へ出頭した。
住吉少尉は東京の銀行マンで將校志願の少尉であった。彼は少尉になるには一応電気の勉強もしなければならない。そこで君は電気の事は知っているか。とか直流と交流とはどう違うか等口頭諮問が有った。私は無線なら良いと希望を述べたが無線は中隊に無いからと断わられた。そしてその侭日は過ぎた。
 
         パラオ諸島コロール島に入港
 
 日記をブーツの大爆撃で焼失してしまったので月日が不明なのが残念であるが、
佐伯湾を出航してから四日位であろうか、南洋群島パラオ諸島コロール島に入港した。
船中にて一夜を明かし翌朝船より降りる。コロールは日本統治地であり日本人の町はあらゆる物を商っている。南洋特有のタピオカ餅とか生のパインも初めて食べる。
書籍の店に入り歌集を求めたりワカモトも買う。隊としても自転車、バリカン、サイドカーなどの陣営具を買って南方へ向かう準備をする。
コロールには岩船炊事班長一人残し、本隊はアルミズ水道を渡りパラオ本島に移り、
ここで実戦に対する訓練に当たる。
コロール島は平担で人口も多いし日本の町と変わらない。
 コロールとパラオ本島との間は狭い海狭が有りボートを浮かべ、その上に板を列べその上を車で本島に移る。
パラオ本島は殆どが山地で椰子の樹も多く、裸のカナカ族の土人も居るので、
ここに来て初めて南海の島に来たと言う印象が湧いて来た我々はコロールの港から徒歩にてアルミズ水道を渡り、パラオ本島の小高い草原に露営する事にした、
この近くには既に二十師団部隊が露営していた。朝部隊は朝鮮編成の歩兵部隊でここで合流して最後迄行動を共にした部隊であった。
 パラオ本島に着くと其日から小屋造りにとりかかる。国際無電搭の下の草原に二百名の宿舎を建てるので 毎日一キロ程離れた山の中に材木伐りに行く。適当な木を伐り皮をむいて先ず柱を立て次第に家の形が出来てゆく。
 屋根は椰子類の葉を重ねたる木に結え付ける。毎日そんな仕事ばかりだと何か股の辺が痒い、一人二人ついに全員そうなってきた。
伸びが良く、良い材だと伐採して来たのが皆漆の木だった。衛生兵は椰子油を見つけて来てそれに亜鉛華を練って亜鉛華軟肯を付ける。次第にかゆさも消えてゆく。
 食べ物はこの頃から戦場に行っての準備訓練とかで一回に粥僅かに梅干し一個だから腹がへって、たまらないけれど山の中だから食べ物など何にも無い。
空腹の為非常食の乾パンも一個喰い二個喰いいつの間にか無くなるし、鰹節も無くなる、先々の事を考えるより先ず現在、それが軍隊なのだった。
食事が済むと初年兵は古参兵の食器も持って水場に走る。五十米程下ると水場が有る。水は真赤で多量の大腸菌がいるとの事で浄水器を使い、きれいな水にしてから使用しなければならない。水場は我々ばかりでなく二十師の兵も使う。二十師の兵隊は食べ物も豊富らしく残飯が出るので、これを持って来てくれるので有難い。お焦げでもなんでも有難い。乾燥ごぼうのキンピラなど珍味だった。これこそ初年兵だけの特点だった。
 幕舎造りが済むと演習で有る。私はこの時は一小隊の一分隊に所属していたので五番の離隔操縦機の操作であった。分隊は全員十六名であるが古参兵が頑張って居るので、我々初年兵は小さくなっていなければならない。特に意地の悪い古参兵には意地悪される。
一つ星の兵隊もいたけれど戸部分隊は私が四月兵一人一月二人十月二人だけれど皆良い人だった。戸部分隊長も私には特に目をかけてくれたから一番難かしい離隔操縦機も一度で操作出来る様に成った。
 幕舎も完成して訓練に入り照空演習に成り二、三日経った頃中隊本部より命令あり本部附電気工務兵に任命された。
一分隊では松沢二等兵も監視班に配置替えに成った。古参兵に文句を言われたが私は中隊一人の電工だから嫌みも言われる事もなかった。私は入隊一カ月にならないのに監視班、一分隊そして指揮班と三度の移動であった。中隊付属は古参兵もおだやかであり下士官も多く將校も居て雰囲気が異なり、特に私は特務兵故に皆と別の見方でもあった。
分隊から離れてからは中隊の演習にも行かず兵機係伍長の洗濯位で何も仕事が無くなった。食事の時以外ぶらぶらしていた、パラオは鰹が捕れるとの事でなまり節は良く食べられたし汁にはパパイヤの青いのがきざみ込まれてあった。
 パラオで軍旗祭とかでいくらか御馳走が出た。そして演芸大会が有り私にも何かやれとの事短歌朗詠をした。武内上等兵の浪曲は上手だった。彼はやくざ風のタイプでもあった。酒が五勺位配給になり私も無理に飲まされ酔ったからとビンタを始めていた。
これが軍隊で初めてのびんただったし、これが軍隊なんだとあきらめた。
 一日の短い事朝起きて点呼掃除そして朝飯演習中飯食器洗い、そして初年兵だけの水場で古参兵の悪口でも散々言って、それが唯一の氣晴しである。それに参加出来るのは一月入隊と四月入隊で、残飯を貰い古参兵の悪口を言い、それが唯一の楽しみとは情けない二等兵なのだった。
         一期の検閲
 
 パラオに着いてから一ケ月余りは夢の様に過ぎた。しかし常夏の島には四季の移り変わりは無い、目に着くものは青い草と青い海珊瑚の島。海は水面が実に美しい。そして色とりどりの小魚の群れが真白い珊瑚礁の上を流れて行き、群れては散って行く。時折尾の丸い海蛇が通り過ぎて行くのも異様な風景であった。
 六月初め頃の或日一期の検閲との事にて一月入隊兵と四月入隊の我等と草原に集合する様命令が有った。
一月入隊には金子、松沢二等兵が居た。私とは氣が合い一分隊の時は残飯を貰って食べた仲間だった。私が金子さんと呼ぶと佐藤、金子殿と呼ぶんだぞ」と注意する。軍隊入隊が一日先であれば先輩なんだ、「どの」を付けるのは解って居ても馬鹿げて付けられなかった。
 草原に整列したのは一月入隊が先で我々四月兵がそれに続いた。
斉藤中隊長が来て号令を掛ける。照空隊は歩兵と違い番号もイチ、ニイ、サン、ヨン、ゴ、ロク、ナナ」でヨン、ナナ、キュウが歩兵と違う。
「軍人に賜る証書」を言える者は居るか、誰も手を上げないのでハイと上げた。中隊長は「佐藤五ケ条だけ言え」
私も全文が言える訳では無いが、全文を言わせるはずがないと思ったから手を上げた。五ケ条はすらすらと出て来た。その為か最右翼で十名一等兵に進級した。
検閲は一時間位で済んだ。
一月兵は五ケ月かかったのに四月兵は一ケ月と少しで一等兵であった。
それからが大変だ。「申告致します。陸軍二等兵佐藤耕太郎以下九名は本日を以て陸軍一等兵に命ぜられました。謹んで申告致します」中隊長室から將校室、下士官室、古参兵皆同じことを申告して回った。
こうして入隊一ケ月の者が右翼で二つ星に成り、今迄よりいくらか大きい顔が出来る様に成った。軍隊は星が物を言う処だ。だが簡単には星は増えない。普通三ケ月で二つなのに私は三ケ月で上等兵に成った。それも若い頃軍事訓練を受けていた賜であった事に証書が私を救ってくれたのだった。
被服係に肩章を戴き星が増えた。
その頃のパラオはどこで戦争があるのかと思うくらいの平穏だったけれど、間もなく戦地に出発の噂が流れた、行先はニューギニアでここは捨て石に兵を送るのだとの事で有る。捨石とはここを犠牲にして他の作戦を有利に導く為で、すでにダガルカナルの玉碎の情報も聞こえて居た。
 
         ニューギニアに向かう
 
 六月初めであった。二十師団の歩兵部隊飛行場設定隊船舶工兵隊高射砲隊と
照空隊二個中隊を主力とした輸送船五隻の出航の準備が出来た。
記憶が頼りの記事であるから思束ないが、六月四日頃の乗船だと思う、敵機は見えないが敵の偵察機は一万米位の高度で来るから音も聞こえ無いので油断は出来ない。
船は行く先を知れない為に右に行き左に進み、ことによると引き返したりしているので
何日かかるか知れない航行であった。どちらを見ても黒い果て知れぬ海、波を蹴って飛魚が何十匹か群れをなして海上に飛び立って行く。フカが船近く出没しはじめる、
もう赤道直下である。湯にも一ケ月も入らないスコールが来ると裸になって甲板に飛び出し行水である。物凄い雨だから湯に入るよりきれいに成り海水よりさっぱりする。
毎日一回の非常呼集があるが敵機はまだ見ない。
 もう今の情勢では何時敵襲を受けても、おかしくない時が来ていた。
若し船が沈められたら鰹節をかじりながら海に浮かんでおれば必ず助かるとの事で腰に吊していた鰹節もパラオで食べてしまった。
 敵襲があれば抗戦も出来ないし、もう最後であろうが自分だけは助かるだろうと軽い気持ちで居ないと毎日が過ごせない。陽が出れば甲板はものすごく暑い。赤道を南下した船団もここまでは無事に島影が見えてきたニューギニア島、ウエワークに着いたのは六月十五日の明け方の頃と思う。
 兵員は直に降船開始そして機材物資の揚陸作業を始めた。
午前十一時頃敵のロッキード偵察機一機が飛来したが揚陸作業継続。三時頃には作業終了、その夜から敵機は偵察には来る。我々の船団はすぐ引き帰ったが、
三隻は沈められ二隻帰還したらしかった。新聞報導には全船無事帰還と有ったとか。
大本営発表もめちゃくちゃだった。
 
         ウエワーク上陸
 
 機材全部揚陸作業が済み整理する内に夕方に成ったので其の夜はウエワークに寝る事に成った。
地図で見るウエワークは都市の印であったが海岸に堀立小屋が五、六軒あるばかりだった。砂浜を一米程堀り出た水で炊事もした。
 海からは砂浜が二百米ばかり続き小高いジャングルになる。東に海軍の地下壕がある他には何もない殺風景な海岸であるが、湾なので波靜かな渚が続き戦争でもなければ別天地であった。
 椰子の木は高くそびえて海風になびく。葉蔭は南国の風情をいやが上にもかきたててくれる、この日の夕方久保伍長が盲腸炎で手術した。この頃は簡単乍ら野戦病院があり外科手術は出来たが看護婦は一人もニューギニアには派遣されなかった。即ちここに来た兵は健康であれば戦え、病氣になれば死ねと言う方針らしかった。
 我々は一泊して十六日朝発電車に一切の資材を積み四キロ程離れたマツノ岬に仮の露営を求めた。
砂浜に道路らしきものあり自動車も通れるのでその点恵まれていた海岸から一キロ程上った草原に柏木部隊の幕舎が空いていた。
彼らはパラオから一足先に こちらに来た高崎の歩兵部隊で、既にマダン方面に出撃し病人だけが残っていた。
我らはこの小屋を利用させてもらい其夜からここを露営地と定める。
海岸から坂を登った処に小川があるので炊事班はここに陣取る。
炊事から五十米離れて指揮班、その後方に各分隊になっていた、蚊が多いので持って行った三十人は寝られる蚊帳を吊る。床は丸太を列べた上に菰だけの粗末なものだった。
 朝六時に陽が出て夕六時に入る。少し明るく成ると小鳥が、けたたましく鳴くので目が覚める、この地の鳥は皆オオムの類でよく鳴くので朝は鳥の声にて寝ていられない。
ウエワークの東部の海岸は平坦でドイツで植えたと言う椰子林が有りコプラ工場の跡も
有り又宣教師も住んでいたらしい。
 松の岬の東に中飛行場が有り東西と三つの飛行場が出来た。小屋を建てながら陸軍野戦病院も出来ていた。
 ドイツの宣教師が居た時放した牛が一頭いて、その足を一つもらった。しかし食べたかどうか記憶は思い出せない。
小川には鰐も見えたしこの近い海には人魚も見えた。この時期には泰米ながら十分有った。毎日外米に切り干し大根、粉味噌ばかりで飽きる。外米は赤くてかび臭い。
私は炊事に行きおこげをよく食べた。煎餅の様で旨い。
松の岬と言っても松の木が有るのではなく、幕舎の周りはハブ草に似た草が一面に花を咲かせ、柿に似た木には蜜柑の実に似た赤い実がなっていた。
岬の東は広い椰子林で赤煉瓦の小さな加工場が残っていた。
椰子林を一キロも行くと柏木部隊の宿舎が有ったがマダン転進の後で病人が残って居るだけだった。
幕舎の中に入ると兵長が一人威張っている。
私より二クラス後輩の本多博君だった。マラリヤとの事である。
 松の岬に来て二ケ月になるが敵機の飛来も少なく何の為にこんな処に来たのかと疑う日々である。
日本軍は東部ニューギニアを征復しポートモレスビーを占拠すべく陸軍部隊を
ウエワークに集結し又零式戦闘機百機をウエワークとブーツに待機せしめ基部隊が
マダンからポートモレスビーに向かう戦略であったが、
苦難を重ねポートモレスビーの灯を守り乍ら日本軍の輸送路は断たれ、戦闘機は使用不能に破壊された。  
 これから東部ニューギニアの悲惨な徹退作戦となる。
そして大部の歩兵の兵力を失い僅かにウエワークに辿りついた兵も病人にて戦力は全く無くなった。
 この頃から敵の空爆は毎日行われ、我ら照空隊や高射砲の活躍する時となった。
毎日来る各種混合数百機の爆撃に手の下し様も無く、僅か残っていた戦闘機も瞬く間に海中の藻屑となってしまった。
飛行場には落下傘の附いた瞬発信管の五キロ爆弾の雨だからたまらない。
飛行機は壊滅してしまい敵機十機に日本はやっと一機だから空中戦にもならないし海岸には物資の集積場が有ったが空爆で焼き払われてしまつた。
 八月も終わらんとしている頃、我々はウエワークに見切りをつけてブーツに転戦する。しかし既にブーツ飛行場は使用不能となり病院もなくなり、
海岸線には背の高い椰子林だけが残っていた。
この様にしてあわよくばポートモレスビーを起点として豪洲迄も進攻せんとして、
無謀な日本軍の作戦計画はことごとく失敗してマダン、ラエ、サラモア、と次々に敵軍の上陸するところとなり、ウエワーク、ブーツへの上陸も目前に迫つてきた。
そこで我が軍はブーツへの上陸を想定してブーツに陣地を構えて敵の上陸を阻止すべく
ブーツに移動し、ここに陣地を構えたが敵軍はブーツに上陸せず我が軍の退路として頼みにしていたアイタベに上陸してしまった。
 我が軍は退路を全く断たれてしまった。そこでアイタベ作戦となり又山中の自活生活と迷いつつも時をみてブーツでの敵軍との遭遇戦に導くべくブーツの警備の任に当たる事に成った時に十八年八月も終らんとしていた。
 
         西ブーツ警備
 
 連合軍とすれば、アメリカ大陸からの日本本土の空爆攻撃を考えるよりも、
先ず豪洲を手中に治め、州を連合軍に加えてニューギニア西部を手中に治めてラバール、パラオ、沖縄と日本本土空爆を目途とすべく、マッカーサー元帥を、オーストラリアへ
飛ばし指揮をとらせた。
 日本としても、早急にオーストラリアを占領すべく、零式戦闘機百機と兵力十二万に増強してポートモレスビー攻略に当らしめたが、
大失敗に終わり日本側の戦力は皆無状態と成りこの作戦も終わりと成った。
日本軍としては、オーストラリアを我が手中に治めて、豪軍を日本側に引き入れんとし、そしてニューギニアからラボールに進撃する連合軍の進撃を阻止し、米軍の日本本土攻撃の路を断ち切り、しかもオーストラリア軍を日本の味方に入れる事が出来たなら戦況は全く変わったであろうに、日本軍はダガルカナルで玉砕の憂きめを見、今度こそオーストラリアへの進撃を試み、大量の兵力をニユーギニアに投入した。
 先づ第一に、福山四十一連隊又第五師団の基幹として広島十一、浜田二一、山口四二、連隊を支那方面より南方に移動せしめた。
当時一個師団は四個連隊で編成したのを三個連隊隊制に編成替えをなした。
 その第一の理由として大本営が開戦直後に計画したフイジヤー、サモア、
ニューカレドニア、レドニア、諸島作戦に準備して居たものであろう。
先に記したようにFS作戦はオーストラリアの東方を占拠して米国と豪州が手を取る事を分断する、いわゆる米豪遮断を狙った遠大な夢の様な作戦であった。
 日本の大本営もアメリカ軍部も、この戦争は豪州を中継地とするしか、方法の無いと言う考えは一致していた様で有る。したがって米国は予定通りの進攻を達成したのであろう。
しかしFS作戦ではミツドウエー、海空戦にて日本の決定的な大敗に依って作戦中止となり前記の諸部隊は、この穴埋めの為に東部ニユーギニア作戦で最も重要且困難な
ポートモレスビー攻略作戦に投入されたのだった。
 
         ポートモレスビー攻略戦
 
 ポートモレスビー攻略については、東部ニュ−ギニアを進む陸路或は海路を艦艇で
進むかである。
ポートモレスビー攻略に一番有利とされていた案は海路からで有るが、すでにダガルカナルの玉砕や、ソロモンカナルの玉砕、ソロモンの敗戦にて艦艇も極めて少なく、
その上軍艦の行手を阻む珊瑚礁のリーフが散乱し行動を不可能にしている。
 開戦時に日本海軍が保有して、世界に誇った南雲艦隊の機動力を以て強襲すればリーフの外より飛行機にて制圧し、軍艦の主砲にてたたき、堂々占拠する事は可能であったろうが、ミツドウエーにて赤城を初め四隻の航空母艦を一挙に失い、日本の機動部隊は、
その力も自信もすでに持ちえなかった。
日本軍の豪号作戦はポートモレスビーの占拠に有り、なんとしてもポートモレスビー
まで進撃すべく、陸路ポートモレスビーの裏側ブナのあたりからオーエンスタンレー山脈を越えて背後からポートモレスビーを占拠すると言う作戦をとった。
以上の様な大本営の作戦計画も机上通りには行かず、前進部隊の投入も転戦そして玉砕、病死、落悟そして、ついに東部ニューギニア作戦も大敗に帰し、
ニューギニアに投入された兵力孤立の状態に成り十八万の兵力が孤立してしまった。
懺敗と成った生き残りの日本兵は、靴も無く食糧も無く弾丸も無く苦労に苦労を重ねて
ポートモレスビーの灯の見える処まで進み乍ら、涙を飲み戦友の屍を残したまま熱帯の
雪山スタンレーを越えて西部ニューギニヤ方面に敗退の一途をたどる他に道は無かった。
かたや力を得た連合軍は完全に制海権も制空権も把握し、敗退する日本兵を壊滅すべく、ラエ、サラモア、フインシユ、マダン、と東部ニューギニア海岸要所に次々と上陸作戦を敢行、ウエワク、東、中、西、飛行場やブーツ東、西飛行場の全ての飛行場と数百機の戦闘機の大部分が空爆の犠牲と成って、広いニユーギニヤの制空権も風前の灯であった。
 十八年になると、敵は空から毎日数百機の大型、小型機がポートモレスビー方面より
飛来し日本軍陣地の猛攻を行う。
六、七月になると各種混合大編隊の空襲警報が日々激しく成って来る。
四千から六千米の空を黒く染めて、B二九とかコンソリーデーデツトなど二,三百機の大編隊が大量の爆弾の投下と機銃掃射を続けるので、我々は椰子の木の陰に隠れたり海岸の砂の中に掘った防空壕に逃げ込んだり、てんやわんやである。
こんな時に活躍しなくてはならないのが高射砲隊である。
ブーツに散開している防空部隊は照空隊一個中隊、照空燈六基、聴音機二基それに高射砲隊一個中隊、高射砲二門と機管砲一門その外に生き残りの戦闘機四機か五機であり、
それだけでブーツ地区の警備に当り毎日飛来する数百の敵機に応戦する事は不可能と言わざるを得なかった。
 また日本の高射砲が発射しても、四千も六千もの高い所迄は到達しないので効力も無い、しかし敵の中型戦闘爆撃機ノースアメリカン機は低空で来るので日本の零式戦闘機が応戦するが落ちるのは日本機である。
一八年八月には日本機は全て無くなってしまった。
 その頃から日本機が応援に来るのだと言う噂で持ちきりだった、
しかし、一日経っても十日経っても、その気配すら無く、八月末頃にはラエ、サラモア、ばかりでなくウエワーク、日本陣地も野戦病院すら壊滅し四十キロ離れタウエワークに
投下した一屯爆弾の破裂音がブーツにいて地響きとなって伝わって来る。
ブーツ警備の任に当たるべき命を受けて居る我々の部隊も強力な連合軍の前には、手の下し様も無い、敵機襲来の警報が有れば直ちに防空壕に逃る以外に術も無く、
敵は思うままに日本軍の軍事施設、糧抹集積場,弾薬庫等もちろん兵員にも攻撃を加え引き上げて行くのを顔を青くして見送る外、なす術も無い。
 連合軍はニューギニアの東端フインシュハーヘンから占領し、日本軍を撃滅し、
西部日本軍陣地の攻撃に手を延し、余裕ある制空権、制海権を以て日毎の空爆を重ねて、ウエワーク、からブーツ、に迄上陸作戦を進めニューギニアの日本軍の行く手を封ずる
作戦である。
 当時ブーツ警備についたのは猛一九三二部隊、高射砲多田中隊、水戸編成河部隊の一部、飛行場設定隊船泊工兵隊の、生残りの数少ない兵員だけに過ぎない。
飛行場が東西に有るだけに、機材こそ豊富で高射砲弾は何千発か、
近くのジャングルに積まれ糧抹も十屯車五十台も百台も有ったろうか、
野積みに成って有った。
 
         ニューギニヤの生活
 
 昭和十八年九月初め、ウエワーク柏木山高崎連隊柏木部隊駐屯地だったが、
八月初めマダン方面に進駐して患者数名残留していた、
そのなかに五反田の本田博、折田の金井弘,四万の宮崎犀一,の各氏が居たが
本田氏だけ生還した。
 海岸線に自動車の走れる砂浜が十里位有った、そこが西ブーツである。
中隊二〇七名は六台の発電車に分乗し、堀上等兵の側車に斉藤中隊長が乗り敵機に見えない為木の葉の繁る路を選んで走る。
西部ニューギニアはオランダの支配下に有ったが、自動車の通行出来るのはこの海岸線だけだと聞く。我が隊は、ここの海岸の殺風景な砂原に着くと、その日から宿営の為の幕舎建てに懸かる。
当時の中隊人員二〇七名。実は中山上等兵が中隊一号として死亡したからである、
彼は荼毘に伏し柳沢上等兵に抱かれて、日本に帰ったただ一人である。
 中隊は一分隊、二分隊、三分隊を一小隊として五二名亀山少尉が指揮し
一分隊長に戸部伍長、二分隊長に都築軍曹であった。
第二小隊は横尾少尉指揮の元に第三分隊長西川伍長、第四分隊長武井軍曹、
第三小隊住吉少尉のもとに居たがブーツにて病死した、第五分隊市川伍長、
第六分隊長小俣伍長、二三小隊百名余その他通信班、監視班、計算班に分れ四キロ四方位に分散布陣する。私は指揮班五十名程にて行動する。
 其夜は海岸の砂地に野宿し、翌日からは間を見ては近くのジャングルに入り、
適当な木を筏採して来ては柱にし又湿地帯に行っては、サゴヤシの葉を伐って来て編んで屋根草にし、雨を凌ぐ床とて、ただ土の上に草を敷いただけ、それも四六時中作業が出来る訳では無い。飛来してくる敵機に見付けられたら最後である。
朝早く作業したり、暮れ方に出たりで、時々敵機に発見されては、機銃掃射を浴びせられるので、作業もなかなか進まない。また釘も無ければ針金も無い、木の皮で結わえるのだから兵の員数の割に能率が上らない。我々は隊長室、將校室、下士管室、それに兵員舎と百人の宿舎だから場所も広く必要だ。大切な物は砂地に埋め、爆撃の被害焼失から守った。
 サゴヤシは川沿の湿地帯に生ていて、若いうちは、葉は椰子の葉に似ている。
四十年位経つと成熟して多量の澱粉が採収出来これが土人達の主食なのである。
海岸のサゴヤシには牡蛎の小さいのが着いていた。小さいけれど塩気が有り、旨い。
空襲さえ無ければ暑い時には木陰に入れば実に涼しく、果て知れぬ黒潮の靜な波の音を
子守唄に、これは敵機の来無い昼の一時であり、昼の炊飯の煙を見つけられたら万事猫噛である。
食糧も有り兵達も割に元気で労働も気楽で天下泰平といえよう。
 
          ブーツの日々
 
 南緯五度のこの地だから冬も無ければ夏も無い、朝の六時に夜が明けて夕方六時に暗く成る一年中全く同じ周期で年が過ぎて行く。そして今が何月か何日かも忘れてしまう。
しかし九月頃は乾期の為、雨は全く降る事なく、暗くなると風呂代わりに海に飛び込んで体を流す。
夕食を済ませ夜の点呼が済むと、海岸の波打ち際に横たわり故国に思いを馳せ、何時帰れるとも知れぬ数千キロの海の彼方に妻が住み母がおり己が行く末の事など思いつつ、
夜の一時を戦友と語り過ごすのが、唯一つの楽しみであり慰みでもあった。
 海岸の砂地には五、六軒の土人の小屋が有ったが、戦争が始まると彼等は山の中に逃たのか、空屋となり土人達の姿も全く見えなくなってしまった。
ブーツは海から五十米または百米の細砂の浜でなだらかな山に続く。
 砂地には五米から十米もあろう椰子の木が点在して、いかにも熱帯らしい情景である。海岸に続いて五十米位の急な山があり大空襲の時には、この山に登ると安全なのである。
 西方百米位にブーツ西飛行場が有り、椰子林の中に使用不能の戦闘機が何十機も有る。これはポートモレスビー作戦に使う為の物で有ったが、落下傘爆弾で一夜にして破壊された残骸である。飛行場の東に多田中尉を隊長とする高射砲中隊が布陣砲二門と、
その西に機関砲隊が警備についていた。我が隊はこれらの防空隊に敵の情報を伝え、
又地上砲火を援助する照空燈の照射をするのが当時の任務で有った。
 簡素な小屋も完成して、
これからは幾分時間的に余裕も出来て来るかなと思っていた頃から、敵方の攻勢は益々激しく成り、
朝と言わず昼も夜も攻撃して来るが、我が軍は全く手の施し様もない。
 ニューギニアはいつも夏であるが、一年が雨季と乾季に分かれている。
八月は乾期の為屋根の椰子の葉が乾き、隙間ばかりに成ったので葉を増す為に数人にて椰子の葉採りに湿地帯迄行く。
海岸を一キロ余り行く。のんびりと葉を引きだして砂浜で休んで居た時、椰子林を低空でノースアメリカン五機の急襲に遭う。
五キロ爆弾の投下と機銃掃射である。どうする事も出来ず椰子の木の陰に隠れ機の反対に廻って暫し時間の長かった事、幸にも一人の犠牲者も出さずに済んだ。
 その翌日は雲一つ無く快晴、十時頃ラエ上空敵機通過との警報有り、毎日の事とて余りに気にもせず、各自の任務に就いて居た。
間もなく手の届く位の低空にて二、三十機急襲。西飛行場に落下傘爆弾を投下格納中の零戦を全壊して帰還したノースアメリカン機である。
これにより日本機は無く成った。我々は小銃で応戦したが何も効果無し。我が軍の被害甚大成り九月末には友軍機は一機も無く、その為に防空隊陣地は敵機の攻撃の的と成って高射砲隊多田部隊長も敵弾に倒れてしまった。そこで多田部隊は後方であるホルランジヤに撤退せざるのを余儀なくされた。
 飛行機が無ければ戦争に成らない。そうした事から救援機が来るのは間違いない。
八月中に来る九月には十月にこそと、何時迄待っても日本からの便りすら皆無、
いよいよ我々は捨石なんだと、思い乍も毎日救援機の来るのを心待ちにしていた。
 そして荒れ果てた飛行場には、子供の頃食べた記憶の残る小さなほうずきが生え、
そして稔る小玉スイカの種も何処から持って来たのか、知れず何時か実が着いたのも見えた。こうして飛行場もすっかり荒れ果て、破壊された飛行機の残骸機の部品の山、
燃料の満ちたドラムの山が荒れ果てた草に埋まれ、防空隊の任務も終えた感がする。
敵軍はニューギニア海岸線を次第に占拠してマダンに至り、次はウエワーク、ブーツに駐留する日本軍を壊滅すべく上陸作戦を開始す。わが軍は日中はジャングルに隠れ広い砂浜は打ち寄せる波に砂はその色を替え又引いて行く。ウエワークまで十里余続く渚は、寄せては返す波の靜な音のみの夜を迎える。今日も過ぎたそしてニューギニアに南十字星の輝く靜な夜のとばりが降りる。
 東部ニューギニアは壊滅状態に帰し、ウエワーク、ブーツ間は日毎の爆撃に依って
病院もやられ糧抹庫も全部焼失してしまい、この上はブーツの部隊西に退路を開きホルランジヤからセレベスアンボン方面に撤退して、
ニューギニアから早く離れなければ必ず敵の上陸を見る事に成るのは目に見えていた。
 思えばニューギニアに上陸したのが六月初めだ。あれから僅かの間平和だった海岸も、ことごとく海陸空からの敵の攻勢に依って、見る影もない廃虚と成ってしまった。
海岸は危険なので昼は姿を見られない為ジヤングルに潜んでいる。
 十月初め敵機各種混合大編隊二、三百機にてブーツ地区の大攻撃に遭い、多田中尉の戦死により多田部隊は夜間大発舟艇にてアイタベに向け撤退したが、夜間は敵艦の監視が厳しいので無事だったかどうか全く不明である。
ウエワーク、ブーツをそのままにして敵はホルランジヤに上陸して我等を挟み打ちにすべく、今度はホルランジヤからの近距離爆撃に変った。空襲は毎日である。
 ある日の事、昼飯を食べんとした時、大空襲が有り夢中で防空壕へ逃げ込んだ。
箸だけ持つ者あり、おかずだけの人有り何も考える余裕など無い。何百発とも知れぬ弾の雨弾が丸く見える。これは直撃弾だ。思わず頭を砂の中に突っ込む。弾は壕の上に直撃、十人程生き埋めに成ったが、砂地だったので犠牲者は無かった。柿沼上等兵便所へ行くと、出たが真青になって帰って来た。
二十五キロ爆弾に遭い砂地に埋まれ傷一つ請けず、砂地に爆弾の威力が無い事を経験した、紺青の空暗く敵機は又ホルランジヤへと機影は消えて行く。
 これで一安心と思う間も無く、近くに有る高射砲弾庫から火災が発生してしまった。多量の弾薬に火災が発生し、弾薬の破裂音と飛散音は爆撃さながらである。
破片が飛散し壕より出る事も出来ない、四時頃やっと音も少なくなって壕から出た。
あたりは何も無い、我々の宿舎も飛ばされていた。日の暮れる頃二キロ程離れた亀山小隊迄逃た、昼飯を食べなかった事を思い出すと無性に腹の虫が泣く。
この分隊で飯にありつき我等の部所に帰る夜になった。一人の犠性者も無かった事は幸いと思わねばならない。
 帰って寝る海岸の砂の上は実に気持ちが良い、蚊も居ないし、砂の温もりで入浴の必要も無く、でも戦場である故に、まだまだ呑気過ぎはしないかと反省もする。
 
         中隊本部の移転
 
分隊は通信班二名を加えて十六名であり、敵に見付からない場所に陣地構築をするのも問題無いが中隊本部は幕舎の数も多く、中隊長以下八十余名などで相当の敷地が必要である。 敵の上陸の心配さえ無ければ、現在の生活でその日が無事でさえあれば満足としなければならない。空襲さえ無ければ海岸の生活は別天地であろう。海には小魚の群れが居り、大きなボラもいる。砂地には蟹も走る。ガジマルの根には海苔も着いている。平和であれば別天地かも知れない。
ある夜産卵にきた海亀を捕らえた。一メートルは有る。
ピンポン玉位の卵が二百個位有った。なかなかの珍味だった。
亀は砂地に産卵して自然の温度で、孵化させるのだと聞く。油も多く肉もなかなかの美味であった。
 又西川分隊は水無川に陣地がある。平常は水が無いので軍は水無川と呼んでいた。
平常は全く水気は無いがスコールでも有れば越せない程に増水する。
三分隊は爆撃を避ける為に川の中に壕を堀り発電車を設置する。
右川上には二号師団無線機がある。
 或時大スコールがあり水の引けた後壕の中に、太い鰻が、うようよ正油樽に三ツも捕れたので本部にお裾分けを戴いた。
ここに来ての鰻は予期していなかった。実に旨く久し振りの馳走に生き返る様な心地だった。
 敵のウエワーク、ブーツへの空爆は日に日に猛烈に成りコンソリー、ノースアメリカン、マーチン、ロッキード、リバブリック、カーチス、
あらゆる機種の飛行機は飛行場陣地施設に集中攻撃を加え爆弾も五キロから一屯迄惜しみなく投下する。
飛行場に落下した一屯爆弾の穴は三百本のドラム缶に六十人の使役を必要とした。
 続く空爆で幕舎を失った中隊本部は、この海辺の陣地も危険と成ったので、海から離れて、白飛川近くのジヤングルの中に移動する事になった。ここは白飛川の氾濫に依って出来た平地なので、土地も肥沃で二抱えも有る大木のジヤングルの中なので日も当たらず涼しく、その上敵機からも見えない。
水も二メートルも掘れば出る、平担地だけに湿地なので蚊が多いのには閉口する。
内地から持って来た蚊帳など、とうの昔に捨ててしまったので我慢する外無い。
 いつかラボールから送られて来た野菜の種があったので蒔いて見た。肥沃地なので育ちが良く茄子、きゅうり、大根など育ちも早いし旨い。
暫く振りに故国に帰った様な嬉しさを味わう。我らの宿舎の前二十米位に空の開けた場所があり敵機の監視所になっている。
 一本のパンの木が有る。その育ちの良いのに驚く。やはり熱帯なのだと感ずる。
夜の監視当番の時など故郷の物語にふける噛めば血のにじむ厚いビフテキでも食べたい、そんな話題で気を紛らわせて、何時果てるとも知れぬ命のなぐさめの日々であった。
その頃ごみ捨て場に十五貫位あろう火喰い鳥が来た。
私が一発撃った、太股に命中したが彼は私に向って来たので二発目で止めをさす。
肉は七面鳥の様に赤く大味だった。羽は退化して、翼の先は箸を並べた様で足も人の足程大きい。国を出てから初めての生肉で有る。美味かどうか等考えず、むさぼり喰った。
ジヤングルは野鳥の住処だ。オーム、インコのたぐいばかりである。
朝早くから鳴く鳥の声に目が覚める。
兵隊達がボーイングと名づけた二米位有る黒い鳥も居る。
日本の烏の様に土人も喰わない。オームの類は土人も喰わないらしい。
時折り土人が缶詰など欲しさに、彼等の食物を持って来る。サゴヤシ澱粉を固く湯でこねた物など、色は黒く異様な臭いがするが砂糖でも付ければなんとか食べられる。
又日本の山芋の様な物でトロロ汁を作ったが澱粉質が多く、あくが有り焼いて食うのなら良いが、初めてなので失敗、初年兵が食わないので、この地に来て初めて岩船上等兵に全員ビンタを貰う。その後彼は泣き出してしまった。彼自身は優しい。しかし腹の黒い古参兵も居るのでやむを得ない。軍隊とはそんな所であった。自分の考えだけで行動するわけには行かぬ。彼も弟が満州で、初年兵としてこんなめに遭って居る事を思うと、ここで初年兵を殴るなど悲しい事で有った。岩船上等兵が泣いたが為にその場に居た古参兵柿沼上等兵が、貴様達がたるんで居るからだと、又並ばされ、再びのびんたで有った。
 彼は下の兵隊には意地が悪く思われて居た。しかし私には良い古参兵だった。
それは支給品のタバコが貰いたかったからで有り、又短歌を私に教えて貰う為だった。
彼も敗戦迄生きていたが帰還する事は出来なかった。兵隊も社会人である誠意、愛情、
理性を欠いては生きられない事を痛感するひと幕である。
 十八年十二月二十八日だった。強いマラリヤ熱で四十一度もある、頭が痛くて苦しい、丸太の柱に頭を打ち付けて痛さを紛らわす、意識は有っても動く事さえ困難な状態だった。
そんな状態が三日続き昭和十八年十二月三十一日の夜の事、熱がまだ下がらないので寝ていると関一等兵がきて小島軍曹が私に来いと言っているから、すぐに行けとの事である。
小島さんは私の班長で有る行かねばならない。
起きられないから関一等兵にかわりに行くことを頼んだ。
関一等兵は真面目で優秀中隊長の当番兵だった。関君で駄目なら止むを得ないから、
仕方なく起きて、ふらふらと下士菅宿舎まで行く。何の事はない誰が持っていたのか、
のし袋に賞与、下士官一同として金五円也、戴く金五円は二等兵一月の棒給であった。
しかし一片の紙であっても、賞与として戴いたのは中隊で私一人であり、
当時一等兵の私に下士官がそうした気持ちを持って居てくれた。それが嬉しくも有り又有難かった。
 
 
 
 
         昭和十九年一月頃
 
 私は煙草を吸わなかったので支給品として貰った物は他の兵隊に分けてやった、
その代わりに甘味品とか、軍事郵便葉書を戴いた。家にも日曜毎に短歌で出した。
しかし支給品にも限度が有り葉書は月に五枚、煙草も日に五本位だったが、
次第に減って全く来なくなった。
 宿舎も出来き、井戸も堀り、野菜も伸び、新鮮なものが口に入り、ジャングルの中なので空襲も少なく、安定した生活が出来るので、肉体的には苦労も少なく良い生活と言えようが、蚊の多い為か気候の変化のせいか病人が続出して、しかたなく海岸に医務室を建てる。中隊の医務室なので大滝衛生軍曹指揮の基に金子衛生上等兵、藤井金丸一等兵の四人が病人の看護に当った。
 この頃までの死者はまだ少なく、老年組の戦争の役に立たない柳沢上等兵をして遺骨送還の為病院船氷川丸にて、初めて死んだ中山上等兵の遺骨送還や戦傷の村田上等兵その他何人か内地還送に成ったが、その氏名は後記する事にする。
 私の実務は電気関係だったので同じ工務兵の永岡上等兵と共に、照空燈の電らんの修理などに務める。
六分隊六機の爆撃により破損されたら修理も大変である。一本三センチもある線をそれぞれにトーチランプで灼きハンダ付けする作業も大変であり、敵機の見えない時間だけの作業である。また海岸線故掃射も度々うける。
 工務関係の班長は、我孫子から来た新婚ほやほやの秋田軍曹と言う、空襲には全く弱い、鉄帽を背負って近くのブユウ山に避難する、その早い事には下士官連中も目を回して居た。
 敵はウエワークとブーツを挟み打ちにすべくアイタベに攻勢をかけている。
したがって、この所割合いおだやかで有り、毎日割合に余裕が有るので飛行場に風防硝子を拾いに行き、腕時計の破損した硝子を作り、又動かない時計の修理も小手のものだった。 風防硝子をヤスリで削り油で曇りをとる、何も無ければ工夫出来るもの工具が有ったから助かった。
 先に述べた様に柿沼上等兵はインテリらしいが意地悪もするらしい。彼は折りに触れ短歌を教えてくれと頼んだり、朗詠を教えてくれたりで私には好意的だった。
専任班長は友田兵長だ。彼は強い近眼だった。ニコチン中毒だったので煙草が無くなると必ず寝込んでしまう。又友田のメンスかと下士官達に笑われる。
 私達指揮班は三十名近くに監視班と通信班の宿舎が有り前に述べた様に、人員は多い千葉、埼玉と東京が主で群馬は赤城村の寺の石関、吉岡の平井他一人、指揮班長は茨城立身石下の小島軍曹三七才、老人に近い、しかし落着も有り私にとっては影に成り、
日向に成って良く面倒を見てくれ、兄以上であったのが幸いしたのか、二人共生還する事が出来た。
         再びブーツ海岸の生活
 
 中隊の糧抹倉庫は分隊が六ヶ所に分駐している間係で海岸の医務室の近くに置いた軍糧抹省から受領した食糧は、各地に分駐している分隊へ分配しなければならない。
そこで糧抹の係は川越笠幡の近籐伍長の他松沢私であり、私も小島班長の計らいで、
海岸のしかも三人の生活に成った。
 十八年十二月も終わりに近い頃、敵は空爆をウエワークに転じウエワークブーツと上陸作戦を開始するのではないかと考えられる、其頃は空襲もウエワーク迄でブーツへは余り来ない。
 我等の任務は糧抹配布と医務室の手伝位、又近くに軍の糧抹集積場も有るので、何でも好きな物が手に入る。海岸の砂の中に緑豆を埋めて、もやしを作ったり、ビール有り、
蟹缶有り、戦地とも思え無い、勝手な物を喰い夜に成ると海水浴、これも戦地かと、
もったいない何日かが続いた。
 医務室には十五人程の長期患者が入室している。患者達は皆青白い顔で病人そのもので有る。炊事にも時々手を出した。患者達に比べ私達は適当に動き十分な食糧も有ったので、どんと肉が付き入隊当時は一三貫位で有ったのが一五貫にも成り動くのも大儀程だった。
 時々来る中隊長が君は見る度に太る等とひやかして行く。
 食べたい物が無いので餅米の粥に砂糖をかけて食べる。青野菜こそ無いが特に食べたい物も無い。
 十八年の十二月にたまたま埼玉桶川たつみの村田上等兵が爆弾の破片滴出の為に東飛行場に近い病院で手術する事に成り、私がその看護に行く事に成った。病院とは名ばかりのバラックで何の設備も無く医薬も整っていない。彼は爆弾の破片が尻深く骨盤に達している。親指の爪位だった。麻酔薬も無い手術で有り、もうすでに化膿して、膿が膿盆にいっぱいだ。豚の解体そのものである。肉の一番厚い所である。彼はひいひいと泣く。
手術も順調に済み二日程して患者輸送船が入港したので内地還送になった。
 これがニューギニア最後の船で有った故無事に日本に着いたかどうか知る由もない。
その後石巻の鮪船が南方海域で捕えた鮪を我々の所にも分配してくれた。その帰りに患者数名乗せてホルランジヤ経由で帰還したが、途中敵艦にやられたとの噂もある。
それらの人名は後述するとして当時南方海域を日本の船が航行する事が果して可能で有ったかどうか疑問であった。さてこうした平和な海岸の生活も終止符を打つ時が来た。
時に昭和十八年も終わり十九年に成った。
 元旦らしく餅でもと、お萩の餅で患者にも元旦を迎えさせてやった。
ブーツの元旦は快晴、実に和やかな朝であった。元旦とて特に元旦らしき事も無く、
いつもの通り朝飯を済ませ医務室関係の仕事も終わり、気持ちだけの元旦である。
海のかなた真紅な、でっかい太陽が昇る、海に浮かぶ太陽の美しさは、南海でこその美しさだ。灼け付く太陽の下に、黒潮はかすかに波紋をつくる。
 昼近い頃空襲情報が入る。各種混合大編隊、フインシユハーヘン上空通過との情報で間もなく金属音の編隊飛行機が烏の大群の様にウエワークからブーツに向い飛来している。
我々は歩けない患者も無理やり全員連れて海岸から二百米位離れたキンシ山に待避させたが、海岸に置いてある糧抹機材には手が及ばず空手で山に登るのに夢中であった。
 其日の損害も相当なものだったが翌日も又翌日もで有り、ついに糧抹も幕舎も病院も全部吹飛んで海岸は何も無い焼け野と成った。私自身内地から持って行った腕時計も日記も小銃すら焼失し着のみ着のままで四日の朝に成った。
 さて焼け跡から焼け残りの僅かの塩や米等拾い集め復旧に勤めた。14名の患者も何とかしなければならず中隊全員の食糧もこれからどうして行くべきか、若しもウエワークに食糧があったなら、そこから運搬してくる事は出来ないか、四人で協議したり走り回ったりだ。4日は元気だった。5日から少し熱がある。6日には四十度の高熱に成った。疲れからのマラリヤである。
各分隊からも被害の報告はなく本部も二キロ離れているので被害無し。六日に中隊本部から連絡が有り、焼けた所に居ても仕方が無いから、指揮班に戻れとの命令だった。
しかし高熱で頭が上がらない。2キロの山路はとても歩けない。10日間休養してやっとの事で本部に帰った。
 帰るとすぐ、焼け跡で今迄何をもたもたして居たのかと班長には小事を言われるし、
焼けてしまったので銃を貰いに行けば、菊の紋章を何と思っているんだ、よくもでっかい面をして来られた者だと大目玉を戴く。数ヶ月間楽をしていた報いだと涙を呑んでジャングルの生活に変わった。
 暫く別生活だったので本部の生活にも慣れず毎日が別世界での生活で有る。將校も下士官も私に対する見方も変った様だ。でも秋田軍曹は騎銃の代わりに三八銃をくれた。
これは私にとって大きなプラスに成った。彼がそれを知ってかどうか彼自身わからなかったであろう。元旦から連続してマダン、フインシユ方面からの奇襲が続く。日本機は一機も無く何月には日本から来るのだと言った事も、ついにデマに過ぎず、敵軍はポートモレスビーカラフイからフインシユ、マダンと次々に飛行場を建設、又は日本軍の物を使い、次第に日本軍に迫る。それ故に毎日の空襲もその度を増して来る。
 そしてウエワーク、ブーツにも敵の上陸は、もはや目前に迫って来たと見て間違えの無い所。そして大東亜決戦号の来援等思いも依らない空想に過ぎない。ブーツ、ウエワークを基地にしてマダンを占拠して、一気にオーストラリアをも我が軍の手中に納めるべく、ウエワーク東中、西ブーツ、東、西の五飛行場に集結せしめた。二百機の零戦機の大部分を一夜にして失いつつも航空第六師団長板花中將は内地に栄転し、平然として宮中に参内、ニューギニア戦線の事情を奏上したとの報道に、現地の少壮將校等は憤慨する事甚だしく、残る友軍機の勇猛なる空中戦の中、火玉となって海中に墜落する様を見て思わず目を被うのは兵皆である。
 南郷大尉もウエワーク上空の空中戦で軍神となった。こうした空中戦の悲惨な状景は筆舌につくし難きこの突攻精神は、この戦線に於いても、ざらに見られる光景であったであろう。
 開戦から今まで僅かな期間であるが、報道とは裏腹に、日本軍は次第に追い詰められ、今や進む事も退く事も出来ず追い詰められた袋の鼠に均しく、なぜにここで苦るしまねばならぬのか、大本営は参謀本部は何にを考え何にを為しつつ有るのか、闇の中をさまよう敗兵の存在であろう。
 
         住吉少尉の死と千葉少尉の配属
 
 指揮小隊長としてニューギニア上陸以来、本部にいられた住吉少尉は東京辰巳の銀行員である。今時大戦に召集され熱帯のジヤングルの中に其の原始的な生活と食糧、水の変化、マラリヤにより大腸炎にかかり、暫く医務室に静養していたが、十八年秋ブーツ似て病死した。その後東京辰巳で後備志願の内田準尉も又高齢の為か大腸炎でブーツのジヤングル生活中死亡。彼は人事係としての配属であった。十九年一月三日内地より補充兵將校として千葉少尉が来た。
 彼も墨田の秋葉神社の宮司で有り、がっちりした体格の將校であった。
 一月一日から始めた敵の爆撃は日毎に強烈を極め、十八年六月上陸した高崎編成遠藤部隊はウエワークからマダン、フインシユハーヘンに進駐すべく二百機の零戦機の応援を待ったが、急襲を前にして壊滅した。空軍を待っても叶う事なく、加えて敵はポートモレスビーを起点としてラエサラモア、と次々と空爆を加へ上陸陣地を進めた為、遠藤部隊は退路を失い二千米の頂上に雪のあるハーゲン山の山越えに依りウエワーク方面に後退した。その僅かの間に部隊の大部は、食糧難と寒さ、強行軍により死者多数、東部ニューギニアにてポートモレスビー攻略に参加した何十万の兵は皆悲劇であった。
 十九年四月二十二日敵はブーツ、ウエワークを越えてホルランジヤに上陸敢行。我が軍は、すでに東西に敵の上陸を見て行く場を失ってしまった。ブーツの各部隊は浅田大佐の指揮下に入りブーツの守備に当たる、斉藤中隊はブーツ西地区隊長や、なしま大尉の指揮下に入り、その予備隊として待機することにした。
昼間は空からの猛爆が日に日に激しくなり制海権を得た敵艦は夜に成ると、日本軍の宿営地の有りそうな場所に艦砲射撃のめくら弾を浴びせかける。海岸から初めて落下する砲弾は次第に近付き、幕舎近くに何百発となく、裂く烈する。死ぬ事は覚悟していても、
神経をけずられる思いである。
 十九年五月になると、ブーツに敵上陸の可能性大なりとの情報を受ける。
各自持てるだけの食糧を持って交戦の準備をせよとの命なり、先ず必要なのは塩粉正油で米麦は靴下に詰め、缶詰類は、かさばるので誰も持たなかった。兵器類発電車は破壊し、
大事な物は井戸に埋める。
その夜全員信義山南側のジヤングルに登り海岸に上陸せる敵軍を撃退すべく海に面して陣地構築を行う。兵器は軽機壱重機関銃一丁それに小銃各自一、弾薬も僅かだけである、山砲壱基を是非と要請したが達せられない。
 中隊一同士気を盛んにして敵上陸せば、撃退まちがいなしと陣地に着く。
我が中隊は主力が野砲山砲隊たつみの現役を終わったばかりの体力も気力も外の隊に劣らない兵ばかり、又西区隊長は歩兵にて歩兵戦には支那事変中よりの経験者で、その沈着たる態度は好い感じの人だった。
 その夜はジヤングルに待機していたが全く靜だった。翌日の報に依ると強力な敵軍団はアイタベに上陸敢行し我が軍の退路を断つ目的との事に成った。
夜が明けると共に再び帰る予定のなかった宿営地に帰り次の命令を待つ。食糧は各自持っているだけで、僅かな米麦に野草を採集して三十人で一食分押麦二合、塩も欠亡してくるので、海水を汲みに行く。食べ物がなくなるとマラリヤ患者が極度に増加する。
しかしもうニューギニアには日本の船は無い。貯蔵食糧も全く無い、各自現在保有しているだけに成ってしまった。
 四十キロ離れたウエワークとの連絡も、自動車が無いので有線電話より外に方法が無い孤立の状態である。       
 
         アイタベ猛号作戦
 
 五月三日中隊は道路隊長黒田大佐の指揮下に入る。夜の海辺は敵の舟艇が絶え間無くうなりを起ている、
中隊は海上照射のため一個分隊、照空燈一基を残しブーツを後にサルップゼルエン岬の自動車道路構築の任務を受ける。軍はアイタベに上陸した連合軍を撃退しニューギニア西部からセレベス、アンボイナに向いタイ方面に逃れ、他に退路無しとの結論からアイタベの敵軍をどうしても絶滅しなければニューギニア十八万の日本軍は全員玉砕の外、道無しとの結論となる。
 そこで未だウエワークの地下壕にある弾薬食糧を前線へ送り、アイタベの敵軍にムカオ、ウエワークからブーツ間は車が使えるとしてもブーツからは湿地帯が多く七本もの河を渡らねばならない。海路がだめなら大事業であっても陸路である。道路工事とても道具もスコップぐらいで有る。その上絶え間無く続く空爆下での作業、艦よりの砲撃の中を早朝にしたり夜間の作業である故、極めて能率も悪い。食糧も無く疲れきった半病人の兵隊に十分な仕事が出来る訳がない。
 ゼルエン岬東側の大崖崩れ工事の為一小隊を編成し、小泉中佐の指揮下に入れる。難工事の為相当な日数を要した。目的は自動車道であるからショベルくらいで、思い通りの仕事も出来る訳もなく、ここにて空爆に相い多数の犠牲者を出した、負傷者も死亡した者も多数有り即死者は次ぎの通り。
 
   補充兵 井上常吉 上等兵二分隊 国民兵 金子義弘 上等兵二分隊   
   補充兵 奥村鶴雄 兵長指揮班  予備兵 石川武治 伍長通信班
 
工事の完成を見ずしてこの工事は断念し、マルジツク迄の輸送は海路に依る事に成りマルジツクとダンダイエ間の自動車道の構築に中隊はゼルエン岬先マルジツクに移動する。
日本軍が行動すれば、敵は海と空から攻撃するので、軍は動く事が出来ない、
しかし一部をダイハツにて運搬し、大部の糧抹と弾薬は担送に依る、
前線基地への集結は変更と成った。中隊は更に第三輸送促進隊長岩切大佐の指揮下に入る。 そしてマルジックよりダンダイエまで背負って運搬する。潜水艦にて輸送された貨物は夜間海中にほうり出される。是をひろい集める。米など濡れてならない者は厚いゴム袋にて海中に浮かべるので、砂浜に引き上げる夜間の海中作業を終わり、未明宿舎に帰り服の侭海に入りその侭、寝る着替えも無く干す場も無い、担送の方は昼間は空襲を受けるので夜間のみの行動である。
 途中いくつもの河が有るが橋は架けても架けてもその日に爆撃で無くなる。仕方なく軍装の侭荷物は頭に載せて河幅五十米も有り流れも急で首迄水につかり渡河するが、一番恐れるのは渡河中の艦砲射撃で有り光弾が河面を真昼の様に照らす、河に流される兵有り、
岸にたどり附くのも幸運の兵で有る。流されても人に手を貸す余裕すら無い、
これが戦場なのか涙も出ない。ただ各自が任務の追行だけ果たす為であろうか、
人間業でも無い、魂の無い動く機械に過ぎない。
 この頃から後家少尉と行動を共にした。彼は二十師団の將校で有り心安くつき合う仲だったが、その後の生死は知る由もない。彼は新潟生まれの酒屋と言っていた、河で流され助かった金丸衛生兵は病弱なのでブキワラで秋田軍曹の基に製塩をやっていた。
二十年に再会したがもう骨と皮になつていた。ブキワラで死んだと聞く。いくら頑張っても体力には限界がある。
 弾薬の担送は辛い。だが米の担送は皆喜ぶ。途中で密かに米が食える。飯盒一杯六合炊ける。一度にたいらげる者も有る。おかずも無い塩も無い暫くぶりの米の飯に生きかえる。
担送は毎夜の仕事なので疲労も日毎に増してくる。闇のジヤングルを先の兵の足音を頼りに歩く。そのうちに眠って歩いて居る。はっと気がつくと前に誰も居ない後には付いている。盲人様に杖をたよりに進む。食べるものは無い疲労は益す。道辺に落伍者が見られる。 落伍すればもう最後だ。誰も見てくれない。自分で生きるのが精一杯で、人の世話をする余裕など無い。道端の小屋には死を待つ兵が二人三人と居る。
死んだ兵隊は靴をぬがされゲートルをとられ白骨だけとなる。
 アイタベ作戦はしょうびの一振り成りと既に空軍の協力は無く火機とても山砲が僅か有るのみ。しかも自動車、船艇の便もなく折角造った道路も橋も一夜にして破壊され、喰う物も無く弾薬も無い。前線に届く物資極めて僅かにて悲惨な戦闘がそう長く続くはずも無い、当時猛軍七万といわれていたが戦が終わり、その数三万五千で有る。
 アイタベ作戦を決意するに当り、軍指令部の訓示に。国史の尊厳を強調し玉砕を期しての攻撃を敢行すべし、との事であった。
 この作戦でフインシユハーヘン、マダンと逐次陥落するや、我が軍は退路を確保する為先ず二十師団と四一師団をもって海岸道を警備すべく、続々転進を開始した。四月二二日アイタベに敵軍上陸するやアイタベを突破してホルランジヤに至るべく海岸道を凱旋道と言って各部隊は続々西ニューギニアへと進んだ。
 作戦当面の攻撃部隊には四一師団の海岸線からの進撃、二〇師団をして山岳よりアイタベに向っての攻勢を展開とした。二〇師団は山岳よりアイタベに向かっておおいに進渉したが海岸は、意のごとくならず遂にこれを突破する事は叶わなかった。
 この撃戦で最も激しかったのが阪東川の渡河で有り、この前後河中の障害物と猛砲撃の為、数多の兵力を失いバンドウ河を血の色に変えたと言う。最期に玉砕を敢えてとどめたのは兵力の広い範囲からの立身で有り関東特に群馬、栃木、茨城の編成は、これが国内への影響を考慮したとも聞く。
 戦闘の極にあたり、二〇師団四一師団は弾薬糧抹の欠乏をきたし非常なる苦難のなか撤退にあたりては、行き倒れが各所に見られ悲惨の極に達し、尚この戦闘で遠藤部隊の奈良中隊は渡河不能の為坂東河の上流より敵の背後をつく戦法であった。尚坂東河渡河にあたり、敵は空にジャイロスコープと言う物を使い砲弾の命中したかどうかを観測して艦に指示したとの事で有る。そのものはヘリコプターの前身かも知れない。着弾に無駄が無い。それに引き換え日本軍は素手で火を掴むと同じであった。
 奈良中隊は其后消足無く壊滅したとの噂だけだった。この懺敗に依りアイタペ作戦断念と同時に我が中隊も糧抹皆無となり昼間はシヤングルに入りサゴヤシ澱粉を採り夜間は担送で疲労その極に達した。こうして各部隊の決死の努力にも関わらずアイタベ攻略は失敗に帰してしまったので現地自活状態に入るべく中隊はソナムに集結する事になった。
 
         ソナムに自活の準備
 
 アイタベ作戦もまた兵力を半減する。失敗にて退散のやむなきに至り我が軍の唯一の目的である西ニューギニア進駐の夢は無懺にも消え去り、東にマダン西にアイタベと敵大軍の中に挟まれて、この侭にては自滅の道を選ぶより他すべは無く、何とか自活の途を模索し実行に移す事が早急の手段であった。
 我が隊はソナム河河口近くに集結し、一九年八月十日より四十日間の予定でサクサクの採集に専念し自分達が連日食べる他十五日分の携行食糧として蓄積し、尚行軍不能者1ケ月分の蓄積も行う事にした。サクサクとは椰子の一種でサゴヤシと言う湿地に群生し、
幹の太さ二尺位長さ二間から三間あり四十年にて成熟する。
成木に成れば多量の澱粉が採集出来る。銃剣にて伐り倒し厚さ五分位の硬い樹皮を剥ぐと中はトウキビの芯の様な物が有る。これを木の槌で叩き木屑を網で漉す。沈んだ澱粉を喰う、澱粉は生のまま加工するか、乾操するかして蓄える、我々はだんご汁にしたりスープにしたりして食べた。
 当時既に調味科など皆無で、味付けについては二キロ程離れた海迄飯盒一人六個づつ吊し海水を汲みに行く。これを三倍位にして汁とする。
 敗戦兵とはみじめな者だ。既に半数は病人と成り、働ける健康な者は日に日に減少してゆく為、貯蓄するだけの澱粉の採集も極めて困難と成り、この侭この地にいれば全員の死滅と成るやも知れぬ。澱粉の節減の為にジヤングルに自生する里芋の原種であろう、
芋は無いが根、茎、葉それに蕗ような草等ばかりの中に澱粉だんごを僅か入れて空腹を凌ぐ。栄養など考える余裕など無い。
海まで海水汲みに行き、雨後の河から流れこんだ塩気の無い水など、初の経験だから失敗ばかりして、それが為体力は益々低下してゆく。サクサク採りの帰り梅に似た実が落ちていた。熟した梅の味だった。夢中で食べた。種の仁も食べた。仁はやはり毒らしいので水を呑んでは吐き呑んでは吐き胃袋が空になるまで吐いた。仁にはヒ素があるらしい。毒の実を食べて中毒死する者も有る。食べ物が無い位い辛い事は無い。
 僅かしかない身を守る為の弾で鳩を一羽落し、中隊へ持ち帰れば皆で食べねばならないので一人で生のまま食べてしまった事も有った。これも健康な者の特権かも知れない。
或る日、柿沼上等兵が三米位の蛇を捕って来たので、一寸位いづつに切りスープに入れた。皮も腑もつけた侭である。骨は硬くて食べられないが、皮と腑はうまかった。
ニューギニアには野生動物が極めて少ない。其中に飢えた兵隊が散在しているのだからたまらない。間違ってもありつけないと思ってよかろう。蕗に似た草の茎と野生里芋の葉は山を歩けばなんとか採れる。海水は一日一回汲みに行けば味の有るものが食べられる。
食べられる物は何でも入れて量を増やさないとサクサク採りが間にあわない。動けるものは朝から晩迄動いて病人にも生きられる位のものを見附けてやらねばならない。
 近くの山を歩いて居ると、パンの大木が有りその下に種が芽を出し初めていた。パンの実は落ちてすぐだったら一個食べれば一食ぐらいある、丁度パイン位の大きさのおいしい食糧であるが、もう熟期が過ぎて実は無い、種だけだったが木の下に種が三升位い有り芽が伸び始めていた。栗の実ぐらいある芽が出ていたので味は無いが、皮を剥いてだんご汁に入れる。だいぶかさが増した健康者はサクサク採集から山歩きと病人の分までと予定通りにゆく訳が無い。
 後方では戦争が続いているのだから、病人は作ってもらって配給だ草が主の食べ物で栄養がとれるはずがない。医薬もなければ食糧もなく、次々と死んでゆく戦友にすら出す涙すらなくなった。その日その日である。
 監視班の宿舎に埼玉の木村一等兵が病んでいた。よい兵だった。可愛そうなので度々見舞った。国には結婚したばかりの、新妻あや子さんを残して来た召集兵である。あや子さんの名前を二度呼んで間もなく他界した。
よく晴た黄昏蝉の音をききつつ宿舎に戻った。
彼はソナム中隊墓地のパンの木の下に埋葬した十九年九月初めだった。
 十九年九月九日には小石川の神田上等兵死亡の知らせを千葉少尉より受けた。彼は内地を出発した時から氣が合い、折りに触れ語り合い一分隊も一緒であり、私もよく世話になり、私を分隊から指揮班に移す手配をしてくれたり、遠く離れた時も珍しい物が手に入れば届けてくれた。日野、鈴木、神田、佐籐四人は良いコンビで四人の中、もしも誰か生還できたなら俺の骨を頼むと約束していた。
 ゼルエン岬で負傷して、その侭寝ていた神田上等兵は死んだ。そして遺髪を持った。
私のお守り袋に私と共に帰った。鈴木、日野の二人はスナムに病人の侭残して、我等は遠く離れたのでスナムで病死と成った。この四人中生還は我一人そして遺骨の約束すら果せず申訳ないと思う。神田氏もアイタベ作戦の時ゼルエン岬の道路隊に編入され爆撃に逢い胸部強打が元で寝た侭で栄養も取れず、ついにこの地の土とならざるをえなかった。
思えばパラオから一緒に成りその後離れ離れに住んでも、兄弟の様に励ましあって来た彼の死は、私にとって悲しい出来事だった。遺髪を身につけて其夜から苦しみを共に出来るのが、せめてもの慰めであった、鈴木、日野氏は9月半ば中隊が行動する時病床にあり別田侭遂に最後を看取る事は出来なかったが、スナムのパンの木の下で三人で共に語り続けているであろう。
 スンム駐留の間担送隊当時の激労と栄養失調の為病人は続出し死ぬ者も毎日のごとく、サクサク採収も分隊毎に実施していたのも分隊に依り病人が多く使役に出られる兵も無くなり採収蓄積されたサクサクも喰い込んでゆき喰うのに足りなく成る始末で有る。
この状態では一日も早くソナムを離れ自活できる地へゆかねば全員共倒れとに成ってしまうとの意見が多くなった。それにここに長く居れば敵の的ともなる。
そこで中隊を四小隊に編成し一小隊は中隊長以下三十名、第二小隊は一日置に出発第四小隊長に横尾少尉以下全員とした。
その実横尾小隊は病人小隊にしてソナム出発は不可能の者ばかりで有り、既に隊から見捨てられたと同様であった。
したがってその後の消足は不明にて横尾少尉以下スナムにて死亡したものと推測する。
武井伍長の五分隊は土人の案内にて別行動との連絡ありたるも其後の消足わからず、途中にて敵軍に遭遇したか土人に殺された、かとしか考えられない。
 
 
 
 
    武井伍長以下四名死亡推定地
    ミシオーム   予備曹長 武井 分隊長                          予備兵長 井上 秀雄
            補充兵長 明戸 辰五郎
            補充伍長 石関 與映  勢多の寺
            予備伍長 高野 勧蔵
 
他に何名か居るはずなるも調査できず
 
ソナム地区にて死亡推定者
            現役見習士官 横尾
            現役伍長   長谷川 佐七 被服係砺波
            予備兵長   新倉 梅吉  埼玉草加
            補充兵長   藤井 達朗  衛生兵
            予備伍長   栗原 鏡三  中隊長当番ラツパ手
            志願準尉   内田 幸太朗 人事係
            補充上等兵  関口 喜久雄
            補充上等兵  内籐 孝繁
            補充上等兵  永山 登喜雄                
 
         補充兵長   関根 元三
            国民兵長   岸本 幸男
            補充兵長   矢籐 隆二
            予備曹長   都築 浩雄
            補充上等兵  中山 清吉  ブーツ死亡一号
            国民兵上等兵 金子 繁雄  一分隊18年1月兵
            予備兵長   小山 秀雄
            補充兵長   神田 良作  一九年九月九日スナム小石川
            補充兵長   高原 辰造
            歩充兵長   佐藤 清忠
            予備伍長   中村 馬之進
            予備兵長    栄一
            予備兵長   西川 俊雄
            予備兵長   藤沢 栄吉
            予備兵長   相沢 俊雄
            補充上等兵  鈴木 米房  一七年一〇月召埼玉
            補充兵上等兵 日野 友三郎 一七年一〇月
            補充兵兵長  藤平 喜重
            国民兵兵長  望月 芳雄
            予備兵長   斉籐 庄之助
            補充兵長   大木 正賢  一分隊相模原僧侶
            現役上等兵  荒川 司郎
            国民兵上等兵 佐藤 友三
            国民兵上等兵 勝中 辰雄
            予備兵長   亀井 喜一
            現役兵長   池田 市太郎           
            予備伍長   小久保 利雄
            予備伍長   羽田 島次
            予備軍曹   安住 金太郎
            補充上等兵  木村 英一  埼玉一九年九月死
            予備兵長   中村 清次郎
            予備兵長   井上 寿雄
            予備伍長   山川 元旦
            予備伍長   小宮 光政
            国民兵上等兵 川島 三造
            予備伍長   宮川 栄之助
            予備兵兵長  馳川 恒三郎
            補充兵兵長  島田 高蔵
            補充兵上等兵 加籐 泰明
            補充兵兵長  内山 日出雄
            国民兵伍長  加籐 伝之助
            国民兵兵長  大山 軍治
            国民兵兵長  相田 栄吉
            国民兵兵長  矢島 孝助
            予備伍長長  島松 太郎
            国民兵兵長  江原 勝治
 
 スナム又はその付近に於て死亡と推定される斉藤中隊隊員は以上の五五名であり
中隊墓地に埋葬または宿舎付近に白骨化していると推察する。
 
 
         自活地への避行軍
 
 猛一九三二部隊の編成時隊員二百八名、其中スナムを出発して自活地に向かった者が
半数位と推定される。そして目的地に至るまでの落伍者が有り実際の到着者八十一名と記憶している。約三分の二が死亡又は行方不明と成って居た。軍は糧抹の涸渇に伴い、
山間奥地に天然資源を仰ぎ、共に土人の協力を得て自活し、内地との連絡は途絶えても、この地に敵の兵力を誘導して今時全戦線の遂行を有利に導く事を目的としていた。
 中隊は本部を第一班として斉藤中尉指揮の元に一九年九月一八日、スナムの露営地を離れてスナム川を上流に向かう。僅かのサクサクを主食分とし特別に支給を受けた。軍足八分の米、それに少しばかりの塩を頼りに二人を一組として二十名程の隊で行軍を開始したと記憶しているが、後続の部隊の事も残留部隊の関係も連絡のとれぬ侭これからは我等中心の行動の外情報も無く、そして尚多くの病死者患者達をスナムに残し幾多の苦難を共にした事を、思い出多いスナムの宿舎に残した侭に離れ、再び会う事の出来ない未知の奥地に夢を追うごとく、立って行かねばならない運命にあると思う時、離れ難い愛着の念を感じざるをえない。
 寂しい行軍でもなく遁避行の一歩を踏まざるを得なかった。
中隊本部の兵達は割合に健康な兵が多い。これから行く目的地は食糧も有り二年か三年自活生活を営み戦争の好転を待ち、或いは生きて日本の土を踏む日が、ありはしないかと、はかない夢をいだいての出発であった。未だ誰も足を入れた事のないニューギニアの奥地、そして中央を流れるセピツクの大河に向けての横断の決行であった。
 一日目はソナムの河を渡り、なだらかな山を上り、又下り、ソナム河を上流に遡る。ジャングルの中の小さい流れに沿っての行軍故、涼しく裸足の足は冷たい、皆張りきって居るが、道も無く山の登り下りで、まだ日の有るうちに山頂の土人部落に着く。
その間十キロ位であろうナゲペンで有る。このあたりは戦場に近いので土人は逃て空き家であるが食べられる物は全部日本兵に荒らされていた。
 野草などあさり土人の空き小屋にバナナの葉をひいて寝る。夜は皆死んだように静かだ。僅かなサクサクに一人当り三十発の玉と小銃一丁、既に着古した服靴はとうの昔から無い。
二日目の朝に成る。サクサクスープにいくらか野草を入れて朝飯とする。
そして又スナムを上流にと進む。道は無いので川ばかり歩く。足の乾く間も無く、
ようやく川から離れると、今度は急な山を登る。夕方迄に登り上げた土人部落はウルウプだった。
 ハウス五つの小さい部落で、土人は逃げて居ない。小屋の近くに春菊らしき草が生えていた。彼等が食べる為に植えたのかもしれない。黄色の花が咲いていた。皆で僅かづつサクサクスープに入れた、好い香りがして旨い。
 
 川の中に二寸程の海老がいたので捕らえて口にほうり込む。甘くて旨いが、こんな事内密だ自分の栄養が第一。
 全員元気である。僅かな食糧らしき物で空腹を満たす。そしてジヤングルを進み又川を。腰から下はいつも乾いた事が無い。行軍で疲れきっているので陽が沈むと眠る。朝もなかなか起きられない。こんな状態だから若しも敵か土人が来たら皆殺しにも出来よう。
しかしこのところ海から離れている為か敵も土人も音が無いのが幸であった。
土人達だけなら食べる物は有るが数万の日本兵に食べさせる食糧が有るはずが無い。
日本兵の通った跡には草すらない。
 土人は山の上に住み谷まで水汲みに行く。湿地帯にサクサク採りに行くのも大変である。部落は山頂にあって一〇人位のもある。サクサクの地帯ほど人数が少ない。
 山頂の僅かの平に小屋を建て一つに一人づつ寝るが、婦人は子供と共に寝る。男は共同の家に寝る。
兵隊は男のハウスを無断借用する。
 翌日から又山を下り谷を歩く。そして又山を越える。三日にはスナムの上流に出る。
四日目の午後から凄いスコールに見舞われ全身濡れ鼠、しかし土人部落もなく谷間のジャングルの中に濡れた青草の上に寝る。夕飯は炊くにも燃える枝が無く誰も夕飯抜きである。雨はたえまなく降り続ける。夜が明けると早々と行軍を開始した。今日は高い山越だ。
千二百米位有りそうだ谷間の水は足が痛い程冷たい。
 原始林の木肌はしっとりと濡れ、サルオガセの糸苔が無気味に長く垂れて熱帯特有の冷気が漂って来る。
山は登れば降りねばならない。今度は斜面を直滑降で有る。歩くのでは無い滑るので有る。裸足でも途中切り株が有るわけでもなく石もない。木の葉が積った黒土ばかり。土人の住む地帯でないから焼き畑にするわけでもなし、大木の繁った原始林ばかりである。
 大分下って川も近いと思われる頃、大木の上に犬の様な動物を見つける。
人を見ても動かない誰かが撃ち殺した。六キロ位い有った。其の夜の食糧の足しにする。味を見る程度であった。まだ陽は高かった。下りきった所は幅五十米位の川だ。
 今度は川原の砂利の上を歩く。南方の大陽は川原の砂利を焦がす。冷たいジャングルの中から出て熱砂を歩く。裸足の足は焦げる様だ。水に入り冷やす。そして又石を渡る事暫し、今夜は乾いた砂原に宿営する事に決めて背負い袋を下す。ジャングルの湿地の露営に比べて乾いた砂地は実に心地が良い。暫く振りにありつけた蛋白質一口の肉に元気倍増、なんとか夜の炊事を済ます。
 
      想い尽きなく果てしない
      別れ出船の鐘が鳴る
      思いなおして諦めて  
 
 誰かが口ずさめば、そこここに同唱の声が黄昏の河原の流れと共に流れて行く。
ウエワークに上陸した頃海岸の渚に出ては故国を想い歌った懐しい唄。
そして又微かな流れのみの靜けさに戻る。
 渡河の時に流され虎の子の米を水浸しにしてしまった兵が有り、皆で濡れないのと替えてやる僅かの米と肉の味、その夜は久し振りに晴れ渡った。青空に月の光が白く砂原を照らす。
 毎日行軍で皆疲れ切ってよく眠りについている。浜昼顔のかすかな香が漂う砂の床に寝る。
私はわりに足が強いので行軍はいつも最前団を行くので楽なのかも知れない。この地に来て初めてゆるやかな川の流れ澄きった水の色、広い川のある風景それは内地の平原を思わせる。草原こそないが岸の林は内地の山に似ている。これから行く先も、さぞかし景色も良い場所であろう等、勝手な想像などしつつ砂浜の一夜を過ごす。未知の国に、そして前途に望みを持ち今迄の苦労も忘れたかの如く皆顔だけは明るいが、果してどの様に展開して行くのであろうか。全くの暗夜に光りが求められるであろうか。
 
 
 
         自活への行軍、山地土人の暮し
 
 行軍の目的が土人の協力を得て現地で自活する為で有る。従って土人の畑を荒らしたり、彼等の飼育する動物の殺傷又椰子の木を伐る事等、彼らの反感をもたらす事を禁止する。したがってスチールによらずチェンジでなければならないとの強い伝達が有り、
これから食べ物を得る事は益々困難に成った。彼等とチェンジするにも、その品物が無い。裸の彼らの一番喜ぶ衣類も着ているだけしか無い。ミシオムからミビベラそれより川と別れ山また山と越へウルビフ、ラツトヘムを経て分水嶺を越えヤミールに着く。
これより次第に山岳を抜け出してセピツクの大河の近くとなり平原らしく成る。
周りも変わりヤミールを境にして山地土人の地域から別れマミの村へと入って行く。
 山岳地土人とは数戸の集合住居を構え、傾斜面に焼き畑を作り里芋の類、タロイモ、タピオカバナナ、ピチピチ等を耕作する。蛋白資源としては野生豚、火喰鳥、蛇、とかげ、鼠、など捕獲し常食としている。
 ヤミールは中間地帯にして山にも近く平原でもある。この辺りには野生コンヤクが密生している。マンナンが無いらしい。部落には二十人か三十人位で女達はあまり顔を見せない、土人達は裸だから、ふんどしでも有れば、喰うものにありつくが、残念な事に
それが無い。やむなく野草など食べられる物を見つけて、飢えをしのぎながらの行軍を続けざるを得なかった。
 
         続く行軍
 
 ヤミールのプレスは五戸位いの小屋が有る小さい部落である。
ヤミールを過ぎると今度はマルンバの地区に入る事になる。もう皆だいぶ疲れて氣力で歩ている兵も出て来た。ヤミールを出てしばし山を越え川を渡り、だらだら坂を暫く登るといよいよマルンバになる。マルンバはこの辺では一番の大部落であった。ここに辿り着いて三人の落伍者が出た。下痢患者で有る。マルンバの小屋にて休養する事にした。金田上等兵はいつも頑健でスナムに居る時など河を越え野菜採りに行き、大スコールの為上流から流されながらようやく南瓜を二個背負いスナムに辿り着いた度胸の有る兵で有り、金子氏は今度山に入る為の下見に行く等元気者であった。
 松沢氏も十八年一月兵法政大出のインテリしかも楽天家、どんな苦労も愚痴をこぼした事の無い人だった。今度の行軍では柿沼先輩との組だったので、無理がたたったのであろう、マラリヤには下痢がつきものである。僅か持っている食糧をたよりに小さな小屋に残り、誰が看護してくれる、誰が水汲みに行ってくれる。結局動けなくなった落伍者は、死を待つより無い、この先大きなマルンバ部落が有るがマルンバにはどうしても入れてくれない理由があった。小屋の三人はその後消足がわからず、ここで終わったものと思うしかない。
 戦友を次々と失う事は断腸の思いで有る。しかし今人の事を考えるよりも自分に降り掛かる災難から如何にして逃れるかが先決の現在である。ヤミール外れの小屋に残る三名は、マルンバのてまえヤミール地内にて死亡と推定される  
 
 予備伍長 金子 源太郎  予備伍長 金子 義雄  国民兵兵長 松沢 清、
 
 ヤミールからは平原と成り、実際はエビネ、ウル、の小さい部落が有ってマルンバ地区になると思う。見渡す限りの草原を横断すると又ジャングルに入る、川に近い部落が見えて来た。アマグ川の上流であろうか。地図も無いから想像にしか過ぎない。マルンバは先に書いた様に、三宅部隊に所属する松島隊の自活地に決められており三宅部隊の糧抹供給の部落の為通過部隊の宿営は一切許されなかった。地区隊長の内山少尉に再三交渉したが遂に容れられず三人のみ残して部落を離れ川岸に其夜の宿営地を定めた。
 マルンバはこの周辺での中心的部落であり、右に第二マルンバの集落がある。
直進した所が第一のマルンバで二十位の小屋と集会所と言うべき大ハウスが村らしく列んでいた。ここの土人は逃ずに居たから異様な雰囲気である。
ここには宣部隊がいて、ある程度土人教育をしていたらしい。
そしてマルンバがこれからニューギニアにおける山岳戦の中心地と成るので有る事も知るよしも無い。
 この地を抜けると又アマグの上流に出る。スナムを出発して五日目其の行程四五十キロ位であろう。一日にして十キロか。余りにも少ないけれど兵隊の体力の限界なのだ。地形も悪く食糧もなく如何に兵隊とは言え苦しい行軍で有ったかが偲ばれる。
 五日目に平原に出た。高地なのに思いの外大きい川なのは意外であった。
川に沿って下る事暫しミコオの部落に着く。ここは平原で部落の小屋も増え土人も居るし人も多く成った。しかし初めて見る兵隊に驚異の目で見張る。こちらも又全裸の土人男女には驚いた。陽が暮れたら真暗に成るが照明器具が有るわけもないし、例え有っても敵機の目標に成るので明りは禁物である。早めに夕食の支度を済ませ暗くならないうちに宿営場所の選定をする。  
 今夜の食事はと言っても何が有ると言う訳でもない。喰える物を何か見つけて喰って寝て、野生の生き物と等しい生活で有る。僅か持っているサクサクは、いざと言う時の為に大切にしていた。
 其の夜一人の土人が火喰鳥の卵を一個持ってきた。何とかこれを手に入れようと交渉し、結局小島曹長の掛けている越中フンドシと替える事に成った。もう捨てても惜しくない、汚れたふんどしを外して、土人に渡すと彼は心良く卵を渡してくれた。
すぐ飯盒で、ゆでて食べようとした、割るともう鳥に成って居た羽も足も有るが小島さんと喜んで残らず食べてしまった。あゝ旨かった。やはりご馳走であり、汚いフンドシがこんなに旨く喰える。何か持ってれば食べる事にぐらい不自由こそしないが何もない。一枚脱げば裸なのだ。
 翌朝もまたナマズの六寸位の物一匹手に入れる事が出来た。竹の子生活も甚だしいけれど、おかけでだいぶ活氣づいた。持っているサクサクも次第に減ってゆくので心細くなり早く食べ物のある所に着けば、などと考えながら川の砂に横たわる。そして五日目の夜も更けた。
 九月二十四日スナムから六日目の朝が来た、河原を歩くのだから陽が高くならないうちにと早く出発する、この辺りは平地で砂原ばかり歩く、高い山岳地帯からの洪水で河幅が広くなり、雨が病むと広い砂地と成るらしい。そして美しい河である。その日はミコオを後にしてアブチオチヤラを経てブカゴの河原に宿営する。
 
 『アマグ河の仮寝悲しき乾きたる砂に昼顔の花群れ咲きて』
 
 それ程迄に今迄と異なった明るい感じの平地の風景であった。砂原にサツマ芋に似る蔓が繁り、昼顔の花が咲いていた。これは食べられそうだけれど人が食べないから毒見はいやだ。人の犠牲にはなりたくないからだ。
 ニューギニアの山岳地帯に入って、まず必要なのは食い物と塩で有るが、そんな我が侭は今は通らない。しかし平地に来て行軍も楽になり落伍者もなくヌンガイコ、ジヤマ。ベンジン、と進み十月一日目的地クインバに着いた。  
 想えばスナムの地を離れて喰う物も無く山を越え谷を渡り百キロもの行程のニューギニア横断を試み、地図も無く案内する人すら無い奥地クインバへ道なき土地をよくも十三日間歩いたものだ。考えてみるとプレスの名は土人に聞くが、地図にはならない。只こんな地名の所が有ったその事だけが頭に深く刻み込まれた唾毛の子とそしてここが目的地のカンモンベであることだけの感動だったかも知れない。
 ニューギニアに上陸、日本軍二十一万とも言う十八万かも知れ無い、船で沈んだ兵も有り、正確な数を知る事は出来ないにしても何万か土人の中に入り込んで兵隊の食べる食糧の余裕のある訳が無い。土人の食べ物を盗み、土人の食べ物迄食べても十万の兵隊の食糧を満たす事は不可能の一語に尽きよう。しかし何としても喰わなければ生きてゆけない。 衣食足りて礼節を何とや、そんな言葉がどこの世界にまかり通れるか。それが今時大戦の結末になろうとは大本営も考える暇もなく凍った急坂を止めどなく谷底へ落ちて行ったのが、日本軍のたどった道であろうか。それさえ知る事も出来ず未知の世界での今日の強いられた生活の一駒であろう。
 
 
         クインバの自活生活
 
 猛一九三二部隊の本部をクインバ部落に置き第二分班をグマアブルに第三分班をナカロンビに分散駐留した。合計八十一名と記憶する。
第四分班として最後に山に入る予定だった、横尾分隊は全員病人で食糧も無く、おそらくスナムの地で死亡したものと思う。したがってスナムでの推定死亡者五十五名は結果からの推測にしかすぎない。
 自活地での生活は食糧の少ない乍らも、土人達の理解と協力により少ない中から彼らの食糧を提供して戴く事に成った。何のみかえりが有る訳でも無く無償なので有るから彼等も無理であるが代償にすべき何も無い日本兵の現在のみじめさである。其の日から彼等は交替にて、マミ、タロイモ、ヤシ、サクサク、等無く成れば持ってきてくれた。
 家族と同じ位の居候が来たのだから彼等も大変であろう。しかし心良く我等を迎えてくれ、次第に土人とも馴染み打ち解けてくる。遊びに来る子供達にも日本の名前を付けて春雄とか二郎と呼ばれ彼も喜んでいた。子供達もすっかり馴染んで夜は泊まりに来たり、
珍しい物が有れば内諸で持って来てくれる。彼らは乳から離れると男子は男子同志の同居であり女子は母と同居する、だが女子はあまり我々の所には遊に来る事が疎れで有る。
子ども達は親切にすれば土人の子とも思えぬ可愛さが有る。
人種は異っても人間に変わりの無い事を教えられる。
男達はシンシンハウスに集まり夜も一諸に過ごす。
キヤプテンも老人なので若い者と交替させた。若いといえど二十才との事で有った。
我々の推選したキヤプテンだけあって氣もきくし、我々の要求もいつも聞き入れてくる様に成りサクサクの食べ方も色々覚えて来た。
クインバは湿地帯に属しているが僅かの焼き畑もある。
湿地が多い為にマラリヤ蚊が実に多い。
それは日本に居ては想像することの出来ない程の物である。
そんな湿地帯ばかりだからサゴ椰子が多く自生し、サクサクが多く採れるので彼らは澱粉が主食に成っていた。
こんな土地だからマラリヤも勿論病氣は多い、彼等は夜も火をたいて煙で蚊を追って火の周りで寝るので有る。また月の夜に成るとビンロウの実を咬みながら一晩中唄ったり踊ったりしている。今の所わりにのんきに、温和な日が続いている。
 敵軍もこれだけ山岳地帯に入ると道を作るにも簡単にはゆかず空爆に依れば土民に被害を出す、そこで中央を流れるセピツクの大河を艦船で上り日本軍に近付き、片方ウエワークからアマグ河に沿って道路を作り日本軍に近ずきつつあり、先ずマルンバを占拠しその周辺の日本軍を壊滅せしめてニューギニアの残兵を玉碎せしむる作戦の準備中の靜寂であろう。
 食べ物も我が侭を言わなければ何とか食べられるけれど、塩だけは手に入らない。彼らは塩の草と言う草の灰を未熟のマンゴウに付けて喰う。酸とアルカリが中和して塩分が残る。理屈は彼らの祖先から教えられた知恵なのであろう。
 平穏な日の過ぎるのは早い。十月が過ぎ十一月が終り十九年も終わらんとしていた頃、日本では元日には豚を喰う習慣になっている、だから豚を出してくれとキヤプテンと交渉した。彼らにとって豚は家族で有り、婦人は抱いて寝るぐらい大切にしていた。
その豚一頭無償でよこせとは、むしが良過ぎる。
しかしキヤプテンは承知した。そして晦日の朝、十五貫位の豚を一頭かついで来た。
お蔭で待望の豚肉を手に入れる事が出来て中隊一同大喜びであった。
 解体は私の役だ。大火を燃し、その火にかざし毛を焼き、逆さに吊りナイフを入れた、皆よだれを出して周りに立っていた。戦地に来て初めての豚肉にありつくのである。
血は煮て堅めて喰い、骨は二三日煮てかじる。
 夜が明けると元旦であった、
彼らには特に正月も盆も無いらしいし、我々の見た目での文化と、彼らの文化とは異なる物であろうか、元日も晦日も彼らには、いつもと変わりない生活であった。
 我々は雑煮で元旦をお祝いしたいのでサクサクで餅紛いの物を作り味こそ無いけれど豚肉の入った自称雑煮で新年を祝福する事が出来た。
 皮に生えている毛は燃やし腑も全部洗わず焼いて喰う。
それが一番旨い喰い方だと土人は言う。
 カンモンベに来てから三ケ月になったが現在のところ一人の病人もなく皆元気で有る、しかしここに来てから二人の死者が出た。
 
  国民兵上等兵 永野 広吉   補充兵伍長 名和 義勝
 
 永野は、たばこ好きだったので土人に生葉を貰い供えてやった。名和氏は分隊が離れていたので葬にも行けなかった。
 無事に自活地に着いた八十一名の内、二名死んだ。そして四分隊武井分隊の別行動隊は全く消足知れず、途中にて敵に遭遇して全員死亡したものとしか考えられない。
 既に豪軍も密かに山の中に偵察隊を派遣し土人を使い日本兵の行動を監視していた。
アイタベに上陸した豪軍は除々に我が軍の攻勢に進行中で有り又セピツクを艦で上流に向う豪軍も、共に我が軍の近くに迫りつつあり、この侭ではいよいよ敵に挟まれて身動きも出来ない状態となろう。
もう各地の自活部隊が敵対行動に入りつつあったが交通の不便、特に山岳高地と湿地の、この地方には敵の攻撃は不可能と考えてよかろう。しかし土人を敵に廻したなら我らは喰う事すら出来なく成る。
土人の世話に成って居る居候なのだから、この侭に呑氣に日を送っている訳にも行かない。今既に各地で敵の攻撃を受けている部隊が続出しているらしい。
一番奥地に遁入した我が中隊も敵の撃退に出動しなければ、いよいよ日本軍の住む所がなくなる急迫した時が来てしまった。
 
          前線への道
 
 二十年一月八日中隊にも敵軍撃退に参加せよとの軍命令が下った。既に敵輸送機は盛に物資の補供作戦を開始し、又戦闘中の部隊も近くにも有る。
この辺の土人部落はまだ日本軍に対して非常に好意的であったが、もう豪軍機が空より又地上軍も日本軍を攻撃する様に成ると、土人にも被害が及んでいる事は彼ら同志のガラムによる連絡で我等より先に知っている様であった。
我々もカンモンベにて三ケ月に及ぶ同じ生活をして、すっかり土人と馴れてしまったが命令とあらば止むなく部落の土人との離別、本来の軍事の行動に移らざるを得なかった。
 
 
 
 
        ジヤマ付近に移動命令
 
 一月十日住み慣れた土人部落とも馴染みの土人達とも別れジヤマへと行軍開始した。地図も無い、指射した方向に歩いた。遠くなかったジヤマの部落はすでに土人は逃れ空で誰も居無い。少し離れた一軒小屋に一先ず宿営して次の命令を待った。
 この辺での土人もまだ割合に好意的でジヤマ部落の土人と掛合ヤアム薯などサービスして貰い、食べ物はなんとか調達出来た。二三小隊は少し離れて宿営する。食べる物が薯ばかりだから廃便に困る兵員が多いので忽ち溜り流れ出して悪臭を放つ、その上金蝿が物凄い、彼らの便所は小屋近くに一本橋を渡しその高い所から二米位落とす、それを豚が食うのが習わしで有るが、豚は居ない。奮は多いのだから処置なしだ。
一本橋から落ちでもしたら埋まってしまう。この所の小屋で暫く各部隊との連絡、
今後の作戦計画等に当り敵の行動の探知などにあたりながら、或はセピツクからの敵軍の浸入を防ぎ、我が軍がこの地に長く留まれる作戦をとらねばならぬのである。
一月も夢の様に過ぎ、末には中隊はブカゴ付近の河に近い山中に移動した。敵はアマグ河に沿津手自動車道を作り、これをセピツクに連絡している故に敵の進撃も早いはずであった。 この頃敵は我等の所を平行にウエワークに向い進撃していたのであった。中隊の付近は河にも近く草原が多い。我々は東側面に小屋を建てた。又分隊は西河辺に移動するジヤマに大隊本部が有ったので毎日大隊本部と連絡をとり敵の行動と我が方の今後の作戦等研究しつつ時の来るのを待った。
 思えば去年の九月スナムを出発、完全に安全と思われた高地奥深く入り自活生活を続け日本軍の戦局好転と援軍に依り、我々ニューギニア部隊もなんとかして玉碎の憂き目にだけは無いと時を待った。
しかし現在の戦況を推測するに既に敵の包囲の中に我々の行動範囲を狭めて来るとしか考えられない。
 中隊からは毎日ジヤマの大隊本部へ命令受領に一名宛行く。
この辺は既に敵の行動範囲に成っている。
大体半日の行程で有るが裸足では辛いので草原の青草でわらじを作って履いて行く事にした。針金で釣り針を作り近くの湿地帯に魚釣りに行った兵は五センチ位のざご二、三匹持って帰って来た。手のすいた人は食糧見つけに出かける。私も連絡兵として出る番が来た。朝早く小屋を出る。腰に拳銃一丁下げただけ敵の中である。ワラジを履いて昼頃帰る予定だった。途中広いガーデンに付き当たった。あまり広い畑なので中で迷い抜けだす事が出来なくなった。こんな広い畑は初めてである。平坦で一町歩位あろうか、いくら歩いても同じ所に出る。わらじの片足は切れてしまった。しかしどうしても大隊本部にて命令受領はしなければならない。
 やむなく東に向かって行く河が有れば分隊が有るはずだ。やっとの事で大隊本部に着く。そして中隊に帰ったのが夕刻であった、隊に帰っても良く帰ったでも無い、帰らなければ殺されたのだろう、ここで私一人殺され帰らなくとも別に不思議もない何時間も帰りの遅いのは途中殺されたのだと皆が思っていたらしい。
 この命令こそ我が中隊への最後の通告とも言える即時一線参加の命令であった。
当時のニューギニアの戦況は東部は全く敵に奪われ、西部も敵の上陸とセピツクからの進攻にてブーツ、ウエワーク、海岸線も敵の拠点となり、残るは中部山岳地だけとなり、
ここの日本軍の撃減に総力をあげていた。二月も末のころ斉藤中隊はジヤメに進撃せよとの命令有り、ジヤメまでは遠いので土人に使役をたのんだが戦場であるので土人達も聞き入れてくれなかった。
 
         ジヤメ作戦に参加命令降下
 
 現在地ジヤマからジヤメまでは相当の距離である。海岸から進撃しつつある敵軍掃討の為ジヤメに後方部隊の援隊を求めた。我が隊は後方援隊として迫撃砲隊と成る。
私は砲板運搬、村田上等兵は砲身を担ぎその他の兵は砲弾二発宛背負う。
土人に断わられた為苦労しなければならない。ただでさえ行軍は楽でないのに衰弱した身体にて重い荷物を背負った行軍は苦るしい行軍である。
 二月二十八日中隊はジヤメに到着即時攻撃に参加したが中隊が参加した時は既に勝ち負けは殆ど決まり、やはり日本軍の大敗である。本隊は迫撃砲と重機関銃に別れあとの兵は小銃隊である、この攻撃は二十師団の上村中隊が主力と成りての戦いで有った。敵は物量戦で有り、輸送機にて弾薬糧抹を投下し豊富な物資を投入するのに対して我が軍は弾薬も無く食う物も無い。敵の投下した缶詰を命を賭けて奪い合う始末であった。
日本の弾薬も古くなり迫撃砲弾の火薬も湿り役にたたない有様であった。
この戦で戸部分隊の山田幸次郎上等兵は足を撃たれ退却の途中傷が原因で死亡した、 
三月末ミラク攻撃の際の事であった。
 
         ミラク攻防戦とその後
 
 三月末アマグの道路を利用して進攻した敵はミラクに陣地を構築し、ここを拠点としてこの地区の日本軍の壊滅をきす目途にて日本軍の掃討しつつあり十五キロ離れた大隊本部も慌てざるをえない。
 ミラクで大敗した我が軍は、ただちにケンバンガの防禦に当たる。そして次々と侵攻する敵兵をケンバンガで抑え又ジヤメ、カラフでも防禦網を張りつつ後退し、尚ミラクにて懺敗した斉藤中隊本部はジヤマに集結する事に成った。
 斉藤中尉、小島班長などはジヤマに集結せるとの事にて我々も後を追いジヤマに向かい退却した。
 退却途にて長野たつみの久野軍曹以下五名は二大隊山崎部隊に転属せよとの命令を受ける、そしてカラフ付近に転進マルンバ近くアマグ河上流に分哨として出動、私は一人にてジヤマに通ずる場所の土人小屋に待機二十師団第二大隊本部との連洛に当たる。
この小屋は後退する傷病兵が一人又二人と泊って行く。ワタンは毎日深い谷を越え登ったジヤマのジヤングルのなかに有る。第二大隊本部に行くこの一日一回の行き来が私の任務であった。
 この第二大隊本部がジヤマ附近ではないかと思はれるが山又山の同じ地型なので自分の居る位置すらわからない。だから安全と思いの外敵中に入って居た為とんだ悲劇も起きる。
 昭和年五月五日の昼頃、今日は五月の節句だ、家に居る頃は映画見に行ったり榛名山に登ったり等と一人思い出にふけって居た時、照空八中隊の少尉が来て七中隊の分哨全員が河原で頭をタミオで割られて死んでいたとの知らせを受けた。
少尉は急いでジヤメに向かった。私はすぐに大隊本部に行き詳細に報告する。
実は私も久野分隊員にて、この河の上流にて侵入する敵を圧へマルンバ方面またジヤメからの我が軍の集結地を守らす為の分哨だったので有る。しかし毎日の疲労にて皆寝ていた処を土人に襲われ全員死亡した者等そして残るは我一人となる。
 
死者次ぎの如し。
 
  分哨長 曹長 久野 保行  伍長 小倉 一男  伍長 中島 勇治
      伍長 渡辺 義和  兵長 佐藤 喜準
 
 五月五日の夜は一人にてこの小屋に寝る。私の所属部隊は全員戦死となり所属する部隊が無く成ったので翌六日二十師団の大隊長の所に行く。この時所属無き兵七名有り二十師団二大隊に編入された。二十師団から松田又一伍長我が中隊から私と宮崎阿部村崎他部隊から二名の七名で有る。
 大隊長の命令では村崎、宮崎、阿部の三名は三中隊へ二名は二中隊松田、佐藤は一中隊との命令であった。其頃一中隊は一番の戦火の中心であった。戦争なんて時の運である。生存している斉籐隊員七十人位が散々に成っているか、生死すら不明で広い戦野に苦闘しているであろう。そして何処に敵が居て何処に友軍が居るかも解らない全くの混乱状態の戦場で有った。
中隊本部は寄り道もせずミラクに来たが、もっと早い分隊も遅い隊もある道の無い山を盲が歩くより悪い。
命令により七名は先ず三中隊に行く。三中隊はミラクの戦線で大きな犠牲を出し兵員も減り負傷者も有る。斉藤隊長や小島曹長も居た。あとは二十師団の兵であった二十師団は朝鮮編成にてパラオから行動を共にしていた張り切った部隊である。 
三中隊長上村弘大尉は私より三才年下だが純真な軍人だった。
彼は私と松田を三中隊にとった。そして阿部、宮崎、村崎は左前方にあるジヤマの一中隊に配属しあとの二名は二中隊に廻した。
 前述のごとくミラクの攻撃の際に三中隊は最前線で大打撃を受け壊滅状態に陥りたるに依りジヤマに待機中の斉藤中尉、小島軍曹を編入せしめ中隊の強化を計っていた。三中隊は部隊の快復の為予備隊と成り、代わりに一中隊、二中隊は第一線に一中隊が最前線であった。
 五月六日は上村隊にて夜を迎える。敵はアマグの道路に依り兵力を増強して大攻勢をかけ、夜襲に依り第一中隊は壊滅した。
その為この中隊に所属した兵の戦死情報を翌朝受ける。
 
 国民兵兵長 村崎 恒代  現役兵長 宮崎 次男  予備兵長 阿部 三作
 
 三中隊はミラク攻撃の負傷者伍長一人腕に銃弾を受け包帯も無く金蝿が卵を産み付け無数の蛆に成り苦るしさの為うめく。敵に近いので顔に毛布を掛けた。その為に
窒息死した。敗戦は悲惨で有る。
 二中隊は右に陣地が有る八日に中隊から出た伝令が土人に狙撃されたが胸部貫通で命に別状無く勤めていた。穴にはガーゼを詰めた程度である。医者も居ないので止むをえない。中隊本部には上村少佐、斉藤中尉、小島曹長、松山軍曹、松田軍曹、兵十人それが一個中隊の構成である。なにしろミラクで痛手を受けただけに傷病者もあり食糧の集収に行く者も無い。特に敵の中なので自由に歩き回るわけにもゆかない。 
 何とか喰う物を集めようと小島、松山、佐藤の三人で東高地の土人部落迄行く。
土人も居ないが食糧も見つからない。小屋の蔭に土人を見る。一発射撃したが手答えなし。雨上りで暑い足跡に溜った雨水を口付けに呑む。
一時間で一応帰る。銃弾使用の報告すると無駄弾を使ったと大目玉を戴く。この頃は一発の弾でも貴重であるから戦争以外には使わせない。今夜の食糧が無いので再び出かける。
右か左か暫く議論したが結局私の意見を強行した。
幸いムカゴ等なんとか其夜喰うだけの芋を担いで帰る。しかし下士官達は私の主張に腹を立てたらしい。
目的遂行の為には自分の主張を通すのが私の性格だ。今の状況下では階級でも名誉でもない実力と体力しかないはずだ。何日か予備隊であった三中隊も、一中隊壊滅の為今度は一線部隊として敵の侵出を防ぐよりなく移動を開始した。
暗夜を幸い移動開始敵に近迫しての移動なので飯盒、水筒の音に気を付ける様きつく兵に伝える。
移動した事が敵に知れない為にそして其夜のうちに密かにタコツボを堀り陣地構築をすまし戦闘の準備を整える。
 朝は靜かで僅かに敵かたの陣地からの声が聞こえて来る。敵との距離百米位であろうか、大木が有るので直接見る事は出来ない。昼頃になるとマルンバ陣地から谷を越えて我が陣地に迫って来た。敵は機関銃にて盛んに掃射を始める我が陣地に登ると手榴弾にて猛裂な攻撃を加える。兵力一小隊位いである。
物量作戦にはかなわない。我が方は前線に亀山少尉以下五名、後方に中隊長国井見習仕官と私の八人だ。この戦いで亀山少尉は軽機にて応戦中頭部貫通にて即死せり。
他の兵は右の谷にのがれ一時間位にて鎮まる。本部は後方だったので無事だった。
無事と言えど、やはり一人の少尉を死にいたらしめた事は悲しい極みである。
常日頃よく語り行動を共にした人の死が隊長以下兵の心をゆさぶらないわけがない。
暫くして国井軍曹をして状況偵察にゆかしめたが戻らず中隊長も焦りの色を隠せない。
陣地に隊長一人残して私も行く。もう敵はいない左前方に軽機を持ったままの亀山少尉の亡骸があり、平地の先端に行くも敵無し、そこにロンボオがあったので調味料に摘む。
敵中なれど食べ物には目が無い。敵も味方も見えない平地を帰る。敵兵を見る。
私は無意識に挙銃を手にした。すると彼は手を上げた。敵の分取品の服を着た国井軍曹だった。
私はすぐに中隊長の元に帰り偵察の結果の報告をする間も無く国井も帰る。
国井は可愛そう程怒られる。彼も見習仕官だったが今や精神的にも肉体的にも半病人に成って居た。彼も病人収容所にて死亡した。
 それにしても金子軍曹以下はどうなっているのだろうか本部三人途方にくれていた。
薄暗く成る頃右谷間から全員登って来た。中隊長の顔色が変わった。小隊長一人を犠牲にして、あんかんといられる者もなかろう。亀山少尉はここに埋葬した。
 
     現役大尉  亀山勝三  二十年五月十四日戦死マルンバ付近
 
 亀山少尉の機関銃を持ち植田、根岸、金子の三下士官は新しい陣地の構築にすぐ取り掛かる様命令された。もう六時、とても間が無い。全員の蛸壷は掘れない。特に根岸軍曹は遁走中近眼鏡をなくしたので見えない。やむなく前の戦闘で使った蛸壷をまた使う事にし壕の中の日本兵の白骨を取り出し掃除した。このあたりは既に何度も交戦した陣地の跡であった。白骨の有るのはその為である。
 昼飯も食わず其の夜の食べ物も無い。でもここで夜を明かす事にした五月十四も終わらんとしていた。夜も更けて大隊本部よりの命令あり小マルンバ付近の台地に今夜中に移動し陣地を構築せよとの事で有る。
撤隊はいつも夜である。闇夜のことであるから、ここが何処であるか全くわからないけれどマルンバ付近を敵を追いつつ追われつつ敵に囲まれ逃げる路なく、行く処なく巡り巡って日をかせぎ兵力の消耗をきたすだけの無意味な戦争ごっことしか考えられないが、
やはり命をかけての戦場であれば一寸の油断も許されない。捕虜に成れば軍法会議で銃殺、
どうせ死なねばならぬ命なのである。
 
         ライスカレーが待っている ワンバク陣地
 
 ウエワーク付近に上陸した強力な豪軍は、この付近一番の集落で有り又日本軍の本部でも有った。
マルンバに本拠を置き、ウエワークブーツ周辺の日本兵の一掃に当たる。
我々はマルンバから五十キロも奥のクインバから次第に追い出され中間地点であるここまで来た。そして海にも行けず山にも行けず敵に囲まれた。その中で逃げ惑う子兎その者であろう。この頃になると敵は各地に飛行場やヘリポートなど構築して物資の輸送又日本軍陣地の爆撃にまで及ぶ様に成った。
早朝谷間に煙が棚引けば日本兵の露営地と見て爆撃し又砲撃しきりで壕に逃げ込む他は無い。
もしも日本軍の陣地と見たら山が裸に成るまで毎日の猛爆である。もし近く敵と相対しておれば爆撃もしない。何しろ五十米の間では味方に被害の及ぶ場合もあるし、投下物資を敵方に取られる事さえ有る。
 さて三中隊はマルンバの敵に対して谷一つ隔てた高地に陣地構築を完了し頂にあるシンシンハウスに夜は泊まり昼は反対斜面の蛸壷にて過ごす。このハウスは敵に近いので爆撃だけは無いが地上兵機はのがれられない。
 明るくなると各自が後方の蛸壷に入る。前方には敵陣がすぐ前に見えるが後方は谷になり、その谷間に大隊本部がある。
我々は最前線にいて任務は敵を攻撃するのではなく、敵の進撃を阻止して一日でも敵の進行を圧え敵が見えても攻撃するな、それだけの弾薬も無ければ余裕も無い、一日も長く陣地を持ちこたえ我々が長く生き延びる、そのうちに戦争も終りはしないか、まだかすかな望みだけは捨てては居ない。今の我々の周りは敵ばかり。
 北は四十キロで海南ハセピツクの大河に連る自動車道路があり空には絶え間なく輸送機の音、其の中で逃げまどうのが日本の兵隊なのだ。
 我々は南斜面に一人宛生活出来る蛸壷を堀り上に丸太を載せ土をかけ小さい入り口だけで敵弾から逃げ様とした。芋は一週間くらい食えるだけ用意した。しかし穴の中なので火が燃えないで困る。水が無いので飯盒に木の葉をしいて蒸す。この穴に寝る。迫撃砲から逃る為だ。朝に成るとハウスに集合して其の日の戦闘準備にかかる。
一個中隊と言えど隊長以下十名有れば多い日だ。東へ百米下ると水が有る。
ここまで汲みに行くのは大変である。敵陣に近く又敵からも見えるし時々敵に遭遇もする。
この陣地に来て二日目二十師団から配属になった上等兵が水汲みに行き自分の持っていた 手榴弾で自決した。中隊長にその旨を報告した。とんでもない奴だ、もったいない、
一発の手榴弾が有れば敵が十人は殺せるのに無駄に使ってしかも友軍の命まで犠牲にしやがって、馬鹿野郎だと怒鳴る。自決する者にとっては相当思いつめての事、死ぬ程辛いそれが戦時下の軍隊であった。物量の無い日本軍にはこの小銃弾一発たりとも必ず敵を殺せ、もう撃ち過ぎるなと、きつく命令されていた。
 この水場の上に毎日歩哨が一名宛立つ事に成っていた。兵員が少ない為病氣で動けない者を歩哨に立てた。働ける者は陣地に残し戦闘に備えたり使役に宛たり、兵員は貴重であった。
 毎日喰うや喰わずの戦線故病む人が多く、働く兵隊は日に日に減ってゆく。
そのなかで私は元気なので伝令、丸太の伐採、食糧の採集にと休む間すら無い。
ハウスには病む人、マラリヤ下痢患者が居るたけ昼間は危険なのでハウスには兵隊を置かない。
 この頃になると敵陣地から放送する、佐渡おけさ、が時々我々の心を惑わす。又日本は負けます。今のうちに降伏して来なさい。ライスカレーがアナタの降伏して来るのを待っています。けっしてみじめに扱いません。安心して来て下さい。敵方の放送は毎日の様に有るが真面目に受け聞く者も無いけれど戦局も緊迫している事は確実で有った。
 この陣地には割に長く居た。しかし今日迄何日か、そんな事を頭に置くだけの余裕も無ければ必要も無い。数日後の昼頃ものすごいスコールに見舞われた。暫く振りの大雨であった。五月二十何日かだろう乾季に入ってからの事であった。全員がハウスに避難し雨の止むのを待った。一時間位降ったろうか、タコツボの中は水で一杯になった。
 雨が止んだので病人だった北島上等兵に歩哨に立てとの命令だった。彼は私の処へ来て中隊長に命令されたけれど今日は必ず敵が来る様な氣がするから氣が進まない何とかしてくれとの事であった。しかし中隊長の命令とあらば仕方ない行ってくれと慰めて出してやった。
 当時私が中隊の人事代理をして居たから誰か行かさねばならず可愛そうではあるがやむをえなかった。一時間位して水場の方から銃声がしたかと思うと敵弾筒の破裂音しきりであった。我々もハウスから飛びでて蛸壷に行く。蛸壷は水が溢れていた。
 敵弾雨霰の中なので水の中に飛び込んだ。頭だけ水の上に出して戦闘開始。
風呂に入った様な始末だけれど、入らなければやられるから仕方ない。
三十分位して銃声も治まり空も晴れたので蛸壷からハウスに戻った。激しい戦闘の割に兵員には全く被害は無く一同ほっとした。
暫くして歩哨の事を思い出し私は一人で偵察に出た。北島上等兵は蛸壷の上に居たらしく頭部貫通で頭が割れ脳ミソが散乱し、まわりが真白にて生臭く異様な姿となっていた。彼は四分隊の発電車の運転手として何時も張切って居た。この頃マラリヤで、すっかりやつれ元気も無く寝ている事が多かった。今日の歩哨を拒んだだけにたまらなく可愛そうでならない。
ゲエトルだけとって蛸壷に埋葬してやった。彼のゲエトルは今も形見に持っている。
 この陣地でも自決者と犠牲者各一人宛出し中隊人員が次々減少して行く事は寂しいし尚今後の戦闘に支障をきたす。この陣地では何日か敵の進撃をくいとめる事が出来しかも一度攻撃されただけで一線を保ち得たのは大なる功籍と言わねばならない。其の夜中即荷物の整理を済ませ僅か西方の高地に移動せよとの命令だった。
 こうして一個中隊十人位にて優勢な敵軍と戦い敵の進撃を圧える事は至難の業と言うべきであろう。しかし我等の中隊はいつも最前線のみ、突き走って行く先どうなるのか考えても良い知恵が有るはずがない。 
 マルンバ第一陣地にて「ヤミグモ」亀山少尉戦死の際同陣地にて根岸軍曹は眼鏡を失い、その後急速に体調を崩し間もなく死亡。植田曹長も白骨死体を片付け蛸壷陣地を構え上村少佐の指揮下にあった。その後の消息は記憶していないが指令部あたりで死んだかも知れない。金子伍長も其時別れたままである。三人ともこの付近で死亡したのであろう事だけは確かである。            
 
 
 
 
         マルンバ周辺第二の陣地
 
 場所は不明で有るがマルンバ付近であろう。夜の移動で命令のままの陣地で場所など知らない。ただここら辺りが最後の地かなと感ずる。マルンバはこの付近一番大きい部落であることは前にも記した通りで、おそらく敵はこの地区に主力を集中して、ここを起点とし日本軍の掃討に当られる計略であろう。
 第一の陣地にも近い、すでに飛行場設定隊の十人程が先に陣地を設営をし、地下式陣地に四人常駐して敵陣地とにらみ合っている。その距離五十米足らず。全く壕から出る事も出来ない。闇に乗じて設定隊陣地から煮た芋水のみ差し入れするだけで敵味方とも静まりかえっている。敵も機関銃を向けたままで動き無し、我が軍も敵に機関銃を向けたまま身動きも出来ない。敵第二陣地はジャングルを中にしているのであまり障害にならない。
 地下式陣地は我等の来る前に設定隊が設営した物で穴を堀り丸太を上にのせ厚く土を載せた物で銃口が出るだけの穴が有るだけの物、しかし味方には弾丸が無いから発砲出来ない。前線地下陣地と設定隊との間は草原で斜面になっており斜面を通れば敵に見えない。そこに小屋が一軒ある。パパイヤの熟れたのが一個なっていた。敵陣に近いので採る兵も居なかったらしい。敵中なので前線陣地に食糧を補給するのも精一杯で空腹の為草原に座りバッタ等捕らえ生で食い氣休めにしていた。
 我が中隊もここに来て宿舎を作らねばならず設定隊に鋸を借りに行く。午前中は彼等が使いたいから午後になれば貸すとの事であった。午前十時頃、設定隊の一人の兵が木伐りに行き第二陣地の敵の機銃弾に腹部を射たれた。そんなことで我々は伐採作業は中止となった。彼の兵隊は苦しんで三時ごろ死んだ。肺貫通は助かるけれど腹部は駄目だ。そんなことで小屋建ては中止した。
 南後方に將校分哨があり敵の目標になる地点であり、距離も百米と近く毎日機関銃の掃射を受ける。
 我々は全く敵の包囲下にあり食糧の採集も不可能状態だが、バッタも食べる程いるわけでもなし空腹は耐えられる状態を越えていた。朝早く起きて蛸壷をまわると小さなトカゲとかカエルが捕らえられる事もある。焼いて喰う美味なり。
 この陣地に来て三日目に二十師団の分哨長が戦死したので補充員の派遣要請に大隊に行く、敵陣地を右にみて斜面の道を行くと敵一陣地から一斉掃射を受ける。敵はこちらに向いて発射の準備をしているので油断できない。
 我々も無意識に伏し腹ばいで通路も抜ける事が出来たが反対面まで夢中であった。無事に本部に着き事情を説明し、今度はここを通らぬよう伝えて我等は帰った。
本部からは分哨長として准尉を配属させたとの事であったが、この准尉も分哨近くにて敵弾の為戦死し、続いての戦死で派遣する者が無く四人の兵で守る事にした。
 四日目の朝一人の伍長が地下陣地から後退してきた。見ると右の目の玉が無い、穴だけあいている。元気だったが我々には手が出ない送ってくれる兵もないので一人でこの重傷者を後退させた。野戦病院とても薬も思う様に無く、ただ重傷者の集まる所でしかなく死に場所でしかない状況だった。 
 
    死者続出  マルンバとその付近
 
 予備伍長 稲毛 作衛  マルンバ  補充兵伍長 友田 正輝  マルンバ
 現役准尉 久保野 重一 マルンバ  予備准尉  植田 將一  マルソバ
 補充兵長 前田 政七  マルンバ  補充兵長  伊籐 正良  マルンバ
 予備曹長 小寺 忠雄  マルンバ  国民兵兵長 渡辺 忠良  マルンバ
 予備伍長 小川 平治  マルンバ  国民兵兵長 須崎 徳松  マルンバ
 予備伍長 小山 三郎  マルンバ  予備曹長  増田 一男  マルンバ
 予備兵長 北見 虎治  マルンバ  補充兵長  石井 兵吾  マルンバ
 補充伍長 田辺 仁作  マルンバ  補充兵長  近籐 俊一  マルンバ
 現役兵長 中山 萬蔵  マルンバ  国民兵兵長 寺島 勝治  マルンバ
 
 我々と共に入隊した吉岡村の平井健吉兵長も後方の野戦病院にて死亡ヨンジヤンゲ地区であり、千葉中尉はここで敗戦生還した。
 我等の陣地より南三百米程の後方に友軍陣地が有った。其陣地に状況報告に行くべく命を受け一人で山を下り谷を渡り通路は危険な為ジャングルを木につかまり乍ら急斜面を登る。やっとのことで登り上げ、やれやれと息をつぎ前方を見ると何と五十米足らずに敵兵が立って居た。はっと思い、思わず両手を上げた。撃たれるか助かるかの瀬戸際であった、前の陣地で国井軍曹がした動作そのものであった。敵は手招きしながらこちらへ来る、勿論銃口をこちらに向けていた。イエスハロウ、私が降伏して来たと見たらしい。
 如何に喰わずとも苦しい戦闘で有ろうとも、降伏する事は考えもしない。それが日本軍なのだった。今迄苦しんで来て、今更敵下る事であれば、もうとうに死んでいたであろうに逃亡捕虜は軍法会議で銃殺と決められている。
 私はとっさに今来たジヤングルの急斜面を滑り下る。それは人間業ではない命掛けの早業であろう。夢中で何も覚えていない。敵は自動小銃を盛んに撃っていた。
 昨夜まで友軍陣地だったはずが、今日は敵の陣地であったとは想像もつかない真実である。それにしても昨日の友軍は、どうしたのだろうか。こうして一日でも一時間でも敵の進出を阻止し四周敵に囲まれ乍ら、この地を守り留まりつつ悲しい運命の戦は何時まで続くのであろうか。又続けてゆかねばならないのであろうか。
 敵に陣地を奪われ、そして又敵の去った陣地にて、敵の捨てた残飯、塩を拾い喜ぶ日本兵の現在の存在を大本営は知らぬふりでいるのだろうか。初めから捨て石のつもりで計算外の扱いなのだろうか。二十数万もの兵も、いよいよ捨て石寸前であった。
 日本を出る時二百八名アイタベ作戦後八十名に成り、そして現在の生き残り既に三十名位、今は中隊の者とは会う事も疎れとなってしまった。
 私は朝鮮編成第二十師団二大隊の三中隊上村少佐の隊長付として頼り頼られて毎日の戦線をさまよい、
現在である事を想うとき一抹の侘しさを感じざるを得ない。
そして我が身とは言え、ままならず成行きに任せた自分が哀れでならない。
 
       痛手を負いて マルンバ周辺第三陣地
 
 マルンバは西部ニューギニアでも屈指の大部落で有ろうか、人の数は百人位周りは小高い山又山で、山の上には小さな部落がある。山の斜面又平地には焼き畑があり芋類の栽培に依り生活を営む。
 我々はその高地に陣地を築き敵の攻勢を抑え、ただ日々の経過するのを待つ。戦況好転して再び故国に帰還する事が出来はしないか、生きてさえ居ればと空虚な夢を追って、
その日その日を送る望みなき哀れな戦争生活の中にあって、
戦友の一人減り一人死に何時か自分の身に降り掛かってくる事も意識する余裕すら無く日々は過ぎて行く。当時敵は既にウエワーク、ブーツの飛行場を改修しジヤメにヘリポートを建設し、兵舎も次々と建て相当な兵力を集結してマルンバ周辺の日本軍の壊滅を期する作戦に移行していた。
ニューギニアの日本軍は今や二万か三万かその数僅少と成ったであろうに海岸の警備から山中の戦闘まで日本の二倍半有ると言う。
この島の僅かな場所に追いつめられ、いよいよこれからどうなるのであろうか。
マルンバ第二の陣地も既に敵中にあり。死者は日々に益す、食糧も集収益々困難となり更に西方の高地に移動した。小高い山頂に蛸壷を堀り陣地を築く。西方からの敵軍の侵入を防ぐべく前線警備の任務を受け早朝中隊長以下十名を似って陣地に着く。近籐軍曹以下三名は百米程離れた低地に分哨に着く。そしてマルンバ方面の警備に当たり本陣地南方二十米に歩哨一人病人にあたらしめた。
中隊長松山曹長、林上等兵、当番兵と私の五名は高地陣地に着く。
少佐以下九名の一個中隊である。
 その日は午前中から最前線たる我が隊に対して銃撃を加え又火炎放射を頻繁に行き昼近くまで続けた。昼頃になると靜かに成ったので退却したものと思い我々の食糧として採って来た未熟のパパイヤと青バナナを飯盒で蒸しパパイヤは塩もないので味は無くただ空腹をどれだけでも満たすことが出来ればと、敵の靜な間にとバナナを蒸しパパイヤを刻み五人の昼の支度も出来た。
 近くで自動小銃の発射音がした。とっさに各自蛸壷に入り応戦準備。敵は一小隊に土人五人侵入、我らの食事用意をしていた処迄来たが日本軍は見えない。蛸壷の中に入って居たからだった。
私は小銃を一発敵兵に発射した。敵兵は倒れた。敵は自動小銃を乱射し一発私の頭に受ける。蛸壷を飛び出してすぐ後のピチピチの群生の中に滑り込んだ、手榴弾の裂ける音がした。友軍はどう成ったか知れない。私は蛸壷の側のピチピチの中に暫く潜んでいた。
彼等からは見えない。私は頭部に自動小銃弾を受けたり、足と腹に手榴弾の破片で傷が付いたが氣が張っていた為か、傷の事など氣がつかなかった。
敵は倒れた兵隊を担架に乗せてバナナの飯盒を穴で使用不能にしてしまい片端から私のいる処に投げる。敵の行動は手に取る様に見える。距離にして三十米足らずであろう。
 土人が担架をになって引き上げた。敵兵の引き上げた後の陣地は寂しい程の静けさであった。私一人である。蒸したバナナが散乱していたが食う氣力などあるはずがなく、
私もふらふらと腰を下す。氣が付いて立ち上がる。見ると前に敵兵の血の痕と手榴弾と
マツチ、タバコが落ちていたので拾ってポケットに入れる。
 それにしても頭足あちこちが痛い、手でなぜると血である。血の手を草で拭い帽子を取りに行く。私の帽子は蛸壷の中に粉々になっていた。手榴弾でやられたのだ。穴の無い飯盒を二個拾う。飯盒が無いとバナナが蒸せないからだ。
 それにしても陣地に私一人しかいない。外の者はどこに行ったのであろう。歩哨線に行く、彼は最初の銃声で即死してしまった。やはり私も蛸壷から飛び出すと同時に手榴弾が破裂したのだろう。腹足の傷も破片であったが、浅いので助かった。頭もまだがんがんする。血は出なくなった。
とにかく中隊長達を見附たが居ない。すぐ近くの平原では盛んに火炎放射の炎と煙を立てている。まだ交戦中であるが谷を隔てた向こうである。
やむなく分哨の近籐軍曹の所に行き、彼に報告してすぐに大隊本部に伝令を飛ばす様伝えた。
 敵襲から四時間経っだろうか。東方の谷から登って来たのは隊長以下二名だ。私は氣が苛だっていたので即座に中隊長に喰いついた。
兵を置きざりに陣地を捨てて隊長自から逃げるとはけしからん。
松山曹長は、まあ佐藤待ってくれ、それはもう言わないでくれ、中隊長は陣地を捨てたのだから、責任上自決すると言うのを、やっと止めて戻ったのだから、何も言わず我慢してくれ。私もそれきり何も言わなかった。私の顔は血で染まっていただろう。中隊長も私の顔を見て何も言はなかった。
 間も無く西方の谷から林上等兵が一人で登って来た。決果として林は西へ隊長等は東の谷へ、逃げる事の出来ない歩哨は戦死、私は負傷で済んだ。戦死兵は蛸壷に埋めて大隊本部からの伝令を待った。林は千葉出身で日本から一緒であり他の全員は二十師団であった。
 既に暗くなっていた。近籐軍曹の受領した命令は今夜中に南方の土人部落迄撤退すべしとの事であった。敵が何処に居るか知れない。暗い夜のジャングルを我ら九名は山を下り又登り土人の小屋の四つばかり有る小さな部落に着く。
 この部落はまだ敵も味方も入らないらしく荒らされていなかった。ハウスには沢山のマミが積んであり、大きな土器も二個もあった。昼から、いや何日も芋などにはありついて居ない。早速火を起こし土器にバナナの葉を引き一杯の芋を入れバナナの葉の蓋をして蒸し始めた。
 山の頂上であるから水は無い又どこに有るか知れない。谷間を通る時水筒になぜ汲まなかったのか。その時はそれまで考える余裕が無い。夢中での撤退行軍なのだ。
九名の隊員は早く芋が蒸れないかと首を長くして待って居た。芋の蒸れる間誰一人として口を聞く兵すら無い。今日の逃亡事件から相当氣が立って居るらしいし、俺に喰いつかれたのも虫が治まらないので有ろう。軍隊で少佐と言えば大隊長か連隊副官である。それが兵隊くんだりに自決すろと迄言われ不腹でないとは嘘で有る。
しかし階級だけで今の戦地では通用しない事を隊長も解らない程馬鹿では無い
中隊長は近籐軍曹に何か氣に入らない事があったのか文句を言い出した。
 実は昼間敵からの分取り品である煙草を私にくれと言うのをくれなかった。兵を捨てて逃げて行く隊長になどやるものか。私は煙草はすわないが断ったので面白く無い。その事か今日の私の態度を非難したかった隊長で有るが、私に言いたい事も言わないし言う資格も今は無いと私は思った。
 彼らの煙草は四角の缶に刻み煙草が入っていて附いている紙に一本宛巻かねばならない。マッチは黄隣のマッチだった、服で摩擦しても火が着く。彼等の手榴弾は日本のより威力が有る。大事に持っていたがどうしたのか全く記憶が無い。私は隊長の態度が面白くないし、とにかく喉が渇く仕方なく外に出た。薄明りの外は風もなく耳を疑う程の靜さであった、明けても暮れても戦闘の連続に疲れ果て又今日の出来事、ことに依れば頭部貫通か腹をやられたか、夢の様な出来事ばかり。敵の手榴弾の直撃も僅かな痛手で済み、
粉々になった帽子の犠牲のおかげで今夜も生きられた。
 一人夜の空に向い、今日の一日を返り見つつ帽子の無い空頭がいやに寂しい。生暖かい夜風が過ぎて行くと戦闘帽がいやに恋しかった。
 水は無い。仕方なく小屋の側のバナナに銃剣で傷を付け垂れて落ちる樹液に口付けして口を濡らし、小屋に入るのも氣が進まぬまま、薄暗い空小屋に入る。何かあればと探していると瓶が有る、重く白いものだ、振るとさらさら音がする、事に依ると塩かも知れぬと思うのが慾かも知れぬ。
 塩と言えば戦闘中一度だけブキワラで病人が製塩した赤いそして軽い粉のような塩が一シャジ宛配給に成った。もう一年半塩無しであった。塩程美味な物は無い。
 戦闘に入ってから秋田軍曹が病人を連れて製塩班を編成してブキワラの土人部落の湧水をドラム缶で蒸発させて出来た僅かな塩を前線部隊に配給していた。私もある時ここを通過した際、秋田軍曹にも金丸衛生兵とも逢った。そして水も呑んだ塩氣は有るが海水程塩分が多いわけでは無い。
 スナムから持って出た僅かばかりの塩や粉正油が終ってから塩分無しの生活が続いていた。たまたま野豚狩りに行き肉を焼いて喰ったが豚肉程塩氣がある物はないとまで感じた。人間にも塩分が多いとの事であるが野生の生物にも多い。しかし特に塩分を取る訳でも無いのに、人間は塩が無ければ耐久力も無くなり動く事すら困難に成って来る。
 土人はクナイソオルトと言って塩分の有る草を知っている。そしてその灰から塩分の補給をしていた土人は山の上に住むがブキワラだけは谷に住んでいた。少し湧き出る水を池に溜て近くの部落の土人は利用していた。我々も通過するとき呑めるだけ呑み、水筒に詰めて進駐した。やはり塩ほど旨く又力のつく物は無いと痛感する。
 ブキワラを僅か上ると草原に成る。我々が通過した頃は雨季であった。青々と草は繁り背丈程に成っていた。
 塩のことから横道に反れてしまったが、土人部落から見附けた塩は日本兵が宣撫の為に与えた物であろう真白に精選された物であった。
塩だ塩だ兵達は大喜びだった。其の夜は水は無くとも貴重な塩にありつき塩の味のする芋をたらふく喰った。芋も沢山有り食べ尽くせる量ではなかった。
 朝食べるのも蒸し残りは各自が持ち、塩も分配し其の夜はここの土間にバナナの葉を敷き横に成る。十分喰い塩にもありつき戦争の事も忘れたかの様に満ち足りた一夜を明かした。昨日は昨日、今日は今日。成行きに任せた寂しい戦線の明け暮れのどん底をさまよっていた。明るくなった。身支度をして目的の小マルンバ稜線の陣地に移動を開始した。
         小マルンバ付近 第四陣地
 
 土人小屋から谷を下ると草原に出た右に上ればコマルンバを経てケンバンガ方面で敵の集結せる敵陣地に入る。右は草原で左は平地からアマグの河になる。今迄は山頂陣地ばかりで戦って来たが、今度はやや平地とも言える地形に成っている。稜線下ハアマグの河で敵軍の通路でも有り一番の集結地でも有る。
 近くに広いガーデンが有り芋類も沢山栽培されていたし今迄に見た事の無い日本の手芋の大きい様な一つが五キロもあり、色も白とか紫とか色々有りムカゴも赤子の頭位のが蔓に成っている。ムカゴは食べられるが日に当たる為か、えごみが有った。根の薯は焼いて食べれば美味しい。畑は一反もあればこの辺では広い方だ。
 ここで今迄別行動だった小島曹長とも暫く振りに逢い新潟の酒屋の見込んだ少尉ともブーツでの担送当時以来の再会で懐しかった。又岩手の森上等兵等とも合流して中隊も何人か増加して心強くなった。
 陣地の先は草原になっていてジヤメに通ずる道路であり、右の河川の先は傾斜地でガアデンが見える。その山頂にパンの木の森が有る。そこも友軍陣地に成っていた。
この辺は全て敵に囲まれておりジヤメには敵のヘリポートが有り兵舎も有る。しかし目の前に見える訳でもないからあまり感じない。
 食糧は昨夜から豊かに成り又近くに敵陣地も見えるでも無く恵まれた陣地の様だ。しかしそれは表面だけの事である、実際は敵の飛行場もすぐそこであり敵兵力の集結した場所とも言える。
 友軍はもう最後の手段として敵陣近く進み体当りにて敵攻撃にかかる外ないとの判段であった。
 二,三日間は靜かであったが日本軍の陣地が出来たと知った敵は毎日中型爆撃機を飛ばし、撤底的攻戦に出て来た。我々は爆撃機が来ると、一人宛の蛸壷に逃げ込む。
我々の陣地にも来るが目標にされたのはパン高地に有る友軍の陣地であった。
毎日一回は来る。
 一日過ぎ二日過ぎ一週間位続くと二抱えも有るパンの森が赤土の丘と化してしまった。友軍はどう成ってしまったのか。おそらく他の地点に避難したのだと想像しても、
あまりの無惨さに涙が出る。パン高地の下にガーデンが有りその中に小さなハウスが有った、ここに病人が四人居た。食べ物は有り家も有りで喜んで居たのに違い無いが、我々の目の前で射殺された。尚芋堀に畑に入った関仁八上等兵も立て掛けておいた彼の銃で撃たれた。ヌンビフ地区での出来事だった。
 彼は気持ちのよい良く働く兵で中隊では私の良きライバルとして活躍した兵隊であった。可愛相であった。スナムにいる頃は准尉の当番もし、何かと私にも手伝ってくれる等、真面目な兵でこの事を聞いて彼がなぜそんなヘマをしたのか口惜しい事だった。
 空襲は毎日続くので蛸壷に一時間も二時間も入りきりの日も有った。一人で蛸壷に
居ると、ある時は居眠りしたり又国の事も頭に浮かんで来る。家では今頃何をしているのかなニューギニアに来て三年に近い、便りも無く内地の噂すら知る事も出来ず、
只ぼんやりと時を過ごす。中隊長もズボンのしらみ取りをしたら二百何十匹採ったとか笑い話にもならない事実であった。
 友軍陣地であるパン高地が全潰した頃我々も尚前線に近い低地に移動、ここはもう敵の中にありアマグの側で敵の行動範囲に成って居た。それは夜間敵陣地の襲撃を行う為と想像される。即ち潜入爆破肉弾戦法に移る準備であった。
 川辺に二十師団の森上等兵以下三名が分哨に配備された。ここは地下に穴を堀り木の葉で覆う、そして敵には目につかぬ様に成って居た。この地点はアマグ川の渡河の場所である。そして重要な役を持つ分哨である。我々はここから百米離れた稜線上に陣地構築をする。
 私も初めてこの地で歩哨に附かねばならなかった。今迄の歩哨と違いアマグは敵の主要な通路であり、先ず分哨にて敵を捕らえる。ここを突破された時は私の処に来る。これを一早くそれを見つけて本隊に知らさねばならない。今迄の歩哨は全部突破されて死んでいる。敵は数で来る。私だけが助かる保障はない。分哨を突破されたならすぐ歩哨線になる。そう成った場合二発の発砲が出来うるか。いかにして本隊迄逃れられるか。今迄の歩哨で生きていた例が無いだけに任務の重要さを感ずると共にここで死んでは、とも考える。
一人の勤務それに何時敵襲があるか知れず瞬時の油断も許されない。敵が来たらどう対処するか。敵襲の時は小銃二発発射する。それはこちらが先に発見する事。一発はすぐ発砲しても二発目は時間が掛かる。そんな事ばかり頭に有ると一日がいやに長い。
そして神経がすり減る。
 しかし幸にも其日は敵の姿すら見せなかった。それには理由が有ったらしい。
次の朝中隊本部で上村隊長と本日の事を話合していると分哨の森上等兵が来た。彼は二十師団で朝鮮生れの兵であった。彼の話はこうである。前の私が歩哨に立った日にジヤメ方面より来て渡河する、銃を担いだ土人が我が陣地方面に来たので射殺したとの報告であった。この頃土人は皆敵に着いていた。日本は物が無いが敵は物資が豊かだから物に釣られ敵のスパイに成って居た。ここで射殺しなければ私の所に来た。肉付きの良い男だから喰ってはどうか。もし許可が有ればカツトするがどうか。中隊長は森どうだろう肉にはお互いに飢えているし同じ人間なんだ土人とは云え喰う事だけは止めようや。
 上村少佐は弘前の士族で陸軍幼年学校を出た中堅將校で有るだけに、非道徳的な行為はしたく無いと言った温厚な性格な人だった。この頃は食糧も乏しく肉等とても喰う事も出来ない。その頃になるとあちらこちらから人肉を喰った噂が飛び、飯盒に指が入って居た等の話も聞く。森の提案も一理あり無謀とも思はれない時だった。
 さてその死体をどうするか穴を掘るのも大犠だし分哨の前にあるのだから早く片付けなけれならない。やむなく私が手伝い森と下流に流し草の中に引き込み、この陣地では幸いにも一人の犠牲者も無くして、今度は後方部隊として転進する事になった。
 思えばミラクの激戦で敗退してから半年の間、上村隊長と共に最前線ばかりの連続であり、精神的にも肉体的にも疲労その極に達していた。今度は同じ敵中でも予備的な任務となれば、どれだけか安心感もあり相変わらずの小人数の中隊ではあるが他の隊とも別れ少数ながらの転進となった。
 
         予備隊となつて
 
 パン高地の悲惨な姿、友軍兵の死に行く姿、それが目の底に焼き附いて離れ無い朝だ。
三中隊は陣地に別れてどう歩いたか部落もなく山を越え谷を渡り高地の南面に簡単な小屋を建てて特別の任務も無く何時迄かここに過ごす事らしい。
現在の位置はアマグ河支流とマルンバ、ヤミールに遠くない事だけは当時の戦局の判断からして察し得られるが土地の名も位置も想像しがたい。
そして昭和二十一年の何月かすら誰も知らないし又そんな事にこだわる必要もない。
喰う物があり戦争が無ければ申し分のないこの世の極楽であろうに、する事と言えば食べ物の調達だけ、但し一日一回の司令部連洛だけはしなければならない。
二十師から来た兵と食糧収集と言う事で北面に一キロ程下った。
そこに三戸の小屋が有ったが土人は逃げて留守だった。
 西部ニューギニアでも、この地方は何処へ行っても山は急であり谷は深い。ここも相当深い谷底であり小川が流れ昼でも暗い様な地形であった。この川が集まりマルンバ方面へそしてアマグ河に注ぐのであろう。そしてニューギニア中央部のセピツクの大河になるのかと思う。だとするとジヤメにも近く敵陣地に近い。いざと言えばすぐにも役にたたせる為の予備軍であり、休養とは名ばかりの作戦準備だと私は推察した。
 部落を歩いていると小猫が二匹いた。土人が逃げて猫は置き去りにしたに違いない。
二人は猫に近附いたが猫は逃げようともしないので二匹捕らえて土人の網袋にいれた。
ニューギニアに来て猫を見たのは初めてであった。
 其夜は小屋で火を起こし一つは小さいので私は小さいの、彼は大きいのと一匹宛分けて焼く。毛が多いのでなかなか焼きにくい。棒でこすりながら裸にし、皮から腑迄全部食べて始末した。
 翌日は、なに喰わぬ顔で中隊に帰った。こうした事の出来るのは体力の有る兵のみの特点であり、私は特に各部隊との連絡などで地形にも明るかったから何に附けても有利かもしれなかった。
数日後私一人地形偵察の為西方の山嶺伝いに今度の移動地の状況を見ての帰り中隊から一キロ位離れたジヤングルで五貫位の野豚を見附け発砲した。玉は腹部に命中したが、
どうしても豚が見つからず中隊に帰り四人程頼み捜した処死んでいた。
 中隊に持ち帰り早速カツトして員数に分配したが、その時頭は穫った者の物だから土人の習慣通りにすろ、頭は佐藤の物だと全員の意見一致、私は遠慮なく頭は頂いた。勿論一人でそんなに慾をかくつもりもなかったので他の兵にも分けてやった。
その事を聞いた中隊長が憤概して何故頭は中隊長によこさぬか、当然頭は長によこすのが常識だと威張ったとの事、兵隊達もそれを聞いて以後豚は捕るなと私に告げ口する始末となった。私も今の時期は豚でも喰ってゆっくり休養したい兵隊の気持ちはわかるが、
豚捕りは当分中止する事にした。
とは言っても豚肉は旨い何とかして食べられるものなら食べたい、佐藤何とかして行ってくれ盛んに皆は俺に頼む。中隊長も後悔しているらしいのでミコダ少尉らが奔走して隊長の許可をとった。数日が経って豚の居るらしい処を捜し出かけた。しかし相棒も氣の合う者でないと駄目だ何時も松田伍長を連れて行く。
 夜に出かけその夜十分に喰い解体して持ち帰る事にした。そうすれば旨い処を十分に喰える。それからも何度か捕ったが、だんだん要領を覚えて肉だけは十分に喰う事が出来た。頭を取るよりも旨い肉を喰えて中隊長に文句も言われずこんなよいことは無いし兵隊も喜んでいた。
 何日経ったか知れないが又一キロ位西のジヤングルに移動した。この辺は部落も全く無い、したがって食べ物を手に入れる事も困難である。一部の兵は物資集めに他の者は小屋作りにと分担した。ある日私達二名で飯盒六個を組んで水捜しに出た。
 近くに水が無いので遠い谷間に行き谷間の土人道らしい道を歩いたが水は無い。この谷間道はすでに敵の利用している道で、これを二キロ程登と前に猫を喰ったハウスらしい。何処に敵がいるか分からない。しかしお互いに敵で有る敵も日本兵を見て逃げたのであろうか、実はこの谷間で数人の敵を見た。我々は夢中で水どころではなく逃げ帰った。敵襲の報告をした。
 中隊長は直ちに布陣の命令を出した。二時間経ったが敵は来なかった。或いは敵も日本兵に恐れ逃げたのかも知れない。彼等にすれば命知らずの日本兵程恐ろしいものは無いだろうと改めて氣を強くする一幕が下りた。
その夜は小さな小屋を作り当番と三名で寝る。
僅かしか無い芋で夕食を済ませたが、今日の敵襲騒動もあってか私は疲れて暫く振りに高い熱に見舞われた。四十度の上であろうマラリヤ熱である。早く横になったが眠れない。暗くなって二,三時間経た頃であろう、中隊長は起きて小屋の隅で小便をした。
発熱の為眠れぬ私は言った。こんな小さな小屋で小便をするなんて常識知らずも程がある一足出れば良いではないか、そこで一時間程口論したがやはり戦地の事である、
死ぬ時は一諸なんだ仲良くやろう、佐藤は何時も俺の為に食糧の調達をし、
何につけても氣を使ってくれるだから発熱するのだ、あまり氣を使うなよ。彼は私より四才歳下であった、やはり中隊長だけの事はあると感ずると共に生と死の境をさまよう現在の如何に無い人生である。口論の後私に今より伍長に任命すると言い渡された。
 兵長になる時も斉籐中尉の反対を押し切り私を兵長にし、そして一年位で伍長任命、
それも私自身誠心誠意軍務にも従い、結果的に私のなして来た事が軍にも兵にもそして中隊長にも、なくてはならない存在であったのだと思う。
少佐の片腕となり、あらゆる苦難も乗り越え相談役ともなり又兵の為には自分一人で不寝番も引受、疲れた兵を休ませる等の事も、兵も勿論隊長自身も知らぬはずがなかったのであろう事は、少佐の隊長と一対一で口論をする兵長だった。
俺との間係は、兵同志ではなく一致した心と心のつながりであると少佐も感じざるを得なかったであろう。こうしてこの時のいきさつを知る者は誰もいない。 熱が有っても休むわけにもゆかず、又明日は明日の食糧を求めてさまよい歩き、
当番より少佐の世話もせねばならず、戦場の今日又明日が続くのがあろうとも、生きてさえ居れば何れは故国の土を踏める日が訪れるであろう。
 その日の来るのを幻の様に反信反疑でありながらも雲を掴むような希望を支えに頑張れるだけ頑張って行かねばならない。其の境地はあの戦地であの境に立った者の他、知るよしもなかろう。俺は我が侭かも知れないと思いながらも、人の心に溶けこんでゆく真心こそ知る人や知ると俺の心に云い聞かせる。
 
 
         アリス陣地 八月近き頃 玉砕命令下る
 
 春もなく、夏もなく又秋も冬もない、一年中同じ氣象状態ながらも、草は萌え又枯れ、大樹も何時か枯れて行く。雨も降れば晴の日もある太陽は東からでて西に居る。
朝が来て夜が来る環境の変化はなくとも月日は過ぎて行く。
カボックの葉は落ちて秋かと思うと真赤な花が咲く内地の春か。
時計も無く歴も無い。今日は何月何日かも知れず内地との交信も途絶え現在の戦況がどうなのか何時日本は勝利を決するのか。
 だがここニューギニアに於ては正に敗戦とい言うより言い様のない現状であろう。
今迄に戦闘に於て戦死し病死した者其数知れず各地に於ける戦闘に或はアンマングマ敵陣地に単身爆弾を背負いて潜入、爆破を慣行し又マブリック飛行場への潜入爆破を初め各敵陣地に敵宿舎にも盛んに行なわれた。其度ごとに多くの戦友は命令下その命を敵陣に花とちらしめる。その数我が中隊においても少なからず、極秘下に命令され重箱一つのダイナマイトを背負い敵陣中に突入成功すれば二階級進級とは私も何人か送り出したが帰らない。これも天皇の命令と喜んで死んで行ったのだろか。私と別れるあの人の顔は生涯忘れ得ぬ悲想な顔としか表現できない。 
 敵は数カ所に飛行基地があり物資の盛んな送り込みをする。喰う物も余って捨てる牛肉等骨付きのまま飛行機から落し余ればガソリンをかけ焼き捨てる。
それに比べ我々は戦わねばならないが、弾丸は無い、喰う物も無く被服はぼろぼろ裸足裸である。玉は湿けて破裂しない。
食べ物も無ければ野の草を喰い蛇蝉も喰う。それで空腹が満たせるはずもない。
朝早く起きて蛸壷を巡る、落ちている蛙、とかげを捕る為だ。戦より先に喰うことである。
 土人の畑に芋堀に行く、何処の世界に誰が黙って掘らせる。
復讐は覚悟の上である。関上等兵の様に自分の銃で射殺されても文句は言えまいし、
豚狩りに行くのも潜入爆破に行くのも敵は待伏せしているかも知れない。
 一人の日本兵が死ねば一丁の銃が余る、そしてそれを担ぐ土人は敵に成る。
八月になると中隊も今度は又敵と向い会う。高地に移動した山頂の部落はすっかり変装して陣地となり、敵の行動も手に取る様に見える。我が中隊は反対の斜面に小屋を立て敵に向かう。昼は山嶺にて敵に対処し夜は宿舎に帰る。敵は時々迫撃砲で攻撃して来る。
我が軍は弾薬が無いので砲撃は出来無い、小銃弾や薬品も遠くウエワーク迄行けば有るかも知れぬが、敵の中を十日もかけて命がけで背負って来る程、それも運ぶ人手が無い。
 四周敵に囲まれ、もうどうにも動きが取れなくなった八月十日頃であったろう、軍司令部より我が軍にも玉碎命令が出された。軍事書類は全部焼却すべしと、身一つ銃一丁弾僅かにて我が中隊も最後の戦闘体勢に入る。敵陣に面した斜面に蛸壷を堀り最後の突入命令を待つ。
 八月十二日林上等兵がどうせ死ぬんだ、せめて豚肉を腹一杯とは云わなくとも十分に喰いたい、その上で死ぬんなら後悔は無いけれど、その気持ちは皆同じで有ろう玉碎命令も出ているのだ。
 私は近くの土人部落に仔連れの親豚の居るのをつきとめ松田伍長を連れて、夕刻そのハウスに向かう。このあたりは既に敵の支配下にあり危険な場所であった。周りを警戒しつつ暗夜密かに豚の来る音を聞く。数時間待って親豚が現われた。
 私は感で豚の方向に銃口を向け発砲した。弾は見事に親豚の頭部に命中大きい豚であった、早速土人ハウスに引き込み炎ゆる火の光の下でカットにかかる。私が切ると松田が焼いて私の口にいれてくれる。喰えるだけ喰い朝二人で分けて背負い中隊に帰る。旨いのは腑である。バナナの葉にくるみ木の枝に吊して置き翌日に食べた。大きいので肉もあり兵隊も大喜こびで各兵に分配した。私の分は他の兵にやった。
私のは木の枝に吊してあるからだ。
 十三日昼頃になると敵は迫撃砲をしきりに打ち込む。朝炊いた煙が棚引いて見えるからだ。我が軍の居場所を知らせる様な物だ。谷間から段々我々の小屋に近くなって来るので皆壕の中に逃げこんだ。
 千葉生まれの林上等兵はマラリヤで熱が出て寝ていた。早く壕に入れと勧めたが彼は入らない。そのうちに小屋近くに落下した弾の破片が彼の頭に当り彼は即死した。アリスの山の中であった。
 豚肉をたらふく喰えば何時死んでもと言っても、あまりにも計画的なのか、はかない死であった。壕に入れば死なずに済んだものを。これがやはり敗戦兵士の定めなのか寂しくもあり悔やまれてならない。近くに埋葬した。
 十四日は朝からいやに靜だった。昼頃飛行機から宣伝ビラが撒かれた「日本は負けるのだ。一日も早く降伏して来なさい。手厚く扱うから」と言う連合軍名の、ビラはもう何度もだから、こんな物と馬鹿にして見もしない。
 芋が無いので午後になり芋探しに松田伍長と出た。平地の畑であり、たろ芋を採ってシヤングルを抜けて帰る。火喰鳥の巣を見つけたが卵は無かった。玉碎の日も近いらしいが、もう成る様に成れだ。八月十五日今日は前の高地の敵陣に対し総攻撃を加え突入玉碎するのだと決意、一文しか無い迫撃砲を山の上へ荷揚げ敵陣地に向け装備する。
 いよいよ計画の時間に成り歩兵部隊は敵陣地に近い谷間に待機、我々は迫撃砲を発射した。何たることか砲弾は味方の所に落下、敵陣地迄届かない。火薬がしけた為であり、
この作戦も失敗に終わった。しかし日本軍が撃てばその報復は何百発あるはずなのに全く無い不思議であった。  
 夕刻伝令の帰りに近籐さんが百枚ものビラを持って来た、それには何時ものビラの裏に平和来る、日本降伏せり戦闘停止すべし連合軍司令長官」と印刷されて有った中隊長は
これを見て、こんな事が有ってたまるか、敵のゲリラ戦に乗ってはならないぞと噴慨する。だが今日の無攻勢からしても何か不陰な空氣で満ちている。
 その夜も靜かに明けて十六日も何の音も無い。毎日来た飛行機も姿を見せない。
一週間位して本部からの伝達は、襲撃あれば応戦戦闘行為は休止すべしとの事であった。
 他の部隊の兵隊が敵陣地でライスカレーを食べた、とかの噂を聞く様になり日本降伏もデマでないと思っていても口に出せない。日本軍の割り切れない苛立ちがあり、しかし毎日が靜過ぎて魂の抜けた人形に等しい何日かが続く。
 
         敗戦
 
 内地からの連絡も途絶えて、ただ敵兵が飛行機から投ずる日本降伏の宣伝票の文字が敗戦を証明するのみで、それも信ずべきか否か、日本は負けるのだとは思ってもそれが事実となる事は誰しも信じたくはない。
 しかし八月二十九日天皇の降伏宣言の証書が中隊長から知らされた。
我々は敗戦は覚悟の上であり別に驚きはしなかったが、中隊長以下の心の動揺は隠し切れる物ではない。然し十五日の玉碎は免れた以上生きる義務が有る。
それからは生きて行く為にサクサクの採集それも土人達に反感を持たせず、何とか食べてゆかねばならない。
毎日凝れと言う仕事は無いけれど、これからどうして生きて行くか、どうなるのか不安と希望が入り乱れて復雑な毎日が続く。
もう命掛けで野豚捕りに行く気にもなれず、川に近き小屋で寝たり起きたりで時を過ごす。近籐さんは毎日一回大隊本部へ連絡に行く。
そしてどんな命令が出るのかそれが感心事である。兵達はただ喰う事のみで他に慾もない、毎日食を求めて苦心する。
今は敵に襲撃される恐れもなく平穏無事の中にも自分達の身を護る事だけは忘れてはいられない。
 九月十日各兵は原隊に復帰すべしとの命令が出た、今迄生死を共にしてきた混成の兵達とも別れなければならない。思えば山南作戦開始以来共に寝共に語り共に苦しみ、多くの犠牲者を出し親子兄弟以上であった、苦しみを乗り越えて来た兵達、争いもし慰め合い、生き抜いて来た上村少佐とも、これが最後の別れかと思うと無量の感があった。
我々猛一九三二部隊はエンボカンジヤの土人のハウスに集結する事に成った。
九月十一日朝戦闘部隊、二十師団松本連隊二大隊第三中隊とも別れを惜しんで斉籐中尉の指揮下に入る。
 思えば内地出発以来三年南海派遣猛一九三二部隊として二百七名補充一名集結せしもの十六名柿沼上等兵は歩行困難の病人にて塚原氏と二人で苦しむ。彼をなだめすかしつ八キロ位背負い山越え谷越えエンボカンジヤ迄連れて来た。
 さてそれからは海岸に出る為の食糧サクサク採集に毎日出る。十六人の十日分を目標に働いた。
 十日間が夢の様に過ぎて私達五名は、軽機関銃などの兵器類を敵方に収める為ジヤマの敵方陣地迄一泊二日にて運搬しなければならない。
 ジヤマには既に兵舎も整備され兵員も沢山居た。そしてのんきに鉄砲を台にして寝て居る、それで勝利者だ。私が爆撃で銃を燃やした時、菊の紋章を何と思っているかと、どやされた。それまで紋章をあがめても敗者は敗者なんだと情けなく感じた。
 敵方に兵器を渡して帰路、敵方の元居た陣地跡の塵捨て場を漁り塩とかメリケン粉
オートミール乾燥りんご、食べらる物なら何でも拾い喜びて喰う。
 土人小屋にて泊りメリケン粉にて、うどんの様な物を作ったり、それぞれにして久し振りに珍味に舌鼓を打つ。乾燥リンゴは旨いけれど食べ過ぎて下痢した者もあった。オートミールは沢山有ったので山から出る時のさくさくの代わりに食べた。サクサク採りもおかげで少なくて済んだ。
 出発すぐ前頃に二人の豪兵が来て拳銃軍刀が欲しいとの事なのでライスと取り替える事にした。その日に拳銃と軍刀を持って敵陣迄行きライス、コンビーフと交喚する、これで海岸迄出る喰い糧は相当出来たが全部に行き渡る訳には行かない。
 エンボカンジヤのハウスは土人に火を附けられ逃げるのがやっとで荷造りもそこそこに逃げ出した。今迄はジャパンソルジャーだったのが、今は既にただのボーイと成ってしまった。土人の我らに対する態度も一変し、早くここを出て行けと言わんばかり、その為火を付けられたのだった。
 
         行動開始
 
 柿沼兵長は出発を前にして死亡、残る十五名は九月二十八日エンボカンジヤに別れを告げてウエワーク付近に向けて歩を進める。疲れきった兵ばかり、ことに病む人も何人か居たので一日の行程僅かに四キロ位であった。
 エンボカンジヤを出発して標高千二百米のフル山を越えるのは大変な苦痛であった。寒い冷たいサルオガセがぎっしり長いカーテンのように下がり暗い其中をくぐり抜ける、
ここで止まるわけにはゆかない。フル山を越えワンビヨウワリアンボエキンそして海岸まで十里余りであるが十日余りかかりようやく十月十日やっと海岸に出る事が出来た。
途中食糧は持っている。サクサク、敵の塵捨て場から拾ったオートミール等で喰いつなぎ何百米か行っては休み、なかなか進まなかった。服はすっかり切れ足は土人の足の様に硬くなり、裸足でも困らなかったが海岸の砂の上はやはり熱い。暫く振りに出た海岸はすっかり敵に占領され、見る影もない砂浜に一斗缶が置いてある。彼らのトイレだ。海岸で武装解除され飯盒水筒の外何も持てなかった。
 
 
         死亡者  主に戦死
 
予備少佐中隊長 斉籐 毅横須賀      予備兵長  新宮 勝太郎 ナラオム
現役伍長  金子 清孝 ボエキン     予備准尉  根岸    ナゴロンビ
予備軍曹  堀水   ナゲペン     現役准尉  国井 千尋  ジヤメ
現役准尉  久保 野重一マルンバ     予備准尉  秋田 米吉  ブキワラ
予備伍長  斉籐 刻夷 サウリツク    現役曹長  西川 克巳  カラフ
補充一等兵 安田 金緑 ブウツ      補充上等兵 内田 千春  ワインガム
国民兵長  中代 竹次 ナラムフ     補充兵長  米山 寅夫  カラフ
補充兵長  大井 春雄 ボエキン     予備伍長  内村 正雄  ナンバンガ
予備伍長  北島   ワンパク 頭部貫通 予備軍曹  中神知 久平 ヤミグモ
現役兵長  鈴木   ヨンヂヤンゲ   予備伍長  笈川    ラツトヘム
予備伍長  浜野 民蔵 ワイガカム    予備軍曹  伊良原 重次郎ジヤメ
予備曹長  山田 幸次郎コモネビス    予備曹長  戸部 貞明  ジヤマ
予備伍長  佐伯 籐治 コモネビス    予備兵長 島野 策造  ブウツ
補充兵長  関貞   ボエキン     国民兵長 若山 作造  ヌンビフ
現役兵長  斉籐 一夫 マブリツク    予備伍長 石井 元治  ヤミグモ
予備軍曹  平塚 福雄 ジヤメ      予備伍長 森田 平八郎 アンバングマ
予備伍長  鈴木   アンバングマ   予備曹長 市川 長治  クインバ病死
予備兵長  矢頭 保治 スマタヘン    補充兵長 折原 善次郎 マブリツク
予備兵長  吉沢 豊吉 カイアン     予備伍長 植石 広三  スマタイン
予備伍長  吉田 義雄 チランカンピア  国民兵長 兵籐 四郎 クインバ自活地
予備伍長  新井 信三 コモネビス    補充兵長 千葉 成二ナカロンビ自活地
国民一等兵 高木 栄治 ブウツ 十八年   予備兵長 北見 虎雄 マルンバ
予備伍長  山口 泰明 クインバ 十九年  補充兵長 保坂 幸馬 ジヤメ
国民上等兵 小沢 幸次 クインボ     予備伍長 飯田   アンバングマ
予備伍長  義雄  アリス      国民兵長 福田 庄司 マブリツク
補銃伍長  川原田 清二ミラク      補充伍長 小幡 豊雄 クインバ
国民兵長  若林 幸雄 ジヤマ      補充伍長 池田 竹司 ブウツ
国民上等兵 関本 義雄 ブウツ      予備軍曹 原野 義雄 ヤミイル
 
 
 
 
         ムッシ島の捕虜生活
 
 ウエワークの海岸から眺めたムッシ島は、海上に浮かんだ平らなオワシスと思われる小さな島で、一度行きたいと思う憧れの島であった。
全島珊瑚の島だから魚貝類等も豊富で土人らはカヌウンで貝捕りに来るのだとの事であった。我々は今まで深いジャングルにばかり住んでいたせいか、陽の強い海岸は暑い。
武器を納めて彼らの用意した上陸用舟艇似て十分位にて島に着く。島は無人だったのであろうが、敗戦後二か月の内にすっかり船着き場も出来港らしく成っていた。海岸に居た者は早く収容されたが、我々は遠かったので最終の捕虜であった。
 海岸から椰子林に成っている。ドイツ領であった頃油を生産したらしく五十年位の大木であるが、その後放置され椰子の実は熟れては落ち溜り芽が伸びていた。
海岸から百米程行くと病院が有り丸太小屋に丸太の床の小屋に痩せ衰えた兵達がぎっしりと頭を列べて寝て居た。その先百米位に広い墓地が有った。そこには既に丸太の墓標が何千本か建てて有った。
墓地から右に海近く歩いたところに我等の小屋を建てた。椰子林の無い処は雑木林だが小屋でも建てるのによい位の木ばかりであった。
熱帯故に屋根さえあり雨が凌げれば周りは必要無い。しかし病院は日に日に出る病人を収容する為に増築に増築を続けても間に合わぬ程でありながら毎朝死人をトラックに午旁積みにして墓地に運ぶ。元気な者達は毎日墓地を広げたり墓穴堀をしたり墓標作りをしたり、珊瑚の硬いところに鶴はしで掘る。だかららちがあかない。
食べ物も一日一食だけは豪軍から配給されたが、足りない分は椰子りんごとかシダ類の新芽などで賄う。
朝早く野草採りに行き日中は使役に出るので余り楽な生活では無い。豪軍からの配給は週一回で港迄受領に行く。
フラワーミール、アニマルヘッド、塩鰯缶詰、オペレーションであった椰子も沢山なっているが木に登る力が無いから採る事は出来ない。
ある日、飯盒に一杯の道辺の草を摘み蒸して食べようとしたが苦くて食べられなかった。
ドイツの捕虜はソ連で七年の重労働との事我々も豪洲に連れて行かれる物と覚悟し
ていた。しかし生きてさえ居れば何時かは國に帰る事も出来るであろう、そんなはかない夢は持っていても、その日その日を生きて行く事のみに追われていた。
そしてこの島に長い期間置かれるであろうから陸稲でも作り又さつまいももと種苗も手に入れたが籾は玄米にして食べてしまい、芋苗も植えたが芽を摘まれ葉も喰われ成功しなかった。海には魚は多いけれど捕る網すらない。そんな状態なるが故に大腸かたるに依る病人続出し、毎朝の死者も増加してくる。
豪洲に連れて行かれても食べものは食べられるであろう。そんな中にあって戦争犯罪人の調べも有り、インドネシヤの捕虜大量殺害事件も我々には関係無い事と成り、
混乱のなかに十二月も終えて一月と成った。
 我々は幸にも戦犯の嫌疑も晴れてこの地を離れる事に成った、しかし何処に行くのかそれは知らされなかった。
 一月十日乗船と決まった。何処に連れて行かれるか知れないけれど、とにかく船に乗れる事に成った事に皆満足していた。
 一月十日港に出る様にとの命令であったけれど、何処に連れられて行くのか不安でも有った。港に出たなら氷川丸が入港していた。船員が日本人でないらしい。
尋ねたら日本人で有り日本に行くのだとの事であった。我々は痩せて黒い船員とは余り見た目が違うので、外人と思う程だった。
 他の兵から順に乗り我々の五十人前位で乗れないとの事にて、我々は再び幕舎に戻らざるおえなかった。
 こうして又この島で生活して行かねばならぬかと思うと無性に寂しい。
菅田の本多次郎さんが船に乗る時俺は船に乗るのだからと私にパン二切れ渡して船に乗って行った。
ニューギニアの兵達は食べる物が無い事は日本でもわかっていた。一月二日今日は乗船するのだとの命令だった。海岸に出た。もうニューギニアの残兵は少ない。船も巡洋艦酒匂丸であった。座る処にはどこにでも乗り込み座った侭で動きがとれない。
砲座に座った侭の十日間一月二十三日大竹港に入り夢の故国に帰れる事が出来た。
 船を降り埠頭に足が着いた時、初めて故国に帰る事が出来たんだと、おぼろげながら脳裏をかすめる何かが有った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
         後書
 
 船が大竹港に着く直前に仲上等兵は病氣の為亡くなってしまった。彼は静かな良い人であった。せめて生きたままで一歩なりとも夢の内地の土を踏ませたかった。
 斉籐中隊長も上陸間もなく死亡し、尚前戦ばかりの共に戦い抜いた上村少佐も帰還間もなく他界した。こうした不幸な戦友を思い帰らぬ方達のご家族に対し感無量の思いである。
 あの事もあの方の事もと書き残したい事は次々と頭の中に満ち々て来るが二百八名の名簿すら手に入らず、戦地で書き残した書類すら玉碎命令と共に焼き捨て帰還后思い出す侭に書き連らね生き残った方も少なく、其方々との連絡も着かず思う事の何分しか書く事の出来なかった事が誠に残念でならない。
 東部ニューギニアには新聞記の同行記事も有るが、我々の行動した方面の事は地図すら無い地だけに、何の記事も無く自身の行動だけを元にした戦記でしかない。
 遺家族、亡き戦友に対し申し訳無い。せめて私達がこの様な苦難に遭遇した事が後の世の人の参考になれば幸甚である。
 ペンを置くに際し、今は亡き生死を共にした方々に心からなる、ご冥福をお祈りすると共に、御霊のやすからん事をお祈り致すばかりである。
                              昭和二十一年春病中記
         南海派遣猛一九三二部隊   佐藤耕太郎
 
 
         帰還者氏名  十三名
 
         大滝 正吉
         小島 整一
         宮沢 宗平
         千葉  
         近籐 利夫
         田辺 一恵
         岩船 喜一郎
         深山
         塚原
         村田 久政
         堀口
         和田 勝男
         佐藤 耕太郎
 
       内地還送者
 
 柳沢  村田  金子一  つぐみ  小泉  津田  山本  以上生死は不明ナリ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大戦時の西部ニューギニヤに於ける 軍の食料事情
 
 
 
 
 
 
 
ウエワーク当時
 
 ダカルカナル玉砕の頃から内地よりの輸送が次第に減少し潜水艦に依るゴム袋入れの内地米が僅かにラバールから送られて来る程度で有った。
 ウエワークに着いて受領した食料もビルマから送られて来たカビ臭い長粒種のみで有った。
 副食には朝から晩まで切り干し大根ばかりで、切り干し大根の煮物、粉味噌の汁の外に何も無い、土人も居ないから店も無ければ畑も無い、毎日外米と切り干し大根だけの食事ではうんざりしてしまう、それでも病人の為に梅干しが僅かに配給されていた。
 これからポートモレスピー攻略の使命をを控えて居るのであるから、我が儘など言える時期では無かった、たまに 僅かな煙草や甘味品も月に二回位支給された、又稀には小松菜の乾燥とかカボチャの乾燥等も一度位食べた程度で有った。
 砂糖は暖地に近いのでたまには配給に成り、煙草もジャワ タバコ カンパニーと記されて有った。
 ウエワークの松の岬の陣地に就いている頃の事で有った、旧ドイツの時の事ここの椰子林で放し飼いされていた乳牛一頭捕獲したとの事にて柏木部隊より脚一本戴いた。
 ニューギニヤに着て初めて有り付いた生肉の味はどうであったか、硬い事だけは覚えている。
 ウエワークは東に松の岬、西に海軍山に囲まれた大きな入り江で、
波静かな広い砂浜が連なっていた、海辺は限りなく広い椰子の大木の林が連なっていた、いつの日かドイツの占領下にあつた頃、椰子油を採収した工場の跡が残っていたが
既に荒れ地となっていた。
 赤道の下だから年中暑い、内地から送られてきた塩鱒の箱の蓋を開けてみたら
魚の形は無く砕けていた。
 上陸当時は中隊で持って行った糧秣が有り何とか空腹だけは満たすには事足りた
がしかし生野菜は皆無であった。
椰子の木は沢山有っても、高いので採る事は出来ないし僅か有ったパパイヤは未熟の物までも先に来た部隊が採り尽くし木だけが残っていた。
 地図の上でみたウエワークは市街地になっているが全くのでたらめだった、
海岸に土人の小屋が四ツか五ツあつた程度で土人の姿も見当らない、
無人島としかおもはれない。
 この辺りには、食べられる野草も見当たらず、果て知れぬ海と不毛の山野の中に小屋
を立てて住んで居た、炊事場の処に小川があり、その川から三百米ばかりで海になる
この辺りには、鰐も住んでいた、しかし捕獲することは出来なかった、
又岬から僅か離れた海面には、たまたま人魚が頭をだして戯れているのが見える。
松の岬の右方面の広い椰子林の中に柏木部隊の残留兵が僅かにいたがマラリヤ患者
ばかりであった、柏木部隊の僅か先に堀立て小屋の陸軍病院がある、
病院とは名ばかりで僅かの軍医に衛生兵がいるだけで看護婦は一人もいない、
傷兵の治療も薬すらなく自然まかせであった。
西部ニューギニヤには日本婦人は一人も見られなかったのは全く以外だった、
私も一時外科の手術の手伝いもしざるをえなかった。
 
 
ブーツに移動してから
 
 一八年八月ウエワークにあつた東、中、西、三飛行場と百機以上の戦闘機が僅かの間に
全滅されてしまったので、吾が隊は四十キロ離れたウェワークの西ブーツ地区の
警備に任ぜられた。
 ブーツには東と西に飛行場があり百機程の零戦がポートモレスビー攻略の為に
待機し、高射砲の多田部隊も配備され敵機の飛来に備えて居たが、これらも敵機の
大編隊に瞬く間に全滅し九月から十二月までには飛行場から弾薬庫糧秣集積場
高射砲陣地に至るまで全減し、ブーツ海岸も焼け野が原と化してしまった。
 我が隊がブーツに移動した頃は海で魚も一〜二回捕り、食べ物もまだ十分有ったが
間も無く敵機の猛攻に依り、海岸には住めなくなってしまい高蔚砲部隊は多田隊長の戦死
のうきめに逢い、砲はアイタベヘ進駐のやむなきに至り、残された吾が部隊はステム近くのジャングルの中に移動せざるを得なくなった。
 ジャングルと言っても海から四キロ位は行った所の平地で高さも数丈の大木の下だから冷しいし、敵機からも見つからないし、住み心地は最高であるが食べ物が無いので苦労を
した。スナムには我らの部隊の二百人程しか入っていなかったのでジヤングルを歩き回れば野草はなんとか採取出来た、里芋の原種であろうか、よく似た野草が有った、
葉も茎も里芋を小型化した物で有るが根に芋が着かない、山から抜いて来て根から葉の先
まで全ぶ刻み込んで煮る、又我吾がジャングルフキと言ふ日本の蕗に良く似た草が有った、茎を皮も剥かないで刻み、汁に入れた、その他には食べられる草も見つからなかった。
 
 

サクサクについて
 サゴ椰子はニューギニヤの低湿地に群生し、根で繁殖し生えてから四十年位で成熟するのだと聞く、又若い木の葉は屋根の葺草にしたり家の囲いに便ったり敷き物として
その上に寝たり色々に使われる。
 木と言うよりも草かもしれないが成熟すると一人では抱きつけない太さで丈も六〜七米か、それ位上になろう、成熟すれば薄い皮を剥げば中は澱粉であるが成熟しないと澱粉にならない、土人達は一本伐ると一家族で半年は十分食べられるとの事である。
 彼等は、このサゴ椰子から採収した澱粉をサクサクと言って高地に住む土人を除く湿地平地に住む土人達の常食になっている。
 彼等のサクサクの食べ方は、さまざまで、地域に依り調理の仕方もまちまちである
その食べ方の幾つかを記す事にする。
 海に近い土地の土人は土器に湯を沸かし海の水で味を付け水に溶いたサクサクのスープを作り椰子のコプラを削って塗して食べるサクサクスープである
ゼンマイの葉でも入れると味は良いが、サクサクのかび臭いのが鼻に着く。
海岸は椰子が多いから栄養は採れる。
 サクサクは澱粉だから腐敗する事が無いけれど不純物が傷んで臭う。
 湿ったサクサクを熱い土器にて焼く、粉っぽいが生ではないと土人に教えられ食べた。
サクサクは蛋白質が無いからサクサクを搾った糟に沸くサクサクカーニヤと云う虫は貴重
な蛋白原だった、又この糟に出る茸、この糟を食べに来る野豚、へび、とかげ、蛙、
しかしこれらを捕る事は至難の業であった。
 川には十センチ位の雑魚が僅かに居る、これも捕らえて食べる程の数が居るわけでは無い、これらはワラプレスの土人の生活の一端を書いたに過ぎない。
 ワラプレスは湿地の為、実に蚊が多く所かまわず真っ黒になって食いつく、
日本から持って来た防蚊網手筒などの外鉄帽も防毒マスクも荷物に成るのでみんな捨ててしまった。
 
スナム河近くにての明け暮れ

 スナム河近くに移動してから、初めのうちはいくらか食べ物も有ったのでサクサク澱粉に野草を混ぜて食べて居た、この頃中間基地だったラバールから届いたのが大根と
茄子胡瓜の種が来たので蒔く、河の近くで土が肥えて居たのか、たちまち大きくなり大根も食べられ、茄子も胡瓜も良く実った、しかし一時期だけでたちまち木が終わりになってしまった、唐辛子だけは木が倒れると根から新芽が出て又伸びた。
 生姜も二年でも三年でも枯れる事が無いから一株掘ると沢山有るらしいが
なかなかありつかない、サツマイモも年中伸びるから大きく成るが芽を摘み葉を採り
食べてしまうから芋になどならない、どんなに大事にしておいても他の部隊に採られるのだから致しかたがない。
 薩摩芋や西瓜、南瓜などドイツの宣教師が種を持ち込んだらしいが土人は作らなくても食べてゆけるから増やす意慾などない、しかし何万の日本兵に食べさせる余裕など
あるはずがない、やむなく僅か居た土人達は戦場から逃れて奥地に移住して
しまった。
 ここは土は肥えていて氣候はよいが行く先先に食べ物は待っていては くれなかった
これこそ軍の誤算で有ったかも知れない。
 
アイタベ作戦
 敵軍はフインシュ、マダンに上陸し次はウエワーク、ブーツに上陸する様子がみられるし、ブーツにも毎夜、艦砲射撃が続き、我々の幕舎も、その目標に成り毎日攻撃を受ける様に成った、いよいよ今夜は上陸する公算大なりと、迎撃の準備した、その夜我々の処を越えて、アイタベに上陸してしまった。
 そう成ると我々は退路を断たれ、挟み内に成ってしまう、そこでアイタベに上陸した敵軍を撃滅すべく、猛号作戦の大決戦となった。
 ブーツからアイタベの間は距離も有り、河も五つ位ある、歩兵部隊は徒歩にてアイタベ
へ向かう 食料弾薬を持てるだけ背負っての渡河行軍で有る、車を通す予定で湿地帯に作った道も橋も一夜にして跡形もなく爆撃され敵の哨戒艇は絶え間なく砲撃を続け渡河中の兵士は海に流される。
我が部隊はブーツから坂東河の間の弾薬糧秣の担送隊によって兵の背に依ってて前線に送る、我々の中隊はブーツから阪東河への間を受持ち米弾薬の担送であるがそれも昼間は
危険なので夜間敵にみつからない時での行動に限られる。、
 昼間はジャングルの中で寝て夜に成ると出動米なら二斗弾薬も十貫位、疲れきった身体それに前線に送る食べ物も少ないのだから我らの食べるものなど有るはずが無い
米の担送の時はかますから取り出して喰う、塩もなければ調味料も無いけれど夢中で飯にかぷりつく、しかし弾薬の担送の時程苦しい事は無い
 渡河の時には荷物を頭上に首迄水の中である、敵の照明弾で真昼の明るさでは生き地極とはこの事である。
 喰える物なら、まだましだが砲弾では重いだけで喰うことすらできなかった、
毎夜のことで辛い眠い、歩き乍ら眠るのも常の事であった。
 こうして筆舌に尽くし難い苦痛の連続だった、猛作戦も強烈にして多勢な敵軍の前え
に出されてはひとたまりもない。
最前線の歩兵部隊は瞬く間に壊滅してしまった。
 アイタペが敵の手中になれば我々の退路は無くなり夢にみたセレベスアンボイナを
経ての故国凱旋も望むべくもない。
 アイタベ作戦で保有していた食料も弾薬も皆無となった、この先どうして生き残るか
阪東河を血に染めての戦いで兵力半減、吾が隊も二百八名が再びステムに集結してみれば百名足らずとなっていたそれも負傷者と病人で健康な兵は僅かに成ってしまった、
その僅かの健康者がジャングルに入り草を集めたりサクサクを集め、
病兵を養ってゆかなければならない。
 間もなく軍からの命令が有って、この先き戦争の経続は不可能であり又この儘では
玉砕より採る道も無い、せめて逃れられるだけ逃れ、生き延びるより他に道は無い。
動ける者は二ューギニヤ中部迄入りセビック河を渡り、敵の入らない土地にて
芋を作り自活生活を続けて日本の戦、そいつの好い転開を待つべく計画を変更した、
それからは健康な兵隊は毎日サクサクの採集をして奥地の自活地行きの糧秣の確保にと
懸命に努力した、しかし病人が多く、いくら働いてもサクサクの蓄積など出来る所か
病人が増えるばかりであった。
スナムでの生活のうちも、猛号作戦の敗退と疲労の為死者続出、毎日近くのパンの樹の本に埋葬した。
ゼルェン岬の大爆撃で負傷した東京の神田上等兵九月死亡、宮崎、日野、鈴木の各兵も
特に親しくしていたが、ここに埋めた、栄養もない僅かの草の配付だけで病人が元気に
なれるはずがなかろう。
 結婚して一か月での出征であった埼玉の宮崎君の最後の言葉は天皇陛下万歳ではない。
 アヤコ、妻の名をよんで死んで逝く、母を呼び妻を呼び息絶えて逝くのが真実の叫びで
あろう。
スナムでの生活も約一か月位この儘此の地に居る訳にも行かない、敵も近いし喰う物も
無い、隊長の考えもあり又兵の意見もあり、病人だけはスナムに残し、行軍可能の兵のみ一班二十名とし四班に別れてセピツクの大河に向かって、あてもない行軍が始まった、
スナムに残った兵達は、ここで死を待つより外ないであろう、
その后の消足は知る由も無かった。
 私は指揮班であるが故に、第一班として少量のサクサクと特配の一人当て二合の米だけで塩は皆無だけれど、これだけ持ってあてどないニューギニヤの奥地であてどない
生きる望みを賭けて行軍を始めた。
 スナムに居ても麦二合に野草を入れて雑炊にして海水で味を付け四十人で食べるとか
サクサクのだんごを草の汁の中に入れすする、それも上等な常食の部類に成っていた
一人二人なら、なんとか成るが部隊ともなればジャングルの草も瞬く間に尽きて見つける事すら大変である。
 ある時海岸で大きな海亀を捕らえたとの事なので、駆けつけた、すでに他の部隊が解体して甲良しか無かった、少しの肉と、油をとりサクサクだんごの汁に入れた、実に旨い
久振り油の味であった。
 ある時はジャングルの奥地に行き、黙れて落ち、種だけになり芽が二寸程伸びた物を
二升位拾い、サクサクスープの中に入れた、こんな事は体験してみただけのことであり
余程運が良くなければ出あわない珍事とも言える事である。
金田上等兵は体格の良い兵だった、九月の或る日、二人でスナム河を越えてウループ部落
迄、食べ物を見つけに出かけた、午前中は良く晴れてたが午後に成ると南方特有の大スコールに見舞われたのでスナムは真っ赤な大洪水で河を越す訳に行かなかった。
兵隊なんて消耗品で有る、金田がスナムの大洪水で帰れなくっても、流されてしまっても心から心配してくれる者は有っても、実践するだけの氣カも無ければ余裕さえも無い。
 あたりは暗くなった、スコールもすっかり晴てまばゆい星空だった。
 間もなく金田は南瓜を弍個背負って帰ってきた。
 兵達は喜んで彼の勇氣を称えた、やはり無事の姿を見れば涙が出る程嬉しい、
ひもじい兵の為に命を掛けて、南瓜二個でも集めて来てくれる兵の有ればこそ我らも生きていられるのだと頭が下がる。
 もうこの頃は食べられるものも極めて少なく僅かなサクサクにジャングルの野草で飢えに耐えて居る兵達が、栄養失調で倒れ死んで逝くのは当り前の事、毒の木の実を食べ中毒死する者も少なくない。
 実は私も梅の実に似た黄色の実を食べ気持ちが悪くなり水をどんどん呑んで胃の洗浄をして中毒を免れたけれど中毒で苦しんで、いても皆んなこんなわけにはゆかない、中毒死された兵については国に大なる責務有る事を責めねばならない。
 
 
 
山の奥深くへ
もうこの頃は、既に靴は誰も履いてはいない、ステムで勢揃いした先遣隊中隊長以下
十九名はステムの河を辿りつ山を登り谷を降りセビツクに向かった。
 私は割合に足も強く丈夫だったので、いつも先頭を行く、標高二百か三百米の小川の水
は足が凍る程冷たい、川の中に小指位の川海老が居た、捕まえて口に放り込んだ、甘くて
旨いもういない一尾だけだった。
 第一日目はその山の頂上の土人のハウスで寝ることにした、勿論土人はすでに何処か
に逃れて誰もいない、
何か食べられる物は無いか、血眼になって探す、皆探すのだから、残って居るはずが無い、僅か日本のシュンギクに似たのに花が咲い居た、
花や硬い下葉を摘んでサクサクスープに入れて食べて寝る。
土人部落に樫の木に良く似た木が有る、この葉は硬いけどスープに入れると柔らかくなり彼らは植えて置くらしい、樫の木にはドングリがなっている、この実も彼らの食べ物で有るが疎にしか植えて居ない。
ニューギニヤの山岳部は日本に於ける原始時代に近いかも知れないが多量のサクサクが有り、パンの実が有り、また椰子の木は一本有れば一日一個食べられ、しかも一個八百キロカロリーある、土人だけであれば食べ物は十分有るけれど、多量の日本兵の食糧は彼らにその用意が有るはずがない。
 大部隊の通過した跡には食べられる物は何も残っていない。
 南瓜が有るとする。先の部隊が実をとる次の部隊が蔓の芯の軟かい葉を採る、
次の者は虫喰いの泥のついた硬い葉でも蒸してサクサクで堅め焼くと焼き餅になった、
それでも胃袋を満たす事は出来る。
 ジャングルの中に疎に野生のバナナが有るが、日本の未熟のアケビと同じで煮ても
焼いても食べられない、代物だ。
 常夏の國だから、野山はいつも青い、日本の春であればハコベも有りオオバコも
スギナでも食べられよう。
 行軍中でも何か食べられる物は無いか見つけても、無ければ食べられないだけの事だ
諦めるだけの事、誰れも人の事など見てくれる余裕も無い。
 或る日、この草は食べられると聞いて一生懸命摘んで、今夜はこれで夕食の用意が出来たと喜んで、食べようどしたらものすごく苦い、やむなくその夜は食べずに寝た、
そんな事は度々だから、あまり苦にもしないし、そんな者も私一人だけではない、
一日何も食べず足跡に溜った水をすすり夜を明かした事もしばしばだった。
 南方に行けば常夏の國だから、仕事もせずに遊んで食べてゆける等とは、土人だけの
世界の事で有って幾万もの、日本兵が入っては、ひとたまりもない、バナナの未熟の物も焼くか蒸して喰い、パパイヤも青い物を喰い、木も喰い、根も喰い、喰える物は何でも
口に入る、蝉も喰い、蟻も喰い、バッタ、蛇もと言っても、それほど捕れる訳では無い
未開の山を越え、谷を渡り水があれば呑み、夜を明かす、こうして目的のセピックを目指して行軍は何日か続く。
つれづれに その二

衣食足りて礼節を知る、とか未だ食糧の幾らか有る時には、分厚いステーキが食べたい
肉のたっぷり入ったカレーを食べてみたい、又油のキラキラした鰻が食べられたら、等と良く食べる話に花を咲かせた。
 しかし次第に食糧ももなくなり、野草はおろか食べる物が全くなくなると、唯一人として贅沢な食べ物の事等しいて忘れようとして口にする事も無かった。
 ジャングルから採集した野草の汁の中に、押麦二合を入れて四十人分の夕飯を作った
時、麦がもう少し入って居たらと、一抹の望みを云う下士達も居た、確かに押し麦二合を四十人分で、誰が考えても麦飯だと言えるかどうか、
 しかし、そうしなければ僅かしか無い麦はすぐ無く成ってしまう、それでも一日も、
遅く迄残して置きたい一心に、節約してゆかねばならなかった、
何処へ行けば、どうすれば手に入ると考へるのは、今の戦地では夢の夢にしか過ぎない。
 アイタベ作戦の最中は一人では必ず担送をしない様にと、きつく戒められても、
疲労しきった兵隊は落伍して一人になってしまう、
落伍した兵隊には、日本軍の敵が居た、それは食べ物もなくふらふらしている、
死に近い夢遊病者の落伍兵だ、喰わんが為には友軍でも撃ち殺して背負っている食糧を
とって生きんとする、そうした事は常識とか、人道上とかの理由はつけられない
自ら生きる為には手段も道徳も考へる意識すら無くなってしまうのだ。
 生きる為には人間の肉すら食べた者すら相当あったと聴くし、俺が死んだら俺の肉を
喰ってくれと、病弱な戦友に云って死んで逝った兵すら有った。
 この戦線のいかに悲惨で有ったか、それまでは記したく無い余りにも無惨であったから。
 アイタベ作戦に敗退して、いよいよ自活生活に入らなければ成らなく成った時の出来事であった、自活とは日本軍では責任は持てない、勝手に生きられたら生きて行けと云う
意味であった。
 アイタベ作戦の道路帯にインドネシヤからの捕虜が二百名程送られて来た、捕虜は来ても食糧は着いて来ない、食べ物が無いから仕事所では無い。
我々の食べる物も無いのに二百人の捕虜が居ては、いたしかたない、又彼らは状況によっては何時敵軍と変わるか知れない、危険な雰囲気に成って居た、彼らに与える食糧等は
勿論皆無だ。
 いよいよスナムを離れ自活生活に入る日も迫った頃、軍から命令が有り
捕虜など一人でも人員を減らし一日でも生き延びなければ成らない、その為には捕虜を片付けろ、そしてその軍命令は実行された。
 この事件は終戦後取り上げられ我が隊に嫌疑が掛かり、戦争犯罪の調べを受けたが
無事帰還船に乗る事が出来た、そして誰かがその責務を負わされたに違いないけど
我の知る処ではない。
その事件の事に付いては、吾が部隊の全員帰遍の為、乗船準備の為海岸まで出よとの
豪軍よりの命令があったが、中隊長と私だけは其必要なしとの事である。
 インドネシヤ兵捕虜の大量殺害については、我々の部隊は直接関係なかったから
安心はしていたが、裁判が済む迄なんとも言えなかった。
 残った隊長と二人は何か旨いものでもと考えた、
中隊長と二人で便所を探し廻り銀蝿食いに来る青く光るトカゲを四匹捕らえた、
豪軍支給のフラウワーミールで衣を作りアニマルヘットで揚げ、少し有る米を炊き、
塩味をつけて鰻重と酒落た.
 帰還船の手続きに行くか便所のとかげを喰うか、その時の心理状態は異状としか
思われない。
 幸に戦犯の容疑も晴れ、中隊長も私も無事に帰還する事が出来たけど、まかり間違えば
今頃はニューギニヤのムツシ島の土に成ったろう、その代わり、この島で処刑された何人かの日本の犠牲に成った兵の有った事は忘れては成らない悲しい事実で有る、
これは敗戦后敵軍に収容されてからの悲話として書き残す。
 敗戦に近い頃の事である、ある時二十師団の松本連隊長の昼飯を連隊長のと知らずに
食べた兵が有り、見つかって松本に銃殺された、米など見られない時に米を喰い通して居た、これが日本の軍国の姿で有った。
 この事を聞いた兵達は、皆憤慨した、これだけ無暴であっても上官であれば手が出ない
それが日本の軍隊であった。
その後は何に付けても、彼に反抗した副官格の上村少佐が俺の見方だから。
彼も無事帰還して水戸辺りに居るらしいが、こんな者こそ良い余生は送れないであろう。
 日本の敗戦の原因も、こうした軍閥が横康していたからだと思う。
 この頃の日本兵は、青黒い肌色で骨の上に皮をかぶせた様な痩せ細りで素足で
服はすでにボロボロに破れ、飯盒と水筒と鉄砲だけの、持ち物にシートで作った後ろ掛けを、ぶら下げて階級章も無く、兵も下士もない帽章だけで、兵の所属が判るだけだ、
階級よりも体力だけが唯一の頼りに成って居た。
 五百メートル歩いては、土の上に腰を下ろし一キロ歩いては休み、夢遊病者の進軍だろうか、どんな苦労で有っても銃だけは大事に持つ、敗退で有っても、陛下の預かり物の
観念は有るのだ、杖にする者は居ない。
 疲れきっての行軍であっても、食べる物だけは見つけなければならない、
そして翌日も又翌日も歩く、一日の行程もしだいに短かくなる、疲労が目に見える様だ。
 歩かなければ部隊から離れて行く、部隊から落伍すれば、それは死に繋がるのだ、
誰もが氣カだけで歩いているのだ、外の部隊の上官に逢っても軍参謀にすれあっても
礼もしない、こうした生と死との間をさまよう兵隊にこそ、軍規も無ければ礼節も無い
己一人だけが頼りであり、己の意地が生命を支えてくれるだけだ。
 
          山を越え平原ヘ
 ウエワークから山脈を一つ越えると平原になる、ニューギニヤの面積は日本の二倍半と云う、中央を流れるセビツクの大河迄行くのは日本の横断に等しい、
セビツク河は相当大型船の運航が可能である、我々はこのセビツクを渡り、南に行げば
食糧も有り、何年でも生活出来る構相のもとに、この河に向い行進を続けたので
あったが、ここに来ると、空は広い。
 ジャングルばかりだった今迄と違う世界で川あり草原あり、広いガーデンも所々に
見かける、だが我々の口にする食糧は手に入いらない、ありとあらゆる衣類も、
かけていたフンドシしまでも土人と交換して、その日その日の糧を求め、ついに何一つ無くなってしまった。
 戦いの中なれば殺しても、食糧を得なければならなかったけれど、
今はこの地に於いて土人の情けに依って生きて行かなければ、ならなかった。
従って土人に悪い感情を与え無いためには、土人の物を無断で捕らないことである、
その為食べる事には窮してくる、川原に昼顔の葉が繁っていた、食べられないのか、
誰も食べなかった。
 彼らは焼き畑を作る為に、山を焼き、蛇鼠等を獲り里芋の類のタロイモやマミか、
びすタバコなど作り平地土人の常食にしていた。
 その他にはマンゴウ、パパイヤ、バナナ、ピチピチ、ヤシなどあるが人口が少ない
のだから生産も極少なくて足りるので、日本兵に与える分など有る訳が無い。
色々な物が有っても兵隊の喰う分は無く、バナナ、パパイヤ等も見た程度だった。
豚も野豚を飼い慣らし僅かに飼っている部落も有ったが、豚は彼らの最大の財産として
我が子と共に大切にしていた。
 我々は山の中で採り残しのピチピチに出会った、夢中になって生で喰う、水気のない豆腐殻を食うと思えば喰えるし、カナカカビスの硬くて彼らが喰わない物でも喜んで喰う、
こうして平地に来てから、いくらかでも喰える物にありつけた。
 そして七日、目的地であるカンモンベの土人部落に着く事が出来た。
 この度の行軍にてカンモンベの最週目的地にに着いた者八十一名途中の死者行方不明
二十名余であった。
 八十余名はカンモンベを中心にして、五部落に分駐して各部落の給与を受ける事にした又キャプテンとの話合いに依り、シンシンハウスを彼等と共用した。
 今までは食べる事にあくせくしていたけれど、今日からは食糧は土人達が無償にて
提供してくれる事と成り満足出来るとはゆかなくとも、今迄の様にあくせくせずに、生活してゆけるし、敵軍も来ず、空爆も無い静な世界と思えた、だが続く作戦と食糧の無い中の戦闘強行軍にて、病人は続出、死者も出るありさまである。
 カンモンベに着いて最初の犠牲者は関口だった、大の煙草好きだったので、
土人に戴いた生葉を供えて葬ってやる。
 思えばスナム出発してから、ここに来るまでに落伍した兵達の食べものも、医薬藻なく
今頃は白骨となってあの山にこの小屋に無惨な姿になっているだろう。
 今私は、この地に来て生きている、これが幸かどうか、そんな事は考え無い、
朝が来て喰い夜が来て寝るだけで、先々の事など解らないし、成行きに任せるだけだ。
 カンモンベは平地と湿地の中間ですぐにワラプレスであった。
 平地にはガーデンがあり、湿地にはサゴヤシの木もあり、マラリヤ蚊が実に多いけれど
住みやすい部落と言えよう、人口は極少ない、そして五戸か六戸の部落で二十人の兵隊の食糧を提供させるのだから、土人達にすれば大仕事であったが別断文句もでなかった。
朝に成るとワイフ達はサクサク採りに行く、我らの分まで採るのだから大変で有った。
その代わりヤム芋は少なくて、大体三食サクサクの食事で半焼けのイリヤキ風の物を
彼等に習って作って食べた。
 
           土人との暮らし
 
ニューギニヤは二月頃から雨季に成り八月頃から乾季に成る、近くの湿地には椰子の木の一本橋が架けられていた。
 乾季に成ると水面が、かなり下に成るが、雨季に成ると橋は水中一メートルに成ってしまう、彼等は裸だから便利だ、腰まで水に入り平気で橋を渡る、橋の位置が判るように点々と竹竿が目印に立てて有るから深いところに落ちる事は無い。
 乾季には小魚が沢山見えるが、捕る道具が無いから捕らない、縄も無いし、針を作るにも鉄が無い、雨季になると水ばかりで魚の姿も見え難くなる。
 熱帯には冬が無い、年中真青な木草に被われているが、草原地帯には冬の気配があった、
乾燥の為の冬で、それは乾期であった、雨季になると芽が伸び青々と若草は四尺にも伸びる、稲科の物で乾期の広い草原に周りから火を付ける、真ん中に鼠蛇蛙、ことによると
野豚が捕れることもあるとか。
 これらが土人の只一の蛋白資源で有る、蛇は竹筒の中に入れ草の蓋をして焼く
保存食で有る、このマンホー焼きは、豚とか火喰い鳥でも捕らえた時、部落全体で焼き
大収穫を祝福する、これが彼らの秋すなわち乾季なのである。
 大木はどうだか、一年中同じに育つ物もあり、椰子のように子供が生まれたら一本植えると一日一個宛喰える、年三百六十五個収穫できるとか、パパイヤも年間何百個と、
絶え間なく成る、バナナは植えて十二ヶ月かかる、年間温度の差が無いから
草木の伸びかたも変わらない、焼き畑も最後にピチピチの茎を挿して、その蒲を喰う。
 終戦のころ枯木に真紅の花が咲いた、カボツクの花だった、実が熟すと、葉は落ち
実がはぜて白い綿が出た、枯木に花の咲く日本の桜のような木は疎であった。
 パンの木は伸びの早い木で、二抱え位、六月頃パイン位の実が熟して落ちる、
焼いて食べる、甘くて旨い、中に栗の実似た実が十位有り、焼くと栗の実の様だ、
ドイツでこの地に統治権が有った頃、パンの木が有れば土人が働らかないとの事にて
殆ど伐り倒した、今パンの木は極めて少ないし、熟季が六月頃一時期であれば、
その時期だけしかたべられない、私も六月生を食べ九月種を食べただけだから真実とは
言い難いが、現在は成木が非常に少なく、木を見つけるのが大変だった。
パンは貯蔵性が無いと思うが、その真実を追究するには至らなかった。
 現在の彼等はマミ、ヤム、タロを主に作りサゴヤシとで食べ物には事欠かない生活に見られるが、我々にその真相は知り得ない。
 私達の居たカンモンペはハウス十戸位しか無いが、これは皆婦人と子供の家で
男達はシンシンハウスでの共同生活であった。
 キャプテン位に成ると第一婦人から第三婦人位までは居るが、婦人は小さい小供と
住み夫は食事の時だけ婦人の家に行くが、夜は一諸に寝ることは無い。
 朝になると婦人子供を連れ夫が先にたち、ガーデンハウスに行く、
ここで畑の手入れをし芋を掘ったり、焼いて喰う、我々には帰りに二本位宛持ってきてくれた、夫婦間係もここで済ませて夕方供に部落に帰る。
 夫は男同志で踊り唄い夜も遅くまで遊んでいるが、婦人達は自分の小屋に入って
食事の仕度、子守、子豚の世話などする、洗濯とか掃除は必要無い、いたって原始的な
生活である、だが婦人のハウスには他の男は絶対に入れる事は無い、
勿論兵隊など覗く事すら出来ない、食事の道具も縄文土器と同じ素焼の瓶竹の節を
はった二米位のバケツ代わりの水汲み、寝る時はバナナの葉の上に裸で、ごろ寝毛布等
有るはずが無い。
 夜は小さい入り口に、ヤシの皮のノレンを下げる日は一時も絶やす事が無い、
火種だけは確保して置かなければ、マッチも電気もない生活だから、又彼等には便所も
無い豚が全部掃除してくれるから、部落は極清潔である。
墓地も種族により異なる、死ねば、その家の中に埋めて、その家は空き家にする種族も
有り、高床式の部落は軒下に埋める、シマリヤ教の入った部落は一カ所に埋め、
花等植えて飾ったのも見た、シンシンハウスの片側に骸骨を沢山並べ、
これは誰と名前を説明してくれた、何代も前の先祖のものであろう。
 我々には、毎日山芋やサクサク、煙草の生葉など、サービスしてくれるので
食べる事には何とか事足り、毎日が平蔭であった。
 カンモンベにきて土人の居候に成って三ヵ月に成ろうとして、その年も暮れようとしていた頃、キャプテンに交渉し、正月には豚を喰うと決められて居るのだからと決めつけてどうしても一頭サービスすろとねだった。
三十一日に一頭連れてきた、四つの足を縛り火の上で毛を焼き料理した。
 料理は私の役で有る。
 血は飯盒に取り、煮て固めると、肝臓と同じに成った、内臓をきれいに外しカットしてしている内に、あっちからも、こっちからも手が出て、肝臓などみんなポケットに入れて
しらんふり、生で食べてしまった、それだけ肉に飢えている。
 こんな料理に成るとみんな私がやってのけるから、陰口に佐藤は新平民だと云う
戦地だ何と言われても気にもならない。
 そんな事を言われても、他の兵から頼られ、そして丈夫で働ける事が生きてゆく上の
醜念でも有ったからだ。
 元旦はサクサクで餅の様なものを作り、豚肉を入れ、雑煮を作り、
久し振りに元旦の気分を味わった、この頃には或る程度の芋、土人の持って来る椰子の実サクサクカーニヤ等、量は少ないけれど色々とサービスしてくれ、土人とも親しく成り
一諸に寝た、子供が内密に持って来てくれる、珍しい物なども口にする事すら出来て
病人も少なく成り、又用事使役なども全くなく、只土人をだまして食料を得る事だけが
唯一の仕事かもしれなかった、土人もキャプテンを若返りのため二十才のジロウに替え、日本兵への協力を、強化し、この地に長く安住出来れば、その内に戦争も、どうにか解決する事であろう、その機会を待つ外無かった。
           敵軍に包囲される
 
 昭和十九年の正月は先ず安全にカンモンベの土人の好意に依りつつがなく迎える事が
出来たが、それもほんの束の間であった。
 安全と思っていた、この土地もセビツクより艦をもって進撃して来た、豪軍に脅かされ
又ブーツ、ウェワーク方面には敵軍の上陸を見、又その間に有る大部落マルンバ地帯には敵飛行機に依り進駐され、ブーツよりアマグ川に沿って自動車道が建設され、いよいよ
我々の居る地点のみが今のところ、安全と言う事に成ったが、この辺の各地に自活目的で
入った部隊は既に交戦状態に入って居た、
従って我々の部隊もこのまま長く安閑として居れば、我等も危険と成る、
何としてもこの敵軍を撃破しざるをえない、そこで一月十日カンモンベを立発し敵陣地に近いヂヤマ近辺の土人のセカンドハウス迄進出した。
 距離にして十キロとは離れて居ない、土人の部落に近い一軒家が有ったので、これを宿営地とした、近くに土人部落が有るので、ここの土人と交渉して食糧の支給を依頼した、
勿論、無償で有るが快く引き受けてくれた。
 土人も好意的で、毎日山芋を主に持ってきてくれるので、足りない分は野草やサクサク澱粉で補う事で事足りた。
ここでサクサク澱粉で作る、だんご汁の作り方を記して置く。
 小麦の粉で有れば水で捏ねて丸め、湯の中に入れたら芯まで煮えるけれど、
澱粉は駄目だ、先ず葛湯を作り、湿した澱粉をかきまぜて、だんごにし、湯のなかに又は水の中に入れると芯まで火が透りますが、澱粉は焼いた場合に粉質でも差し仕えない
このたんご汁の作り方は、私達の考案らしく、土人達はスープとか、焼くとかして食べる餅にしたり、オムレツにしたり色々と研究して食べるが、慣れなければ異臭がして
食べられないし、塩が無いから、味も無い、だが野草よりもカロリーも有り、
どれだけましだか、それが野生であるのだから、ニューギニヤは別天地なのかも知れない。
 サゴヤシは谷間の湿地に自生して四十年位で成熟して、澱粉が採れる、一本で一家族
半年は暮らせるし腐敗しないので、生のまま、バナナの葉に包んで雨の降る処に吊り下げ
て置く、それで半年持つのだから便利であるが、不純物が醗酵して臭いが出たり、色が着
いたりするが、くにならない。
 海岸では、塩も有る、宿かりを食べても蛋白の補給に成る、だが山の中では、なにも手
に入り難い疎に見つけたマムシでも焼いて、一人宛一寸とは喰えない、
蛙、鼠もなかなか手に入らない。
 土人の澱粉採りはワイフの仕事だ、谷間で婦人達は熱心にサクサク採りをしている間
男達は山の上で槍を片手に、おうおう声を出し乍ら警備に当たっている、ワイフ達が帰って来ると、一諸に帰る、子守もワイフの仕事と働くのも運ぶのも、ワイフ。
男は種族同士の戦いとか、火喰鳥や野豚捕り、焼き畑作りの手伝い等で、
後は男同士気勢をあげて一日中感心する程良く遊ぶ。
 今度来た土人部落も十軒程しかない、小さい部落で土人の数も少ない、
しかし戦場に成っていないのか、鶏の姿も見たし、犬も一つ居た、しかし我々はこれらには手を出せない。
 何となれば土人の感情を害したら、もう食糧を提供してくれなくなる。
 この部落には豚がいないのか、兵隊達の便所は山に成り、芋の便が流れ出して
金蠅がもの凄い、ここに十日程滞在し、今度はジャマ近くに進駐せよとの命令有り
土人に頼んだが戦線なので使役は出して貰えなかった。
 やむを得ず二キロ程離れた草原に移動、ここに幕舎を作りジャマとの連絡をとり
戦闘態勢に就く。
 ここはアマグ川の上流であり平地には今までに見た事も無い広いガーデンが有り
山地の焼き畑と異なり、区画も整全としていて、各種の作物が有るが、
主にタロイモであり、迫には蒟蒻の玉が並べられて有った、これは喰えないし腐らないので彼等もてこずっていた。
 この辺はアマグの砂地なので、里芋の類が多くあるが、戦線なので、日本兵も来ず
土人達も居ない、我々の食べ物は主にサクサクか、マミだったので近くのガーデンを荒す
事も無く土人の顔色をみたり、敵の状勢を見たり、極めて危険な中に立たされて居た。
 ここから我々はジヤメ方面に本隊が居るとの事でそちらに向かった。
 アマグ川辺にいた小島曹長らは、ジヤメに向かったはずだったが途中にて豚を捕り
それを食べていて、着くのが一週間も遅れた、その為にミラクの激戦が済んだ後に着いた、ミラク攻撃大敗の後、我々は通信班の久野軍曹以下十名にて二大隊に転属になり
アマグの分哨に出された、私は大隊本部との連絡にて中間地点に待機した。
 敵と味方の情報は、ここを通過しなければならない、日に一度大隊本部へ行く
無理に土人から食べ物を、ねだるなと毎日のちんご鎮言、
それだけ時局は緊迫していたのだ。
その為こに来る兵から戴く僅かな芋などで、その日を送っていた。
 五月五日の朝、照空八の少尉からアマグの久野分隊の全減の知らせ有り、
残蔦私一人行く処もなく、大隊長の指示を受け、五日夕刻二十師団の三中隊に転属した。
 この中隊はミラク攻防戦の第一戦隊にて大敗した隊にて大部が戦死し戦傷者ど
病人ばかりで、食糧は殆ど無く収集も出来ず、遠いガーデン迄で行き、ムカゴなど捕り
その夜を過ごす、ムカゴとはえごくて食べられないしろもので有るが仕方なく食べる、
この畑にはトオモロコシの種が一つあった、硬くて食べられない。
この辺りには物資も無く、右か左か当ても無く地図も無いし、地形も判らない、
そんな土地で只感だけでガーデンを見付けるのは大変であり、動けない隊員の命が掛かっている。
 或る時土人部落に行き、何か無いかと見付けたが、何もないスコールの後であった。
五月十日頃であった、カンモンベを出てから半年に近い。
ミラクの戦闘では、食糧すら無く敵方の輸送機の落下した物資を奪いに行く有様、
今更この辺りに芋の有る部落など有りはしない、スコールの止んだ後の日光は照り付けて
熱い腹ばえに成って呑むパパイヤも木しか無い、小屋の間から土人らしき姿が見えた
松山曹長が小銃一発発射手答え無し、その日は何も収穫なし、帰ってから盲弾を撃ったと隊長に大目玉を頂載する。
 右はミラク方面で敵陣地、左はジャマの敵陣地、前は谷、後には大隊本部食糧の
収集に行く、場所は全くない近くに摘んで喰う草もない、動けない兵にも喰わさねば
ならないが、食べる物は何も無い。
 朝になった、隊長はやきもきしている、松山曹長と又口論の末、
私の思う処へ行ってみた、何とか二三日は間に合う位のタロ芋を得る事が出来た、大収穫だ、これはジャマの先の斜面のガーデンで有ったが、もう相当荒らされた後だった。
 私は伝令その他でこの辺の地形も有る程度知り尽くしていたから頑張って
必ず目的が果たせる自信を持って居たから、他の兵とも自信を持って張りあった。
 その頃から敵はマルンバ中心に各所に陣地を築き、ジャマには兵担部を置き弾薬糧抹の空輸をなし、十分なる捕給をしているのに、我が軍は敵陣のゴミ捨て場をあさるしまつだ
この頃から我らは敵中に有り、左も右も前も敵との距離遠くて二百米、近い所は五百米
敵は火砲も多く火炎放射機にて草原を焼き、我に迫る、毎日が血の戦、そしてその中に
有って食べ物を探すチヤンスが有るはずが無い。
 それも中隊長と二人分持って行軍戦闘力が続くわけが無い。
こうした生活の中で二十年八月十日玉砕命令がでる迄、食べ物も無く、
敵に囲まれての戦争を、毎日いかにして続けてゆかねばならぬのか、毎日兵は死んで行くので戦える者は減って行く、弾丸も無く食い物も無い、この戦こそ今日明日の兵の命の
保償を誰が考えられるであろう、
水を求めて谷問に行けば、敵の待ち伏せに逢い、乾季になれば雨水すら無い、
水を求めて樹液を嘗める。
 内地からの物資の捕給は勿論無く、現地土人の畑に収集に行く事も不可能で有る
こうした中にあって、もう日本軍の進退極まれりと云ふ八月十日日本軍には玉砕の命令が
出された。
あらゆる書類は焼き捨て敵陣地に突入すべく、その準備として僅かに有った弾薬も全部使うべく分配したが、長期間経過した為火薬も湿り計画通りに成ってくれなかった。
激戦の連続の中にもう何日も、何一つ食べていない、玉砕の日も迫っていた。
 私と松田伍長は決死の覚悟で敵中のガーデンヘ食糧の確保に出掛けた、辺りは敵の陣地に囲まれているので、敵の通らないジヤングルの中に入った。
 大木は何十尺か知れず空にそびえ立ち、その下には椰子類の群生に成って居る
たまたま大きい落葉の山があつた、高さ二米もあるこれが火喰い鳥の巣であるが、巣立た後か卵は無かった、かれらは枯葉や枯れ枝を集め巣を作り、その蒸発熱で卵を孵化させるこうした広いジヤングルの中に又、人間の来ない所に巣を作り子孫の繁殖をするらしい。
 このジヤングルを通り抜けると、幸にもタロイモのガーデンが有った、
松田氏と二人は夢中に成って、これを掘る、野球ボール位のタローコンコンを背負へるだけ堀り、再びジヤングルの中を隠れるようにくぐり抜けた。
 もしも敵に見付けられたら、どうしようとも考えた、この場所でもし本隊から別れたら
この敵の中で二人で生きて行ける自信があるだろうか、それは全く不可能の事であろう、土人の協力が有ればとにかく、この敵中にあって土人も既に敵に成っている中で、
誰にも見附けられず、何年も生きてゆけない部隊は玉砕しても、
自分だけは何とか生き残りたい、何年後かには内地に帰る事が出来るかも知れ無い、
そんな夢の様な望みは、妻子ある兵でなくとも持っていたに違いない、
日本の二倍半、この大きいニューギニヤの中にはもしや我々の住む場所も、
ありはしないだろうか。
 でも奥地の土人は日本人を知らない、日本人を見れば必ず毒矢を放つ、野生の生き物も
極めて少なく、しかし二人だけで食べる位の野草位は有るだろう、
そんな事を考え乍ら芋を掘る。
 幸に一日がかりで本隊に戻る事が出来て、暫く振りに皆で食べる物にありついた。
 命そして戦争そんな事も忘れて唯暫く振りに、ありついたタロイモをむさぼり喰う
声もなく。
 この頃、千葉中尉や平井ね深山等は大隊本部近くの幕舎でね今日か明日かの命を待つ、
重病人としていた平井はそこで死んだ、目の玉をえぐられた設定隊の伍長はどうしたか
気にかかるが、その後の消足は不明だ。
 私達は二人で採ってきたタロイモで三日或るいわ一週間は何とか持ち応えなければならない。
 朝早く火を炊く、芋を煮るが、夜が明けても、その煙が谷間に棚引居でいる、
それを見つけた敵軍は迫撃砲弾を盛んに撃ちこんでくる、
我々は壕の中に逃げ込んで身を守るほかない。
 八月十三日千葉県生まれの林上等兵が豚肉を腹一杯食べたいな、
そうすれば何時死んでも悔いはない。
 誰もが考える事である、死の恐怖それよりも十分とはゆかなくとも空腹をいくらかでも満たす事が出来たら、それが兵の心理である。
 夕方に成って中隊長の許可が出て松田軍曹と二人で、すぐ近くの谷間にある土人の家に行く、ここには豚が居る事は知っていたが、敵の中なので危険であった、
しかし、こに行けば必ず捕れる、玉砕も近い、危険でもと覚悟しての行動であった。
夜になり、暫くすると予定通り大きな豚だ、私は暗夜であるが、音を頼りに撃った
頭に命中した、本隊には近くであるが、その場にてカットして、その夜は肉を十分食べ
翌朝二人で背負い本隊へ戻った。
 みんな大喜びであった、一人前洗面器に一杯位宛分配出来た、
皆大望の肉であり顔の色を変えて、食べ元気百倍にて戦争の事など忘れたが真夜には寝た、
十四日に成った、朝から迫撃砲の一斉射撃を受ける、この地に日本兵が宿営している事が敵に知れたから、たまらない、みんな濠の中に入った林上等兵はマラリヤの発熱の為
寝ていて壕に入るのを拒んだ。
 砲弾は半日絶え間なく撃ち込まれた、其最後の一発が幕舎近くに落下、
その破片が林上等兵の頭に当り、彼は即死した、話の様な出来事にみんな彼の死を悲しんだ、そして近くに穴を堀り葬った。
 其翌日十五日には日本降伏の宣伝ビラが散かれ、敵の砲撃も無くなった、
そして静かな山々のつらなるマルンバに戻った。
 敗戦後はジャパンソルジャーが急にボーイに格下げされ早くこの地を出て行けと
追いたて、ついには小屋に火を付けられる、そんな状態だから土人のガーデンに荒らしに
行く訳にも行かず、もう彼らのサービスなどとんでもない、敵陣地跡のごみ捨て場から
拾った僅かのオートミール等有り難い贈物だった。
 小屋を焼かれ仕方なく九月末、壕軍に投降すべく山を出た。
 敗戦からは喰う事のみに専念し、戦う事の無い余裕のある日々だったかもしれないが
この三年間食に苦しみ、戦にもだへ、体は疲れ果て息をする物体となった
人間からかけはなれた日本の敗残兵だった。
書く、頭に有るままに、手の動くままに、書きつらねて来たけれど、その真実を理解して戴く事は不可能であろう。
 十八万人とも、二十万とも言う兵が、
僅かに九千程に成った大部は飢餓で死んだと言える。
それは私と生死を供にした者だけが知るニューギニヤ西部戦線の惨状と私達が三年間辿ってきた体験を生き残った私が、私なりに当時の記録として残した。
 もしもこの記事が読んで戴いた方々に、どれだけでも理解して預けたなら
ニューギニヤに眠る多くの同胞の供養になろうと思う、
そしてこの記事に感心をもって、お読み戴いた事に深培の感謝の意を表すものである。
昭和二十一年ニューギニヤ西部戦線の食糧事情について記す。

南海派遣猛一九三二部隊 本部 佐藤 耕太郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
         新参戦の歌
 
     新春譜
 
はらからの家離れゆきてささやかに雑煮祝うを幸いとせり
 
打ち鳴らす太鼓の音は霧深き杜にこだます迎春の朝
 
征く友の武運を祈る 柏手のこだまは響く暁の杜に
 
奥津城は素枯れし菊の残りたちて母と言う名も ただはかなけれ
 
屋根の上に取り残されし糸瓜の実の黒きが上に降れる粉雪
 
冷えしるき朝の庭の笹の葉に積もれる雪のかすかにゆるる
 
風荒き夜はいねがてにまどにより青くかがやく月影を見る
 
かすかなる川の流れの音聞けば おのがあした おしみておもおも
 
     政界   
 
近衛公辞任のニュース聞く夜は世を嘆きてはかたりぬ
 
大命は平沼男に下れりと聞けば政局良きを願うもたつき
 
老いし父と生活を語る囲炉火に 向いてさびし母なき家の
 
老いし父と妹との生活貧しけれみたり和みし 心ゆたかに
 
若くして一人身となりし父なるを 哀れと思ふあかつきの鐘
 
一人なる父をいたわる妹の哀れなるかも母知らずして
 
 
     山と川 歌会
 
外所氏未だ見えざる会場の冷えしひと間に点して座る
 
広々と開けし園の笹の葉に射入る日陰未だ冷えびえし  
 
部屋なかに陽光りをよべる明るさや舞ふ侭田氏の顔の輝き
 
整いし和そう姿の美しく堀 美代子との再会喜ぶ
 
背も低き田中伝氏のほがらなる声は会場に響きわたれる
 
暮れなずむ時惜みつつやこお氏と丸山氏と共に歩みぬ
 
 
     春暖
 
雨だれの音を聞つつ夜の更けに火なき炬燵に日記を記す
 
暖き朝の日差しに杉の葉に積もりし雪は靜に落つる
 
山住みの生活安けしひとり寝て流れ靜かな瀬音したしむ
 
谷間路は落葉ここだく吹き寄るりて日毎に深くつもる風化土
 
畑土の白くかわきて山原にちやの葉の色のこきふゆの雨
 
乾きたる畑に色濃く麦のぶて葉先かすかに白く霜見ゆ
 
地震やみて月の光の光青白く硝子戸に冷えし月かげを映す
 
寒き夜の冴えたる月の光りさし心ひそかに瀬音聴きおり
 
月光の部屋に射し入る夕べかも雨戸お引かず冷えに耐えおり
 
夜の更けてかわやに立てば鶏のなく声のして眠りやすけし
 
 
     訪問飛行
 
河原を低く過ぎゆく小型機の翼はつよき夕日をうくる
 
新京よりはじめて帰りきし友の久しくあれば恋いて訪ぬる    
 
逢わずして帰りし人を思いつつ みぞれの夜を一人帰りぬ
 
山鳩の鳴く声詫びし春の日の靜に昏るる山の住み居の
 
 
     水仙集
 
夕暗き部屋にほのかに水仙の匂ひて服を着替え我は
 
このままに死ぬるはあまりはかなきと九度五分の熱を嘆く君はも
 
たんぽぽの花咲きいでし石垣の下土黒く湿りをもてり
 
一月あまりさまよいいたる吾が出しし戦地への便り戻りてきたる
 
絶え間無く風に吹かれて火の粉は高く飛びきぬ空高く迄で
 
鴬の声にしたしむ窓遠く山なみの雪かがやける朝
 
歌読みの友の便りにこだわりつこのよべに吾が嘆くおろかに
 
来し友の便りに心高ぶれど なすすべもなし人のつながり
 
性あわぬ友とおもいて悔いし夜の水仙の花萎ゆるもさみし
 
来たる文のなべては吾にさみしけれ凍りて青きたかき月見る
 
来しふみになごみえざりし今宵かも果しなく青き夜空に対ふ
 
一人して住み居る母の部屋暗く子の写真に菓子供えあり
 
 
      春の雨
 
春の雨幾日続ける夜の覚現実なきをむげに憶へり
 
石垣の下に萌たる車前草の色の冴えたり雨の晴れたる
 
山の峰に淡く残れる浅春の雪を恋いきてゆ葉たばこ摘む
 
朝靄の流れて遠き山肌の若葉の上を雲は流るる
 
五月雨の晴れて明るき苗代田 青うみどろの湧ける水くち
 
裏畑の桑の若芽の萌へいで夕暖かき雨となりた
 
五月雨のまだ晴れもせず山ずみに一世を生くる運命と思う
 
山ぐみのはなの匂の満る道をさなき頃のなつかしきかも
 
雨晴れの笹むら路を歩みきて若葉洩れ射す光に憩う
 
雨晴れの小麦の畑の親しけり素足にふるる土の感触
 
アデユウと書くもさびしき雨となりし夜にきこゆるフクロウの声
 
フクロウの声も寂しきたまゆらを屋根うつ雨の音を聴きており
 
春の雨明るく降りて深山の若葉の匂ひ親し
 
此道の君と来し桜街道雨にぬれ心に沁むる若萌えの色 
 
微かなる雨の音きく夕べにはさりゆきし人に想いは及
 
春の雨音軟らかく降りつぎて青梅の実のいろづきそめぬ
 
若もえの桑畑の色讃えつつ大陸に旅立つ君と別れき
 
 
     高山とく氏大陸へ
 
馬嶺薯の葉の輝ける朝光の道 ペタルを強く踏みゆく
 
 
     興亜青年勤労報国隊日記
 
万歳の声え遠さりて振り返る町の外れを霧流れ行く
     
ほとほとに言葉少なく別れたり 恋ふ故郷の山河のさま
 
ひとときの別れと想ふ故郷の駅にまぶしき日光残りて
 
老ひ父と妹と離れて朝を哀れと想う大空の下
    
久しくほ離れて過ごす己が身の遠き外国に向ふわびしさ
 
 
    内原義勇軍訓練所
 
日の丸の兵舎のひしめく内原の松林にめざむ隊員我は
 
みちめくの友の便りを繰返し懐しみつ読む しばしの憩い
 
大陸に骨埋むると発ちて行く幼き少年を今朝も送りぬ
 
霧深き兵舎の庭にいでし夜の そこはかとなく寂しさのあり
 
朝まだき靜もる庭に整列せり我等の部隊 今日出発す
 
内原駅の列車の窓に顔寄せて万歳の声に涙こらえつ
 
夜行列車着きたる駅のしらねど申す明けの空に見ゆる山並
 
東の空紅に彩りて冷えし窓辺寄る明けの汽車 
 
 
     荒れ海
 
ふるさとの夢にさむれば淡し進水機の響き脊にひびく
 
熱い手で心をおそう侘びしさを毛布に深く包まりてこらう
 
荒海を行く船旅いえ朝飯は喰う人も無く船酔い続く
 
三日三夜嵐の海をさまよいて疲れ果てたり上陸の朝
 
 
     羅津港
 
幾千年波の荒れたる海の果埋めて築きし新しき港
 
監視所の所々にそびえ見ゆ国のさかえの新しき町
 
窓に射す朝の日陰の淡淡し野けしの花のほのかに紅し
 
火車に寄りてたばこ進上とせがみ来る苦力哀れ停車のたびに 
 
ひなげしの手折りし花をわびしみつ赤い夕日の果てをさまよう
 
野菖蒲の咲きみつ野辺の果て遠く赤い夕日の落ちゆくあわれ
 
 
     大陸
 
世に反き君憤らせて我は今 大陸の飢え哀れ草取る
 
土壁の家出できしクーニャンのなまづさげききし姿あやしき
 
雲の色ほのかに赤き暮れ方の野中の川辺に群る魚黒く
 
落ち日満つ野中の流れ靜なる反射まぶしき花原の道ち
 
我らをしおそるる如く去りてゆくクーニャンに逢い痛む心か
 
ほこり風夕疎ましく吹きにつつ高黍の花粉細かく散りぬ
 
 
 
     勃利訓練所
 
耕作地取り上げられし土民らの作りたる煙草色づきてあり
 
雨晴の汚き町の夕迫り馬車のゆれの身にこたえつつ
 
白樺の墓碑の立ちたる丘の上は白樺の葉のそよぐ風吹く
 
導かれいりたる部屋のほの暗しもだして座る畳のひとま
 
黄塵の道果てしなく包米の穂先しらじら晴日のつづく
 
故郷が恋しく想うこのひごろ好まざる煙草吹かしてはみぬ
 
ふるさとを偲べる夜は月照りて冷たき風になびく黍の葉
 
 
 
     秋近し
 
佳木すにて果てしなく野の花咲ける丘のうえのろ鹿足早に走り去り行く
 
平原の狭き水辺に捕えたるどじょうの天婦羅夕飯にくふ
 
秋風の涼しき日頃大豆畑番のトンボ群れと成り飛ぶ
 
帰還日を心に待つオンドルの上に座りて便りしたたむ
 
大陸を離るる時も近くして夕月のそら惜しみつつおり
 
捕へたる針鼠を土間にころがして慰めとせる幼き義勇軍
 
朝鮮人の店で買いし固い豆腐味噌汁にいれ早き夕げす
 
装具一式枕辺に積む狭き部屋のオンドルに座して故国を語るも
 
ありし日に送り出したる友訪へば土壁の家に妻と住みおり  
 
苦力の焚く炊さんの臭いしてアンペラ敷きしきみの官宅
 
指揮刀を吊りたる君の迎えたり大茄子訓練所玄関前に  小林君
 
北満に風雲急を告ぐるとき夜事の警備に疲れれ果てたり
 
歯の傷みこらえて過ごす明けがたを図佳線を行く火車の響きす
 
病みこやる仮やの夜の哀れなり忘れいし人に思いの及びて
 
夜の更けて病める感傷を寂びみつ過ごす冷えたるアンペラの上
 
 
     九月集
 
しらじらと野のもに光る川見えてほそき野道に稔る草の実
 
寄り添いて歩めば おのが首程に見たざる義勇軍に涙の湧ける
 
国離れ荒野に逝きし若きらの野の墓に来ぬ雉のしきなく
 
拓きたる広野の畑も稔り近しすず風渡る離別の朝
 
開拓に三月は経たり人伝に戦火広がりしと聞くこの日頃
 
ひともとの白よお植えてとこしえに忘れまじと思う大陸との離別
 
 
     ハルピンにて
 
そのかみの露人の苦しみししのびつつキタイスカヤの石塁歩む
 
民族の憎しみも無し街に青白系露人愛しかりけり
 
瞳青き乙女に寄する思いはも ひた走りつつ頬お打つ雨
 
逃れ来て住めるよわいのしさしきにすめる人らの顔の明るさ
 
白ようにそそぐる雨のこまやかにさびしみふかし露寺の鐘の音
 
群れなして飛びたつ魚のひれ白く光かえして潮を分けぬ
 
 
     帰還
 
すめぐにのみたみとあれし幸いお沁じみ思し今帰りこん
 
真実の生活はかなしひたむきに進まんとすれど心定まらず
 
つつがなく務め果して帰りけり瀬音も親し紅葉葉の色
 
露しげき朝の庭のすずしけり露にまじりて落つる草の実
 
おもはざる人の寄せたる文なるを読むともなく悔いは残りて
 
人影の見えざる黄葉路夕まけて小さき羽虫ひとつまよへり
 
     義兄の戦死十月十四日
 
麦の畑果なくつづく北支那に歩を進めゆきぬ兄の部隊は
 
生も死も悔いなしとして征きしかどまこと死にしははかなきものを
 
おほかたの部下は帰して一月余討伐戦に弾丸受けて
 
とこしえに草の繁れる北支那の土の温もりに安らぎたまえ
 
戦死せりと知らせはあれど遺留品きたらぬ今は信じがたくて
 
何事も言えずに只面ふして涙たり包む顔写し絵
 
知らせ有りて十日に成りて無事成りと噂のあれば喜ぶ姉の
 
何おも幸せと言い何をもて不幸ゆうか兄は死ににき
 
つれそいて過ぎ世帯の短きに姉の嘆きのはかり難くて
 
ふりかかる悲しみは言わずひたすらに生んとぞする哀れなる姉
 
白き露かがよお庭の菊おりて父に供ゆる一人幼子
 
微笑えめる写し絵飾る文机に香の煙のすぐ立ち昇る
 
父死にしといえば声あげ泣きじやくる四才の子になだむるすべなく
 
空しさにうつしえにあわすとき音たててにわの紅葉葉
 
北支那の麦の稔りし黄土原まだ温もりの残る墓土
 
兄死にしわここのあたりか麦畑にまだ新しき高き盛土
 
寫真に向いて涙浮かべおり すでに言葉にいでぬ悲しみ
 
慰むる言のはもなしつま失せし姉の心のはかり難くて
 
 
     師走の頃
 
めぐりあし君を想いていねし夜はとりとめもなき人の夢みる
 
吹きてくる粉雪白く庭染めて遠空に淡き月かげ浮かぶ
 
文交わしし年月想う侭ならぬ人の心の誠疑う
 
現身を寂しと思う年月の夢の如くに過ぎてゆきたり
 
老いし父芋も眠りてよせてくるうれい尾一人かみしめており
 
人を乞う悲しみししと迫る世の迫り来る寒さにこらえて眠る
 
 
     四万の宿
 
山肌はけわしき雪に覆われて夜瀬の音を聞きつつ眠る
 
おのがみにかかわりもなし吹きあるる雪は谷間に集まりきゆる
 
吾が話し聴き漏らさじと電灯の淡き光に若人寄れる
 
たかぶれる心空しくはりまどに寄れば射しくる月のあかるし
 
戯れのこいはしまじと想いつつ現実を日々に嘆く愚かさ
 
ありし日は夫といい又妻と呼ぶ秋風に散るわくらばさびし
 
大陸に渡り行く吾を詫びしめる彼のことばも戯れなるか
 
慕われし君との別れに悔いもなし世にしたがいてゆかん吾はも
 
吾が想いなべてかなはぬ世と決めぬ秋風寒き川辺にたちて
 
 
     十二年から十六年 山と川より
 
麦の芽の青く伸びたる畑はたにかりしばかりの蕎麦の並びぬ
 
枝にたわわに稔し黒きみお採りてかえる名もしれぬ実を
 
かくてなほ生くる生命かいだかれて吾が乳のあたりしきりにさぐる
 
いだかるれば乳房を求むみどり児のしぐさのあわれ吾膝にいて
 
独そ宣戦布告の記事も床内に読みつついつか眠りにいりぬ
 
降り続く梅雨に濡れたる仕事着を焚火に干して桑刈り急ぐ
 
来るべき興亜の光しのびつつ思い残りありまなぶたをさする
 
言論の統一を叫びつつ講習生の一人高ぶりて涙を拭う
 
春の雨靜に晴れゆく山の路湿りし土に洩れるつよき日
 
かかわりもなき人なれど遠ゆきしを朝の目覚めにふと想ひけり
 
朝の雨晴れて靜な山の道露しとどなる若葉のしげりよ
 
夜は夜とて胸のいたみのは元気に別れし人のうらみにおよぶ
 
ひそやかに渡る風あり木洩れびの光をかえす小竹葉のゆれ
 
しめやかに雨になりたる街角をよぎりて寒く風になく鳥
 
 
     五十九年五月より
 
猪苗代盆地の水田雪深く広きが侭に郷の靜もり
 
裸木に混りて稔るひらかんさ今朝の寒さに色鮮やけき
 
秀つぐにじゆん死せし武士の墓さびし石蕗青きところに並ぶ
 
戦地より帰りし吾に馴染まざる娘は三人の母に成りたり
 
馴染める子はマンゴーを持ちきて差しだせり共に座りぬ場成りいふの上
 
ニュウギニヤにすみし懐出なつかしく廚にたらの芽の天婦羅揚げぬ
 
一人住む部屋の詫びしきはり窓に照る日のしるく咲く花を恋ふ
 
沢蟹をいく匹か保育所に持ちて行きたり幼き孫は
 
菖蒲咲く朝の庭のしずけさに立つ吾が妻の満ちてはなやぐ
 
ひぐらしのこえしきりなる桧の山に雨の名残の流れさやけし
 
孫等皆海にし行きて靜なる部屋にきぬぬう我一人成る
 
山並の黄葉明るき金精の谷移り行く雲の一群ら  
 
幼子は折り来し薔薇の花一輪空き瓶に挿し廚に置けり
 
久々の雨はうれしき柿の実を伝ひて落つる雫しきりに
 
集中掃射受けたる時に目覚めたり夢にしあれど心静まらず
 
たかぶれる心空しく谷川の崖の紅葉に向いてたつもしつるび  
 
山桜風にまい散る山に来て山椒の若芽一人摘みけり
 
過ぎ去りし月日もあわれ足萎へは気ままに今日も庭の草引く
 
馬酔木の実色付きそめてアカシアの下蔭暗く昼の雨降る
 
家人のみないでゆきて一人なり窓に赤々と輝る合歓の花 
 
朝に咲きては萎ゆるクチナシの花に思いも遥けくなりて
 
吾よりも若かりし友の逝きし朝なへしクチナシの花摘みては捨てぬ
 
アマグ河のうえの仮寝もかなしかり渇ける砂に昼顔咲きて
 
色付きし田の畦に咲く萩に降る雨の冷たき彼岸となりて
 
離れ行きし友思ふ夜はサギ草の花愛しくて部屋にこもるりおり
 
 
     六十ニ年頃
 
文添えてサンマ一箱送り来ぬ炊事班長成りし銚子の友より
 
笹分けて出こし人の篭の中に初茸は微かに匂ひいるなり
 
四十にて一人になりし亡き父を朝の目覚めに妻の言いたり
 
休耕の田の荒草に積む雪の白々として谷田の光りなが
 
長江の豊かな水に浮く舟の連なりて無錫市街の灯霞める  
 
皿秤にのせたる熱き焼き芋買いポケツトに入れて飯店の部屋へ
 
未だちさき枝垂れ桜の側に日本より贈りしと描かれてありぬ
 
クリークの濁りし水を払いつつ家鴨は麦の畑に入り行く
 
戦に兄死にしはここか南京郊外麦畑に土盛りし墓の数々
 
湧きいづる温泉ながるる竜門の河原に青く草は繁れる
 
梅雨ばれに久々に見る男体の嶺の白雪いつしか消えぬ
 
巡り来し四十余年の記念日に昔語らふ友も無くなりぬ
 
望み無き身を横たふる砂の上に浜昼顔の花も萎えたり
 
庭畑に蕎麦は花咲く峠道古りたる家に人は住みおり
 
台風の過ぎたる沢の路にして落ちて溜りしマタタビ拾う
 
南窓に繁りし合歓の葉の散りて十三夜の月白く輝く
 
空瓶に果実酒造り並べ置き呑む事もなく年を経にけり
 
ダムとなる四万の深谷雪分けて測りよお機肩に人の入り行く
 
海に沿ふ椰子林の砂白く乾き小さき蟹のあまた這ひゆく
 
登り来し岩間に冬の日は照りてまだ新しきカモシカの糞
 
灯台に吹きつく朝の風寒く野水仙の花の黄は輝けり
 
冴え渡る星の下行く雪の道に今朝逝きし友に想いはおよぶ
 
岩タバコの小さき萌を早朝に摘み顔あらう楽しみとして
 
吾ひとり命つも運命か痒き弾丸傷に軟膏をぬる
 
合掌の家おいで来て裏谷をおとして落ちる雪解けの水
 
ひとしきり鳴く時鳥の声絶えて昼のチヤイムは山にこだます
 
日本に続ける海に手を触れて涙ぐみし日も遥けくなりぬ
 
全滅になりし部隊に吾生きて恥し心も今は捨てたり
 
墓石の傾きて荒れし谷の道に秋冥菊の盛りにあえり
 
今宵最後の命と思いき小銃一丁持ちて登りき山の陣地に
 
僅かなる空地選びて植えつけし莓は紫の葉をひろげたり
 
枯れし蔓のおほへるなだり馬酔木の芽紅く太りて冬暖かし
 
秋の雨靜にけむる細きみちに枝垂るる萩の花の散り敷く
 
休耕の田の荒れ草のしげみより跳び立つ雉子のひなともないて
 
この奥地に墓ありて百日草の花咲けり日本を遠くはなれ来たりて
 
塩気のある谷の湧く井に集まる兵のその大勢の戦意のなくて
 
谷底の塩の湧く井の辺につどお病める兵らは戦意うしなお
 
ジヤングルに飢えて死にたる友想う物資過じゃうの時だいさびしも
 
熱き日差し河砂をやき数しれぬあひる腹這へる靜なる真昼
 
奇跡にも生きてありしと涙死ぬともに老いたる今日の再会
 
妻と来て林檎に袋掛ける午後水木の花に日差しのまぶし
 
ハブ草の花に露おく岬道なまあたたかき海風ながる
 
遣る瀬なき想に吾は真夜の床に梅雨の終わりの雨の音聞く    
 
志賀越えて辿りつきたる犀川岸えんじゆのこぽく花盛りなり
 
それぞれに食事のあとに薬飲むクラス会の宿の夕べに
 
肺貫通の傷痕空し四万の湯に吾が手震えつ戦友の脊流す
 
秋蕎麦の芽生えの赤き休耕田に雨降りつづき八月尽きぬ
 
霧深き黄葉の庭の夕ぐれて山鳩一羽庭に降り来ぬ
 
ブル−ベリ−の畑平らかに紅葉して頬に冷たき師走の風は
 
吾一人今あるを想う夜の目覚め浮かびくる戦友の若き面影
 
臭きカメムシ畳の上にとまりいて細かき雪は合歓木のきに降る
 
恋てきし飛鳥路寒し香具山にかかれる月は輝きそめぬ
 
葉牡丹は色鮮やかに日の差して吾が生れし日の朝の静けさ
 
出羽三山に供灯したる常夜灯も基盤整備にて見えなくなりぬ
 
今朝の食進まぬ侭に来し畑にイヌノフグリの花盛りなる
 
帰還らざる友の供養に建てし石仏今日はつつじの花の中なる
 
えんどうのさやみ豊かに実る畑に三日続きてほそき雨降る
 
外国のこの森の中に病む戦友を慰めて別る雨期のさなかに
 
海沿の崖にアロエの花垂れて冬陽の光衰えてきぬ
 
点滴台片手に押して廊下ゆく食道切除四日目の姉
 
湯もや沸く四万の流れの靜なり黄葉明るき朝明けにして
 
スンガリ−の河辺に鰻捕りし日語ることなく君は今亡し
 
こみあげてくる悲しみをこらえ座す自ら命絶ちし君の辺
 
四十年満期の保険今日受けて妻は喪服を買いたいと言う
 
召集令来し吾が肩へにてんし立つ老いたる父のただあわれなり
 
椰子林に続く砂浜あえぎつつ弾丸背負いゆく明け方の夢
 
右書きの看板古りし蕎麦の店に一位の赤き実のたわわなり
 
奉安殿のたちたる丘にショベルカ−うごきいて駐車場広がりてゆく
 
一人来し岬のみての夕暮れてしみじみわびし海なりの音
 
アイリスの花咲そめし雨の朝病院にゆく妻を見送る
 
奉天戦より瓶に入れられ護送されしと父の手記にあり繰返し読む
 
コメツガの繁みに巣篭るホオジロの一日いでずして台風荒るる
 
 
    潜流選歌集      
 
吾がもとに残されてあり戦友の装具は今もあり主のなき侭に
 
供えたる鉄砲百合の花も萎え雨にふられし彼岸も過ぎぬ
 
苔むして墓石の文字も読み難し父の忌日を降る秋の雨
 
コスモスの花咲く庭に遠く来し娘の車今日は駐れり
 
注文の林檎採り終へし夕つ方靜に雨は降り初めたり
 
濡れし侭草に臥したる日もありき今日降る雨は吾が床にきく
 
谷川のみずの涸れたる叢に小さな蛙朝露に這ふ
 
秋の陽を優しく受けて四万川の真砂は白き光反せり
 
秋の陽の稲架にあまねき田の畦にいなごお追いて子らの遊べる
 
青垣に交りて薔薇の花の見ゆ深みし秋の曇り日の下に
 
妻の酌むアマチャヅル茶の身にしみて苦きもたえて息止めて呑む 
 
たかぶれる心空しく谷川の崖の紅葉に向かいてたつも
 
石蕗の花にとまれる花虻の動くともなし霜置く庭に
 
捨石と噂されしも黒潮を越えて帰還りぬなかに吾もありき
 
こまごまと書き残したる戦線記読む人もなく書棚におかる
 
減塩食に心配りて長かりき血圧降下剤日々に呑みつつ
 
無条件降伏とききて喜びぬ玉砕命令受けていしとき
 
白髪かくるる帽子かむりて吾が扱いし果樹園の客の多かりし今日も
 
四十年を共に生き来つ足らふ日のなかりしを妻は今宵は語る
 
歌読むより書を習ふのが楽しと言う妻に進級の知らせ今日はきぬ
 
九十までは生きねばならぬとゆう我に医師は笑いて答ふともなし
 
椰子の木の高きに捕らえし椰子蟹に胸踊らてポケットに押し込む
 
ジヤングルの細き流れに列なして腹這ひて兵は呑みぬその冷たきを   
 
白馬連峰真白く空に浮かび見え霧氷つきたる峠登りゆく
 
細き流れに野沢菜洗ふ人のあり栗羊羹買わん小布施の町に
 
去年は桑の繁れる畑にコンニャクを掘るテーラーの音す日の昏るるまで
 
夫病めば再び来る冬に備え重きサボテンの鉢お土間に入れあり
 
イリヤンのテレビに映りしエリマキトカゲ焼きて食いにきジヤングルにすみて
 
降る雪に行く処なき山鳩が軒に来たりて土を啄む
 
銀なんの踏み潰されて散らばれり村の社の掃かれし庭に
 
蕗餅の香に亡き姉憶ふ灰払いて食いきそのつくりしお
 
肌寒き朝を妻と街行けば湯もやはかおを撫でてながるる
 
舗装路に凍てつく落葉踏み夜の更けを吾は帰るも友の通夜より
 
山陰の道に真白き霜置きて朝なあさなを病む孫を訪ふ
 
歌会にて君と歩みし利根川の松林も国体道路となりしもさびし
 
谷川の澄みし淀みに寄る落葉かすめてウグイの群れの移れる
 
遠き日を憶ふも愛しアカシアの梢吹く風の寒き河沿
 
池庭の隅なく凍てし朝冷えを車で急ぐ妻の看護に
 
注連縄を作れる藁の軟かし雪の止みたる軒暖かく
 
妻病みて一人の部屋の冷えしるし音もなく降る如月の雨
 
枕辺の花も幾度か替わりつつ今朝の真白き百合のはな匂う
 
昨年の秋大根作りし吾が畑に杭打たれ国道工事すすみぬ
 
妹の摘みてくれたる蕗のとう黄の色床し黒きかわはぐ
 
湖の氷のかけら流れ行く朝懐かしき人病むを知る
 
アカシアの梢吹く風の冷たきに思空しも今日のはふりの
 
夕べり痛みの癒えしとゆふ妻のあかるき顔に心和みて
 
幼きより母亡き吾か弁当は母の味てふ言葉ともしも
 
夜もすがら降りつぐ雪に穴熊のしき鳴きいるも背戸の畑に
 
若き日に心交わせし人の名の書かれし病室のあるお見てすぐ
 
昏近く畑吹く風の冷え冷えしいぬのふぐりはなもつぼみて
 
沈丁花の赤きつぼみも目立ち来て庭にそぼ降る雨暖かし
 
病む妻の看護にすぎし三月も終らんとして水仙の咲く
 
チエンーのひねもす聞こゆ部屋にいて心疲れて眠る吾かも
 
赤々と炎の条の走りゆき畦焼く煙の田の面を被う
 
退院する妻の着物の揃えあり整えられし部屋のかたへに
 
転勤の娘の植えおきしチューリップ花のながきを吾が今日は見つ
 
アルプス雪嶺せまる木曽川の朝光に立つも寝覚めの床にきて
 
春めきし街のはずれに蟹を売る灯火にぶき露店のありて
 
思はざる夢に目覚めし朝まだきそぼ降る雨の音懐しむ
 
昨夜の雨隅なく晴れてつつじさく榛名湖畔を行ける幌馬車
 
城跡より採り来て植えし岩タバコの花咲くらしも葉の繁りたる
 
吾が郷の空は晴れたり岩びつの山頂に立ちあきずながむる
 
アカシヤの花の散りしく川原のしろく乾きてゆうべの風すぐ
 
雪の壁いまだ残れる志賀越えに咲き初めたり石南の花は
 
衰えし身を横たふる河の辺の乾ける砂に浜木棉咲けり
 
別れきし田の畦道のほの暗く鳴きてやまずも蛙ひたすら
 
採り残しし青菜のなべて董立ちて梅雨に濡れたる花のさみしさ
 
黒松の伸びし新芽を摘む指にこびりつき匂ふなり松脂
 
乾きたる砂に座りて崩れゆく砂と戯るる一刻の憩い
 
霧深き朝の庭に紫の花びらたれつ菖蒲のさける
 
油蝉は鳴きはじめたり開けし窓入り来る風のなま暖かし
 
朝あけの刻を定めて鳴く鳩を聞きつつ今日のプランを思う
 
青葉風すずしき部屋に一人臥す鉄砲百合の花咲くところ
 
ひぐらしの鳴きいず庭水打つに幼き蛙葉陰にひそむ
 
一人聞く山鳩のこえさみしけり明け初むる窓に合歓のはなみつ
 
離れ行きし友思う夜は鷺草の花愛しくて部屋に篭りり居り
 
アメリカ芙蓉咲く朝 朝は太陽の赤く昇りて暑き日続く
 
大型店に対抗できぬと三代を続けし店をしめり還暦すぎたる友は
 
わだかまり残れる午後をはげしくも雷雨はきたる吾がにわ暗く
 
色付きの遅き林檎に雫して秋雨は今日も一日降りつぐ
 
笹分けて出きし人の篭の中に初茸は微かに匂いいるなり
 
金の紙張られし夏の押花集を吾が机の上に孫は置きゆく
 
剥ぎ落としたる袋の白く散ばりて林檎は日毎に色をましきぬ
 
銀杏の落葉を濡らす雨の杜に今朝も来たりて実を拾う子ら
 
四十にて独りとなりし亡き父を朝の目覚めに妻はかたれり
 
岩びつの岩間に溜りし水すくい呑みてのぼりぬ草萌の坂
 
太りたる杉の木下の霧晴れて吉祥草の花の香ほれり
 
亡き友の墓に来れば僧独り銀杏の落葉掃くききよめおり
 
松蔭塾より移して植えし石蕗の豊かな花に霜光る朝
 
さかり住む娘に送らんと里芋を露に濡れつつ妻は堀りをり
 
長き日を咲つづけたる大文字草をいえないに入れ今日もたのしむ
 
朝夕に咲きては萎えるくちなしの花に思いも遥けくなりぬ
 
吾よりも若かりし友の逝きし朝萎えしくちなしの花摘み捨てぬ
 
アスパラの枯れ茎刈ゆく鎌にふれつ小さきとかげみじろぎもせず
 
乾きたる南斜面の馬酔木の芽太りて赤く冬のひに映ゆ
 
ヤドカリを落葉の中に拾いあつむゼルエン岬の憩いのひととき
 
冬枯れの木ぎの靜もる山の畑咲きて愛しもイヌフグリの花
 
玄海灘に捨てんとしたる子と無事に引き揚げ住めるお友はかたれる
 
入院の妻の看護に朝夕を渡りし町への橋あらた成る
 
家鴨追い家路に急ぐ老いひとり平原すでに暮れせまりきぬ
 
シヨオハイの鼻拭いてやれば幾度もれいしてゆきぬ父なるひとの
 
麦の草取りいる老いの後ろから黒豚の子のきそいつきゆく
 
スイギヨオザ食はんと吾も腰掛けぬ中国人民服の人らの中に
 
天安門の丹の色鮮けく射せる陽に向き外人とカメラにむかお
 
北京街行きつつ熱き焼芋を買いて帰りぬ吾が飯店に
 
湧きいずる温泉ながるる龍門の河原は青き草の繁れる
 
太原の飯店の高き部屋に見る山の斜面の民家なつかし
 
長江の濁りし水に船浮きて人民服高くかかげて干せり
 
長江の豊かな水に浮く船の連なりて無錫市街の灯霞める
 
懐しき人を想へり曇り陽の薄き光に咲く翁草
 
皿秤にて計りてくれし熱き芋ポケットに入れホテルにいそぐ
 
毛布かけてくれたる妻に気付きめざむテレビドラマのいつかおわりて
 
龍門の硯の蓋を紙に載せ妻は細字の清書したたむ
 
冬囲い外せば乾きし葉の落ちて木犀の木もついに枯れたり
 
古き自転車ひしめき開いて道せましまだほの暗き白楊並木路
 
六月の雨の優シキアカシヤの花の下道恋つつぞ行く
 
梅雨の園しばし歩みてゴム長につきしハコベの種を払へり
 
渚べをほりて湧来る水くみて夕食つくる島のくらしに ウエワーク
 
日本より賜るとの標柱建ちし枝垂れ桜いまだ小さし北京大学の庭
 
クリークの濁りし水を払いつつ家鴨は麦の中に逃れゆく
 
生還の記念に植えし柊の木 家建てると子は伐りてしまいぬ
 
防暑衣に毛布一枚支給され行く先しれぬ艦に乗せらる パラオ
 
ほの暗く降りつぐ雨の部屋に篭り栗の落ち実のおとききており
 
朝冷えに硝子戸濡れてクシナシのおくれ花ひとつ微に匂う
 
人影も見えぬ小島に移されて素足に硬き珊瑚礁ふみぬ ホリヨ
 
七十年貸しおきし水田返されしを荒草焼きて林檎苗植えぬ
 
南窓の合歓の葉のみな落ちつきて今宵明るき十五夜の月
 
小雨降る有楽町のビルの前に長き列なして宝くじ買う
 
枯れ伏しし蓮田を歩む白鷺を雨の陸橋の上に見て過ぐ
 
カーテンを引きて点せる部屋明りデンドロビユウムの濃い花の色
 
初詣の車連なる道の端に臭いただよはせ焼芋を売る
 
収穫の終わりて広き果樹園に初春の雪舞うひねもすお
 
乗客の減りしホームのかぜ寒し駅のうどんを妻とすすれる
 
わさび田を落ちくる水は陽に照りて光まぶしき天城山越え
 
登りきし岩間に冬の日は照りてまだ新しきかもしかのふん
 
冴え渡る星のまぶしき雪の道に今日逝きし友を思いつつゆく
 
暖かき陽に乾きたる藤の実のふれあう音のかすかにきこゆ
 
沢谷の杉の下草刈りており花粉をちらす猫柳の花
 
四月十日吾に召集令来し思い狭き畑に馬領薯植えぬ
 
雪残る崖におよびて咲くジシャは四万の流れに花濡らしつつ
 
海に沿ふ椰子林の砂白く乾き海蟹の群れ散りゆくはやし
 
蜜蜂の羽音の篭る花の下に山しやうつめり匂いつよきほ
 
午後の陽をあびつつぐみの花咲けるやまに来たりぬ手を病む姉と
 
散り残るコブシの花に降る雨の靜ないまの命かなしむ
 
道の辺に水車ののこるハイウエー カモシカの雌道を横切る
 
宵の雨止みて霞める暗き庭咲きて残れる海老根の花は
 
谷深き流れのうえに枝垂れて空木咲くみちをバス走りゆく
 
幼稚園より帰りし孫の手を取りて山ぐみをもぐ水涸れし沢に
 
返されし田に植えし林檎実のつきて妻と小袋を今日はかけたり
 
全滅になりし部隊の中にして生き残りしも恥ずることなく
 
寄りどなきおもいに妻といでてきつ山深き湯に一夜を憩う
 
きすげ咲く丘の夕暮れわびしけり大陸に別れし亡き友想いて
 
野茨の花がら風に飛ぶ田畦基盤整備の赤き標たつ
 
二泊三日の旅より帰りし夕つがた伸びすぎししめじの収穫急ぐ
 
音もなく散りて積れる落葉松の落葉を散らしコジユケイ群れる
 
黄葉の散る霧らお庭を山鳩の低くとびゆき今日も暮れたり
 
再びを訪ねたしと思うハルピンの地図を今宵はまた広げみる
 
仙人掌の真紅な花に朝の陽の靜かにてらす今日の独り居
 
押し寄せる霧は流れ手落葉松の黄葉輝ける真田への道
 
色の濃き柿たわわなる宿場町車疎成る信濃路を行く
 
鈴懸に吹く風つよき夜の更けて眠らんとする心疲れて
 
シンビジューム花盛る部屋に妻といて恋ふるはすぎしひびの事毎
 
冬の雨細かく降りて山の奥のダムにきたれる鴨も減りたり
 
椰子巡り掃射逃れし五家少尉の電話かけきぬ四十年ぶりに
 
白根より吹きくる雪は朝明けの庭に積もりて風靜もりぬ
 
鳴く声のあやしき朝の鳥にめざむ兵の日の空虚なる心偲べり
 
辿り着きしプレスは人ら逃れ去り熟れしパパイヤの黄のまぶしけり
 
こやみなき梅雨の峪畑霧らいて桑刈る人の影淡あわし
 
花匂ふ菖蒲に暗く梅雨そそぎ父の忌近き墓の草引く
 
峠みちに降る雨詫びしなげすてし空きかん光る草むらのなか
 
春挿しのゴムのあかきめ伸びたちて若き広葉に残暑のつづく
 
バスのなかに硫黄の臭う殺生河原ゆく白根の山に紫陽花の白く
 
買いテキシマンゴオの香お懐しむ初めて土人にもらいし兵の日
 
いま一度日本の土を踏みたしと願いつ逝きし兵偲ぶ夜に
 
僅かなるサクサク採りて命保つ兵の日思いつつ馬領薯掘りぬ
 
梔子の花咲く梅雨の朝を逝きし兵なりし友の葬にぞゆく
 
銃剣も敵に納めて椰子の実を割るすべもなし悲しき敗戦
 
夕まけて熱き雨降る砂の上浜昼顔の大きくさける
 
懐しきひと恋ひおれば梔子の花に降る雨やさしき音す
 
草お刈る僧に訪ねて参でたり加部安の墓は黄揚花匂ふ
 
君の賜いし蜜柑の味に想ふなり逢うすべもなく共に老いたる
 
桧笠ひとつ求めし宿場町冷たき湧く井あり手にすくいたり
 
古さびし格子戸建てて僅かなるもの商へる奈良井の宿は
 
落葉掻きて小さなやどかり探し捕る波のしぶきの及ぶ岬に
 
妻の看護に過ごす明け暮れ続く春シンビジュムはついに花みず
 
痩せ細り帰還りし家に妻の居りき四十余年前の日の夢おみる
 
夜光虫ただやう浜に独り寝て故郷の唄口ずさみたる
 
友の寝息疎ましき夜は部屋を出て広き湯槽に吾独りなる
 
ほのぼのとあけゆく谷の瀬の音お大き湯ぶねに和むひさしき
 
看板の赤鮮やかな古き飯店にもちくる料理の辛きおくらお
 
観音像建て慰霊せりニューギニヤに残しし戦友を今日も偲びて
  
戦場歌詠むも儚なし逝きたりし戦友らしのべりながらえ老いぬ
 
葉牡丹の色鮮かに陽の射して吾が生れし日の朝の靜けさ
 
恋ひてきし飛鳥路寒し香具山に懸かれる月の白き輝き
 
エヤコンの音靜まりし民宿に飛鳥鍋囲む吾がはらからと
 
ひとくちの酒に染みたる妹の髪の白きを心にとむる
 
青き藻の水になびける飛鳥川いにしえ人の足跡偲ぶ
 
古寺跡の礎石に薄き霜置きてイヌノフグリの紫深し
 
己独り今日あるお思ふ夜の目覚め浮かびくる戦友の童顔あわれ
 
 
 
    萩の旅  一九八四ー三月
 
マグネチュド七・六の地震ありと高度一万米の機上に聞きぬ
強き陽光窓より射して靜なる機内に妻の寝息かそけし
雨に濡れし空港に陽のやわらかく歩み早めてバスにのりたり
津和野路の春未だ浅し安徳天皇八才にて没すとここ壇の浦
社殿前の蘇鉄の青き株しげり赤間神社えの玉砂利の音
龍宮門白き社の中に立つ海なぞらえし広き神殿
関門の流れのはやし渦巻来て合戦のありし日の偲ばるる
瑠璃光寺の山門入ずれば紅梅の色付き染めて春陽の光
山茶花の朱の眩しき砂利の道古りて侘びしも人疎らなる
中国の山川しのぶ雪舟の庭を眺むる青葉の繁り
津和野から萩への峠雪残り松陰の泪松の面影も無く
朱の鳥居長く並べる坂の道くねりて遠しタイコ谷稲荷社
石積の狭き古井は羊歯繁り高杉晋作邸の細き軒端
石畳渡れる処棉実とび石蕗の葉の広く輝く
ひとつのみ実の残されて古りし拓榴庭に及びて哀れを誘う
風雪に耐えて残りし木戸公庭を彩る拓榴は古りて残れる
竹林の中道を行くバスの窓に夏坩の黄の心に染みぬ
日の本の胎動の地萩を訪ね 疲れおぼゆる阿部川の音
萩焼きの 工房に来て妻と選らぶ茶器ひとくみに時を過ごせる
紅梅のやや咲き初めて靜なる日和明る黄津和野路の旅
わらじはきて訪ねし人の面影を今に残して古塔の立てり
大内氏の盛時を憶ぶ五重塔嵩きなかにわびしき古塔
盛り土に枯れ草覆いてものさびし塚並びたる木だち囲みて
叔心にしむる夏坩のいろゆ            
 
 
 
 
編集後記
 
 父が平成二年の晩秋に 本人が体験した『ニューギニヤ戦記』を作りたいので、
ワープロを買いたいと言い出しました。
 私は、どうせ買うならノートパソコンをと、 それを勧め 私の使用している物より
高機能のパソコンを買い求め、父は毎日毎日キーボードに向かい、
若い時から書き留めた原稿から一冊の本にするだけの文章が出来ました。
父が七十二歳の時だったと思います
 私が文書スタイル等詳細を設定して手作りで平成三年十月に
何冊かの『ニューギニヤ戦記』を作りました。
 以来十年が過ぎ 父も逝き、改めてニューギニヤ戦記を出版したいと思い、
最初から何度も何度も目を通し、時には濡れる頬を手の甲で拭い乍ら時間を忘れて
準備しました。
                 『読みて知る 我が父の心深きを』
                                    佐藤
 
    『ニューギニヤ戦記』 佐藤 耕太郎 
                平成十五年十二月 発行