キリコと三日月みみず

   ニワトリのキリコは、空を歩いておりました。空にはたくさんの魚が泳いでいます。キリコはちょうど目の前を通りかかった黄色い魚に道をたずねてみることにしました。魚は頭を下にして泳いでいます。

  「もしもし、黄色い魚さん。ちょっとすみません。」キリコが話しかけても、黄色い魚は振り向いてくれません。どうしたのかしら。まあ、いいや。きっと時間があり余っていて暇過ぎるんだ。ひと休みして、もう少し先まで行ってみることにしよう。

   キリコは空から降りると、365階建ての高いビルの上で昼寝をすることにしました。赤い花があたり一面に咲いています。空を見上げると、空はまるで大地のような色をしていました。

   キーン、キーンという音が空いっぱいに響き渡っています。むかしむかしの子守唄でも聴いているみたいだなあ。キリコは目を閉じて、自分の子供の頃のことをほんのちょっぴり思い出しておりました。

  「もしもし、ニワトリさん。あなたの大切な身体を食べたいんですが、食べてもよろしいでしょうか?」眠い目をこすりながらキリコが目をあけると、三日月のような顔をしたミミズが赤い花の陰からキリコを覗きこむように見上げておりました。
 
   キリコはこんなへんてこりんなミミズにお目にかかったのは初めてでした。ニワトリを食べるのに、食べても良いですか、なんて聞いたこともありません。それにミミズがニワトリを食べるだなんて思わず笑い出してしまいそうです。「いいえ三日月ミミズさん。残念ですが私はまだやることが沢山あって、あなたに食べていただく訳にはいかないんですよ。」笑いながらキリコは答えました。
 
    「そうですか。それはそれは大変お気の毒なことですねえ。」三日月ミミズは両手を合わせてまるで哀れむかのようにキリコを拝むような格好をしてみせました。目にはかすかに涙さえ浮かべているのです。なんだか様子が少し変です。
 
    三日月ミミズはそのまま赤い花の後ろの方へそろそろそろと隠れようとしました。キリコは思わず尋ねました。「三日月ミミズさん。どうして私がお気の毒なんですか。私はまだやることがいっぱいあって、食べていただく訳にはいかないと言ったんですよ。」
 
    三日月ミミズが後ろを振り返り答えました。「どうもすみません。お気に障りましたでしょうか。特にどうということもないんです。ただ、あなたもやっぱり私と同じなんだなあ、と思ったら、つい、お気の毒に思えてきてしまったのです。」
 
    「私と同じって、それはどういうことですか。」キリコは三日月ミミズが自分だけ老成して、全て分かってでもいるかのように言うのがどうも癪にさわってしかたないという様子です。(こいつ、僕のいったいどこがお気の毒だっていうんだ!)内心の怒りをキリコは隠し切れませんでした。
 
    三日月ミミズは、ちょっと困ってしまいました。まずいことを言ってしまった、と実はちょっぴり後悔してしていました。
 
    「つまり、その、ええと。」三日月ミミズは言葉を詰まらせてしまいました。それをじっと見ていたキリコは、はっと気がつきました。三日月ミミズには目も鼻も口もないのです。
 
    三日月ミミズがようやく話はじめました。「つまり、こういうことです。」キリコは三日月ミミズの顔のどこに焦点を合わせて話を聞いたらよいのかわからず、ただ漠然と三日月ミミズの顔を眺めておりました。
 
    「実はですね。私もやることがいっぱいあると思っているんです。それをやるためにはどうしたらよいか。そう、そうなんです。まずは食べなくてはなりません。やることがあるうちは、何しろずっと食べなくてはならないのです。食べられることなんか考える暇もないんです。」三日月ミミズは空を泳ぐ黄色い魚の方に体を大きくそらしたまま、また黙り込んでしまいました。
 
    キリコは三日月ミミズの遠まわしな言い方にだいぶいらいらしてきました。だから、どうして、どうして僕が気の毒だってことになるんだ。僕にはまだ今日中に行かなければならない所があるんだ。キリコが時計を見ると約束の時間まであと30分もありません。ああ、大変だ、遅れてしまう。
 
    三日月ミミズは、そんなキリコの気持ちを知らずに話し出しました。「お互いが食べることばかり考えている。それがどうやら生きるっていうことらしい。最近ようやくわかってきたのです。みんながお互いに誰かを食べることばかり考えていて、満腹の時だけニコニコして暮らしているなんて、とんでもない悲劇ですよ。気の毒ですよ。僕たちはみんな。」
 
    キリコはもうこれ以上三日月ミミズの話を聞いているのがバカバカしくなってしまいました。ろくにさようならの挨拶もせず、キリコは空に舞い戻りました。三日月ミミズは相変わらずビルの屋上でひとりで何かをしゃべっている様子です。それを見ているとキリコはなんだか急に背筋が寒くなって、もう少しで三日月ミミズの頭の上にオシッコをもらしてしまうところでした。