蛙のヒカルくん

   蛙のヒカルくんは、はすの葉の上で昼寝をしていました。池はとても静かです。時折、仲間の蛙がボチャと池に飛び込む音が聞こえてくるだけ。その度に、ヒカルくんは薄目を開けて、あたりを見回しておりました。

  「ぼくは、死ぬまでこの池にいるのかなあ。」ヒカルくんはぼんやり考えました。そう考えると、何だかこの池での生活がとてもつまらないもののように思えます。
       

   ヒカルくんはゆっくり頭をあげました。近くのはすの上でエルゴおじさんが昼寝をしています。大きな口を開けてエルゴおじさんはよだれを垂らしていました。

  「昼寝ばっかりしていて、蛙は他にすることがないのかなあ。」ヒカルくんは自分が蛙であることを忘れたかのようにため息をつきました。木漏れ日がエルゴおじさんのしわくちゃの顔をキラキラ照らしています。

  「エルゴおじさん。」ヒカルくんは大声でエルゴおじさんの名前を呼びました。エルゴおじさんは眠そうにゆっくり目を開けるとヒカルくんの顔をまぶしそうに見上げました。「うん?ああ、ヒカルくんか。何か用かい。」エルゴおじさんはそう言うと大きなあくびをしました。
  「ねえ、エルゴおじさん。おじさんは死ぬまでこの池にいるの?」エルゴおじさんはヒカルくんの質問にちょっと驚いたようでした。「うん。まあ、そうだろうね。」両手を広げて伸びをしながらエルゴおじさんが答えました。
 
  「それで、つまらなくないの。何かやってみたいとか、ああいうところに住んでみたいとか、そういうのって何もないの?それじゃあ、まるで死んでるみたいじゃない?」ヒカルくんは少し不満そうです。
 
  「そうだなあ。ヒカルくんはまだ若いから、そう思うのも無理はないかもしれないなあ。」エルゴおじさんは、はすの上にあぐらをかいてタバコを吸い始めました。タバコの煙はもやもやとした白い線を描いて池の上を流れていきます。
 
  「ヒカルくんは何かやりたいことでもあるのかい?」エルゴおじさんがヒカルくんに尋ねました。ヒカルくんは素直に答えました。

  「特に何かをやりたいってことはないんだけれど、ただ、このまま何もしないで死んでしまうのは厭なんだ。」エルゴおじさんはうなづきながら聞いていました。

  「何かやりたい。でも、何をどうやったらいいのか僕には皆目見当がつかないんだ。それをできたらおじさんに教えてもらいたいんだよ。」ヒカルくんはボチャと池に飛び込むとエルゴおじさんのいるはすのところまで泳いでいきました。

  「ヒカルくん。考えるっていうことは、とても大事なことだよね。でもね、考えてばかりいると結局何もできないで終わってしまいそうなきがするよ、おじさんにはね。」エルゴおじさんは少し声を落として言いました。

  「実は、この池にいる何も考えていないような連中もみんな、昔はヒカルくんと同じようなことを考えたことがあったんだよ。でもだめさ。結局考えるだけだったから。もしかしたら動けなかったのかもしれないけれど、結果として動かなかったんだ。」エルゴおじさんはタバコの灰をぽとりと池に落とすとまた、はすの上に寝転びました。

  「この池の向こうに何があるか。それは、たぶん、考えてわかることじゃないんだ。実際に行って見なきゃだめなんだよ。ヒカルくんは行ける?見たこともない世界にひとりではいっていけるかい?」

  エルゴおじさんの質問にヒカルくんは正直自信がありませんでした。僕はひとりでこの池を飛び出していけるんだろうか?エルゴおじさんはそんなヒカルくんの気持ちを察しでもしたかのように言いました。

  「動かなかったら、たぶん、ずっとこのままだと思うよ。今、池に飛び込んだマルタだって、ほら、あそこの草の茂みでハエを狙っているヨセフだって、この池にいるカエルたちはみんなこの俺と同じように、昼寝をしたり池に潜ったり、そうやって毎日毎日を過ごして、そして最期に死んでいくのさ。考えようによっては、それはそれで素晴らしいことじゃないのかなあ。なあ、ヒカルくん。」エルゴおじさんはちらっとヒカルくんの方に目をやりました。

  「平凡というのも、結構捨てたもんじゃないとおもうけれど、どんなもんだろうね。」エルゴおじさんはそう言って、タバコをはすの上に置くと、そのまま池に飛び込んでしまいました。

  しばらくすると、エルゴおじさんは少し離れたところから顔をだして、「まあ、よく考えて、決めたら一気に動くことだね。それでヒカルくんの人生が決まるんだ。それが生きるっていうことだよ。」とそれだけ言うと、また池の中に潜ってしまいました。

  はすの上にエルゴおじんさんの吸いかけのタバコが転がっていました。そこから出る煙がヒカルくんの方に流れてきます。ヒカルくんはそのタバコを拾うと、そっと口に運んでみました。静かに息を吸い込んだとたん、ヒカルくんはごほごほと咳き込んでしまいました。

  ヒカルくんはエルゴおじさんのいたはすの葉の上で、両手を枕代わりにしておじさんの真似をして仰向けに寝転んでみることにしました。そうして、自分がこの池を出て行ったときの姿と出て行かなかったときの姿を考え合わせてみました。

  青い空にゆっくり雲がながれています。その雲を見ているうちに、ヒカルくんはだんだんだんだんと眠くなってきてしまいました。

  ヒカルくんが池を出て行ったのは、それからひと月ほどした月の夜でした。ヒカルくんはみんなが寝静まった真夜中にそっと池から這い上がりました。そして、お月さまに言いました。「お月さま。僕はやっと決心がついたんだ。僕は僕の思うことを、今僕が一番良いと思うことを自信をもってやるだけだよ。」

  それからヒカルくんがどこへ行ったのか、今どうしているのか、池のカエルもそして私も知りません。そうですね。もしそれを知りたかったら、あなた自身がヒカルくんになってみるしかないでしょうね。