都会に行ったツムリくん

  小雨の降る朝、かたつむりのツムリくんはやっとのことで電車に乗りました。額にはうっすら汗が滲んでいます。それもそのはずです。あわてていたツムリくんは、電車がホームに入ってくるときに、もう少しのところで電車の車輪とレールにはさまれて死んでしまうところだったのですから。

   ゆったりと電車がホームを離れていきます。ツムリくんは電車の最後部にぴったりくっついて汗をふいていました。ああ、よかった、なんとか電車によじ登ることができた。そう思って、離れ行くホームに目をやったツムリくんはびっくりしてしまいました。なんとホームのすみでツムリくんのお母さんが手を振っているではありませんか。実はその朝、ツムリくんはお母さんには内緒でそーと家を出てきたのです。それなのに、何故おかあさんはホームに来ているんだろう。ツムリくんは手を振ることも忘れてじっとお母さんを見つめていました。

  ツムリくんのお母さんはとても心配性です。もし、ツムリくんが、「電車に乗って都会に行ってみたい」なんて言ったら、びっくりして腰を抜かし、泣き出してしまうかもしれません。

  お母さんはホームのすみで手を振っていました。片手には白い小さい花をしっかり握っています。白い小さい花はかたつむりの花ことばで「希望」という意味があったことをツムリくんは思い出しました。

  「気をつけるのよ。」お母さんの声が小さくツムリくんの耳に届きました。

  「お母さん、心配しないでください。すぐ帰ってきますからね。」ツムリくんは思わず大声を張り上げて答えました。

  電車がホームから次第に遠ざかり、トンネルにさしかかった頃、ツムリくんは少しずつ電車を這い登っていきました。

  小一時間かかけて、ツムリくんはようやく窓ガラスの下のあたりまで這い上がってきました。思ったより電車にあたる風は強く、ちょっと油断すると電車から吹き飛ばされてしまいそうです。ツムリくんは恐る恐る電車の窓から電車の中を覗き込んでみました。

  電車はひどく混んでいました。ツムリくんの田舎ではこんなにたくさん人がいるのを見たことがありません。ツムリくんのふたつの目は好奇心でにょきにょきにょきにょき伸びていきました。

  「ねえ、おじさん。」窓の外から、窓際の長い座席に腰掛けてこっくりこっくりしている見ず知らずのおじさんにツムリくんは声をかけました。

  「ねえ、おじさん。」おじさんは、どこから声がしているのかわからないらしくきょろきょろきょろきょろ辺りを見回していました。

  「ねえ、おじさん。窓の外だよ。」おじさんはやっとのことで窓に張り付いているツムリくんに気がつきました。

  「おお、なんだカタツムリか。うん。何か用かい?」おじさんはからだを後ろの方にひねるようにしてツムリくんに言いました。

  「うん。あの、すみませんが、今何時だかわかりますか?」ツムリくんが尋ねるとおじさんは親切に時間を教えてくれました。おじさんの顔があまりにもやさしくて、そして親切だったものですから、都会は怖い怖いところだ、なんてうそみたいだ、とそんな風にツムリくんは思いました。

  ツムリくんは背中のバックから時間表を取り出しました。えーと、あー、あった、あった。時間表によると、あと1時間ほどで都会につきます。ああ、都会についたら何をしよう。ツムリくんはもう嬉しくて嬉しくてわくわくうきうきしてきました。

  「君はこれからどこへ行くんだい。」しばらくしてから、さっきのおじさんがうしろを向いてツムリくんに尋ねました。おじさんは背広を着て菜の花色の黄色いネクタイを締めていました。つり革につかまって立っている人の広げた新聞が、おじさんの少し禿げ上がった頭を時々こすっています。隣のおねえさんは熟睡していて、電車の揺れるたびにおじさんの肩に倒れかかってきます。

  「ぼく?うん、ぼくはこれから都会に行くんだよ。」ツムリくんはうれしそうに、そして少し誇らしげにおじさんに答えました。
 
  「都会ねえ。都会って言っても広いんだよ。君は都会のどこへ行こうっていうの?」おじさんが聞きました。電車の向こう側に、ツムリくんが今まで見たこともないような大きな高いビルがそびえています。

  「うん。それは、これから考えるよ。」ツムリくんが答えました。おじさんは、それを聞くとうれしそうに今まで以上にぐっと身体をねじると窓に顔を近づけるようにしてツムリくんにささやきました。

  「それだったら、おじさんが都会を案内してあげるよ。ね、どうだい。次の駅でおじさんと一緒に電車を降りることにしようよ。面白いぞ、絶対だよ。」ツムリくんには特に断る理由もありませんでした。おじさんの肩に乗せてもらって、ツムリくんは次の駅で電車を降り、都会の雑踏にまぎれていきました。

  おじさんのおかげでツムリくんは夕方までに都会をだいぶ見て回ることができました。雨もいつの間にかあがっています。まだ少し湿り気のある公園のベンチに腰を下ろすとおじさんが言いました。夕暮れのせいか、おじさんの声は少し疲れているように思われました。

  「どう、都会は気に入ったかい?」おじさんが聞きました。ツムリくんはしばらく考えていました。

  「うん。まだ半日くらいしか都会を見ていないから、ぼくにはなんとも言えないけれど、思っていたほどいいところでもないような気がしてきたよ。都会は、なんだかとても疲れるところみたいだね。」ツムリくんの言葉におじさんは大きくうなづきました。

  「半日でそれだけ分かるようならたいしたもんだよ、君は。おじさんは、実を言うと、昨日会社を定年退職したばかりなんだけれど、今日の今日まで、そこのところをわかっていながら、よく見て見ようとしないで過ごしてきたような気がするんだ。生活のためにね。都会は疲れるところ。うん。まったくそのとおりじゃないのかな。」おじさんは、そういうとほっとため息をつきました。

  「おじさん。ぼく明日田舎に帰ることにするよ。お母さんがきっととても心配しているから。そうだ、おじさんも田舎においでよ。今度はぼくが田舎を案内してあげるよ。」おじさんはそれを聞くとうれしそうに大きな声を出していつまでも笑っていました。