出ていったタロちゃん

  夏のはじめのことです。青い空に白い雲がふんわり浮かんでいました。小学3年生のタロちゃんは、土手の上から遠くの山をみつめています。いいなあ。山は。いつもあんなにゆったりしていられるんだから。雲がしずかにタロちゃんの頭の上をながれていきます。太陽は、ぎらぎらとタロちゃんの顔を照らしています。

    その日は学校のある日でした。実は、タロちゃんはお母さんに内緒で学校をずるやすみして、土手の上に来ていたのです。私は、じっとタロちゃんの様子をみていましたが、心配になってそっと聞きました。

   「タロちゃん。お母さんに黙ってこんなところに来てしまって大丈夫なの?」タロちゃんは、まるで私の言葉など聞こえない様子です。

   「ぼくは、山がだーい好きなんだ。こうやって、山を見ているとね、学校でのどうしようもなく嫌なことなんかみんな忘れられるんだ。ぼく、今の学校が好きになれないんだよ。」タロちゃんはこの4月にお父さんの転勤で新しい学校に移ってきたばかりでした。こちらに来てからまだ友達がひとりもできていなかったのです。

   「学校は嫌だけれど、寂しくはないよ。だって、最近はいつも君がそばにいてくれるからね。」タロちゃんはニコニコ笑って言いました。そして、ふと思い出したように「そういえば君の名前はなんていうの。」タロちゃんが私に聞きました。実を言うと私の名前もタロです。

   「ヒエー、タロ。それじゃあ、ぼくとおんなじじゃんか。なんだかぼくたち双子の兄弟みたいだね。」タロちゃんはとてもうれしそうです。タロちゃんは私が本当は誰なのかわかっていないのです。

   私は、こんな言い方もなんだか変ですが、タロちゃんと仲良くできてちょっとワクワクしていました。でも、よくよく考えてみるとこれはタロちゃんにとってあまりよいことではなかったのです。

   「タロちゃん。私も一緒についていくから、やっぱり学校に行こうよ。クラスの友達や先生がきっとタロちゃんのこと、心配しているよ。」私はタロちゃんのことがただただ心配でした。もし、こんな風に簡単に学校をサボることをおぼえてしまったら、タロちゃんのためにきっとよくないに違いない、そんな風に思われたのです。

   「誰もぼくのことなんか心配していないよ。みんなぼくがいなくてせいせいしているさ。ぼくのいないクラスでみんなが楽しそうに笑っている姿がぼくにはちゃんと見えてくるよ。」確かに、タロちゃんの心の中にはそのとき、クラスの子供たちが先生と一緒に楽しそうに笑っている姿が映し出されていました。

   私はどうしたものか途方に暮れてしまいました。「行け!学校に行け!」とタロちゃんをせかせてもかえって火に油を注ぐことになりかねません。急がば回れとも申します。私は思い切ってタロちゃんに言ってみました。

   「タロちゃん、それじゃあ、私と一緒にあそこの遠い山まで行ってみないかい。」私はタロちゃんがどう反応してくるか心配しながらタロちゃんを見つめました。「たまには、いいんじゃない?ねえ、タロちゃん行こうよ。」タロちゃんは黙っていました。ランドセルを肩にかけたまま遠くの山を見つめています。日差しが強く、草いきれがあたり一面を満たしています。

  「そうだね。行ってみようかなあ。」ポツリとタロちゃんが言いました。「君と一緒なら行けそうな気がする。そうだね。そんなにいつもあることじゃあないんだし、たまにはいいよね。行こう、うん、行こう。」タロちゃんは明るい声で私に言いました。

   タロちゃんと私は、電車とバスを乗り継いで遠くの山に行くことに決めました。タロちゃんはまだ小学校3年生です。一人で電車に乗ったりバスに乗ったりするのは、本当にこれがはじめてでした。タロちゃんは少し緊張した様子でした。

   タロちゃんと私が山から家に戻ったのは、もう夜おそくのことでした。家では、お母さんとお父さんがタロちゃんの帰りを今か今かと待ちかねておりました。二人とも学校に朝出かけたはずのタロちゃんが学校を休んでいることを担任の先生からの電話で知って、ずっと家でタロちゃんの帰りを待っていたのです。タロちゃんにもしものことがあっては大変です。警察にも連絡し、心当たりのところはすべて連絡を済ませていました。お母さんもお父さんも胸が張り裂けんほどタロちゃんのことを心配していました。

   「ただいま。」タロちゃんはおそるおそる玄関のドアを開けました。お母さんにひどく怒られそうな気がしたのです。

   タロちゃんの声を聞いてお母さんが玄関に飛び出してきました。お母さんはタロちゃんの顔を一目見ただけで、タロちゃんが今日一日どうしていたのか、だいたいわかったような気がしました。

   「おかえりなさい。おそかったわね。」お母さんはやっとのことでそれだけ言うと、タロちゃんの前で大粒の涙を流して泣き出してしまいました。タロちゃんはお母さんが泣くなんておもってもいなかったものですから、本当にびっくりしてしまいました。お父さんも出てきてました。タロちゃんはなんだかとても申し訳ない気持ちになりましたが、なにしろとても疲れていたので、夕ごはんも食べずに、着替えをすませると、「おやすみ」のあいさつもそこそこにすぐにぐっすりと深い眠りについたのです。
 
    それからというもの、タロちゃんは私に話しかけることをしなくなりました。私のことはもう忘れてしまったかのようです。しかし、これでよかったのです。タロちゃんが私に会うのはまだちょっと早すぎました。タロちゃんが高校生か大学生くらいになって、人生に悩んだりした時、きっとまたタロちゃんは私を思い出してくれるでしょう。私は、その日を今から楽しみにしているのです。