杉千絵詩集「石の魚」より「綱」
河川敷公園の
北のはずれに
名前もはっきりしない木がある

枝ぶりが特によいという訳でもない
普通の木に
それほど間を置かず
男がふたりぶら下がった

(なぜこの木なんだろうか)

みんなが忘れてしまった頃になって
その木のそばに寄って
叩いて
何度も品定めをした

死んだひとには枝ぶりなどどうでもよく
首を入れた綱が救いであり
魔だったのかもしれない

木から下がった
寝巻きの紐に似た綱が
透いてみえる頃になって
そのとき
綱があってもわたしなら木もろとも
こっちむきにぐいっとすがって
倒れないための
いのち綱にしたのに
と声にしてみた


第1聯。「河川敷公園の/北のはずれに」あるという木をいつかこの眼で見て来ようと思いました。たぶんその木があるのは、前橋刑務所の裏手あたりではないでしょうか。

第2聯。第3聯。その木は「(なぜこの木なんだろうか)」と思ってしまうほど、とりたてて特徴のない「普通の木」です。その「普通の木に/それほど間を置かず/男がふたりぶら下がった」。首吊り自殺です。

第4聯。第5聯。杉さんには、(なぜこの木)なのか不思議でならなかったのでしょう。何度もその木を「叩いて」みたりして自問自答したようです。「枝ぶり」なんかどうでもよかった、ただ「綱」があればよかった、というのが杉さんの結論でした。自殺した人にとって、そこにある「綱」は「救い」であったのかもしれませんが、別の見方をすれば、単に「魔」が悪かっただけなのかもしれません。

第6聯。「寝巻きの紐に似た綱が/透いて見える頃になって」という表現はどういうことでしょうか。時間がたって綱がボロボロになり、透いて見えるようになったということでしょうか。あるいは、「何度も品定め」をしているうちに、もう存在していない綱が、時間を透いて見えるような気がした、ということなのかもしれません。
「そのとき/綱があってもわたしなら木もろとも/こっちむきにぐいとすがって/倒れないための/いのち綱にしたのに/と声にしてみた」。ここでも「木」には正樹くんの「樹」のイメージが重ねられているように思われます。「こっちむき」というのはあの世とこの世を考えた場合のこっちむき、この世ということではないかと私はには思われるのですがいかがでしょうか。生きようとすればいくらでも生きられた人が、なぜ自ら命を絶ってしまったのか、正樹くんのことを思うと残念でもあり、腹立たしくもあるのです。