杉千絵詩集「石の魚」より「軽い日」
岩の割れ目に
病いをひとりで抱え込んだ
魚がいて
互いにじぐざぐではあったが
目が会うたびに
相手をからかった

ねぇ
太陽だって
人参だって
たまには
水に落ちて泳ぐのョ

今どき
頑固 すぎやしない?
呼ばれたらそんときのことでしょ
ほら こっちむいて
泳いで泳いで

奇妙なことに
魚の頭はまだ柔らかかったので
青くなったり
赤くなったり
ついに
立ち泳ぎのしぐさを
ちょこっとしてみせる

隠していた手足を小出しの様子ったら
まるで初めての高下駄でも履くみたい

重いものストンと手放して
病室中が笑いの海になった



微妙に食い違いを見せる6聯の詩文から、私はプールで泳ぐ正樹くんの姿を思い浮かべました。

第1聯。「岩の割れ目に/病いをひとりで抱え込んだ/魚がいて」というのは、プールの隅ですこし怯えている正樹くんの姿。魚は一匹?二匹?「互いにじぐざぐではあったが」というときの「じぐざぐ」は魚の進み方を示しているというよりも、「目が会うたびに/相手をからかった」その目がふらふらっと出会う、その出会い方、あるいはからかい方にかかっていると考えます。

第2聯。「ねえ/太陽だって/人参だって/たまには/水に落ちて泳ぐのヨ」という掛け声は杉さんが正樹くんに呼びかけたもの。太陽が泳ぐ?人参が泳ぐ?いやそれは勿論、たまにだって泳がない。絶対に泳がないけれど、そう言ってしまうと悲しい。たまには泳ぐと信じたい、そういう奇跡を望んでしまう気持ちが現れているのではないでしょうか。あるいは、そういう冗談を言う位、軽い気持ちになってみたら、とそういうことかもしれません。

第3聯。「今どき/頑固 すぎやしない?」。なんで「今どき」なんでしょうか。なかなか泳ごうとしない正樹くん。他の子たちは、みんなプールに入って泳ぎ回っている。泳ぐなんてことは昔と違ってちっとも特別なことじゃない、それを際立たせる言葉として考えるのが良いかもしれません。「呼ばれたらそんときのことでしょ」。とても重たいけれど考えようによってはまた軽い呼びかけでもあります。誰だってあの世から呼ばれることがある。そうなったらそうなったでその時のこと。「ほら こっちむいて/泳いで泳いで」。プールで泳ごうとしている正樹くんの姿と、日々の車椅子の生活をしている正樹くんの姿とがだぶって見えてきます。また、正樹くんに接する杉さんの心の中の2重構造のようなものも浮かび上がってくるようにも思います。強くなれ正樹!

第4聯。「奇妙なことに/魚の頭はまだ柔らかかったので/青くなったり/赤くなったり/ついに/立ち泳ぎのしぐさを/ちょこっとしてみせる」。魚の頭が柔らかい、というのは物理的な意味合いも多少込めつつ、柔軟な思考力があることを示していると思います。「青くなったり/赤くなったり」というのは信号の青と赤。青は進め、赤は止まれのイメージと実際にプールの中で、泳ぐぞ、いやだめだ、を繰り返す正樹くんの姿とが重ね合わせられています。「奇妙なことに」というのは若くて柔軟な思考力をもっている正樹くんが教えもしないのに「立ち泳ぎのしぐさ」をしてみせたことを指して言っていると考えます。

第5聯。「隠していた手足を小出しの様子ったら/まるで初めての高下駄でも履くみたい」。顎を前に突き出しての立ち泳ぎのしぐさが、高下駄を履いた時のようだというのです。可笑しくもあり、また、どことなく悲しくもあります。

最終聯。「重いものストンと手放して」という文からは、心から決して離れることのない病気のことが、ほんの一瞬でも離れた様子が伺えます。「病室中が笑いの海になった」。正樹くんの水泳の様子を話したら、病室にいたみんなが笑った。軽くなれた日でした。