夢三夜

例えば映画。映画を見ているとき、それが、ひとこまひとこまのカットから出来あがっていることを考えることはありません。そんなことを考えていたら映画の世界にのめりこんでいけません。

この世界には、こんな映画的な事象がたくさんあるように思えます。私は、こんな映画的な事象の背後に、ちょっと大袈裟に言うと、隠された宇宙生成の神秘を感じています。

夢でこんな質問と出会いました。
「神はひとこまひとこまのカットから宇宙を作ったと思いますか?」
神という言葉になんとなく抵抗を感じるというのであれば、
「宇宙はひとこまひとこまのカットから成り立つと思いますか?」
と言い換えてもいいかもしれませんね。

私は、夢の中で、随分長い時間をかけて、よくよくこの問題を考えてみました。

もし、宇宙がひとこまひとこまのカットからできているとすると、この唯一無二の自分自身、持続する実在である自分自身、生身のこの私自身が無数のカットに切り刻まれてしまうことになってしまいます。

ちょうど、ゼノンの放たれた矢のようなものです。矢は空間に停止し、地上に落下してしまいます。カットされ切り刻まれてしまった私自身は、瞬間に凍りつき、あえなく命を落してしまうように思われます。

夢の中で、この想像はとても恐いもの、もしもそれが真実であるとしたら身の毛のよだつような恐ろしいことであるように私には思われました。絶対に映画的には宇宙はできていない。それが、私の夢の中での結論でした。

夢から目覚めようかというあの瞬間に、私は、もうひとつの質問に出会いました。
「それでは、宇宙はひとつひとつの分子から成り立っていると考えますか?」
これがその質問です。

なんだ、どこが違うんだ?と思われるといけませんので補足しておきましょうか。簡単に言えば、先ほどの質問が時間軸にかかわる質問だとしたら、今度浮んできた質問は空間にかかわる質問です。

この質問に対しては大方の人がイエスと答えるのではないでしょうか。しだいに覚醒していく意識の中で私は、なぜなんだろうか、なんでさっきはノーだったのに今度はイエスなんだろうか、と不思議な気持ちで自問自答を繰り返しておりました。

この状態は目覚めてからも続きました。そして、遂に布団の中でひとつの結論に達しました。

『理性は時間には遠慮気味だが、空間に対しては傲慢だ。』
理性は時間を切り刻んだりはしないが、空間だったら平気で切り刻んでしまいます。

人間の俗世界に類推して考えてみましょうか。時間は理性の先輩みたいなものです。理性は遠慮ばっかりしていて時間に対しては言うべきことを言いません。しかし、空間は理性の後輩のようなもの。理性は先輩づらして空間に対して、あることないこと言いたい放題の状態です。

こんな馬鹿みたいなことを考えて、私は、今まで誰も発見したことのない真理に一歩近づいたような気になって、ひとり御満悦でありました。ただ、その御満悦状態の中でも、どうも自分の判断はどこか間違っているかもしれないな、という一部保留状態の領域がありました。

それは、空間についてです。空間の細分化と物質の細分化。これは全然違うことなのではないでしょうか。

先ほどの質問は、
「宇宙はひとつひとつの分子から成り立っていると考えますか?」
ということでした。この質問は、この大事な相違を明確に意識していない質問のように思われます。もしこれを、
「空間はひとつひとつの分子から成り立っていると考えますか?」
と言い換えてみましょうか。そうすると、私は実際のところ考え込んでしまうのです。

物理学は、物質についてその何たるかを少しづつ究明してきました。しかし、よくよく考えてみると、物質がその中に入っている空間については何も解明できていない状態です。空間は時間と同じように細分化を許さない。私にはそんな風に思われました。

そこで、私の馬鹿げた結論を言い直しておきましょう。
『理性は時間と空間には遠慮気味だが、物質に対しては傲慢だ。』

いかがですか。こんな反合理主義宣言に通じる夢は?