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むつみホームページ




20050220 《難病について医者のかかり方ついての私の思い込み》

@難病と診断した医師がどの大学出身者かを見極める。

 出身大学の大学病院の考え方によってその医師が難病に対する固定観念を持っている可能性があり、治療がある程度のところから進まなくなる可能性があるので大学病院の治療実績などからその病気の治療に対する考え方を理解するということです。

A診断した医師がどの系列にいるかを見極める。

 国立病院など全国的に系列化されている場合。医師もその中で人事異動をしているので、現在の主治医が以前どこの病院にいたかを知ることによって、治療に対してどのような考え方の影響をそこから受けているかわかります。

B医師の考え方に柔軟性があるかを見極める。

 難病は治療法が確立されていない病気のことですが、今までの経験で難病イコール治らない病気と考える医師と、難病イコール直る可能性のある病気と考える医師がいるということです。

 前者はそれまで確立された治療方法を駆使しますが、ひと通りやってしまうとそれより先に進まなくなってしまいます。

 後者の場合、患者にとって、頼りがいがあります。今までの治療方法にとらわれず、他の医師の治療方法にも目が向いていて、固定観念や、医療機関の系列にとらわれない自由度があるので、自分の治療方法と他の治療方法の有利さとを同じ土俵に上げることができ、結果的に自分の治療方法よりも他の治療方法が優れていると判断すればすぐにそのことを患者に伝えることができるということです。



20030204
《教師に値しないただの公務員》


  「公務員として当然のことをしているだけです。」(だから卒業式の時に父兄から教師への記念品はいりません。)

 平成15年1月17日県立F高等学校 、PTA第三学年委員会で3年生の学年主任のM先生がおっしゃった言葉です。

 M先生はこれに先立って校長に相談したところ校長は「(記念品を拒否するのは)時代の流れで仕方のないことだ」とM先生に承諾を与えたそうです。

M先生の言葉をその時の雰囲気から考えると

@公務員として必要な業務以外のことはしていない。
Aだから父兄から感謝されることはしていないので
B記念品をもらう筋合いではない
C以上のことはすでに校長に承認を得てあるので
D学校の方針として決まったことである
Eだからこの会議で承認するのは当然のことだ

というふうに感じられました。

 昨年までは《卒業を祝う会》の時に卒業生の父兄がお世話になった先生方に感謝の気持ちと労をねぎらう意味で記念品を贈って卒業式の体裁が整っていたようですが、結局その会議では反対する人はなくて、そのままM先生の意見が通ってしまいました。

  卒業式というものは学校生活の別れを恩師と惜しみ、これから新たな世界に踏みだそうとしている若者たちを激励する場であり。父兄からすると、お世話になった子供たちの恩師に対して、《自然にわき上がってくる感謝を形にした記念品》を贈る場であるともいえます。

 卒業式全体が形骸化すればするほど無意味だと思われること(今回の場合《卒業を祝う会》の時に記念品を贈ること)を形として残しておかないと卒業式そのものが意味がなくなってしまうことにもなりかねません。

 記念品を贈る行為が今の時流に合わないというのであれば、お礼の言葉を父兄から子供の恩師にかけるということで替えることはできると思います。

 ただその時に、「感謝の気持ちは記念品を贈られなくてもじゅうぶん伝わるので、ものとしての記念品は要らない。」という説明であれば父兄として理解できますが、
 今回のように唐突に「公務員として当然なことをしているから記念品が要らない」というのでは、@ABのような一連の考えから、《教師に値しないただの公務員》像が頭に浮かび、このような人間に子供を任せていたのか、という気持ちが頭をよぎるのも当然のことのような気がします。


助言の難しさ

 人間は子供の時から自分のわがままを他人に押し付けたいという欲求をだれもが持っているものですが、その欲求が初めてはねつけられたときから集団の中の自分自身を意識し、他人と自分との欲求のぶつかり合いが始まります。自分自身の中で、自分の我慢できる欲求と 我慢できない欲求 の区別をして自分の心の中に自分の欲求をしまい込んで他人に見せまいとするようになったり、今まで望んでいたことよりももっとよく見えるものが現れたりするとそっちの方に気を取られて、今まで望んでいたことを忘れてしまったり。そして、そうしているうちにどれが自分の本当の我慢できない欲求か、我慢できる欲求か。わからなくなってしまうこともあります。でも、他になにも障害がなければ自分なりのやりたいことは自然に見つかることでしょう。

 しかし、自分の欲求を押さえるのが他人、特に親の場合だったらどうでしょうか。自分自身でいろいろ悩んで自分の本当にやりたいことを探している子供たちが親の意見や態度によって自分自身の欲求を抑えつけられ親の思ったように育てられるとき、親に反発できる子供たちはまだ救いようがありますが従順でおとなしい子供の場合、親に意見もいえずそのまま人生を終えてしまう場合だってあるでしょう。自分のやりたいことを望んでも聞いてもらえないあきらめ、挫折感、無気力がその時植えつけられ何も考えない子供たちを作り出してしまうことになるのではないでしょうか。

 子供のころにあまりにも自己というものを抑えつけられると自分自身にとって本当の欲求は何なのかがわからないまま悶々とした人生を送ることになってしまいます。子供のころ押さえ付けられた欲求が 大人になってから実現できる人はまだいいですが欲求を抑えつけられたまま大人になり人生を終えてしまうようになるとしたら本当に悲惨なことです。そうやって生きた人生が他人からどんなにうらやまがられようとも、本当にやりたいことはできない人生を送ったということになってしまいます。若いときの苦労は買ってでもしろという言葉もありますがそれは自分の本当にしたい欲求を抑えてまでもすることではありません。自分のしたいことを実現するための苦労は買ってでもしろということでしょう。他人から押しつけられた苦労という意味では決してありません。

親から見るとつまらないことに苦労しているように見えることもあり、つい助言という名の親の意見で子供を押さえ付けようとしてしまいますが、それが本当の意味の助言となるか、子どもの苦労を無駄なことだとせせら笑う嘲笑になるか、ちょっと立ち止まって考えることも必要なのかもしれません。


20010628
   平成13年6月26日 H養護学校公開授業にて

9時50分より全体会議
10時30分より11時30分まで公開授業見学
11時30分から12時まで質問の時間

 最初に高等部を見学しました。  高等部の授業では春の遠足の時に行った風景を絵に描いたものを前に5人の生徒が座っていました。 生徒の絵はいずれも描きかけでした。 教師が開口一番 『だいぶ時間が経ったので、みんなはもう、春の旅行のことを忘れかけているでしょう。』 と切り出し、何かを取り出しました。それは生徒が画用紙の上に緻密に描いた細かい石垣のような部分のコピーでした。 それらを手でかざしながら 『このままでは記憶も薄れてしまうし、まだまだ時間もかかりそうなので、これを絵に貼って今回の授業で仕上げるように提案しますが、いいですか。』  と生徒に一方的に問いかけをしました。 生徒は素直に返事をして教師からそれらのコピーを受け取っていました。 

私はこの一方的な一連の問いかけを見て、直感的に、この学校に自分の子供は入れられない。と思いました。 

 公開授業の見学は高等部、中等部、小学部の順番で、東西に3列に並んだ2階建ての校舎を上や下に行ったり来たりしました。 これを案内したのはこの学校の教務主任でした。 公開授業見学会の参加者の中には足の悪い方がいて階段の上り下りはもちろん平らな床の上もつらそうに歩いていましたのに、教務主任はそれに気づいた様子もなく、さっさと案内をするのでその方はだんだんと列から遅れて各場所での案内に間に合わないという状態になってしまいました。 私たちはその方と一緒に遅れて、階段などで手を差し伸べようとしましたが、笑いながら固辞なさるので手は出しませんでした。 そして、そのまましばらく一緒に歩いていました。 しかしよく見るとこの建物にはエレベーターのあることがわかったので、教務主任に 「階段を上るのが大変な方がいるのでエレベーターを使わさせてください。」 と話しました。 教務主任は言われて初めてそのことに気がついたというふうな様子で、時間がおしているのを気にしながらその方をエレベーターに乗せる段取りをしていました。 

 私は、言われて初めて気がついた教務主任のこの様子を見て、直感的に、この学校に自分の子供は入れられない。とさらに、強く思いました。


20000513「人生の目的って何だろう」

 人間とはつくづく不思議なものだと思います。人間の生き方は一瞬一瞬をただ生きているだけなのに実際には過去も未来もあるような感じがいつもしています。人生は過去から未来までがカレンダーのようにいつもつながっているものだというふうに考えています。本当はこないかもしれない漠然とした未来を想像して生きています。そして、今までと比べて少しましになった程度で幸福感を味わったり、そうでない場合には挫折感を味わったりしているのです。新しい明日が24時間後に来るとは限らないのに常に明日が来るものだと思っている人間は、そのことだけで楽天的であるといえます。
 
この単純にして楽天的な生き物はそれ1人ひとりでは生きられもせず、集団の中でのみ自己を表現できるだけなので、どんなに個性的な振る舞いもその集団の中だけでしか通用しないという限界もあります。人間は集団の中でしか自己表現はできないし、集団の中でしか評価されないのです。ですからある集団の中で評価が低いときにはそれとは違った集団に自分の身を置いて自己表現をする場を探さなければなりません。たとえ自分が1人で生きているし、他の集団には属していない自分があると感じている人でも、所詮人間の性から抜け出ることはできないのです。実際にどのような集団に属していないとしても、自分自身の頭の中には絶えず他人の目を意識した、自分を監視するもうひとりの自分がいるはずです。回りに誰もいなくてもいろいろな判断をするときに自問自答している自分がいるということがすでにそれを物語っています。どうしようか悩んでいる時点で、すでに集団の中でしか生きられない自分自身というものを自覚しているのです。
 
人間は齢を重ねるに従って人間自身の本質を自分の経験の中から抽出し自分の哲学としていくものです。中には人間の本質をみるのに飽きてしまったり、これ以上の本質をみるのを拒否したりする人もいます。また、人間の本質を見る代わりに人間の本質が生み出した人間社会の現象面のみを追い求めているだけの人もいます。そういう人たちに哲学がないのかというとそうとも言い切れません。人間はある面では直感の動物です。ある時点で人間のすべてを見とおしたり、自分の哲学というものを生まれながらに持っている人もいますし、人間の本質がわからずに右往左往している人たちがそういう人たちに巻き込まれることもあります。また短い人生の中で早くそういった人間の本質を理解しようと焦るあまり先人の残した考え方を何の疑問もなく批判もなく受け入れる人たちもいます。そういうことを独善とか偏見とかビジネスライクとか日和見とかそういう言葉で表すこともできると思いますが。いずれにせよ、1人ひとりがそれぞれの立場で考え方を持って生きているということにはかわりありません。
 
人間の人生がゲームのようなものだとすれば早く上がった人が勝ちとなりますが、人生はひとつの過程だとすればその過程こそが重要であってその過程をどういうふうにすごすかが人生の最大の目的となるはずです。演劇の舞台のように最初から結末が決まっているとしても、その時々の心の動きや、言葉の楽しさや、動きに喜びを感じることこそが人生の最大の目的のはずです。人間は何を成し遂げたかが問題ではなく、自分自身の中で自分がどう生きようとしたか。自分の行動に自分自身が嘘を付いていなかったか。自分の回りの物事に自分の思う通りに対処できたか。そしてそれに喜びを感じることができたか、が重要なのです。 
 
こうやって考えてくると、人生の目的とは、漠然としたものに希望を持ち、集団の中の自分自身を自覚し、他人とのかかわり合いの中でそれぞれの考えを持ちながら、人生の過程を楽しむことだといえます。




19990303
「PTA会則からみえる地域というもの」

 私の住んでいる地域の小学校のPTA会則の特徴は
第一に、教育行政に干渉しないということ。
第二に、総会に重きを置いていないということ。
第三に、役員人事はいわゆる後継人事であるということ。
第四に、ほかでは余り見ることのできない準会員という制度があるということ。
の四点になると思います。

 第一番目については、会則の第四条第五項にはっきりとうたわれています。この会則がいつできたのかは知りませんが、現在までなんの改正もないまま来てしまっているようです。これって「PTAは教育に関する政治にはいっさい文句もいわないし、何かやってほしいともいいませんし、いわれたことは素直にいうことを聞きますよ」っていうことですよね。全国のPTAの会則にこの項があれば、文部省もさぞ楽でしょうにね。とりあえず町単位の教育委員会は仕事がさぞやり易いことでしょう。一言でいうと「金科玉条鵜呑み」方式とでもいうんでしょうか。

第二番目は、ふつうどんな会でも総会はその会の最高の意志決定機関として位置づけされていて、一番重要な会であると思っていましたが、そんなわたしの思いこみをこの会則は簡単に覆してくれました。まずどんな会でも重要議題であるはずの決算報告ですが、この会則の第一八条の第五項には、「三月の総会にて決算報告をする」とあり、また、第二六条第二項には「三月の総会は必要によって開くことができ、役員総会を持ってこれに変えることができる。」とあります。これって「決算の承認のための報告は必要があれば開くし、必要のない時は開かなくてもいいし、やばいときには役員だけで決算をとうしちゃおうかな」っていうことじゃないのかなあ。一言でいうと「総会隠れ蓑」方式とでもいうんでしょうか。

 第三番目は第二番目と関連するのですが、役員人事は第一七条第四項により「役員は、三月の総会において選任する」とありますがこれも、第二六条第二項の「三月の総会は必要によって開くことができ、役員総会を持ってこれに変えることができる。」があるおかげで「次期の役員は現在の役員が、好き勝手に決めさせていただきますからね」っていっているのとおなじだよね。さらに、その前の段階に、次期役員を探すための役員候補者指名委員会というのがあるのだけれど、その選出方法に具体的なことがなにも書いてなくて、第一九条第一項に「各地区の会員の中から一名選出する。」とだけあるだけで他に選出に関する条項はなにもみあたらないので役員候補者指名委員会というのはどうやって組織されるのかわからない不思議な委員会ですよね。まあ、役員候補者指名委員会はさておき、一言でいうと役員人事は「後継人事」方式っていうことになるのでしょう。

   第四番目は準会員制度なんですが、準会員というのが簡単にいうとただの集金装置なんです。というのは児童を学校に預けている会員の事を正会員と呼び、正会員からも会費を集めていますが、それ以外のその学校区に居住し、正会員以外の世帯を準会員とかってに呼んでお金を集めているのです。集めるための理由がちょっと変わっています。いままで、善意のお金をいただいていて準会員から善意のお金を集めなくなるということはその人たちの気持ちを無にするものだから、いただくのだというのです。「会則の解説」という文章によると、要するに、「準会員会費はもらわなくても何とかやっていけるのだけれど、会費を差し出すことによって地域の人たちがPTAに対して協力をしているのだと思っている気持ちを大事にしたいので準会費というかたちで、もらってやろうじゃないか」ということなんです。だから、準会員というのは第5条第3項と第10条に準会員の対象者と会費額の規定があるだけで他にはなんにも記載がないのです。もちろんPTAに対して発言権もなければ、活動報告も知らされることはありません。一言でいうと「準会員は金の卵」方式とでもいうんでしょうか。

 以上のような特徴をPTA会則が持っているのですが、このような会則が受け入れられてきたのにはそれなりの理由があるのだと思います。批判的な立場から見れば「金科玉条鵜呑み」方式、「総会隠れ蓑」方式、「後継人事」方式、「準会員は金の卵」方式は受け入れがたい考え方のような気もしますが、この会則をいただいているPTAのある地域にめを向けるとそれはそれで理解できるものなのです。

 この地域は他の山間地域と同様に過疎化が急速に進んでいる地域のひとつです。学校の児童数ももちろん次第に少なくなってきていますし、そのPTAの会員になる人も同様に減ってきています。ですから会費収入も減ってきています。行事も人数が減ったなりに縮小すればいいのですが、それができずに、以前のままのかたちで運営して行こうとしていますので、予算も必然的に不足しがちになります。ただでさえ面倒な会の運営を進んでする会員もいないので選挙なんてできないので、無理矢理、役員になってもらっています。総会も、議論の場にしてしまって、あとで会員同士しこりを残すよりは、議論の場を極力もうけないようにしたいということから、単なる年中行事の一つにわざと格下げしています。教育行政に対しては学校の存続の可否自体を決定されかねないのでなるべく当たらず触らずにしておきたいので意見を積極的にいわないようにしています。等々
 ですから、こんな会則でもこの地域にとっては必要なものだったから今まで何の批判のないまま、踏襲されてきたといえるでしょう。もちろん、状況が違えば会則も当然違うものになるでしょうが。
 最初、わたしも、このような会則があるということ自体におどろき、自分なりにいろいろ意見もいいましたが、なにか大きな壁みたいなものを感じて、直接意見をいうことは控えるようになりました。その壁が前述の会則を必要とする地域の壁ということです。

 おかげさまで、私はここで一つの教訓を勉強いたしました。「郷に入(い)っては郷に従え」です。

 もし、あなたが初めての土地の学校に子供をあげるときにその地域のことをよく知りたいのであれば、PTAの会則をとりよせ、この教訓を念頭に置きながらごらんになれば、どんなにか閉鎖的な会則であっても、心穏やかに読むことができ、けっして腹立たしくもならず、その地域の特性をつぶさに理解し、受け入れることができると確信いたします。 





19980718   「PTAの問題点」

現在、PTAの組織は、本部役員、本部を支える運営委員、各学年から選出される、学年委員、その他の一般会員から構成されています。活動内容は、こどもの福祉を考えるとか、親の勉強会、学校への労働奉仕事業が主なものです。普段の活動は、誰がやってもできるように、ほとんどマニュアル化した事業計画で埋め尽くされています。学校の運動会にしても、野外活動にしてもそうです。そこには学校の補助機関としてのPTAの姿しかありません。ですから、その中で、批判的な意見をはなしたり、質問をしたりすることは極端に嫌われます。地区のPTA一般会員との地区懇談会においても、そのほとんどの時間が、学校側のお願いや、PTAの会長からのお願いにとられます。そして事前に配られたアンケートによる一般会員からの疑問や、質問もほとんど無視されます。その場で質問や、疑問を訴えると、最後には、国会の政府答弁のような「前向きに、善処します。」というはっきりとした「意見を無視するよ」という言葉をおっしゃいます。もちろんその場では書記が議事録をとっていますが、無駄な作業に終わることでしょう。 このように、PTAの本部運営側が横柄で 、傍若無人な態度で一般会員との懇談会に臨むのか、また、一歩進んでなぜそのような組織になってしまったのかを考えてみました。


 ひとつには、PTAは、学校に子どもがあがると、自動的にPTA会員にならなくてはいけないという点です。PTAも所詮は任意団体です。PTAに必要性を感じていない親や教師にはその入会を本人の意思にゆだねるのが本来のあり方だとおもいます。このことはPTA活動にとっても活力を与えることになるでしょう。なぜなら、いい加減な事業をしていたり、一般会員の意見を建設的にとりあげて行かなければ、会員数が減ってしまうからです。すくなくとも、年度はじめ、多くの新会員の獲得をめざすためにPTAをよくみせるための努力くらいはするでしょう。


 ふたつめには、本部役員の選出方法の閉鎖性という点があげられます。現在多くのPTAは本部役員を選出するのに、役員指名委員会や役員推薦委員会などといった名目の運営委員が、学校長やPTA会長の意向に沿った人を選んでいます。このことは一見すると、アメリカ合衆国の大統領選挙における選挙人が役員指名委員会や役員推薦委員会に相当するものに見え、民主主義選挙のかたちをとっているように見えますが、実際には、役員指名委員会や役員推薦委員会の委員選出も、学校やPTA会長の意向に沿ったかたちで一般会員の知らないところで決められてしまうので、民主主義選挙の形態はとっていません。具体的には、役員候補の白羽の矢のたった人のところへ、内々に、特使が出向き、自分たちの意向に添った人だけを選ぶというやり方です。そこで役員を引き受けた人は、役員指名委員会が選んでくれたから民主的に選ばれたものであると、錯覚してしまいます。もっとも、会則にも、親と教師の会であることはうたってありますが、民主的に運営される会であるとは一言も書いてありませんので、それはそれで仕方のないことかもしれないのですが、問題なのは、役員のなかには、自分が 民主的な選任方法で選ばれているという錯覚を持ち続け、一般会員に対して自分の考え方や、行動様式をおしつけるひとがでてきやすい環境を作ってしまうという事です。このことは、民主的選任方法をとっていないため、会に批判的な人が役員になることはないので、会の中での自浄作用がうまく機能しなくなってしまうために起こることだと考えられます。役員の選出方法の閉鎖性は、PTAそのものの閉鎖性に通じています。前述した、懇談会での「前向きに、善処します。」というような発言を生み出した原因はまさにここにあると思います。


 民主主義とはどのようなものであるかということを、子どもたちに教育する立場であるはずの学校や教師、父母たちが、子どもの福祉、学校教育などの目先のことに気をとられ、なんの疑問も持たず、このような会を続けてきているということに日本の民主主義の未熟さを露呈していると感じます。現在のPTAが以上のような指摘を素直に受け入れ、改善をはかるということは期待してはいませんが、このまま続けさせることを容認するものでもありません。これから先何年かこのような状態が続くとは思いますが、いずれ公に論議される時がくるものと信じています。早急な変化は望むものではありませんが、いずれ改善をすべきものだと思っています



1998.02.08

 ナイフを使った子供の犯罪が、今問題になっています。どうしてこういう事件が頻繁に起きるのか、考えてみました。直接の原因は、子供がナイフを日常持ち歩いていることにあります。彼らはなぜナイフを持ち歩くのかと聞くと、護身のためとか、持っていると何となく安心するから、などと答えているようです。しかし銃や、刀剣を持てば、どこかで使ってみたくなるのは人情というものです。自動車でも損保に入るとき、スポーツカーなどスピードのでるものは、高い価格が設定してあります。それは保険会社が、誰が運転しようが、スピードの出る自動車はスピードを出したくなるので、事故率が増えると考えているからです。ナイフを持っていれば、たとえ護身とはいえ、加害者になる危険性を常にはらんでいる、という自覚を子供たちにもたせることは必要なことでしょう。ナイフを持っているから事件が起きやすくなっているのです。

 しかし、だからといって、すぐにナイフを子供たちから取り上げる行動に出てよいのでしょうか。服部君の射殺事件で、盛り上がりを見せた、銃の規制の是非に関する問題では、アメリカ国内で規制反対派と規制賛成派の議論が白熱しました。日本の場合、銃砲刀剣類所持等取締法により銃や刀剣類は所有が禁止されているために、アメリカのような議論は例外をのぞいては一般的に、特になされてきませんでした。そして、そういう議論がなされていなかったために、子供がナイフを護身のために持っていることに対して、一面的考え方によるナイフの規制に走りがちです。そうなると規制を拒む子供たちと、親、教師との間でますます不信感が強くなり、ほんとうの解決までには至らないと思います。このような事件が頻発するということは我々大人にはわからない子供の世界があるということですので、そのことをまず最初に理解することが大事なことではないでしょうか。いたずらな規制は、子供の理解の妨げになるばかりでなく、問題を深くするだけだと考えます。

 さらにいえば、家庭はともかく現在の教育現場においては、子供を規制の中に置きすぎていると思います。ボランティア精神や、生徒会活動、その他学校生活の、内申書への置き換え、などはその主なものでしょう。学校内での日常の言動や活動は、すべて内申書に縛られていると思います。そのなかでは、いい子になることが要求され、不満や怒りは出口をふさがれてしまいます。子供たちの、自我や性の目覚めが、そんな規制に反発しないわけがないと思います。今回のような事件が起きると、矢面に立たされた教師は、決まって自分の責任はないといいます。家庭や、社会に責任を転化しようとします。さらには自分たちでさえも規制されているのだ、と被害者意識を前面に出して、問題の先送りをしようとします。そんなことでは問題はいつまでたっても解決はしないだろうと思います。事件の一番、身近にいる教師が、真剣に問題を掘り下げ、本当に子供たちを理解しようと思うところから、解決策がみえてくるように思います。

 これ以上子供たちに事件を起こさせないためにも、子供たちに対する理解がないまま法律を振りかざし、問題があるとされる子供たちに、子供たちにとって、一方的で、理不尽と思えるような規制を強要するだけという愚はさけていただきたいと望みます。