そして、牛がいなくなった。

〜管内で確認されたBSEに対する活動の回想〜

 

中部農業総合事務所家畜保健衛生部防疫課

野呂明弘

 

それは、普段から事前対応型防疫を唱えていながら対応シュミレーションさえ実施していなかった不勉強さを露呈し、天災あるいは青天の霹靂の範疇として我々の前に覆い被さってきた。本疾病については多々不明瞭な点が残されているにしても、当該農場へのケア、報道機関対策あるいは追跡牛調査のためにとられた官民一体の足並みは誠に尊い経験を積むことができたものの、喉元過ぎれば熱さを忘れぬための警鐘として本文を整理した。

本件のすべての始まりは平成13年11月30日(金)、AM1:30の電話であった。その日の経過を以下に列挙した。この日を含めて当該農場から牛がすべて搬送されるまでの間は、ほぼ終日にわたり現場にいることになるが、この時点ではその当日に2次検査の公表があるとは想像もできなかった。そればかりか、以前の1次検査陽性例のように2次検査の公表自体が無いのかも知れないと思っていた。つまり、最終決定、記者発表は早くても帯広畜大に検体が渡ってから、もしくは厚生労働省の専門家会議による最終的な確定診断を経てからと考えていた。したがって、結果は早くても5〜6日後であろうと思っていた。しかし、事態は違った。

11/30

AM

1:30

第一報

11/29埼玉県に出荷した牛がBSEサーベイ検査で陽性

 

 

8:00

畜産課

さいたま市と場での検査結果の概要説明をうける

 

 

8:30

家畜保健衛生所

一次検査結果の概要説明、当該農場の資料収集

 

 

9:45

当該農場

畜主への概要説明、飼養管理状況等の聞き取り調査

 

 

11:30

家畜保健衛生所

当該農場での調査結果を畜産課へ報告

 

PM

14:00

当該農場の集乳団体

概要説明

 

 

15:30

JA

概要説明

 

 

16:00

役場

概要説明

 

 

17:00

家畜保健衛生所

資料整理

 

 

22:00

畜産課

概要報告

畜産課において23:30記者発表

12/01

AM

3:00

帰宅

 

このような経過の中、11/30のさいたま市と場の閉鎖から、風評はもはや流れ始めていた。夜半に入り、県における記者発表の時間前後となると当該役場の宿直には一部の報道機関が押しかけ、またすでに当該農場の名称を知り得ている報道機関は手当たり次第に夜間にも拘わらず電話をかけているという情報もあった。当該農場では電話攻勢に閉口してモジュラージャックがすでに外されていた(この状況は以後1週間近くにわたり継続されることになる)。しかし、現在では携帯電話の普及により緊急を要した連絡はすべて行うことが可能であり、記者発表前に当該農場、役場およびJAには何とか連絡が取れた。以前(国内での口蹄疫発生時等)から指摘されていたことではあるが、緊急時での携帯電話の有用性を改めて実感したが、充電時間が不足しヒヤヒヤする状況にも以後陥ることになる。

記者発表以降の主な防疫業務としては、当該農場においての臨床検査、当該農場での繁殖台帳の整理と疑似患畜の設定、農場外に移動した牛の追跡調査および疑似患畜等が認定された後の病理解剖、焼却業務であり、その期間は以下に示したとおり大きく3期間に分類できる。

期間

主な業務

T期

12/01〜12/04

当該農場での資料収集

U期

12/05〜12/19

関連機関、農場における追跡調査

V期

12/20〜01/17

疑似患畜等の病理解剖、焼却処分

まず、臨床検査は12/01〜12/19までの連日、当該農場から繋留施設に牛が搬入されるまで継続された。当初は朝と夕方の搾乳時に報道機関への対策も含めて実施し、朝〜夕方の間は母屋に駐留していた。記者発表明けの12/01早朝には家保にも新聞記者が訪れ、現場に向かう我々の防疫車も尾行されたため、すぐさま家保に戻った。ダミー車1台を含む3台に乗り換えて、改めて家保を出発した。結局、通常の2倍強の時間をかけて報道機関の車を撒いて到着したものの、すでに現場には多数の報道機関が詰め掛けており、昼頃にはその数もピークとなった。しかし、報道機関の過熱ぶりも発表後3日までであり、その後は新聞記者数人となり1週間で完全に消失したこと、当該農場は完全な3世代同居家庭(子供も含めると4世代)であり、高齢のお年寄りが「牛を持っていかれてしまう」と我々が母屋にいると落ち着かない様子であったことなどの理由から、農場に迷惑をかけないように12/05以降の臨床検査等は夕方の搾乳時にのみ実施することとし、極力母屋での調査は辞退した。

次に、当該農場での調査、資料収集であるが、代替わりしていた現在の畜主になってからはパソコンを駆使することもあり、繁殖台帳や奥さんの仔牛記録等の記帳もしっかりしたものであった。そのため、多くの牛データが日々集積されていった。また、農場外に移動した牛についても最近は特定の家畜商だけが関与していたこともあり、生存しているであろう牛の追跡調査は短期間に100%に近いものに積み上がりつつあった。追跡調査の成功にあたっては、農家での繁殖台帳、関与していた家畜商の購買データ提供、協力等が大きなウェートを占めたのはいうまでもないが、記者発表から疑似患畜認定までの間、連日現場にいた私以外の事務所職員の昼夜にわたる分析作業に感謝せざるをえない。

このような状況で疑似患畜の認定作業自体は当初思っていたよりも比較的短期間に終了する予定であった。しかし、問題は農場内に生存する疑似患畜になるであろう牛の処分方法であった。家畜伝染病予防法からは可及的速やかな処分が望ましいことは読んでとれるものの、この時点では命令殺なのか、鑑定殺なのかの判断材料もなく、処分方法について農家との意見交換に大多数の時間が費やされた。といっても、お互い初対面の関係であるとともに、その病気が社会的な影響の強いBSEであるので、話が当初からスムーズにはいかないというより、途切れ途切れとなっているのは致し方ないことだったのかもしれない。

連日当該農場に通う中で、その後継者が(私ごとにはなるが)自分の家内とは高校時代の同級生だったこともあり、毎夕時に行っていた飼料給与の手伝いの中で徐々に農場家族と打ち解けていったような気もしていた(一部には連日家保が農場にきて迷惑だという噂も後日伝わったが、その後の読売新聞に「毎日のように訪れてくれた県職員に勇気ずけられた」という記事が掲載され安堵した)。その中で患畜に対する処分方法に対しての農場の考えも連日変化していったというのも事実であった。当初は現在の経営存続のために、今までのように廃用牛を淘汰する方式による疑似患畜の逐次処分方式であったが、近隣の肉牛農家(少なくとも市場出荷しか出荷経路をもたない農家の肉牛は完全に動きが止まってしまう状況にあった)のことを考えると一農場単独の問題ではなくなってきているので村の畜産農家全体会議における処分方法の決定に従う、次に一斉処分そして最後に疑似患畜の同居牛を含めた農場内飼養牛の一斉処分とその考えも変化した。そばにいた自分としては、その間、その時々で進言、助言していったつもりではあるが、今考えると臨床検査を行うという名目でただ一緒に牛への餌くれを手伝い、農家と一緒に悩んでいただけだった様な気もする。

結局、一斉処分の直接の引き金は疑似患畜と認定された場合には生乳出荷を止めざるをえないという決定であり、もはや我々の範疇を超えた業としての牛乳の問題でもあった。これは今考えると徒に風評被害を広めないための措置とはいえ、自分としては当時ずいぶん憤慨した記憶もある。今、冷静になって考えると畜主が自分の家内の同級生ということもあり、自分自身が必要以上に農家側に立ってしまったのかも知れない。
 実際のところ、再度同様な事態になった時、全く同様に対処できるかと聞かれれば自信はないのは事実である。このような経緯をもって調査開始18日後に疑似患畜等の処分方法は決定された。

12/18には翌日の疑似患畜搬入に際して、急ではあったものの当該農場と移動した牛が所在する各当該JAに家畜運搬のお願いに朝から走った。報道機関への対策も含めて基本的には個人に迷惑が掛かることを危惧して、家畜搬送に個人運搬車は避けるためだった。市場開催日ではあったものの、各JAともに皆快く引き受けてくれたことに感謝している。秘密裏に進めてはいたものの、報道機関に漏れるのを嫌い必要最小限度の人間にしか内容は報告しなかった。

その後、当該農場に向かった。最後の夜となった搾乳後、いつもの様にバルク横の休憩所でお茶をご馳走になった。「いやな思いばかりさせて申し訳なかった」、続けて言おうとした「これからが始まりだから、」という言葉が詰まって出ない代わりに畜主と奥さんに握手をして農場を後にした。

12/19は県内疑似患畜の繋留施設への搬入作業、それに先立ち所長とともに当該農場と管内に移動した疑似患畜牛所有の各農場へ疑似患畜決定通知書の手交を行うために早朝から移動した。しかし、すべて終了したのはPM2:00を大きく回っており、遅い昼食を済ませ繋留施設から当該農場に向かった。現地で午後からJAの協力をあおいで始めてもらっていた疑似患畜牛等68頭の移動はPM4:00農場発の運搬車で終了となった。

そして、当該農場からは牛がいなくなった。農場にはゴールデンレトリバーのゴンだけが残っていた。悲しくなった。

その後、繋留施設でのすべての作業が終了したのはPM7:00頃であった。当日は当該農場にも繋留施設にも報道機関の姿はなかった。ホッとした。

繋留施設に移動後の12/20からは疑似患畜の病理解剖、焼却処分が開始された。焼却の主体は家畜衛生研究所であったが、特定危険部位以外の焼却物質は中部、吾妻および東部家畜保健衛生所へと分散され県内4ヶ所での焼却作業が1/17まで継続された。そのため、中部家畜保健衛生所においては焼却炉の煙突が夜には真っ赤になる程であった。実際、牛の処分が終了するのが先か、家畜保健衛生所の焼却炉が壊れるのが先かという雰囲気の中での焼却作業であった。

BSEの仕事も一段落つき、通常業務に戻り畜産農家からも種々の噂を聞くことになる。「当該農場の子供はいじめられ、そのいじめが怖くて学校にもいけない」、「農場の子供は狂牛病とみんなから呼ばれている」等々であった。しかし、連日農場に通った私が言うのだから間違いはないが、全くその様な事実はなかった。確かに、報道機関が詰め掛けてしまった当日の父兄参観は欠席せざるをえなかったが、それ以後小学校に通っている2人のお子さんは元気に毎日学校から帰ってきていた。ピアノの発表会には家族全員とはいかないまでも群馬会館に出かけ、すでに報道機関がいなくなった土日には近所の子供が走り回る戦場のような母屋であり、そのような心配がなかっただけでも救われた気がする。

その後、平成14年1月10日からは本格的な当該農場における経営再建に向けての地道な活動が開始された。その内容は牛舎内バンクリーナーの補修、一部破損していたウォーターカップを取り外しての連続水槽の設置、餌槽の張替え、ストールの補修設置、牛床マットの入れ替え、およびダクトのビニールの張替え等であり、畜主本人の手作業により日々行われた。2月初旬には畜主は奥さんとともに北海道に導入牛購入のために赴き、2月中旬には20頭が無事に群馬到着となった。導入された牛の分娩は、ほぼ順調に経過しており、4月12日現在の分娩頭数は13頭(乳雌出産は2頭のみであるのが残念な現状)である。生乳の出荷は4月1日から再開さたものの、すべて初産牛であることもあり現在の1日出荷量は250Kgにとどまっている。

当該農場は以前から自給飼料依存型の酪農飼養形態を継続していた。自給飼料は通年のホールクロップサイレージ、イタリアンロールあるいはえん麦ロールであった。つまり、大地を最大限に活用した牧草中心の土の力を生かした飼養形態といえる。人間の都合で生産性のみを追及し、牛本来の姿を無視した工業的な酪農が行われた結果がBSE発生といわれているのに、、、、。

(なお、本文は群馬県獣医師会報に掲載予定の文章を加筆修正したものである)

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