「青い背広と
黄色いリュックと
ピンクの傘」(1)
さとう ゆきお
一 千春の旅立ち
鮮やかな蓬色の梓山を背にした桐林駅のプラットホームには青い背広を着た若者と淡い紫色の和服をきた婦人が話していた。
「和宏さん、どうしたのかしら。」
「そのうち来るよ。まだ三十分も時間があるよ。・・・それよりもおふくろ、今の梓山きれいだね。」
「千春は小さい頃から、この駅に来て、梓山と霧瀬川を見るのが好きだったね。」
千春は地方都市にあるこの桐林駅がラッシュアワーのときは賑やかでかなりの雑踏状態であるが、周りが自然豊かで情緒のあるので好きであった。千春がこの愛着ある光景を眺め言っているとき、ジャンバー姿の和宏が息を弾ませて二人のもとに走ってきて言った。霧瀬川のせせらぎをバックに三人の睦まじい会話が始まった。
「遅くなってごめん、出かけるときお客さんが来てしまったもので。」
「いい香りだね、この駅の白木蓮は、千春の門出を祝ってくれてるようだね。・・・・・」
「かず、リュックありがとう。」
「少し派手だと思ったたけれど、勤務地がだいぶ山奥と聞いたものだから・・・。その青い背広、新調したの、なかなか似合うじゃあないか。」
「お袋が生地を選んで、半年もかけて自分で仕立ててくれたのさ。」
「お母さん、すごいですね。」
「今は買ってしまった方が世話がないんだけどね。息子の晴れの就職のために何かしてやろうと思ってね・・・。昔、洋服屋で働いていたことがあるんだけど、もう腕が落ちてしまって、よく見ると縫い方もところどころ粗いところがあるんですよ。」
「そんな風には全然見えないですよ。千春さん、大事にしなくちゃあな。」
「俺にはどんな腕のいい人が作ったものよりすばらしい背広なんだよ。」
春の暖かい日、朝のラッシュアワーを過ぎて、梓山は蓬色に染まり、近くを流れる桐瀬川のせせらぎも聞こえ、三人はこの静かな情緒のある雰囲気の中に互いに別れをほしんでいた。千春と和宏は白木連の方へ少し寄りながら言った。
「今は白木蓮が満開で桜が咲き始める頃で暖かくて旅立ちの日としては最高の日だね。」
「いい香りだね、この駅の白木蓮は、千春の門出を祝ってくれてるようだね。・・・・」
そんな話をしているうち、電車がプラットホームに入ってきた。千春の母はあわてて、千春を急がすように言った。
「千春、電車が来たよ。」
千春は電車に乗り込み、窓際に来て窓を開けようと思うがなかなか開かない。和宏は窓越しで大きな声で言った。
「落ち着いたら、手紙くれよな。」
ベルが鳴り、千春の母親も身を乗り出して言った。
「炬燵必要だったらすぐ送るから。体には気をつけるんだよ。」
電車が動き出した。千春も感極まる大きな声で言った。
「お袋こそ、体が丈夫でないのだから、気をつけてな。」
電車が出ていく・・・・。千春の母の目にはうっすらと涙が滲んでた。電車がだんだん小さくなっていく。
「おかあさん、よかったですね。千春が念願の教員になれて・・。」
「千春もだいぶ回り道をしたけれどね。ただ初めて親元を離れるし、山の方で生活をすると思うと心配でね。」
「何とかなりますよ。千春は相当な頑張りやだから。」
電車が見えなくなっても、二人はその方向に見入っていた。春の風が白木蓮のやるせない甘酸っぱい匂いを運んできた。遠く線路の向こうの青いシグナルの色がいやに二人を感傷的にしてしまっていた。
千春も二人が見えなくなると、青いシグナルをじっと見つめていた。シグナルが見えなくなると、ふるさとが少しずつ遠くなっていく感じがして、周りの景色が妙に愛着を感じ見入っていた。あまり見ていたので疲れてしまい、目をつぶり、いつのまにかうとうとしまった。千春が目を覚ます頃になると電車は山と川との間を走り抜けていた。電車は勾配が高くなり幾分遅くなり、山と線路の狭い間に見たこともないレンガ色の家が走馬燈のようにまばらに見えてきた。桐林駅から二時間程経つと電車は中之原駅に着いた。千春は降りてみると乗客はまばらで幾人もいなかった。改札口を出た千春はバスを洗っていた白髪混じりの運転手に尋ねてみた。
「すみません。月俣へ行くにはどうしたらいいんですか。」
すると人の良さそうな運転手が言った。
「そうだなあ。今の時間だとどうかな。丁度いいのはねえな。・・・あっそうか。あと二十分経ったら、下田行きが出るわ。五原の次に月俣口という停留所があるから・・・三キロ位あるがタクシーに乗って行けばいい」。「どうもありがとうございました。」
千春は深々と頭を下げた。
「あのそば屋の前にあるバスだ。」
と言う運転手の指先の方向に行ってみると、もうすでにエンジンはかかっており、まもなく発車した。お客もあまり乗車せず、二、三人しか乗っていなかった。そこから右は山、左は川という険しい山間地をバスに揺られ、三十分後月俣入り口へ着いた。
この時間帯は月俣行きは出ないと聞いていたので停留所前のタクシー会社に行くことにした。そこは小さな田舎町のタクシー会社で、普通の母屋のガラス障子にタクシー会社の名前が書いてあり、小さな車庫には車が二台分入るぐらいのスペースがあるだけであった。
「ごめんください。」
千春は大きな声で何回か呼んだが誰も出てこなかった。しばらくすると、赤ん坊を背負ったおかみさんらしい人が出てきた。
「今、古井まで出かけたので三十分以上かかるな。」
千春は知らない所で待つよりも、三キロぐらいということなので、
「じゃあいいです。歩いて行ってみます。」
と言って歩き始めたが、急に小雨がぱらついてきた。戻るのも煩わしいので近くの雑貨屋に寄ることにした。若いあみだ髪の娘が出て来た。千春は、
「雨傘ありますか。」
と言うと娘はすかさず、
「うちにはおいてないですが・・。あれ、月俣小のさとう・・ さんとう先生ですか。」 千春は驚いて言った。
「えっ!、どうして知っているのですか。」
その娘は微笑みながら言った。
「いや、うちの姉が月俣小の小使いをしているんです。昨日新しく来る先生のことを話していたし、この時間この停留所で降りる人も少ないものですから・・・。よかったら、このピンクの傘を持っていきませんか。少し派手ですが雨に濡れるよりいいでしょう。」
千春は好意に甘んじることにした。
「じゃあ、すみません、借りていきます。明日にでも返しに来ますから。」
「いいですよ。私の姉に渡しておいてください。」
「じゃあ遠慮なく借りて行きます。」
千春は和宏から貰ったリュックを背負った。二キロぐらい山道を歩くと、キャベツ畑が道の両側に広がっていた。雨がやんで、日差しさえ見え、目的地に近づき、千春は気分が良くなり、傘をさし、同じ名前の歌手の松山千春の歌っている、大好きな「広い大空と大地の中で」の歌をを口ずさんだ。
「果てしない大空と広い大地のその中で、いつの日か幸せを自分の腕で・」
千春にとって気持ちよく最高の気分で歩いていても、青い背広を着て、大きな体で小さな黄色いリックを背負い、おまけに雨が降っていないのに派手なピンクの雨傘をさして、下手な歌を歌っている姿は端から見れば滑稽そのものだった。月俣の部落に着くと通りすがりの女子高校生などは千春に分かるように大きな声で嘲け笑っている。千春は最初は青い背広も、黄色いリュックも、ピンクの傘にも、とても愛着を感じており、気にしないようにしようと努めてたが、初めてでの土地でもあるので急に恥ずかしさに見舞われ、ピンクの傘を閉じ、足早に月俣小に向かった。
二 月俣小学校
月俣小を示す矢印に向かって右へ曲がると急坂を登り切った所に今来るか今来るかと待ち望んでいるかのように老人がにこやかに手招きをしていた。
「山東先生遠いところ、どうもごくろうさまです。私はここの校長の大島です。何分、山間僻地のものですから何かと不便の所があると思いますが、できることはお手伝いしますのでそんなときは、気軽に声をかけてください。」
と校長は言って、千春を教員住宅へ案内してガスや電気関係のことなどを説明し校舎の方へ向かった。千春は部屋の廊下から山に囲まれた部落を眺めた。四月の初めであるが、周りの山々もようやく蓬色に染まりかけた程度だし、山桜の蕾さえまだ堅く、空気もひんやりしてて、気持ちよかった。千春は荷物を片づけていたが、青い背広と黄色いリックをかたづけるとき、急にそれを置いて、故郷の方に両手を上げて、
「おふくろ、かず、がんばるぞ!」
と大きな声で叫んだ。
その翌日、千春は出勤初日は早い方がいいと思い、始業一時間前に職員室に行ってみた。そしたら、既にストーブの脇に白いブラウスと若草色のスカートの若く気品ある女の人が座っていた。
「おはようございます。新採用の香取です。よろしくお願いします。」
「私も新採用の山東と言います。」
千春はこんな目の前で目鼻立ちの整った品のある女性を見たことがなかったので、しばらく呆然としていた。それから校長初め幾人かの先生に挨拶をした。それからり職員会議が始まりまず教頭が、
「みなさん、表示の席に着いてください。」
と言い、次に校長が、
「本校の先生は八名です。他に調理の人が二名、公使が一名いますが、明日紹介いたします。本校は僻地ということもあって若い先生が多いのですが、新採用の人も担任で明日から子供たちを教えるわけですから、教材研究を綿密に行うようにしてください。それでは先生の紹介と担任の発表をしたいと思います。一年は本校七年目、本村に在住の黒川雪子先生です。これから四名は県内ですが通勤が大変なので教員住宅に住んでいます。二年は新採の香取涼子先生です。三年も新採の山東千春先生、四年は三年目の町田康代先生、五年はやはり三年目の相原誠治先生、六年は教職三十年、本校十年、本村在住の保田和夫先生です。それに教頭は白石五郎先生、私は校長の大島根之助です。二人とも五原から来ています。小さな学校ですが、力を合わせて子供たちのために頑張りましょう。」
その後校務分掌を決めたり、明日の始業式
について話し合ったりした。その後時間表を
作ったり、子供に渡すものを印刷したりしているうちに暗くなり皆一斉に帰途に着くようなかたちとなった。
三 子供達との出会い
始業式の日、千春は青い背広で身をかため
晴れ晴れしい気持ちで職員室へ行くと三十ぐらいの女の人が職員室を掃除をしていた。
「おはようございます。山東先生ですか。私、公使の平川と言います。気のつかないことが多いと思いますがよろしくお願いいたします。先生のことは佳恵に少し聞いております。」 千春は公使と言うと年老いた男の人というイメージを持っていたので、こんなに若い女の人が公使と聞いてびっくりしてしまった。
「あの折は傘を貸していただいて大変ありがとうございました。すぐ返さなくてはいけなかったのですが・・・。忘れないうち、傘持ってきます。」
「いいんですよ。あんな派手な傘でよかったらずっと使ってください。」
「どうもありがとうございます。お言葉に甘えて使わせていただきます。」
そのうち先生方が出勤してき、村職員の紹介が手短かに行われ、校庭で行われる始業式に向かった。
式も進み、千春の挨拶の番となった。朝礼台に上がると前の方で、
「あ、ピンクの傘の先生だ」
と言う声がして、幾分ざわめいたがそんなことにひるむことなく話し出した。
「こんな空気の澄んだいいところで先生になれて、とても嬉しいです。おととい初めてこの月俣に来たとき、雨が降っていたのですがそのとき傘を貸してくれました。ここの土地の人は親切だなと思いましたみんなを見ても素直で明るくてとてもいい子のように見えます。こんなすばらしいところでみんなを教えられるの幸せに思います。これからみんなのために精一杯頑張りたいと思います。よろしくお願いします。」
千春の話し方はたどたどしかったが、大きな声での熱弁だったので先ほどのざわめきはなくなり、千春には子供の視線が自分の方に集まっているように感じた。始業式が終わり受け持つ三年生の教室へ行った。千春が教室に入ったとき、男の子二人がが掴み合って言い争いをしていた。まわりにはクラスの子供たちが囲んで止めさせようとするが収まらない。周りの子供が千春が入ってきたことに気づき一斉に自分の席へ戻っていた。残った二人は手をゆるめ、ばつが悪いような感じでたたづんでいたが、
二人はぽつり話し始めた。
「とっくんが先生の持っていた傘は赤だといつたんだょ。俺は確かにピンクだといったんだ。先生、ピンクだよね。」
「家の母ちゃんは赤だと言ったぞ。」
千春は二人のそばへ寄っていっていた。
「何だ、そんなことか。あの傘の色はローズ色といって、ピンクと赤の中間の色だ。」
「二人共間違いではない。二人共正しい。」
千春はそう言い二人の頭を撫でた。二人ともほっとした様子自分の席に戻った。
「みんなは先生のことをいろいろ考えてくれたんだね。どうもありがとう。先生の名前はさんとうちはるといいます。同じ県でもこの月俣は西端、先生のすんでいた桐林は東端で約十キロも離れています。みんなの明るく、逞しい顔を見ていると先生はずっと前からここにいるような気がしています。すぐ仲良くなれそうです。みんなも先生を友達と思って自分の思っていること、家のことなど何でいいから先生に話してください。」
と言うと急に子供たちが話し始めた。
「先生、背の高さどのくらいある・・・」
「一六五センチぐらいかな。」
「すげえ。家のあんちゃんの方が高えや。」
「みんな馬鹿言ってるんでねえぞ。今日は時間はあまりぬえだから。」
「ああそうだ。明日の時間表を書かなくちゃあ。」
千春が黒板に時間表を書いていると隣のクラスの相原先生が入ってきて言った。
「山東先生、次、三年生が写真を取る番だに、早く朝礼台の前に行ってください。」
すると千春は子供たちに向かって言った。
「それでは上着をきちんと着て、校庭へ集合してください。」
こどもたちはあわてずに思い思いの仕草で教室を出て行った。
四 教員住宅歓迎会
その日千春は授業が終わると、教室であすの授業の用意をして、四時を過ぎたので、少し散らかっている教室の片づけをして職員室へ行ってみた。すると、校長が職員に向かって言っていた。
「今日はどうもごくろうさまでした。仕事が一段落付いたら放課ということにしたいと思います。」
少し経つと三々五々先生方が帰途に着く。
相原が帰りがけに千春に声をかけた。
「山東さん、三年生はいかがですか。」
「素直で明るくて元気があって・・・・」
「元気がありすぎるところがあるから気をつけた方がいいですよ。あ・そうそう風呂が空いているから、仕事が終わったら入ってください。それから、七時頃から、宿直室で簡単な教員住宅入居者歓迎夕食会をやりますので来てください。」
「はい分かりました。お世話になります。」
千春も二、三十分ばかり仕事をすると教員住宅の方へ引き上げていった。
千春が宿直室へ行ってみると相原と相原の同期で三年前から教員住宅に住んでいる康代がきゅうりを切ったり、缶詰を開けたり、お皿を並べたりして歓迎会の準備をしていた。しばらくすると香取涼子も入ってきて歓迎会が始まった。相原が口火を切った。
「どうもおまちどうさまでした。歓迎会というほどではないのですが、山東千春さんと香取涼子さん教員住宅の仲間に加わったのでささやかな会を始めたいと思います。」
四人は思い思いのものを食べ始め、話し出した。
「この月俣にはお店が一軒しかなく大したものは置いてないのでこんなものですが、飲み物はたくさんありますのでゆっくりやってください。」
「このアスパラの缶詰はさっぱりしておいしいですね。」
「このアスパラ缶は給食婦の吉川さんから頂いたんです。お兄さんがこの村で、缶詰工場を経営しているんですよ。」
「この鯖もおいしいわ。」
「それは缶詰で我々にはちょっと鼻についてますがね。」
「あ・忘れていた。教頭先生から頂いた沢庵漬け、すぐ持ってくるね。」
「俺も、とっときのウィスキーを持ってくるね」
相原と康代は急いで部屋を出ていった。千春は涼子の方を見ると俯いて目のやり場に困ったかのようにベーコンに箸を付けていた。千春は涼子は気品があり清純で何と美しいのだろうと思った。千春は思わず、周りのことを気にせずに言ってしまった。
「きれいですね。」
「えっ。」
少しの間沈黙が続いてしまったが、そのうち、相原が帰ってきて、
「山東さんウィスキー如何ですか。」
「ウィスキーはまだ飲んだことはないんですよ。」
「慣れれば何ともなくなりますよ。この空気の冷たいこの辺で飲むウィスキーも乙なものですよ。」
「じゃあ、少し飲んでみるかあ。」
「凄い飲みっぷりですね。」
その後も懇談は続いていたが、そのうち、千春は眠気がさし、横になって眠ってしまった。気がついて目を覚ましたときは食べ物等はすでに片づけられていた。側では相原が布団をしきながら言っていた。
「目が覚めたようだね。会はもう終わって皆帰ったよ。よく寝ているようだったのでそのままにしておいたんだ。」
「すみません。恥ずかしいなあ。みんなに迷惑をかけて。」
「なになに、まあ今日のところはウィスキのせいにしておきましょう。今日は私が宿直だから、休んでいていいよ。」
「大丈夫です。行ってみます。どうもすみませんでした。」
と千春は言って頭を下げ、教員住宅の方へ帰って行った。
五 子供達との触れあい
幾日か経ち、春とはいえ薄ら寒い日、千春は朝の職員打ち合わせが終わり、教室へ入って行った。すると、進は泣きべそをかきながら膝のあたりを押さえていていて、周りでは、女の子が幾人か心配そうにじっと見つめていた。
「進、どうした。なあんだかすり傷だ。」
「先生、職員室へ行って薬をつけてあげたら」
「大丈夫、このくらい。水で洗ってやるからこっちに来な。」
「痛くねえか。」
「こんなにきれいに洗ったら、ばい菌さんがあわてて逃げていくよ。イタイノ、イタイノとんでいけだ。」
「先生おもしれいこというな。宏孝の泣きべそも止んだよ。」
「あ・よかった。すずめの鳴き声がやんでよかった。先生気分晴らしに、みんな来たから『だるまさんがころんだ』をやろう。」
「すすめくんもすすめよ。」
進も渋々仲間に入る。何回となく「だるまさんがころんだ」を繰り返す。
「今度は先生がおにをやってよ。」
千春は進が怖がってあまり動かないことに気がついて、進に注目をして変化をつけて、
「だるまさんがころんだ、だるまさんがころんだ、だるまさんがころんだ。すすむ、動いたよ。」
と言った。でしぶってなかなか始めないと思ったが結構元気よく遊びの中に入った。
「だるまさんがころんだ・・・・・」
遊んでいるうちにベルが鳴り出した。
元気のいい俊子が大きな声で言った。先生、一時間目が始まったよ。」
「一時間目、何だっけ。」
「先生、忘れんぼうだな。算数だよ。」
「あっそうか。今度はちゃんと覚えておくよ。それではかけ算の勉強を始めようか。
千春は黒板に三つの問題群を作りながら言った。
「これは二年生の問題です。この三つのグループの中からやりたいグループの問題を選んでやってください。五十点以上できたら合格です。このシールをノートに貼りつけてあげますから、がんばってください。」
すると、あまり成績が良くないと聞いていた利春と哲夫がひょっこり前に出てきた。哲夫が
「先生、一番やさしい問題でもシール貼ってくれるのか。」
と言ったので、
「もちろん、同じシールを貼ってやるよ」
と千春が言うと、二人は頭をひねりながら問題に取り組んでいた。二十分ぐらい経ってから答え合わせをした。すると哲夫がやってきて、
「先生、俺にシール貼ってくれるか。」
と言ったので
「哲夫、がんばったなあ。」
と千春は言って哲夫の頭を撫でると哲夫は嬉しそうに頬をほころばした。それから一日哲夫は意欲的に学習に取り組んでいた。その様子を見ていた千春は、何となく充実感を感じて、気持ちよく住宅の方へ帰った。この頃は外の風は冷たく春はまだ遠い感じのはずであったが、千春にとっては何故かほんのりとした暖かさを感じていた。
六 母からの便り
四月の中頃と言っても、この辺はまだ桜の蕾も小さく薄ら寒い日も多く、その日は特に風が冷かった。千春は仕事が終わり足早に住宅の方へ帰ってみると、玄関のところに大きな荷物が置いてあった。千春は部屋の廊下に持っていき開けてみたら、炬燵だった。千春の母からだった。手紙が入っていた。
「千春、元気よくやっていますか。こちらは美奈子と二人で仲良く暮らしています。こちらでは桜もそろそろ咲きそうですが、従兄弟の忠夫さんが仕事で五原の方へ行ったら、今年はまだとても寒く、ストーブがないといられないくらい聞いたので炬燵を千春に送ろうと思いました。こちらでは今は炬燵は置いてなく、美奈子の友達の電機屋さんに取り寄せてもらいました。少し、一人暮らしには大きいのですが、それきりしかなかったのでがまんしてください。・・」
と書いてあった。千春は炬燵を組み立てスイッチを入れてみた。ひんやりした体が少しずつ暖かくなってきた。
「おふくろ、ありがとう。」
と呟きながら炬燵の台の上に千春は泣き崩れた。この炬燵の暖かさは千春にとってこの上ないものであった。
七 和宏の失踪
千春にとって教職は始めてあるが、同僚で教員住宅に住んでいる相原と康代がいろいろ教えてくれるので、ときどき授業も脱線してしまうことがあるが、口うるさい教頭にもそれほど指導も受けず、何とか三年生の担任をこなしていた。このクラスは男の子も女の子も元気な子が揃い、小さな喧嘩も絶えないが、まとまるときはまとまり仲も良く運動も大好きであった。千春は休み時間などは子供にせがまれ、フッドベースボールやつかみおになどをしてこどもたちと一緒に遊んでいた。このクラスには勉強があまり好きでなく算数や国語の苦手の子が何人かいたが、千春はその子たちに興味を持たせるように仕向けるように授業に時間をかけたので、その子たちだけでなくクラス全体の雰囲気がよくなってくるのを感じていた。千春にとって少々世話の焼ける子供たちでもあるが、徐々に子供たちとも慣れ、よくコミニケーションもでき、夕飯を食べるとぐっすり寝てしまう程疲れてしまうこもあったが、千春にとって充実した日々であったにちがいない。
あっと言う間に一ヶ月が過ぎた。五月の連
休に初めて家に帰ることにした。
千春がバス停留所に待っていると大きな荷物を抱えた涼子がやってきた。千春から声をかけた。
「大丈夫ですか。」
「ええっ、仕事を残しちゃったので家でやらないと間に合わないと思ってね。」
「じゃああまりゆっくりできませんね。」
「でも、家族の顔を見られるだけでも、いいですから。」
「バスが来ましたよ。」
乗客は一人も降りず、バスの中にも二、三人いる程度であった。千春は涼子の隣の席をひとつあけて座った。バスは走り出した。千春は涼子と話すきっかけを作りたかった。今日は白いブラウスとクリーム色のスカートをはいていて、白い横顔の清純さは千春の心を惹きっけた。バスは五原を過ぎた頃、涼子の
荷物の中から二、三枚写真が落ちた。千春の席から遠かったが涼子は気づかなかったので拾って涼子の隣の席に座った。
「写真が落ちましたよ・・・・。これ、始業式の写真ですね。」
「どうもありがとう。この写真わたしの顔おかしいでしょう・・・・。 」
「そんなことありせんよ。またそんなひょうきんな顔が魅力的ですね。」
「千春先生は相変わらずおもしろいことを言うんですね。」
「二年生いかがですか。」
「素直でかわいい子が多いのだけど、やんちゃ過ぎるのがすこしいてね、毎日が戦争のようにてんてこ舞いですよ。」
「でも、個性豊かで将来大物という感じでゃりがいがあるという感じですね。」
「傍目で見れぱそのように見えるでしょうけど。やっている方は結構大変よ。」
「そうでしょうね。でも香取さんは芯がしっかりしているからばっちりですね。」
二人が話している内にパスは五原を過ぎて山際のくねくね道に入った。揺れる度に涼子の柔らかい肌が触れ、メロンのような涼子の匂いが千春を包むとき、千春はこんな人と一生過ごせたらなあと夢心地になっているとき涼子は言った。
「あっ、中之原だ。おばさんが来ている。ごめんね。今日は中之原のおばさんのところによることになってたの。じゃあ、月曜日にねえ。」
千春は中之原で電車で乗り換えて、涼子と真江崎まで一緒に行けるもののと思いこんでいたので突然のことに呆然としてしまった。中之原駅前でバスは止まり、涼子は走り去り、千春は車掌に促せられバスを降りて、重い足で駅の改札口へ向かった。
千春は電車に乗り換えた。電車はすぐ走り出した。千春は車窓から外を眺めた。山沿いの家は、時には何軒かかたまり、時には一軒一軒散在していて、千春には走馬燈のように思え、しばらく窓に映る景色を見入っていた。それからに時間位経って桐林駅に着いた。駅の改札口を出ようとすると妹の美奈子があわてているようすで千春の顔を見ると走ってきた。
「兄さん、お帰り。」
「美奈子どうした。」
「さっき、和宏さんのお母さんから連絡があったのだけど、和宏さん、もう三日も何処に行っているか分からないんですって、兄さんのところへ電話をかけのだけどいなかったので、もしかしたらここへ来ると思ってきたの。・・兄さん、和宏さんの心当たりあるう。」
「分かった。和宏君の家へ行ってみる。」
千春は黄色いリュックを持って急いで和宏の家へ向かった。水道山の中腹、見晴らしのいい和宏の家へ着くと、和宏の母が応対に出てきた。
「千春ちゃん、心配かけて悪いわねえ。あの子、今まで黙って家を空けたことはなかったのよ。」
夕暮れになり、和宏の家から見える桐林の街並みに少しずつ、明かりが灯り始めた。
「千春さん、何か心当たりはないい・・。」
「かずくん、最近電話で悩んでいるようなことを言ってましたよ。」
「どんなことで・・」
千春は少しためらっていた。
「言いづらいことナノね。」
「女性のことで。・・」
「そう言えばね。何回かアクセントのおかしな女の人から電話があったのよ。私が出たら何かはきはきしない感じで切ってしまうの。
「じゃあ、もしかしたら、スナックの・・」
「えっ。」
「はっきりはわからないのだけど。いずれにしても心当たりを捜してきます。」
「悪いわねぇ。ご迷惑かけて・・」
辺りはだいぶ暗くなり、街々の灯りも宝石のように散りばめて見え、千春もそこへ吸い込まれるように消えていった。
千春は末浜町の自宅に戻らず、友達の家へ電話をかけたり、出かけたり、行きつけの喫茶店やスナックに寄ってみたりした。その日遅く家に帰り、また、夜の明けぬうちから、和宏の好きだった桐瀬川の畔や東公園などを捜し回った。一日中精力的に歩き回った。しかし、手が掛かりは何一つなかった。疲れた足取りで末浜町の家に帰ったのは翌日の午前二時頃だった。今日の授業に間に合うには五時に家をでなければならない。でも、千春は
心をこめて黄色いリックを贈ってくれた和宏のためには大事な授業を犠牲にしても捜してたいと心に決めていた。千春の家の受話器がけたたましく鳴り出したのは午前五時頃、すでに千春がもう一度桐瀬川の方に和宏を捜しに出かけていた頃であった。
千春の家では母と美奈子が千春と和宏との連絡を心待ちにしていた。
「あっ電話だ。誰だろう。」
と美奈子があわてて受話器を取ろうとすると千春の母が遮った。
「わたしでるよ。たぶん和宏君のうちからよ。・・・はいそうです。えっ見つかったんですか。・・・詳しい事情は分かりませんが励ましてやってください。・・・はい、千春には連絡しておきます。ごめんください。」
「見つかったの、和宏君。」
「ええ、今帰ってきたんだって。」
「兄さんに知らせてくるね。」
「千春はさっき出かけたらしいよ。」
「どうしよう。連絡はできないし、今から出掛ければ間に合うのだけどね。」
二人はやきもきしながら千春からの連絡を待っていたが、千春からの電話がなかった。、けたたましいほどのベルが鳴ったのはそれから三時間もたってからだった。母が受話器を取った。
「はい、千春、今何処・・・、真江崎・・、どうする・・・タクシーで行くの。お金は・・・一万円しかない、足りないね。届けるには遠すぎるしね。・・・着いてから払う、仕方ないね。」
千春は急いでタクシーに乗り込んだ。タクシーに乗ったところで授業に間に合わないのに決まっているが少しでも早く着きたかった。千春の頭にはもう一つ違うことがよぎった。今から行けば遅れるかもしれない。校長には怒られるだろうし、こどもたちにも申し訳ない。その間自分自身の心の中で葛藤があったが、結局は親友のためなら当然のことだと千春は自分に言い聞かせた。この時間帯ならば道路が空いているので、授業に間に合わないが、それ程遅れないだろうと思った。タクシーの中では昨日からほとんど寝ていないのですぐ眠り込み、二時間たち、運転手から、
「お客さん、月俣小ですよ。」
と言われるまで気が付かなかった。あわてて
千春は住宅へ行ってお金を取りに行こうとすると、ちょうど校長がその様子を見てて、
「取りあえず、私が払っておきますよ。」
と言いながらき運転手に払ってくれた。
タクシーを降り職員室へ入っていった。校長一人が長椅子に座っていた。
「どうも、いろいろすみませんでした。今お金、住宅からもってきます。」
すると校長は、
「山東先生、お金は授業が終わってからでいいですよ。それはそうと遅れた理由はお母さんから電話で聞きました。友達も大切です。でもあなたは教職になり立てでしばらくは教職に一番力を注がなければなりません。こどもたちのことを忘れて授業日の朝まで東奔西走して友達を捜し回っているのは少し度が過ぎませんかね。たとえ、授業に間に合ったとしても、こんな状態じゃあ、教材研究も十分できないだろうし、第一、二日間ほとんど寝ていない体調でこどものためのいい授業はできるわけないです。それから、お金も持たないでタクシーに乗るなんて運転手に失礼です。終わったことは仕方ないです。今後はよく考えて行動してください。」
千春はむっとしたが抑えて
「はい。ご迷惑かけてすみませんでした。」
と言って千春は引き下がったが、校長の言っていることは分かる。好きこのんでお金を持たずにタクシーなんか乗るものか。少しでも早くここについて授業をしようと思ったからではないか。俺の和宏に対する気持ちは分かってたまるものかとぶちまけたい気持ちになっていた。この日は校長に言われたことと睡眠不足のため、いつもの授業の調子がでなかったが、とにかく終業のベルがなった。帰ろうとすると、涼子が千春を呼び止めた。
「大変だったですね。昨日、住宅の方へ帰ってきてないので、心配してたのですけど・・。先生は仲のいい友達がいていいですね。」
「まあ、世話のかかる友達だけどね。ああ眠ってねえな。インスタントラーメンでも食べて、早く寝るかなあ。」
「千春先生、残りのチャーハンがあるけれど食べるぅ。」
「助かるなあ。」
「すぐ持って行くからね。」
「ありがとう。」
千春にとって涼子のこの差し入れはほんとにありがたく、涼子の優しさを感じ取り、涼子へ思いやる気持ちは一層つのることになった。
八 小運動会
五月の中頃まだ山桜が散りきっていない頃小運動会が行われた。秋に行われる大運動会は各種部落の団体が入り、村民体育祭の感じがするそうであるが、小運動会は子供の父母や学校関係者やその家族が見学するくらいである。
小運動会は子供の父母や学校関係者やその家族が見学するくらいである。千春のクラスの子は少し早めに来て、リレーのバトンの練習ををしていた。千春とこどもたちのうち解けた会話が始まる。
「陽一、もっと助走をつけて、透、もっとしっかりバトンを渡して!」
「なかなかうまく走れねえな。」
「大丈夫だよ。だんだんリズムがでてきているよ。」
「先生、一緒に走らねえか。」
「ようし走るかな。」
「先生と走りたい人、ここへならんで、よういどん!」
「先生断然トップだ。」
千春は走り終わって腕時計を見ながら言った。「時間だぞ。クラス毎にならばなきゃあ。」
千春はクラスの子が並ぶのを見ていると、相原体育主任が大きな声を上げた。
「これより小運動を始めます。」
と言うとざわついた雰囲気が急に静かになった。校長先生の話の後、多く組まれている徒競走やリレーが終わり、順調にプログラムが進んだ。小運動会も最後の地区対抗リレーが行われるところだ。この種目だけ見に来る人も多く走る前からかなりの歓声が聞こえていた。一斉にスタートが切られ、第一走者が第三コーナーを回ろうとしたとき、陽一が倒れ、なかなか起き上がって来なかった。先生方も集まってきた。教頭は様子を見て、観客に向かっていった。
「これは大変だ。医者に連れていった方がいい。誰か車で来ている人いないかなあ。」
すると公使の平川が前に出てきて
「うちの妹が乗ってきています。」
教頭は、
「それでは悪いけれど五原病院へ陽一を連れていってくれますか。陽一のお母さんは用があって帰っていないので、山東先生、一緒に乗せてもらってください。」
千春は陽一のそばに寄り
「陽一、背中におんぶされ。」
といって歩き出した。陽一はまだ泣き叫びながら、千春の背中に体を委ねた。千春は車の置いてある停留所前まで陽一を背負っていった。先に待っていた佳恵が言った。
「陽一君は重たいから大変だったでしょう。学校の近くに置こうと思ったのだけどいっぱいだったのでここへ置いてしまったの。」
「とんでもないです。こちらこそわざわざ申し訳ありません。」
「そんなことないですよ。五原にはもともと行かなければならなかったの・・。ちょっと待ってね。後ろの座席をきれいにしますからね。」
少したち陽一と千春は後ろ座席の方に乗り込んだ。
「狭い車で乗りづらいでしょうけど。いいですか。出発しますよ。」
この時間は行き交う車もほとんどなくあっという間に病院の前に着いたような気がした。
佳恵は先に降りて後ろ座席のドアを開けて、
「着きましたよ。気をつけて降りてください。銀行へ行って来たらすぐ戻りますから。」
と言い、千春も軽く頭を下げながら言った。
「どうもありがとうごいました。」
待合い室には十人近くの人が待っていたが
教頭が連絡したとみえて、すぐ診療してもらえた。二十分後、陽一が診療室をでてきたときには左足が白い包帯で覆われ、松葉杖が用意されていた。千春は看護婦に陽一の様態を聞いた。玄関の方へ行くともうすでに里子は待っていた。千春と佳恵は陽一の両脇を抱え、車に乗せた。佳恵は車で二人を乗せ、まず陽一を家の前で降ろした。千春は陽一の母が留守なので事情を細かく説明した。それからまた佳恵の車に二、三分乗り教員住宅の近くに着いた。
「どうもありがとうございました。」
と千春はお礼を言った。佳恵も車からおりて軽く会釈した。そのとき春の風が千春に里子の清純な香りを運んできた。佳恵の車がキャベツ畑に消えても、その香りが千春を包んだ。
九 わらびとり
五月の末の金曜日、授業が終わり「さよなら会」をしたあと、五、六人の男の子が集まって来た。
「先生、あした、何か用があるか、」
「特にないよ。」
「あした、俺たちと蕨取りに行かねえか。」「どこへ。」
「イラバ湖の方へ歩いて行くだ。」
「先生、蕨取りやったことねえよ。」
「そんなにむずかしくねえし、場所も知っているから大丈夫だよ。」
「じやあ、行くとするか。」
「やったあ。」
「じゃあ、俺たち、あした二時に先生のうち、行くからね。」
こどもたちはどんどん話を進めていた。千春はこどもたちのはしゃぎぶりもにこにことしながら楽しそうに見ていた。いつかこういう機会があってもいいと思ったので行くことにして準備に取りかかった。
千春の教員住宅の前には一時半には朝男と哲夫がきていた。
「先生あがっていいだか。」
と言いながら二人は千春の部屋に上がり込んできた。
「先生、どうして玄関に青い背広と黄色いリュックがつるしてあるだ。」
すかさず千春が答えた。
「青い背広はお母さんが作ってくれたもの、黄色いリュックは親友が贈ってくれたもの、
先生にとって、とても大切なものなんだ。」
そんな会話をしているとき、朝男が外を見ながら、
「先生、みんな来ているよ。時間だよ。」
千春は見渡しながら、
「みんな、集まったか。」
と言うと朝男が、
「哲夫が来てねえ。・・と思ったら、今こっちへ走ってくる。」
哲夫がきまり悪そうに言った。
「遅れてごめん。犬の面倒見てたんだ。」
「それでは出発しようか。」
千春は大きな声で言って出発した。二、三分歩くともう山道になった。細く急坂の道が続く。
「この辺が一番厳しいだあ。もう少しの辛抱・・。」
「これ、わらびと違うか。」
「そうだけど。もう少し行くとたくさんあるよ。そっちで取った方がいいよ。」
「お、牧草地が見えた。やっと平らな道になったか。」
とこどもたちの会話を聞いていた千春だったがあまりの美しさに歓声を上げ、千春の好きな歌を歌い出した。
「きれいだなあ・・・。
♪果てしない大空と広い大地のその中でいつの日か・・・・」
すると、またこどもたちは思い思いのことを言いだした。
「先生、音痴だと思ったけど、少しうめえときもあるな。」
「わらびがいっぱいあるぞ。あわてるな。落ち着いて採れ。」
「あるぞ。いっぱいある。・・・・・・」
「おっ、イラバ湖が見えた。」
「誰かいるぞ。」
「佳子でねえか。葉子もいる。」
「涼子先生もいるぞ。おーい。涼子先生。」
朝男たちはイラバ湖の畔にいる涼子たちの方へ走っていった。涼子は驚いたようすで言った。
「朝男君たちもきていたの。みんなはわらびとり、、わたしたちはハイキング。」
「おらあたち千春先生と一緒だよ」
千春は涼子の近くに寄っていき言った。
「涼子先生もも来ていたんですか。」
「前からこどもたちに『行こう、行こう』って言われていたんですけど、やっと都合がついて・・来たんですよ」
すると敏江がすっとんきょの声を出して言った。
「あっきれいな船が浮かんでいる。行って見よう。」
子供たちは船を見るためキャンプ場の方へ跳んでいった。蓬色の山々に囲まれたイラバ
湖は春の風に小刻みに揺れ、美しかった。子供たちの声が遠くで響く。ときどき、春風が涼子のメロンの香りを運んできた。予期してなかった涼子との出会いに千春の心はときめいていた。
「絵のようにきれいですね。千春さんは絵は描くのですか。」
「学生時代、結構描いたんですけど。今年は一枚も描いてません。こんな景色は印象派のタッチで描いてみたいですね。」
「私も絵が描けたらと思うんだけど、」
「描こうと思えば結構、描けるものですよ。描かず嫌いかな。」
「そうかな。やはり素質もあるんじゃあないですか。」
「ありません。わたしが見る鏡です。」
「千春さんって面白いですね。オホホ・」
「涼子先生は生まれつき、音楽は好きだったのですか。」
「そんなことはないけど小さい頃からお母さんの伴奏で歌を歌っていたようでした。」
「お母さんはピアノの先生でしたね」
「ええ。」
そこへこどもたちが戻ってはしゃぎくる。
「先生たち、恋人みてえ。」
「千春先生、涼子先生を好きだよねえ。」
「あっ、先生の顔が赤くなった。やはり先生、好きなんだな。」
千春は一瞬たじろいのていだったが、自分に冷静になるように言い聞かせて、
「涼子先生のようにきれいで頭のいい人は誰でも好きになるさ。あ・そんなこと言っている場合じゃないよ。早く帰らないと日が暮れちゃあうよ。」
涼子は落ち着いてさりげなく言った。
「さあ、帰ろう。」
みんな牧草地の横を歩き出す。佳子は何気なく「ドレミのうた」を口ずさむとと子供たちも歌い出した。涼子はハモリ、森山良子風の澄んだ声が響きわたった。千春は涼子の声にも惹きつけられてしまった。千春と涼子たちは広い牧草地から狭い山道へ歌を歌いながら消えていった。
十 夕食会
七月に入ると期末事務に追われ、職員室に遅くまで仕事をする先生が多くなっていた。教頭は、
「みなさん、遅くまでご苦労様です。あまり頑張りすぎないで、早めに引き上げてください。」
と言い、結局教員住宅組の四人が外が暗くなっても事務をとっていた。そのうち、相原がすっとんきょの声で言った。
「お腹がすいたなあ。これから、買い出しか。仕方がない、行くとするか。」
すると康代がおどけて、
「家の冷蔵庫には肉と少々の野菜あり。」
と言い、涼子もすかさず、
「私の所には貰ったネギと豆腐があるわ。」
と言い、住宅仲間の気のおけない軽妙な会話が交わされる。それから各自行動し始める。午後六時頃になると夕飯の支度もでき、一同四人が宿直室で夕食会を始めた。ここでは特に決めてないが月に一度くらいこんなことをやっているそうである。
みんなはよく食べ、子供や父兄のことなどをよく話した。宴は一時間ぐらい続いたあと簡単に片づけが終わると相原が千春に言った。
「今日の宿直は千春先生だったね。」
すかさず康代が、
「じゃあ、お願いします。」
と言い、すると千春の方を見ながら涼子が
「千春先生、わたし仕事やりたいのだけど、すこしやっていていいー」
と言うと千春はどきっとして、ちょっと間をおいて言った。
「どうぞ。わたしも少しやらないと。」
二人は向かい合って仕事を始める、あたりは静まり帰り、ときどき遠くで車の音が聞こえるくらいである。千春は何気なく涼子の方を見る。涼子は眠気がさし、机の上にうつ伏せになっていたが、千春の視線に気づき、千春の方を見る。
「涼子先生、きれい!」
「いやだなあ。そんなに見つめて、・・」
「愛の告白をしちゃおうかな。」
「涼子に・・・え、ええ・・」
「こどもたちはよく見てるね。」
「まだ、小学二、三年生ですよ。大人の心など分かりっこないですよ。」
「そうかなあ。でもわたしが涼子先生が好きなことを見抜いている。」
涼子はあわててテスト類を片づけようとしながら
「もう、帰らなくては」
と言って、片手にテスト類を抱えながら、そのまま帰ろうとしたがドアのところで立ち止まって、
「千春先生、わたしも告白します。そういうこと言われると困るんです。わたし、約束した人がいるんです。」
千春は驚き、青ざめて、しばらく呆然としてしまったが・・
「でも俺は涼子さんが・・・」
と千春は言いかけたがそれを遮るように・涼子は、
「それ以上言わないで!」
と言うとドアをいきなり閉め、渡り廊下を走っていった。静けさを破る涼子の足音は千春には耳をつんざくほど大きな音で、千春にはいつもの甘い夢を吹き飛ばされてしまったように感じた。
(2)へ続く