新版 「高崎五万石騒動」
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 高崎五万石騒動

 




 

 
                     細野格城    著
                      佐藤行男 現代語訳
                                                                                     訳 者 ま え が き
 ここの明治四十四年に発刊された細野格城著「高崎五万石騒動」を専門的知識もなく、現代語訳をしてみようと大それたことをしてみようと思ったのは、私の血族がこの事件に関わっていること、
この原本や復刻版が手に入らないこと、原誓は現代の人には分かりづらいこと等によるものです。
「五万石騒動」関係の本も出版されていますが、結局はこの本からの転用が多く、五万石騒動の資料としては信惣性にしても内容の豊富さからいっても細野格城著「高崎五万石騒動」にかなうものはないと思います。しかし、その反面この本は句読点が少ないこと、難解な語句が多ビ」とで読解するのに大変難しく我が親族さえほとんど読んでないのが現状です。そこで、このような貴重な文化遺産を是非現代の言葉に表し親戚の者や関心のある人に読んで欲しいと考えたのです
 それには専門的な知識が必要なので誰か適当な人を捜さなければなりませんし、見つかったとしてもその現代語訳料や印刷代は今の私にはその費用の調達がかなり難しいのが実状です。それなら一層のこと自分で訳したり、ワープロを打ったり、印刷をしたり、製本をしたりして、訳も十分でなく、印刷製本も粗末でありますが、自分の手でこの本を現代語訳してみようとする気になったのです。そして、親戚の者や関心のある人に配布しようと思ったのです。 
 実際現代語訳を試みてみるとまず言葉が難しく、漢和辞典や大国語辞典を使っても意味の取れない言葉がでてきたり、長い巧みな文が多く今の人に分かりやすい文にて直すにはかなり無理があったりしました。それから同じことを言うのに、場面にあった言葉で表しているのです。例えば、場面に応じて、百姓、農民、一般の百姓、百姓の衆、衆人、庶民等と言ったりして、実にその状況にあてはまる適切な言葉を選んでいるのです。それを場面に適した現代言葉を探すとなるとかなり難しい面がありました。この事件とか、この本についての考察等はあとがきで述べるとして、この現代語訳を読むにつけ、承知して欲しいことを列記したいと思います。
・ この本が書かれたのは明治四十四年(一九一一年)に書かれたものですので、その時の生活、 環境状態を思い、今から何年前に、高崎で書かれたことを常に頭に入れてお読みください。
・ 基本的には一般の人が辞書がなくても意味の分かるような文章を心がけました。ことわざ等も できるだけ現代の言葉に置き換えましたが、置き換えるのが難しい「育亀の浮木」などは巻末の 資料の中にその意味を辞書等から抜き出してみました。
・「東山道鎮無総督の布告」や「訴願状」はそのまま載せるのが普通でありますが、漢字ばかりの ものや、難解な語句等が多いので、できるだけわかりやすい言葉に直しました。しかし、そこは 浅学の私のことですので、適切な解釈をしてないところが多々あると思います。その向きは叱正 を戴いたり、原文を読んでいただきたいのですが、およその意味が分かったら、この本の内容が
 理解できると思い原文はあえて載せませんでした。(一部は資料として載せてあります。)
・ できるだけ原文に忠実で、分かりやすい文章を心がけましたが、原文に忠実であれば難しく、 分かりやすくすると原文から離れてしまうところもしばしばでてきました。従って、難しい語句 が載っていたり、分かりやすくするため文や語句を省略したりした部分もあります。
・ 読みやすく、場面の状況が分かるようにと、丸茂元次郎氏のご子孫が中心として作られた紙芝 居の絵を使用させて戴きました。
・ 文章の中の(  )は訳者が註として記入したものです。
  その他多々不備等あると思います。お気づきのところがありましたら、訳者へご一報ください。
  
 
◎ 上     編
 
 ここで述べようとするのは、あまりにも有名な高崎藩支配所減納訴願事件、即ち五万石騒動であ
ります。しかし、月日の経つに従ってこれに関係した人たちも亡くなられ、年老いた人たちが雨の降る夜や雪の降る朝のお茶話に聞くことがありますが、全体を通して、詳細にきめ細かく述べたものは少なく、誇大になったり、明らかに間違った話もときどき耳にします。このように事実と異なることが伝わることがあるので、このような実話をまとめたものがあれば、隠滅することもなく、昔のできごとを懐かしむことができ、且つ歴史の一端を担うと考えて企図したわけであります。
 何分、当時私は十六でありまして、その騒動の肝心なときには参加しませんでしたが、自分の見聞きした記憶と、そのとき実際行動を取り詳しく知っている人より聞いたことや、往復書類などの文書を参考にして概括して話すつもりです。ただ四十年も経てば、充分に史料も蒐集するのが困難で遺憾に思いますが、真実を追求して、真相を得ようと思っていますのでそのつもりでお聞きくださるようお願いします。
 さて、世の中のすべての事柄について見渡しますと、必然その原因がなくてはなりません。この騒動の原因とは連年の不作にかかわらず年貢の取り立て方が、新領、又天領と違って至極酷く、その上納を軽減して貰いたいというのが常日頃の百姓の願いでした。このきっかけとなったのが、東参道鎮撫総督の宮が勅命を奉して布告を出されたことで、それが騒動の原因となって起きたものです。この訴願に携わった人たちは寝食を忘れ、東西を奔走し、身に危険に迫るのも忘れ、訴願の貫徹に尽くされたのは容易のことではありませんでした。
 この時は維新の際で藩も農民の相当辛い苦しみを察することなく、ただひたすらに古い習慣を維持して、人民のため、国民のためという為政者の取るべき方針を忘れ、権力によって私服を肥やすことばかりやっていました。たまたま農民が苦痛を訴えたとしても、英断の処置を執らず、権力をもって鎮圧しようとしたものですから、その効果もなく、ついに隣藩を煩わせてしまったことは仕方ないことでありました。さて、農民が訴えた苦痛とはいかなる程度で、どんな状態であったかというと、これは皆様にお話しなくても承知のこととは存じますが年貢上納の一件でございます。その取り立て方の苛酷であったことは権威の強大の様相から、その状況は逐次申し上げたいと思います。その当時の城主は松平右京亮殿で、数多く更迭がありましたので、そのことから申し上げたいと思います。
 
 一 高崎城主更迭の概略
 松平右京亮殿という方は今の大河内子爵家のことであって、その当時は別に役職はありませんでした。その大河内家が高崎の城主になられたのは享保二年(一七一七年)でありますが、先ず、高崎城の由来を申し上げたいと思います。
 高崎は昔赤坂と言われていましたが、伝えられるところによりますと、この地は赤土で坂があるから赤坂と名付けたという人がいました。しかし、群馬の地名を載せた書の中には赤坂という地名はありませんが、赤坂の地は広く、且つ明神などいわゆる神もいるから古い地名にはちがいありません。また、赤坂を古への国府だと言う人がいますが如何なものでしょうか。
 昔、武田信玄が赤坂の和田城を上府と呼びまして、和田氏がこの地に居住しました。この和田城は三カ所あって、上和田と下和田のほかに下之城があって、この城主は和田越中守正盛といって、同地に多門山徳昌寺を創立し、後に徳川氏より代々十七石の御朱印を戴いておりました。それより、御領となり、箕輪城を井伊兵部少輔の直政に賜ったとき、和田の地も箕輪の管轄下となり慶長三年中山道を開かれ、直政に命じて新城を作らせました。このとき直政が地名を改めて松カ崎と言っていたと龍廣寺を開山した白庵に話しました。白庵は当然去りながら、
「草木に栄枯あるときがあり、物に限りがあることは珍しいことではありません。命を奉じて新たに築かせるのは盛事大名と言われれば、成功高大の義をとって、高崎と改めたらどうか。」
と言いいましたら直政は大変喜んで、高崎と名付け、その二字を取って龍廣寺の山号にしたそうです。
 慶長五年(一六○○年)に大阪の乱が起こり、八月台徳寺公御征伐として下野国より中山道を上らせるとき、秋のにわか雨で晴れ間がなく烏川が溢れそうになったので、この城に三日間滞在され出発の日は川瀬が深くても一万騎余り何の支障もなく渡ることができたので、これは勝利の吉兆であると大いに喜んだと言うことであります。この時直政は下野の小山の陣より下野守殿に属し軍奉行として関ヶ原の合戦に功績を残し、三万石を加えて戴き、慶長六年(一六○一年)に近江の佐和山城を戴いたのでそこへ移りました。そこで当城は御番城となり、諏訪五郎という方が城番をさせられたということであります。その後慶長九年酒井左エ門尉家次が当時五万石を領し、元和二年(一六一六年)に越後の高田城へ移ったので、その後に松平丹後守康長で、僅か一年で信州の松本へ移られました。そのあと松平阿波守信吉が五万石を戴き、元和三年に入城されましたが元和五年には丹波の笹山へ移り、その阿波様の後に来られましたのが、五万六千六百石で安藤対馬守重信であります。重信はご入場後三年目で亡くなられ、その長男重長が家を継ぎ右京進と称されましたが 、その子重治が対馬守となり、元禄八年(一六九五年)に備中の松山移られました。安藤氏三代の居城年数は七十七年でそれまでで長かった方であります。同年五万二千石で松平右京太夫輝貞公卿が入城になりました。永禄十四年(一七○一年)に一万石加わり、同十七年又一万石加わり、七万二千石となりましたが、宝永七年(一七一○年)に越後の村上へ移り、その後来られたのが間部越前守詮房公で五万石を領されました。この方は八年の居城で享保二年に越後の村上へ移り、大河内氏と入れ替わりとなりました。城主の替わること九代実に百二十四年を経ちましたが、このように頻繁に所替えがあったので、善政のしかれようがなかった次第であります。
 
 二 大河内氏再度入城
 大河内氏が間部氏と入れ替わり、入城されたのが享保三年(一七一八年)であって、それから王政維新の際まで居城されたのであります。輝貞、輝高と経て、宝暦八年(一七五八年)この輝高という方は優れた方でまもなく御老中に昇進され、天明元年(一七八一年)に一万石加わり、八万二千石となりました。その後、大河内氏の役柄は寺社奉行となり、或いは大阪城代、京都所司等をつとめました。詳細は略しますが、先ず城付五万石というのは、五万六千七百二十五石五斗八升三合、越後の蒲原郡一の木戸にて二万三千四百十八石八斗一合、下総の銚子にて五千石、武蔵の野火止にて二千三百五十石六斗七升八合あります。これらの合計は八万七千四百九十四石五斗四升二合となり、そのほか城付五万石というのが、五万六千七百石余りあるようなわけで、越後の一の木戸で、千二百二十石一斗二升九合、銚子で三百五十六石六斗三升三合六勺で殆ど九万石であります。 
 
三 城付五万石を五郷別各村石高
 そこて他国の御領分は五郷に分けまして、その村々の石高といえばこんなものでございます。
 
       西郷組
三百八十九石五斗六升六号   下並榎村
七百十二石三斗七升二合    上並榎村
六百六十二石七斗八升一合   下小塙村
千百九石一斗四升一合     乗附村
六百三十九石八斗一升二合   寺尾村
二千四百四十七石四斗六升一合 石原村
二百六十五石三斗八升七合   我峯村
三百十一石九斗三升五合    西新波村
八百五十五石七斗八升     上豊岡村
五百五十九石三斗三升三合   中豊岡村
七百二十九八斗五升四合    下豊岡村
千七十二石一斗三升七合    上里見村
六百八十五石六斗六升二合中里見村卯助組
二百三石一斗一升二合   同村右エ門組
七百二十六石四斗三升六合   下里見村
二百七十八石五斗五合     上大嶋村
三百六十四石二斗二升二合   下大嶋村
二百十三石五斗八升七合   町屋村新領
五斗五合          同小町屋村
計一万二千三百六十六石三斗五升三合  
      上郷組
 千二百三十四石五斗八升七合  赤坂村
 
 百七十一石二斗二升二合   上小鳥村 
 八百七十五石五斗四升四合  下小鳥村
 千二百三十五石六斗九升   大八木村
 五百二十石一斗八升四合   下小塙村
 四百七石一斗三升一合    南新波村
 三百九十三石一斗二升六合  楽間村
 百九十一石         北新波村
 四百三十九石八斗四升    菊地村
 千百十九石三斗七升四合   浜川村
 二百二十五石一斗六升七合  筑縄村
 三百七十石一斗九合     保渡田村
 六百三十五石六斗八升三合  井出村
 二百六十九石六斗八升三合  中泉新田共
 七百七十一石七斗四升四合  上芝村
 五百六十九石五斗七升二合  下芝村

















 
五百十一石六斗九升二合三寺村弥左エ門組
百五十八石六斗三升八合  同 直五郎組
千五十五石         
上飯塚村
計 一万千百五十四石六斗七升一合
    中郷組
六百三十四石五升八合     下飯塚村
千三百九十三石九斗八升六合  貝澤村
六百九十八石五升八合     濱尻村 
五百五十七石九斗二升六合   井野村
八百六十石二升五合      中尾村
八百二十八石九斗六升八合   新保村
四百四十石三升二合     新保田中村
百三十石           前箱田村
七百九十五石三斗一升七合   小八木村
五百七十八石六斗四升三合   菅谷村
三百四十五石三斗一升四合   正観寺村
三十二石一斗一升五合     〃分地
七十六石           後閑村
八百九十六石六斗六升七合   棟高村

百十六石六斗四升       上京目村
百十六石           中京目村
百十六石六斗四升    同村藤右エ門組
百八十三石六斗五升九合    下京目村
九百九十四石二斗九升四合   下大類村
百五十石九斗三合       西横手村
二百十三石三斗二升二合    勝新田村
五百六十三石三斗二升二合   上瀧村
 計 一万二百七十三石九升五合
    下郷組
三百三十石一斗二升四合    新後閑村
四百三十石七斗三升      下和田村
四十九石七斗六升      佐野久保村
八百三十三石九斗七升二合   上佐野村
五百九十七石六斗一升七合   下佐野村
 百八十七石一斗四升五合   稲荷台村
 四百九十三石七斗八升    江田村  
 千六百六十四石二斗七升九合 元総社町
 四百六十一石八斗二升六合  大友町
  計  一万千七十四石四斗四升三合
     東郷組
 千二百七十九石二升二合   江木村
 七百三石一斗六升八合    上大類村
 八百七十六石四斗四升三合  南大類村 
 六百石二斗六升七合     宿大類村
 二百八十四石六斗七升一合  矢嶋村
 百十三石一斗六升八合    稲荷新田村
 二百七十六石四斗六升一合  川曲村
 百六十三石五斗九升一合   大澤村
 七百十九石二斗四升四合   上新田村
 四百二十石四斗九升二合   下新田村 
 五百三十六石五斗四升六合  萩原村
 九百九十九石二斗四升    嶋野村
 三百五十石         元嶋野村
 二百三石六斗二合      上京目村勝蔵組
 七百七十八石七斗九合    下城村 
 千二百八十九石四斗四升   上中居村
 六百二十七石六斗五升七合  下中居村
 百七十三石五斗九升七合   岩押村
 四百四十六石二斗三升六合  高関村
 九百四十七石九升五合    芝崎村
 三百九十八石七斗八升九合  栗崎村
 三百一石九斗五升九合    中里村
 二百十七石八升四合     宇貫村
 千三百一石二升五合     角淵下之手村
 百四十二石八斗五升一合   山名村 
 六百六石四斗二升三合    根小屋村
 千九百四十六石八斗五升一合 倉賀野村 
 
  計一万千八百五十七石二升一合
 総計五万六千七百二十五石五斗八升三合




























 

 これが城付五万石の内訳でありますが、これだけではただ石高のみで、如何なるものをさして、残酷であるか、苛政であるかということが分かりません。また如何なる機会で騒動になったか、明らかにしたいので、これより先ず年貢の取り方を申し上げて騒動のことに入って行きたいと思います。年貢の取り立て方は煩雑な手数をかけて、種々雑多で分かりづらいと思いますのでその当時の実例を話すことにいたします。
 
 四 年貢取り立ての実例
 年貢の取り立てとは、現在の徴税のことですが、今のように金銭で取り扱うようにすれば、双方共に簡単ですが、雑穀で上納するといういうことであれば、不便の上で大変手数かかるだけでなく、不公平なことがままありがちなことで、これも時世で一般の習慣上さほど感じる程でなかったが実に複雑な内容でした。これから、聞いていただこうとするのはほんの一部分のことですが、これで全体を推し量ることができると思います。
 そこで、ここでは下郷組の下之城村について申し上げたいと思います。
「下之城の之の字は明治六年戸籍簿編成のとき、始めて、加えたのでありますから、その以前の分は皆之の字はないのでありますが、言葉に言い表すときは、今も昔も変わりません」
 下之城村の石高が七百七十八石七斗九合で、その反別が七十一町五反七畝十三歩、元和六年、城主安藤対馬の守の縄入れに基づいたものでありまして、それより慶長十五年酒井左エ門尉が縄入れをしたことがありましたが、明治維新のときまで、大河内氏が取り立てましたのは
上田  一反歩        六斗三升四合九勺          四斗一升取
上田下 同          五斗二升六合二勺          三斗四升取
中田  同          五斗七升三合            三斗七升取
中田下 同          四斗六升四合六勺          三斗取
下田  同          四斗六升四合六勺          三斗取
下田下 同          三斗五升六合二勺          二斗三升取
下々田 同          四斗二合七勺            二斗六升取
下々田下同          二斗九升四合三勺          一斗九升取
上畑  同          三斗四升七合            二斗一升取
中畑  同          二斗六升三合三勺          一斗七升取
下畑  同          一斗八升五合九勺          一斗二升取
下々畑 同          一斗五升四合九勺          一斗取り
屋敷  同          三斗八升七合二勺          二斗五升取
 なお参考のためにお話ししますが、元禄十二までは本取りが非常に高く、故に根取りを
下げられまして、このようになりました。
上田  一反歩        五斗取り
中田  同         四斗五升取
下田  同         四斗取
下々田 同         三斗七升取
 上畑  一反歩     三斗二升取 
 中畑  同       二斗七升取
 下畑  同       二斗二升取
 下々畑 同       一斗七升取


 

 宮部兵右衛門 印     津田恵左衛門 印     深井茂兵衛 印
 その後正徳元年又根下げがありました。これは間部越前の守時代で  
上田  一反歩        四斗二升取
中田  同         三斗八升取
下田  同         三斗二升取
下々田 同         二斗五升取
 上畑  一反歩     二斗八升取 
 中畑  同       二斗三升取
 下畑  同       一斗八升取
 下々畑 同       一斗三升取



 

 なお、享保年中松平右京亮殿のとき、根取りを下げられましたがそれが明治維新まで継続したのです。そうして屋敷の分は最初より一度も根取りを下げられませんでした。
上田一反歩四斗一升取りで六斗三升四合九勺を取り立ったのはどんなわけで、延米と称して一石に対して五斗四升六合九才、口米と称して同二合五勺一才、そこで延米、口米合わして五斗四升八合六勺になり、これを一五五の取り立てと申します。米の総高は六百四十七俵一斗八升四合で、他に種貸し元といって、年々四十俵ずつ借りおき、その四十俵に対して年利が十二俵即ち年三割にあたります。「この種元というのは強いて貸し与えられたのであった」 実に暴利ではありませんか。これらを合わして七百一俵八升四合になります。このうちに差し継ぎになりますのが、
六俵一斗五升八合   麦十一俵代米
九俵三斗一升     大豆十四俵代米
一俵三斗一升     豆二俵代米 
四十俵        種元貸
四十俵        夫食貸
二俵二斗五升六合   名主給 
  計 百俵一斗九俵四合
 七俵一斗四合八勺   夏成六両代米  
 二斗八升二合五勺三才 綿代米(三百匁)
  但しこの金二分永四十二文四分九厘五毛
  計 八俵四升七合三勺三才
 総計 百八俵二斗四升一合三勺三才 
 
差引 五百九十一俵三斗六升二合六勺七才
   内
 五十八俵三斗二升八合 砂置手当
 四俵一斗六升七合   同上中居地分
  計 六十三俵七升二合
総差引 五百二十八俵二斗九升六合七才
   外に
 二俵三斗六升六合  砂置手当引返別納
金 二両二朱永七十七文四分八厘七毛
綿九十匁        入目代
金 二朱三十七文七分四厘九毛
永三貫六百六十二文   砂畑冥加別納 
 銭 十四貫六百四十八文
畑二反四畝二十四歩   新田
 此永二百五十五文   九十九文取
 〃八文        右口永
計二百六十三文 
 銭 一貫五十二文
林一反七畝 
 五百三十一俵二斗三升六合六勺七才
 七俵一斗六升八合    村園米
 永二百五十五文     新田
 永八文         口永
 計 二百六十三文
 一貫五十二文金二朱と二百三十一文納
 銭二百四十八文     山銭
 豆一石二升四合
  銭 二百四十八文   山銭
 石高百石に付き二十九匁九分
  銀 二百三十二匁八分三厘四毛
 十七石         徳昌寺々料
  銀 五匁八厘二毛
 麦二十四俵       拝借  
 二十五俵        手一合    
 縄七十五房       御作事方納
 筵七枚         御吟味方 
 竹箒二本        右同所納
 糸菰三枚        御作事方納 




 
糸大手菰七枚      御支配方納
飽藁七束        御飽方納
飼馬料         年々不同
 一寸竹 三十本  二寸竹 二十五本
 三寸竹 十六本  四寸竹 十束
 五寸竹  三本  計竹  八十四本

 何と込み入った徴収方法ではありませんか。その上、万雑入用というものがありました。現今の市町村税のようなものです。
 
 五 万雑入用    
 万雑入用は総反別に割り当てられたもので、これらの費用を免除されましたのは
四町歩         名主地引  
四町歩         組頭四人分地引
 一町歩         徳昌寺引
 一町歩         如意寺引

 

 右合わせて十町歩、そこで残りの六十一町五反七畝十三歩へ領主より命令請負のかたちで一カ年に、二十八貫九百四十九文を賦課されました。
      内訳
六貫文         紙墨筆代
九百文         焼炭代
六百文       辻場所二カ所普請費
六百文        峠、榛名代参小使
一貫文         伝馬宰領宿銭
一貫八百文       宗門帳書料
二百文        伊勢の万度へ初穂
八百文         米差札料 
七百文         納筵七枚代
百文          納竹箒代
一貫文         定使歳暮(給)
 一貫二百文       各御師御泊銭
 一貫六百文       水番給
 一貫二百文       蝋燭代
 五百文         初勧化出銭
 三貫五百文       峠榛名代参費
 一貫文         古藁釉代
 三百文         米納時箕筵代
 一貫二百文       夏祈祷代   
 三百文         納飽膏代 
 二百四十八文      伝馬宰領支度料
 一貫八百文       置夫銭
 計 二十八貫九百四十九文




 

 以上、取り立て及び入用費の徴収方法の概略を申し上げましたが、今日より考えますと、よくもこのような複雑な納入手段を取ったものだとただ驚くほかありません。これより一層農民百姓の苦痛を感じる「米はかり」のことを精細に話して、米検見のため、出張してくる役人の横暴を逐一申し上げようと思います。
 
 六 年貢米検見
 納米は毎年秋季土用入りの後、直ちに第一回があります。そのときに正米が間に合わないで納めることができなければ、時価の三分、または四分高の相場を以て必要だけの俵数を掛屋「藩の御用商人」より買い求めるのが例になっておりました。第一回で全部納められることはまれで、第二回、第三回とやり、第四回位にて納め済みとなりますが、第二回後といえども、もし辻が不足するときは右同様切手を買って納めなければならないのであります。この辻と言いますのは例えば何月何日に何百何十何俵納めよとの前触れがあります。その前触れの俵数がないのを指して、辻が不足といいます。結局辻とは当日の規定俵数を指していうものですが、この米を納めるのがなかなか面倒であります。当時は各村にそれぞれ郷蔵と称した倉庫がありました。その倉庫へ検査済みの米を積み入れて、それぞれ処分したもので、その郷蔵へ各自が納めるべき米を運んで行き、検査のため出張してくる米見役の検見を受けるのでありますが、その見方というのが実に言語同断で容易に形容できない程冷酷な処置をしたもので、普段自分に対しおじぎをしないものがあるときは、姑が嫁 をいじめるように数俵、数十俵の中にもしあか米一粒でもあると、全部の俵を一俵毎に片端より選り分けなければなりません。その選別が終われば、そのわけを役人に届ける役人は再び検査をする。さあ、その検見米の中にたとえ少々の小米や粗などあるときは早速、「万石」や唐箕に掛けて籾の除去をさせますが、はなはだしいときは二十回以上の手直しを命じ、
「早くしないか、今日はこれでしまうから次の米はかりの日に持って来い。」
などと言って空しくその日を過ごさせ、次回にその米を再び検見し、なおも二、三回の手直しをして、やっと納入済みになるというように、随分意地悪く農民百姓を困らしたものでありました。
 この米はかりは実に百姓の頭痛の種であって、もし手直し中に粗漏の扱いや乱暴の挙動があったらそれこそすぐに米をすくう木鉢で殴られて平身低
頭して詫びなければなり ません。かえって言い訳 めいたことを言いました らそれこそ理不尽に粗暴 に犬か猫でも縛るように 捕縛されます。そして、 村の名主や組頭を呼び寄 せ詫びを入れさせるのを 通例とされていました。 左様の次第ですから、役人に対してはできるだけの歓待をして、ご機嫌を取りひたすら役人を怒らせないよういろいろ気を使いご機嫌をとっていました。
 役人が朝食をとるような場合、田舎の魚の手料理ではうまくいかないので、わざわざ遠くの料理店へ注文して取り寄せたものです。ときには米見役人が
「この村にはどじょうがいるはずだがどうか。」        
と尋ねることがあるとこれは謎を掛けていると思い、実際にはなくても、           
「おります。」
と言うほかなく、すぐ人を使わして買ってきてもらうように手配します。もし、そうでなく実際の通り、いなければいないとでも言えば、少しのことでも難癖をつけて非常に面倒なことを言って困らせます。誠にはや、生まれたての乳飲み子が他愛もなく母にむづかるように、何でもかんでも条を通す有様であります。たとえ昼食や夕食をお膳の上のものを鱈腹食べても、なお帰る際、
「あの何々は大変うまかった。高崎近辺とてもこのようなものは買うことができないから、あまりがあれば譲ってほしい、家族に土産にしたい。」
と言ってその残りまで持ち帰るのが常でした。また、時としては
「村のどこそこを通ったとき、おいしそうな柿がなっていたが、私は柿が大好物、あれを一つご馳走になりたい。」
と厚かましく、先方より言い出すとなると、否が応でも帰りの際
「ご厄介ながら奥様やお子さまにおみやげをお持ちください。」
と言って気をつけなければなりません。うっかりして忘れようでもするものならば、いやはや難しいことを言い、なかなか米検見を済ませないで、農民百姓を泣かせたものです。今日の時世からいえば、馬鹿げたことでありますが、その時分はどうしようもなかったのでした。米検見役人は全てそう言うわけでもありませんが、大概は今話したような人が多く、機嫌を取るのも容易なことではありませんでした。まるで農民を困らせれば、それで自分の役目を果たしたと思うらしいのです。
 ようやくのことで米検見が終わると、俵こしらえになります。一俵の納米は四斗二升となっておりますが、実際は四斗三升六合二勺ぐらいでした。それは何でそう言う風なぐあいになるかというと、これは量り返しのときの桝減り見込んで余分に徴収させられたものです。この米の量り方は先ず「俵ら入れ」のときに四斗四升量らせ、最後の一升を量るとき「づるした」を切ると言って、升の角より手を差し入れ、指先の働くだけ充分にはきだします。それが三合八勺となるので、差引四斗三升六号二勺になるのであります。それは随分面白い習慣になっていました。それから量り終われば、中札と唱えて紙に納めた人の住所、氏名を書いて中へ入れ、普通の俵のように仕上げ、また上側と唱えて、さらに俵を着せかけ横に五カ所、縦に四筋の縄二本を揃えて竹へらに納人の村名と名前とを書いて、これを縄の間目に挟み、これで始めて一俵の俵らができあがります・それから郷蔵内へ運び積み入れておき、村内の百姓らが毎晩、代わる代わる夜番をしたものでありました。そうしてその米は城内へ運搬せよとの沙汰があると無駄賃で運ばなければなりません。
 また時として現今の多野郡金井村の酒造家十一屋へ御払いになることがあれば、これまた命令通り道の遠近に拘わらず、無報酬で運搬しなければなりません。それは随分無理な仕方でしたがこれも仕様のないことで、ただ陰でぐずぐず言うだけにとどまり、命令にはただ従わなければなりませんでした。
 大豆の納め方もやはり同じで竹の輪挟みで一粒ずつ選り抜き、これは米と違って、納め高が少しだっのでさほど苦痛を感じませんでした。しかし名主の家へ持って行き、米見役人の検査を受け、検査が終わると皆が持ち寄ったものを納高を量って筵の上へ盛りました。一人で一俵納める者はほとんどないくらいでありました。その集めたものを俵に入れるのですが、その量り方は変わっていて、左手に升を持ち、右手を升のわきへ横に立てかけて山盛りとして、八百屋がくだものを並べるようでありました。この四斗というのは実際五斗二升もあり三割り増しとは随分呆れ返るような取り立て方でした。これで年貢の様子はだいたいお話しましたので、これより伝馬と言って、一年間に何日といって決まっていない雇い人夫のことがあります。これもこれからのことにつながりますので、少しお話をしておきましょう。
    
 七 伝馬
 これよりその伝馬のことについて少し述べてみたいと思います。作事人夫、城方人夫、山方人夫、西新波人夫等の六箇条、これは役人より厳しく言い渡されていて、何時如何なる時でも知らせがあり次第、無報酬で勤めなければなりません。これは何時始まったかというと慶長七年(一六○二年)始めておふれになって、それより百姓にとりましてどれ程、迷惑だったかしれません。たとえ農作物の収穫時でも、養蚕の繁忙時でも、真夜中でも急触れと言って、すぐ出ろとの通知があればどんな自分の用があっても行かなければなりません。また、駅場伝馬といって、倉賀野、高崎、板鼻、新町等かねてから定めてある所の問屋場より知らせがあれば、それを拒むことはできないので、たとえ真夜中でも目を擦りながら寝ぼけ眼で定められた駅場で勤めなければなりません。また養蚕のときも同じで、上族し始まった蚕でも沙汰があれば、開けきってからなどというわけにはいかず、捨ててしまわなければなりません。老熟した蚕はやむなくその食い残りの桑の葉や枝桑に成繭する有様でした。また田植えの時もやはりそうでして、猫の手でも借りたいほど忙しいときでも 、問屋の方でも知らせがあれば、苗代においてある苗を植えることができなくても断ることができませんでした。従って植える時期を失って収穫に多大の損害を受けるようなことも度々ありました。勿論三月頃は却って多少の小遣い銭取りにはよいが、忙しいときはえらい迷惑で一年中を通算すれば莫大な損害でした。
 その賃金はどのくらいかといいますと、高崎、倉賀野間は人夫一人の賃金がたった三十八文より四十二文位で、倉賀野、新町間でも五十文にはなりません。百姓には休む暇もなかったものですから、耕作が充分できず、米麦の収穫は至って少なく、なおその少ない米でも田畑屋敷等の年貢に上納し、且つ前述の六箇条の人足が無賃で勤めるにもかかわらず村ではこの者に対して務めた相当の手当を支給しなければなりませんでした。ですから石高即ち地所をたくさん持っております者はその石に応じて役米を支払う、言い換えれば、人夫に村が賃金の補助をなすわけです。当時の土地即ち田畑は余程厄介視されたので、現在であれば、一反歩百円から三百円位(現在は約五千万円以上)で売買されるものが、無償でも貰う人がいないくらいでした。もしあるとすれば一反歩に対し、麦一俵か二俵位もつけて譲る方からやらなければならないというわけで、もし譲り人の方で何か相当のしるしをつけないときは全然貰う人がないくらいでした。また、村内に地所持ちがあって、一家断絶等の場合に際してはその地所は村の持ち分になり、割地と称して各自へ十歩、二十歩と割 り当てて耕作させたものだから、ほんの申し訳程度の耕地に過ぎない上、収穫などは全くない場合が多くあって収支はどう計算しても採算がとれません。そのようなことですから、農家の経済は年々畏縮するばかりで言い換えれば、いたづらに労力を費やしても収入がないという、実に張り合いのないものでした。つまり無駄骨を折るというはめになって、なかなか余裕がなく、むしろ苦痛を増すぐらいという具合でありましたから、一家団らんで楽しく面白く家業に従事することができないようになっていました。只ただ一年中年貢上納と役人のために、苦しみ、悩み、苛酷な虐待を甘んじて受けるようになりましたが、何時の日か来れば千辛万苦の状態をにこのまま過ごすべきではないということが誰が話すともなく広がっていきました。
 この時すでにこの一大騒動の萌芽が各自の胸中に芽生えていて、後日予想もできないほどの大活動を促す原因となったものと考えられます。古語に「水満ちて器の転ぶを知る、果繁りて根の微なるを知る」とあります通り、為政者は余程一般の人たちの状態を注意しないと、思わぬ害を引き起こすものであります。
 全て事件の発生する以前は考察しますと、極些細なことが数々の機会に触れ、種々変形するもの であります。だとすればこの農民の胸中の鬱積している不平不満は何時どんなことにより爆発するか予測することができませんが追々順序立ててお話したいと思います。
 
  八 東山道鎮撫総督御の布告
 天運は循環しながらも泰平の夢にふけり、太刀は鞘に弓は袋に三百あまりの大名も参勤交代をさせ、栄耀栄華に世を送り、庶民の極めて苦痛な境遇にも意に介せず、贅沢の限りを尽くしました。
その徳川幕府も外国使節の来訪や国内の世論の沸騰により、政権を返上して、王政復古となり全ての政務は朝廷においてなさられるようになりました。そして万民が安堵して業復にするように今までの弊害を矯正をする信念が堅く、勅命を下しました。東山道へ鎮撫総督を遣わし、総督の宮よりその筋へ仰せ聞いて、所々へ御制札を立てて、勅命の次第を一般の人たちへ示しになりました。その文に次のようなものでした。
   
      御  制  札
 徳川慶喜は天下の形勢上仕方なく大政を返上して将軍職を辞退したい旨願いがあり、今までの罪
を問わせられず、大阪城へ引き取った。このことにより去る三日に側近の者を引き連れ帰国した。会津、桑名等先鋒として閣下を犯し、これより戦いが始まることで、慶喜の反状は明白で、朝廷を欺くことは人倫に背き、道理を無視した行為である。その罪は許すことはできない。朝廷としても許すことが出来ず追討をすることにした。戦いは既に始まり速やかに賊を懲らしめ、万民に塗炭の苦しみを救おうと天皇は考えている。今般、仁和寺の官征討将軍に任じ、随者のこれまでの安楽を楽しみ、怠惰に陥った者、賊徒に従い者でも悔悟し国家のため忠誠の心を持つ者は寛大の処遇を与える。この時節に至り、大義をわきまえないで賊徒のはかりごとに通じた者は、便宜を謀った者はその賊徒と同じ厳刑に処するので心得違いをしないようにすること。
 慶応四年正月
 但し諸藩の触れ面には賊徒に従う部下であっても悔悟し国家のために忠誠の心ある者は許す、よって戦功は徳川家の義につき嘆願の義もその節により、許容すると文あって農商工の布告にはこれまで徳川支配所を天領と称しておる者言語同断で、この度は以前のように朝廷の領地に戻し、真の天領に相成り、條両様の考えであって厚く尊奉し、心違いのないように心得よ。
 辰  正月          東山道鎮撫総督執事
 この度東山道鎮撫総督の勅命を受け朝廷よりおふれの通り遠国辺土に至るまで自然行き届くのは難しいので諸国の様子を問い、万民塗炭の苦しみを救うべく天皇の考えである、各々安心してほしい。天領と称した徳川支配地の者は勿論諸藩の領分に至るまで苛政に苦しんでいること等遠慮なく申し出よ。会議の上公平の処置にいたすので心得違いのないようにとのこと。
 戌辰正月            東山道鎮撫総督執事
 
 この二つの布告が各村々の高札場へ掲示になりましたから、江戸将軍家の政権返上や上方における鳥羽、伏見の戦いも知ることができ、また朝廷においては人民の難渋のことを察してくださるというありがたい思し召しと知り、多少学問のあるものや条理の分別のできる者等はこれを読んで大いに喜んびました。そして、我々の長年の難渋のことについて訴えて苦痛を軽減しようと寄り集まり仁慈の趣旨を解釈して、聞かせたものだから世間一般へぱっと知れ渡り次の村から次の村へ波及し、余程遠隔の村々までも十分行き渡り、皆一同朝廷の仁政にたまわることに歓泣して御慈悲のほどを老人や女子供に聞かせ喜んだものです。
 これまではことわざにあるように「泣く子と地頭には勝てぬ」と言って、長い間苛政の下で世を送り、
「五万石へ嫁に行くか、裸で薔薇を背負うか。」
とまで唱えられた高崎領内へこのような布告が掲示されたものですから、誰言うとなく今までの苛政を逃れたいという気持が強く、布告の趣旨に基づき減免の訴えをしてはどうかという声が高崎領五万石の騒動を引き起こすようになりました。これは自然の理でして、人為の力で圧することはできないものです。
 
 九 五郷百姓の評議
 五郷とは前に述べた城付五万石のことで、この領地内に住んでいる百姓等は総督の宮の布告を見ては、長い間苦しんでいた年貢米の一五五の取り立てでなく、元取りになるか、新領と同じ一一五の延口米になるようと、また畑や家屋敷はこれまた新領と同様永納のこと、麦、豆、綿、飼馬、縄、筵、竹等はその時の相場で買い上げるように、できるだけ買い上げの免除を願うとの趣旨、六カ条の役人夫は相当の支給するよう訴願する評議をしましたが、容易に五万石領内をまとめる協議ができず、といっても月日が経つのみでした。そこに一抹の望みが見えたのは、明治二年八月のことで東郷宿大類村の羽鳥権平、久保田房次郎、南大類村の天田勇造の三氏より始めて交渉があり、この交渉を受けたのが秋山孫四郎、高井喜三郎、佐藤三喜蔵氏等郡下各村の信頼厚い百姓代表へ通知することになり、九月二日に始めて上中居村の正観寺へ会合し行われました。出席された主なる方々は外場安五郎、堀口六左衛門、堀口久四郎、関口弥蔵、清水元吉、堤夫三郎、丸茂元次郎等の諸氏十数人で皆熱心な人達で考えといい、発言といい真実の熱情が感じられました。そこで三喜蔵 氏は
「皆様方も腹案をお持ちでしょうが、先頃東山道鎮撫総督宮よりの布告のことについて夜遅くまで熟慮を重ねたところ、これまでの苛酷の取り立てで苦しめられつつきたが近年のように、不作続きで生計困難になりました。その上伝馬の人夫、山役、城下人夫等ほとんどそのため家業を奪われ、路頭に迷い、多領へ転住する者や倒産する者が続出し、この分では二、三年のうちに総潰れにとなるほかありません。従って私は宮様の布告もあり、その趣旨に基づき減納を願ったらよいと思いますがいかがでしょうか。」
と発言すると集まった者は誰も異議を唱える者はなく、皆喜びに満ちあふれた表情になり異口同音に賛成の意を表しました。佐藤氏も賛成してくれたことに対して謝辞を述べ、
「とにかく、地頭を相手にするのだから三ヵ村や五ヵ村ぐらいでは願いをだしたところで聞き入れることはなく、私が考えるところ、五万石各村に通知を出し、佐倉騒動のように男子十五才以上六十才まで残らず箕笠で身支度をし、高崎城下へ押し寄せ、門訴するのが良いと思うが皆様如何でしょうか。」
と述べましたが、一同皆もっとものことと一も二もなく、同意され協議はここで終わりました。そして、明日より今日出席した者が手分けをして、領内各村へ通知することになり、どれも快く承諾し、この夜の趣旨だけが決議されました。その後、
「これから、願いを遂行するためには先に立つ者即ち藩知事に対して願い書へ調印したり、そのほかいろいろな策を講じたりする総代人が必要であるかここらで取り決めてほしい。」
と倉賀野村の堀口六左エ門が提言すると、これももっとものことであるから一同異議なく決定し、六左エ門がまた口を開き、
「下中居村の佐藤三喜蔵、柴崎村の高井喜三郎の両氏にこの重任を願いたい。」
と言うと両氏もかねてから覚悟していたようであるから快く承諾されました。そして、九月の七日の夜、下之城村如意寺へ会合し、その席で委任状をまとめ両氏に渡すこと、なるべく村数を多くすることを話し合い再会を約束して解散しました。
 その翌日より同士は秘かに五郷百カ村近い、村々にでかけ趣旨を話したところ、どこも話の終わらぬ内から承諾して、今夜でも箕笠で城下へ押し寄せようとする早のみこみの者もいるくらいで、一シ寫千里の勢いでそれから先、それから先というようにその夜の内に領分全体へ話が行き渡りました。それだけでも当時五万石領内の百姓が、どれだけ永年の間苦痛を感じていたかお分かりくださるのもさほど難しいことではないでしょう。
 話は替わりまして隣県岩鼻県庁ではやはり総督の宮様御布告により県知事小諸新太夫は細心周到な民意鎮撫の諭達の掲示されたのは高崎藩とは雲泥の差でありました。
 
十 岩鼻県知事の通達
 さてこの岩鼻は天領と称して徳川氏の直轄地であるが、政権返上の結果、懸を置いて、政務執られ、これが知事である小諸信太夫と言う方は村民等の状態や民意の動きに苦心し教えによって人民を教化の恵みにより広めようとして、高札に左記の文面を掲げ、さらに目安箱と称して嘆願書を入れる箱をその脇に添えておきました。
 
 兵乱の後であれば、万民の苦しみは少なくなく、朝廷においては哀憐し、悪い風習が広がり賞罰宜しきを得、撫育は行き届き告諭を蒙った。上者は公明正大の政体に基づき、不正のないよう県職員一同仁徳に重きを置き、万民が安堵する行政を願う。能力の乏しい私は政教不行き届きで庶民が難渋していると思う。職務において充分果たせなく心痛んでいる。上下隔意なく、情実を通し速やかに庶民のため実行し、体験し会得し、国家のためは勿論庶民のことを考えたい。何事も思ったことを遠慮しないで申し出て私の過失を補ってほしい。
 朝廷の趣意に基づき行いたいので申したいことがあれば、懸門外に目安箱を設置するから書状を入れていただきたい。 
   明治二年              岩鼻懸知事 小室信太夫
 
 これを見ましたのが東郷の宿・大類村の羽鳥権平氏でありました。同氏はこの掲示だけでは真意の程が分からないので、全く安心することができませんので、何とかして小室県知事に面会して本心を聞こうと考えましたが、容易に良き手ずるがなく困っていました。そこでいろいろ思案の末、日頃懇意である同所の郷宿萬屋常五郎氏を訪問しました。萬屋の主人は掲示についての本心はどんなものか承知していませんでした。しかし知事公邸へ出入りしていて気質もよく知っているので、すぐに羽鳥氏の意を受けて知事を訪問しました。そして、高崎藩支配所の年貢取り立てのことを聞いたり、同藩の苛政の風潮をこまごまと陳情して庶民の困難状態を申し出て、もしも当県庁へ訴願することになれば取り上げてもらえるかどうかを確かめたりしました。知事にしても庶民の様子を理解するにはこの上なく好都合ですし、懇意で快く出入りさせている者の尋ねですから、願いがあれば便宜を図ると親切に手続き等を教えてくれました。萬屋の主人は知事のお屋敷を出て帰宅して早速羽鳥氏にそのときに話し合ったこと、知事の意向を告げ、公明正大な仁政のほどを聞き、こ こで始めて数々の疑問も了解して喜び勇んで帰村しました。羽鳥氏は取るも取りあえず同意のものに檄を飛ばし集合の通知をしました。集合の場所は大類村の慈願寺でで九月三日のことです。出席者は大類村の久保田房次郎、南大類村の天田勇造、天田平作上大類村の長井惣次郎、長井新一郎、矢嶋村の磯部栄次郎、反町熊次郎、西嶋村の反町九平太、反町繁次郎、江木村の丸山忠次郎、城田吉五郎、貝澤村の井上忠右衛門、新井三郎、石原村の桜井勘六、片山伊左衛門、乗附村の江積市左衛門、高橋藤左衛門の人々で羽鳥氏より逐一丁寧に話され、そしてこれよりどんな方法手段をとるべきかについて、問題を投げかけました。そして減納訴願の利害得失について話し合いされたが、なかなかまとまりませんでした。
 
 十一 急進派と斬新派
 先程申し上げた人達は各自、自分の意見に固執され討議が反復されなかなかまとまりませんでしたが、左の三項に分かれましたが、目的とする処は同一で単にその手段において分かれました。
 一案  朝廷へ直訴して減免してもらうのが穏当の策である。
 二案  藩公へ願い出て取り上げられなかったら朝廷に直訴するか民部省にも訴願する。
 三案  藩へ訴願するのは徒労に終わる。近藩へ訴願して、藩公へ恥辱を与え、反省させて減納    をしてもらうのが一番近道である。
 そこで下郷の佐藤三喜蔵、高井喜三郎氏等の説が二案と符号したが、目的は合致しても、手段、方法については各々主張固執してなかなかまとまらなかったのですが、結局三案を採ることに決定し、羽鳥氏はその旨下郷の佐藤三喜蔵氏等に報告しました。そこで東郷ほか各郷との一致の運動はなくても別に運動をすることにし、願いの貫徹を期しお互いに気脈を通じ連絡をはかることを誓ってだいたいの方針が決まりました。そこで中郷の貝澤村、東郷の江木村、上大類村、南大類村、矢嶋村、西嶋村、西郷の石原村、乗附村の九カ村は三案の説で先ず石原村、乗附村の両村は七日に市藩と八幡藩へ、その他の七か村は東郷列記以外の各村を勧誘して、前橋藩、岩鼻県等へ訴願する手続きに取りかかることになりました。
 下郷各村よりの勧誘に応じ九月七日夜、下ノ城村の如意寺へ集まったのは五郷五十六村でした。そこで大総代佐藤三喜蔵、高井喜三郎両氏のほか、更に上小塙村の小嶋文次郎を加え三名とし、この三名に委任状を渡す、費用の点については数々議論がでたが結局高割りにすること、また三人の大総代は
「時期を見て大勢のものに箕笠で出て貰うことがあるけれどあらかじめ承諾を得ておく。」
と言うとこれは異議のある筈がありません。全員が賛意を表しました。この上は百姓一同が大総代の指揮を待つことになります。大総代諸氏はそれより運動方法に関しさらに協議をすることなどたくさんあってこの日はこれでこの会を閉じました。その後佐藤三喜蔵、高井喜三郎、小嶋文次郎、羽鳥権平、久保田房次郎、天田勇造、長井新一郎、江積一左衛門の諸氏は残り協議をしました。九月二十七日には小幡藩、七日市藩、前橋藩、岩鼻県等へその他の者は高崎城下へ押し寄せる手はずをしました。二十九日に至り西郷の二村は早朝より数百人は山越をして小幡藩、七日市藩へ訴願に行きました。三大類、両嶋の数百人と江木村、貝澤村の数百人等は早朝より繰り出し、元総社町の明神境内へ集合、午前十時頃にはすでに千人以上集まりました。それより先前橋藩へ訴願するについては日高村の津久井鍋十郎氏の尽力により好都合でありましたが、その朝何者かの密告により大勢の者集合することが高崎藩へ知れられてしまいました。そして城内より、郡奉行谷口忠左衛門殿ほか数名が騎馬ですでに前橋へ押し寄せるところへ駆けつけ、これを見た一同は皆散り散りばら ばらになり、折角尽力してくれた津久井氏の策も空しく終わり実に残念でありました。 
 逃げ延びたうちの五、六百人はすぐ道を南方にとり、岩鼻県目指して急ぎ、昼頃は岩鼻県庁に着き羽鳥権平、久保田房次郎、天田勇造の三名は直ちに郷宿萬屋主人のとりなしで県庁へ行き、願書を提出しました。小室知事は追って連絡をするからと、ひとまず郷宿萬屋で待ってほしいと言い、羽鳥氏等は知事の言うとおり萬屋で待っていました。知事の方も情実はともかく、高崎藩へ知らせなければなりませんので飛脚を出し、事の次第を知らせました。
 高崎藩ではこの報を聞き、容易なことではないと判断し、早速代官金田節右衛門殿を岩鼻県に使わし、訴えに出た百姓等を引き渡してくれるように県知事に迫まりました。県庁の方では事の次第にかかわらず願人の総代人を一応呼び出しになり、総代羽鳥権平、久保田房次郎等は民政係岡田三郎氏の取り調べを受けることになり、取調中高崎藩より出張してきた金田殿は知事と談判をしていました。岡田民政係り殿は万一両人を高崎藩に引き渡したら後日艱難の浮き目に遭うと不憫と思い、県庁限りで放免にになりました。二人はほっと一息つぎ、互いに顔を見合わせて両人は急いで門の外に出ました。しかし、高崎より大勢の役人が待ち受けていて、村役人たちも連れられ並んでいました。その中を通り抜け出ましたが、折りよくその日が岩鼻町のお祭りで若者が集まってどやどやと幟を立てているところでその中へ紛れ込み裏の方へ入り込み、八幡原村方面へ逃げ延びることができました。それは寅の尾を踏んで薄氷を渡る思いでまさに危機一髪の危ない場面でありました。その後で役人たちは先程出てきたのは総代であることを知り、それ逃がすなとその後を追いか けました。これを見ていた大勢の百姓たちは両人が捕らわれては大変と一斉に大声を上げました。役人たちはその大声に恐れたと見えて追跡をやめました。それは実に幸運なことでした。このように都合良く行ったのは、ひとえに天が不憫だと思い同情してくれ、逃れることができたといっても決して過言ではありません。
 
 十二 矢中村天神森の集会
 一方、如意寺散会後の三人の大総代諸氏は細心周到で訴願の計画に没頭し、寝食を忘れ、東奔西走し家へも帰らずこのことに専心しました。ただひたすらこの成功を祈った熱心さは私には到底形容することはできませんが、非常の際には非常の決心をもってことにあたります。これは歴史上にもときどき出てくる事実で、佐倉宗五郎の例でも困難屈折、難関に遭ってますます忍耐力を発揮しています。この訴願においても成功を期して長い間の辛苦、困難も辞さないというようになるもので、万全の準備に夜と昼とを問わず何日か費やしました。この計画がまとまったのは九月の二十日頃でありました。何ぶん五郷全体に関することであれば集会を開き総代等を集まることは不可能でありました。当時高崎藩の役人は岡っ引きを使い主な総代には尾行させ、もし三人、五人と集まれば必ず召し捕るといった高飛車的威圧を加えたので、集会をすることが大変難しくなってきました。しかし大総代は便宜上各村に一人宛の担当総代人をまた五村から十村以内に中総代人を選出し、この者等が全体への連絡、費用の徴収を扱わせましたからこの方法は実に便利でありました。九 月二十七日北矢中村の天神の森へ二十五人ばかり集まって、今後の処置について善後策を練りました。大総代に選ばれた三人の方は単に熱心と言うばかりでなく、何れも皆意志強固な人達でよく最もこの任に相応しい人を選んだもので命を賭けて訴願の貫徹を誓われたのは実に心地のよいものでした。そこで願書の文面についてはひとっきり大総代諸氏に一任したが文筆の才能のある者も二、三人手伝うことになり起草されました。
 高崎城へ押し寄せ、門訴するのは十月一日と決めひとまず引き上げることにしました。話が少し前後しましたので分かりづらかったと思いますが、日が経つに従って騒動があちらこちらに始まりましたので大いに面食らったのであります。西郷の二村の者が小幡藩、七日市藩へ訴願に及んだところ、七日市藩では大いに同情されてすぐに炊き出しまでしてくれてもてなしてくれたそうです。また小幡藩ではいろいろ慰めてくれ願書も快く受け取ってくれたとのことです。
 さて大総代佐藤三喜蔵他二名の方並びに願書起草の助手の人々は願書作成に没頭し、また村々へ伝達する人達は十月一日に箕笠で北矢中の天神の境内へ集合することを一般の百姓へ伝えるために奔走しました。その速やかさは実に人間業とは思わぬ位で、ちょうど声の響きに応ずるようにこの知らせを受けた百姓の衆は十月一日の来ることを一日千秋の思いで、明日にも来るかのように待ちこがれ、喜び勇んでその日を指折り数えているようです。
 その状態といったら実に申し上げのないようで、これまで大勢の人がこれほど関心を持ち熱狂的になったことはありませんでした。こんなようなわけですから、自然女子供に至るまで、早く城下へ押し寄せ、門訴を為し年貢を負けて貰い、せめて餅つき用の米が残るように早くしてもらおうと、それはそれは実に当時の有様は非常なもので、気の早い連中は既に願いが叶ったように喜んでおりました程でした、かれこれするうち九月も終え、十月一日になりました。一般の百姓は早朝より北矢中村の天神境内へ集合し城下へ押し寄せようと身支度をしているところへ、大総代の都合上、今日の集合は見合わせるようにとの知らせが各村々へ伝わりました。大総代の都合とはどんなことだったのでしょうか。総代たちの話し合いの中で、これより先減納を願い出すについては
「先ず佐倉宗五郎の廟へ祈願のため代参四、五人行く方がよい。」
という者もありましたが、
 「わざわざ佐倉まで行かなくても行かずとも、 ここで祈願しても神仏は必ず願いを叶えてくれるだろう。」
 という者が多かったが結局、
「何となく神仏が慕わしくなり、神仏の加護によらなかればこの大事件の成就の程もおぼつかないから代参を立てた方がよい。一層大総代三人に祈願のため参詣して貰おう。」
という意見が出て、これには列席の各総代両手を挙げて賛成したので、三人の大総代も各総代の意見を入れ、宗五郎廟へ参拝することになりました。大総代は俄に旅装を整え、十月一日の夜出発しこの夜は玉村町に泊まり、次は館林町に泊まり・・・・五日目に首尾良く宗五郎廟へ参拝することができました。三人は手を洗い身を清めて丁寧に拝礼し、三人の生命を御霊に捧げ、
「何とどわが五万石領の各百姓の塗炭の苦しみを救ってください。」
としばらくの間真心を凝らして涙を流して祈誓されました。
 このようなことは一般の百姓は知らなかったのでありますから、悲報に接したときの落胆ぶりといったら又格別で実に申し上げようもないくらいでした。 既に数百人は天神境内並びに近傍へ集まった者もあって、がやがやしていたが総代三人の説明で不性無精家に帰るようになりました。一般の百姓は最早減納願いに気を奪われ仕事などは手につかず早く繰り出すようになればよいがと、これのみ思っていたのも無理もないことでした。そのうち大総代の方でも万事手筈が整いまして、この度はいよいよ十月十五日ということに決定しました。当日は正午頃より二、三人くらいづつ別々になり、決して五人以上集まり歩くことのないようにして、貝澤村の五霊神社境内へ集合いたすようとの伝達がありましたので一般の人の喜びは育亀の浮木に遭えるに異ならない喜びでした。なほ大総代の注意で
「城下へ押し寄せ広小路の芝生の上にいる間はたとえ幾日経つとも連絡のない時は引き取らない覚悟だから、皆さんもそのつもりで二、三日の弁当を用意をしておくように。」
とのことでございました。百姓たちはなるほどもっともなことということで、各自弁当の用意に取りかかりました。そのときは不作ながらも稲は熟していて穂先も黄ばんでおりましたから皆々自分の田に行き廻り刈りと唱えて田の廻り三尺幅(約九十センチ)くらいを刈り取りました。この廻り刈りというのは領主より許されていて習慣になっていました。もしそれ以上刈り取った者は不作の時倹見を願い出しても、聞いてもらえない規定になっていました。そこで回し刈りをして稲を自分の家へ運び手早く扱く、干す、摺る、つくという風に忽ち仕上げてしまいました。廻り刈りのことについて一寸注意しておきたいことがあります。それは一枚一枚に廻りを刈るわけでなく、一筆限りにするのであって、もし規定以上刈るときは自分の田が倹見ができないだけでなく一村全体に影響するわけですから余程注意したものでした。余り時間の経たないうちに弁当の用意もできましたから一日も早く、その日来ることを待つことになり、減納が聞き入れられるように神仏に祈る者もあるくらいでした。それはそれは非常なものでして、一生懸命というのはこのようなことを申す のでしょう。
 
 十三 貝澤村五霊神社森での集会
 領内百姓が明け暮れ待ちに待った十月十五日もいよいよ来て、皆胸躍らせ少しでも早く立ち出ようと思っていました。兼ねてから大総代よりの注意もあったので二人三人或いは四人と昼の頃より五霊神社目指して集まる者はきりがなく、夕刻になったころはかなり広い五霊神社も立錐の余地もないくらいで神社のまわりも人で埋まり、しまいには三、四千人の人数になりました。折から空模様が何となく悪くなりだんだん夜も更けるに従って寒気が一層増してくるということでありましたから所々で落ち葉をかき集め拾い寄せて焚き火をして、夜の明けるのを待ってました。そして夜の明け始めるのを合図に高崎城下広小路の芝生まで押し寄せ願書を出す手筈でございました。
 ちょうどこの日前箱田村へ検見として大目付下石丈右衛門、諸田順之助の両氏は米見を従え、前箱田村の名主八木杢平氏方へ出張中であって、翌十六日が上新田村の検見の予定でしたが、この日百姓の挙動が何となくそわそわしてただならぬ雰囲気が見え注意していると深夜になり貝澤村あたりが余程騒々しく聞こえました。もっとも前箱田村と貝澤村とは距離が近くの上三千人あまりの百姓が集まりましたことでありますのでとても静寂なわけではありません。それでありますから両人の役人も黙っているわけには行かないので、ついにその現場へ出かけることになりました。そして八木杢平氏方を出て途中上新田村の組頭井草勝平氏方へ立ち寄り、同人へ案内を申しつけ貝澤村の五霊神社へ行きました。
 そこにはあまりにもの大勢の百姓が集まっていたのでしばし呆然としているうち、各村の印の纏が数十本あったので兼ねてから聞いていた集まりであると思い馬を止めました。すると佐藤三喜蔵、高井喜三郎、小嶋文次郎、その他の総代丸茂元次郎、清水元吉、堤和三郎、関口弥蔵、松田作平、馬場安五郎、浦野嘉吉、木村主馬吉、福田子之七、小嶋掃部次、大澤富太郎、小平国太郎、菊地笹太郎、竹井馬吉、高井伊十郎、秋山孫四郎、小嶋喜伝次、江積市左衛門、富沢作右衛門、堀口六左鋭門、湯浅巳代吉、箱田儀四郎の面々が駒近くへ歩み寄りました。そして佐藤三喜蔵、高井喜三郎、小嶋文次郎の三人がうやうやしく敬礼して下石丈右衛門、諸田順之助の両氏に向かい、
「この度高崎領の百姓たち願いの筋がございまして明日高崎城に行き、願書を差し出す手筈で、今晩ごらんの通り、百姓は集まっておりますが、幸い貴下の出役恐れながら願書の取り上げの程をお願い申しあげます。」
と恐れず臆せず陳述しました。もっとも大総代はこのことが起こり始めた時から死を決してことに当たる非常な決心をもって引き受けたので何にも少しも恐れる素振りはないわけであります。ことわざにある「一夫死を決して事に当たれば万夫を恐れるるに足らず」と実にその通りで堂々とした立派なお方でありました。このとき、下石丈右衛門、諸田順之助の両氏はことは容易でないと馬を下りて、五霊神社の拝殿にに行き、大総代三人を近くに呼び寄せ、先程差し出した願書を取り上げお読  みになりました。藩公に関わることで自ら処分のできるべきことがらでないので、これを懐に入れ、しかしこのままではここに百姓を置いてはよくないと思いそれより説諭が始まりました。
   
  十四  諸田順之助の弁護
 諸田順之助殿は大総代を初め一同の者に向かって
「ものには順序というものがある。筋道というある。その方の願いの筋は道を誤り、順序をふまない上、大勢を集合させ、郡中を騒がしていることは誠に遺憾である。また願いの趣旨にしてもそのように苦しく減納してくれと言う程の無理な取り立て方はしていない。一同の者よよく聞け外国では畳一枚につき月に何程、天秤棒一本より幾ら、また鶏一羽につき何ほど又家に住めば何程倉庫、物置より何程というように年貢を取り立てる処さえある、しかしここの 領は大変憐れみ仁政をしかれているはず、もし 今年のように不作に遭えばそれぞれ倹見してして年貢を少なくするほどである。よく考えて比べて見なさい。こんな大勢を集めて騒ぐことはない。早くこの場の集合を解散しなさい。」

といきまく風を見せて、慰めるような説明をし長々と述べていましたが大勢の百姓にとっては少しの反応もないようでありました。このとき下石丈右衛門殿は諸田代官と相談して早速駒を引き寄せてすぐに高崎目指して帰られました。当時の大参事は元上席家老の長坂六郎殿でその次席が元城代の浅井吉右衛門殿で、その次席が元年寄りを勤めた深井治右衛殿でありました。高崎の藩制は家老、城代、年寄りと特別に役名があって、家老が城代を兼ねる場合を城代家老といっていました。そこで下石丈右衛門殿はすぐ民政所へ出頭し、前申し上げた方々へ概略を話し、大総代から受け取ったところの願書を差し出しになりましたので、大参事初め重役の面々は大いに驚かれ、早速他の係りの役人を召集して城内は非常な騒ぎでありました。
 一方百姓側は最早願書は重役がすでに城内へ持っていってくれたので代官はただ能弁の人でよく口のまわる人だくらいのことで一向その効果もありませんでしたが、代官は、
「願書はすでに重役が上申のため城内へ行ったのでそのうち何かの指示があるだろう。それまでは一同の者おとなしくに家に帰って、いつもの仕事をやりなさい。いつまでもいるからといって聞きいれるというわけでもない、さあさあ早く帰れ。」
とせかせますので表面はその言葉に従うよう装いましたが、内心ではこれくらいで願意を聞き届けになるものでないと先を見越しておりますので家へ帰る者は一人もいませんでした。諸田代官も呆れ果てとても説諭の言葉位では駄目だと感じたと見え、五霊神社の拝殿を下り、大勢の中へ入り込み、一人一人に
「お前はどこだ、何村か。」
と聞き
「何村はこれを行け、何村はあちらの方へ行け。」
と袖を持たれて引き回されました。諸田殿が西の方へ連れていけば連れられて行くが、諸田殿が離れるとまた元の所へ戻って来ます。東郷、下郷の人を東の方へ連れていっても又すぐに元の所に戻り、南北と連れ歩いても皆そのようであるから少しも数が減りませんでした。ただがやがやしているばかりで、少しも効き目がなく、泥中をかき回すようなことだったので結局不得要領の有様でした。諸田代官も同じ事を繰り返すばかりで追い追い疲労もし呆れ果てていました。その頃幸いにも夜は早明け方となり東の方はほのぼのと明るくなったので、大総代も秘かに他の総代に「ここはひとまず引き取るように見せかけて午前十一時までに高崎城下へ忍び寄り、午後一時までに広小路へ押し寄せるように。」と命令を出しました。
 これを受けた総代はこの旨一般の者に伝えたからだんだん人数がも減少し始めました。しかも、諸田代官の言葉に従って引き取った風に見えたから諸田代官は得意そうな面持ちでありました。諸田殿も安心して城内目指して注進におよび高崎藩中では夜中に下石丈右衛門殿の注進に驚き家中の人達が集まり、鎮撫策の協議最中に諸田殿の報告に接し安心はしても願意を聞き入れないときは何日何時城下へ押し寄せてくることも考えられました。そこで高崎の入り口や出口では急に厳重な警戒を加えましたが、その騒ぎと言ったら大したもので、今にも数千の領分の百姓が筵や幡を押し立て来ると人混みで通行のできないくらいでした。商い店の中には店を戸締まりするものもあったほどですから普通の雑踏とはわけが違うことが分かるでしょう。
 
 一五 柳原観音へ郡奉行出張
 城においても下石、諸田両氏からの状況報告により対策会議することになっても、このままにしておくものではないので、要所要所には警戒を怠らないで南大類村の柳原観音近くへ足軽五、六人を出張さして動静の程を伺わせました。そうこうしている内にはや高崎城下田町通りへ二、三百人の百姓が押し寄せ今や遅しと待っていますと、このことが役所に知れ 役人のために遺憾ながら追 い払われ、下郷、東郷の者は通り町口より押し寄せる話し合いでありましたから、柳原指して集っていると、これ又足軽のため追い払われました。このとき大総代諸氏はことすでにこれまで進行し今このようにくい止められては同一の歩調もとれず、規律も取りにくいと臨機応変の策をたて他の総代の方々へ命令を下しました。他の総代も集まっている者へ内々小声で伝えれば皆の者も追々解散しました。これより先、 城内においては柳原方面へ足軽を向けると同時に郡奉行谷口忠左衛門、大目付三上春一郎、代官大瀧章司、大目付岩上元右衛門諸氏は駒を並べて貝澤村の五霊神社の森を目がけて、出発したが五霊神社境内まで行ってよく見ると、森には一人の陰もなく、ただ大人数集まっていた風に所々に焚き火をした跡と林の木々へ吹き当たる風音のみでした。、郡奉行たちは大いに 目的が外れたと行った様子で、それより柳原目指して出かけたがちょうどこの方面に出張してきている足軽に会いまして、逐一、その様子を聞き取り始めて安心して帰られました。
 話し替わって、百姓側では一旦高崎で追い払われた者もまた柳原で散り散りになった者も総代より大総代の意向を聞かせられていました。それは今夜の内に柴崎村の天王森へ一同秘かに集まって夜明けを待って高崎へ押し出すとのことでありました。そのことを一同の者に知らせると、今まで落胆していた者がこのことを聞かされたものだから、急に勇気百倍という感じで大いに活気を呈してきたのはもっとものことであります。それより一同は家に帰り、出直しをする者も大勢いましたが、家に帰らず日の暮れるのを待っている者もおりました。
 
 十八 立毛検見
 ここで参考までに検見のことを少し申し上げておこうと思います。検見には全部、抜き検見の二種類がありました。全部とは挙村で検見を受けることで、抜き検見とはある一部分を検見を受けることですが、実際抜き検見というのは容易に取り入れられませんでした。それもそのはずで、上熟の稲は刈り取り不熟の稲のみの検見を受けようという風に自然横着者がたくさんでるからであります。例えばその年の気候によって早稲、中稲は上作であっても晩稲のみの検見を受けようとするような者がいるので、検見以前に願いを出さなければなりません。願書が出ると下検見と唱えて役人が出張して全体をよく見るのです。検見の可否はこのとき決まるが出張の役人を案内する名主、組頭、百姓代の苦心はひととおりではありませんでした。それはこのような出張の役人も人間であるからもし少しの感情でも害することがあれば、許可にならないから、その機嫌を取る様子は言葉で言い表せないほどでした。
 幸い許可になると、何月何日に検見するというその通達を受けると名主初め村役人は急に忙しくなります。検地帳について反別を付木に書き、その上持ち主の名前まで記し、それを五尺ぐらいの竹または篠の上端に挟み出来上がると一筆ごとに立つので、いよいよ当日となると検見の主任が代官で下役が米見でやってきます。初め検見の役人の出張の際、人足、駄馬等迎えに差し出しなさいとの命令があります。これらのものはどんなことに使うかというと、駄馬は検見役人が検見中要する日数に応じてその飯米、野菜、味噌等をはこび、人足は検見に要する器具機等のために使かいました。
 こんな感じで乗り込んできた検見の方を名主、組頭、百姓代の案内で検査に着手します。これに従う者は第一に茶番で、茶番はつり台に茶菓は勿論ひとっきりのの器具を乗せ、人足を使い運搬します。次は橋板かつぎでこれは用水路悪水路にわずか二、三尺の水路に掛けるものでありました。その次が給仕、帳簿持ち、水汲み、予備人夫等であるから、丁度花見のときの仕度のようでもありました。それで役人が検見を始めるとその地主は畦にうずくまり、納米がどれくらいになるかを気使い、冷や汗を流して待っていると、役人はあちこちを見て上免、または何合何勺という。地主はありがとうございます、とか坪切りを願うとか受け答えをしなければなりません。この坪切りは役人が適当と認めれば定免で納米に違いないという意味であります。いよいよ坪切りとなると六尺の竹を四本四角に組み合わせてその田の平均作へおいて竹枠の中へ入った稲株を刈り取りこれを扱き筵の上に馬の沓でよく擦り仕上げた籾を量り、何合何勺と決めるのも如何によく仕上げた籾にせよ高崎藩では一升の籾から米が七合三勺でると言う方法で計算をします。事実においてありようは ずがありません。 それでありますからただ検見役人のご機嫌を取り、感情を害さないで、寛大の処分を願うほか道はなかったのででした。もし感情でも害したら一、二尺位の用悪水路ほか、大きな用悪水路なき地方で検見しているので、橋板かつぎ人が遠方にいるのを見ると役人の諸氏はその水路の辺まで進み、村役人に向かい、
「これこれなぜ橋を架けないか、不都合である。」
と叱りとばす。村役人に呼ばれた人足もあわてふためき橋板をかつぎ大急ぎで駆け寄り、肩より板をおろし架けようと思ったところへひょいと飛び越え、村役人や人足たちはあきれて立っているという滑稽なことを演じている場面がしばしば見られました。茶番も同様のことで苦しめられることがありました。それはまだ休憩には早くこの辺で休みになるであろう適当の場所を選び、茶の用意をしていると、役人はその方には行かず、反対の方へ行き、
「休憩するぞ。」
と村役人に言いつけます。村役人は橋板のときのように茶番を呼び、茶番が駆けつけ、敷物などを広げて休憩の仕度をし、茶を立てて給仕が役人の前に持って行こうとすると、ぐっと突立ち折角できたお茶も飲まずすぐさま検見に取りかかるなど、意地悪なことをすることもありました。検見のやり方はおよそこのようなものでありました。さて、名主の宅の賄いの方はどうかというと役人がもってきた米、味噌、野菜等を使用して調理し配膳するのが当然であるが事実はそのようでなく、名主の家では料理人を雇い入れ、山海の珍味、丁重な饗応に家の者や臨時雇いの人足たちの忙しいことと言ったら、それはそれは大騒ぎであって、結婚式やお葬式など比べようはありません。なぜかというと粗相のないように過ちのないようにとその注意は想像のほかであります。
 これは別のことですがふうらい目付という役人を時折出張させて、検見役人が百姓に対しわがままなどしないように全ての行動を監視するのです。一寸言うと配膳の際でもいちいちふたを取って中をあらためたり等注意周到であったため平の中に山海の珍味を盛り、上には稍蓋のように大根をごく薄い輪切りをのせて、一見中味が分からないように注意したものであります。それでふうらい目付までが饗応に応じて知らぬ顔の半兵衛さんでいやはや呆れるほかありません。こういう訳ですから携帯の品物が日数が経つに従って、その量が増えるという具合であったそうです。この一事だけでもどんなに役人が横暴だったか分かるでしょう。
 
 十七 柴崎村天王森の集会
 さて、五万石領内百姓は大総代の指示のように、その日が待ち遠しくて、これからどのようになるだろうといろいろ想像をしていましたが、日もだんだん西に傾いて夕暮れ近くになった頃、徐々に集まってきて、宵の内よりだんだん増えて、一刻毎に人の増すばかりで夜明けの頃はさすがに広い境内も人がいっぱいで溢れるばかりでした。
 この夜はまた格別寒さが厳しくて、枯れ枝や落ち葉を拾い寄せて焚き火をして、あちらこちらで団欒ををしていましたが、その焚き火をしているところを一寸数えてみましたところ、驚くではありませんか。実に百四十三カ所程もありました。これでどんなに大勢集まったかお分かりになると思います。
 そのときに上中居の丸茂元次郎殿は赤紙の紙幣を長い竹の上に挟み、神前へ行きうやうやしく頭を下げ三度拍子を打って中臣の祓いを始めました。私も当時流行の稲荷講中となり、少しはお祓いのの文句を承知していましたから、丸茂氏に続いて同様に祈念すること、やや三十分ばかり、ひとえに神明の加護を戴こうと思いまして祈りました。そのうち、長い夜も鶏の声を聞くようになり、暁近くになったら、僅かの間に何となく殺気充満し繰り出すときの用意をして、出発の時刻を待っていました。すると夜も完全に明けたので、大総代の佐藤三喜蔵、高井喜三郎、小嶋文次郎の諸氏より、
「いよいよこれより城下へ押し寄せますが、決して乱暴などしないようお互いに心がけ戒めなければなりません。後で他領の人々に笑われるようなことをすれば互いに気まずいので、挙動については充分注意し、静粛に行動して指揮者の指示に従ってほしい。」
と懇切な注意がありました。
 このとき丸茂元次郎氏は祈念も済み、幣束を持ってきて
「不肖ながらあなた方を招きます、こっちへ寄ってください。」
と言われたので、私も快く丸茂氏の側へ寄っていきました。大総代の訓示も済み、一同はまっすぐ進み、丸茂元次郎氏、次に幣束をもちました私という順で四千人近い百姓が続き、天皇森を繰り出し始めました。丸茂氏は自分の家の前にさしかかると、田や畑の中をまっすぐに進み、家に飛び込んだので、これを見た人は何事かと見ていましたが、子供の箕を背中に着て、急いで帰ってきました。昨日一旦帰宅した人々も皆途中で加わり、岩押村付近までは道路が狭いので、二列だったので、後ろの者はまだ天王の森で暖を採っているといった風で実に大したものでありました。丁度丸茂氏が着た箕が北越の婦女子が寒中肩から背にかけて着る真綿着で大変滑稽に見えました。
 それから岩押村を過ぎて遠構へさしかかり、いよいよ通り町口へ行った頃しんがりは天王森をそろそろ繰り出すという位続きました。世間の関心が集中したことであれば、すばらしい事はたとえようもなく威勢のいい若者ばかりで、元気旺盛で高崎藩の家中を一呑みの感じでありました。けれども通り町口の木戸には警戒が厳重で町奉行道心などが十人あまり厳然と差し控え、袴の股立てを挟み、いざとなったら引き抜こうとする剣幕でずらりとそこへ並んで威勢良く立っていましたが、百姓の方でもなかなかその位では引っ込みはしません。
 さて この先どうなりますことやら、雨か風かはたまた雪か、驚天動地の活躍舞台の幕はいよいよ開かれました。
 十八 通り町口の木戸破り
 さて、百姓側の方も後へ後へと押し掛け同勢ますます加わり、一時は町奉行や道心の剣幕に躊躇しましたが、どうしてこれくらいのことで引き込むという弱虫は一人もいませんでした。そうこうしている内に、下之城村の高橋弁五郎というものが木戸より十間(約二十メートル)先に廻り、野猿のように用水路を飛び越え難なく木戸内へ入り疾風のようにかんぬきを抜きましたので、一同の者どやどやと雪崩を打って押し込んだその勢い、その早さはあたかも大洪水が堤防を破壊するときのようで進入したから制止ができる状態ではありませんでした。
 そのとき通町の名主の小林彦八という者がこの有様を見ていてすぐに飛び出して来て、あれこれ言っていたが、一同の者は一向にそんなことを聞くものではないから、空吹く風と聞き流しました。もっとも小林彦八氏も内心はこの度の百姓の願い出については同情していたそうで強いて止めはしませんでした。かねて町奉行の方より木戸番を頼まれていたので無言でいるわけにも行かないので、ほんの申し訳程度に一応の理解を求めたまでのことでそのうちに百姓ががやがやと押しこんでいきました。役人はとても少数では止めることができずあわてているうちに用水へ押し込まれてしまった者もいました。
 寡は衆に敵せずというが実際その通りで初めの威勢はどこへやらで、消え失せていやはや誠に大変な次第でありましたが、丁度そのとき、折り悪く道心に顔を知られていた上中居村の堤清右衛門氏がその役人を押し込んだので後に木戸破りの罪に処されました。これらは全く役人の方が自分の恨みを晴らすためでありました。またひとつには木戸のかんぬきを抜き扉を開いた高橋弁五郎の顔を知らず、重役が訴えた結果で誠に気の毒なことでありましたが、これもいかんともしがたいことであります。
 十九 城内への押し寄せ
 さて、通町木戸を難なく通過した百姓達はだんだん進んで安国寺門前まで押し寄せました。ここにも連雀町に木戸がありまして、この木戸は三十ばかりで押しました処、忽ち、押し倒してしまって、真一文字に桝方の木戸の際まで押し寄せました。ここは前の二カ所と違って構造が至極堅固でたやすくいかに大勢だからといっても、なかなか手だけではとても壊すことができるものではありません。ことに中には数十人の武士が威風堂々と警護し警戒がことのほか厳重で暴虎のような勢いで押し寄せた百姓達もこればかりはいかにも致し方なくこのところにて食い止められて、ついに 目的の広小路の芝生の上に座り込みできなかったのは遺憾のことでありました。そんなこんなの内に三千余の大勢が連雀町及び通町へ入り込んだので、往来は元より止まり立錐の余地もなく人で埋まれしまいました。あいにく通行の大名は通ることもできず、お付きの侍は立腹するという始末、町内の者は皆雨戸を閉めるやら、店を締めるやら右往左往の大混雑でした。
  この時連雀町の関根作右衛門氏は大いに百姓側に同情を表され、百姓に昼食を出してやろうと同役の御用達講金世話役達へ早速参会したいと通知しました。この通知に接したところの人々はすぐ関根方へ駆けつけ炊きだしの用意をして振る舞うということを決めました。また同町の青果屋の小板橋彦次郎氏他一軒より幾樽となくたくさんの漬け物が贈られたり、通町のこんにゃく屋ではおでんを何千串となく差し出されたり、その他白湯、茶などを用意して接待した家は数限りなくありました。何れも皆百姓に同情の気持を表し、親切にいろいろな便宜を与えてくれたので、一般の百姓たちの喜びはまた格別で、初め大総代の注意に三、四日分の弁当を携帯するようとのことでありました。このように歓待を受けようとは思いもよらず、意外の厚情に涙を流す者も随分見受けられました位でございます。
 
 二十 関根氏方での炊き出し
 前に一寸関根氏方で炊き出しをして百姓たちに接待したことを言いました。これにはいろいろな理由がございますから、ついでながらお話いたすことにしますが、元高崎には潤澤講と申しますものがありました。これは藩公より町内富豪、名望家へ申しつけになり、そうして五千両の無尽講を起こして、第一回は藩公がこれを取られ、この藩公の取られた五千両を諸方面に貸し付けたものであります。この金を取り扱う者を講金世話役と言って次のようであって藩公より二人扶を戴いている士分相当の待遇を受けました人々は中嶋伊兵衛、中嶋仙助、桜井伊兵衛、滝川喜兵衛、関根作右衛門、吉田庄八、清水元右衛門、清水関左衛門、小林弥七、西岡半九郎、矢島利兵衛、恵守善次郎、小河太兵衛の諸氏でこれらの人々が急に相談して炊き出しをされました。それに藩公より秘かに臼田弥太郎、吟味役高橋龍助、代官岡田奴、添え役斉藤直記、同高橋瀬蔵の諸氏が陰ながら指揮を執られていました。なおその他の五、六人の若侍が始終付き添って世話をしたくらいの騒ぎでございますから、高崎中の大工を呼び集めてかまどを作らせました。また、三河屋の主人、武師屋の 主人や越後屋の隠居などは八方へ駆け回り、婦女子を呼び集め、野菜の調理やその他の世話をして、男子は米とぎをしたが何分手が足りないので、九蔵町の酒造家十一屋の藤崎聡兵衛氏方に多数の酒造人夫がおりますので、これを雇い上げ、なお同家より大釜を六、七個も運搬してきて飯を炊いたりしました。その混雑はなかなか一通りや二通りの並大抵のことではありませんでした。
 そこで百姓達に対する情愛は今日のような浮薄な社会とは全く異なり、衷心より発露された愛情は到底想像できないことでしょう。また新町の矢嶋、角田の両問屋も深く心配され、中でも矢嶋八郎氏は十四才で藩公より若年寄り役を命ざれただけあって百姓が通町木戸を破って桝方御門を打ち壊そうとして押し寄せたとの町役人の報告があるとこれを鎮定しようと取りあえず現場へ駆けつけました。その様子を見ると乱暴狼藉どころか至極穏やかで単に多数の百姓が減納願いにのため、城下まで出たということに過ぎないから、大いに百姓側に同情を寄せ、弁当など与えようと御用達関根氏方へ立ち寄られて、同家ではその準備に取りかかっていることを聞き安心し、それより城内へ急いで行きました。そして重役に面会して多数の百姓が桝方御門へ押し寄せたのは一見穏やかでないようなことであるけれどこれらは大勢を頼みに暴行をする者ではない、よって御用達衆に炊き出しを振る舞うように促しました。そして、この人達も既に準備中とのことなので藩においても炊き出しの指示のため何人か派遣してほしいとの伺いを立てました。藩においてもその伺いを快く受 け入れ、前に申し上げた人々を派遣させた手腕は実に栴檀は二葉より香ばしと言うがまだ成年になっていない矢嶋氏の機敏なる行動は敬服のほかない処置と当時藩の役人方も百姓側も共々賞賛したのでありました。このような次第でありましたから、全町方総掛かりで世話をしてくれるといった調子でありました。 
 二十一 大総代の威厳
 既に桝方木戸の際まで雲霞のように寄せた大勢も堅牢な門を開くことができず、がやがやしていました。その内に桝方の木戸より出て来られたのは、郡奉行谷口忠右衛門、代官大瀧章司、大目付岩上元右衛門の諸氏で何れも袴の股立ちを高く挟み、陣笠をかぶり、悠然と床机に座っていました。このとき大瀧章司殿はなかなか活発な方ででありまして冒頭一番
「その方たちこのように大勢押し寄せ、我々の肝を冷やそうとして願意を叶えようとする計略だろうが、これはもってのほかで不とどきなやり方である。城中には大勢の軍勢もあり、お前達が幾千万人押し寄せて来ても、少しも恐くない。お前達は速やかに村々に帰り謹慎して、今まで通り上納しなさい。お上においても会議の上処置をするので、急いで引き取りなさい。」
と命令的に大声で話したが、そんなことは何の効き目がありましょう。そのとき、佐藤三喜蔵氏はぐっと立ち上がり、皆の方に向かい右の手を上げ左右に振りました。これは大勢のことでもあり、遠方の者には音声が聞こえないので手合図で道路を開けるようにとの指揮でありました。今までひしひしと詰め寄った連中も桝方より安国寺までの間、道路の中央に一尺五寸(約五十センチ)幅ばかりの通路を開きました。今度はまた両手を頭上より高く差し上げ手のひらを前方に向け三度上下いたしますと、今まで肩は擦り合い、足は踏み合うという隙もないところ人々は一緒にドウと座りました。その威勢のよいこと、また一同の者もよく規律を守り、命令に服されたのは実に感心の至りで、それをまのあたりに見ていた役人たちは内心大いに驚かれたようでした。
 
 二十二 減納願書の差し出し
 一同を制していた佐藤三喜蔵氏は袂より真紅の布きれをだして、眼を拭いました。これは同氏が十数日の間、充分睡眠がとれなかったため、ついに眼を患ったようですが、同氏は眼病にかかって困るなどと一言も洩らさなかったということです。それから静かに懐より願書を取り出しこれを郡奉行谷口忠左衛門殿に差し出されました。その文面は御家流の美しい筆跡でありまして、左記のような内容でありました。
   恐れ多いですが書面で嘆願申し上げます。
  当領分四十七ヵ村総代下中居村造酒之助他二名の者が代表して申し上げます
一 これまで先主安藤対馬守様より引譲した畑の米納をの永取りにして戴きたい。
一 田の年貢は岩鼻県支配所同様に、且つ御新領並に三五村にして戴きたい。
一 麦、大豆を納めるときは永年一斗につき四合乗の処、乗を除き平桝でお願いしたい。
一 籾種は一斗につき三升の利足を添えて上納したいたが無利足でお願いしたい。
一 食米は六月末、九月末に十俵上納していたが六月五俵、残は七月より二分揚げ難渋しているの  でこれまた免除をお願いしたい。
一 馬飼葉料の免除をお願いしたい。
一 荏綿代の免除をお願いしたい。
一 山木運びの人足は無賃ですが、昼飯代を戴きたい。
一 強心隊は殿様より扶持頂戴なかったが、殿様より賄って戴きたい。
  右臨時の品物についても免除をお願いしたい。
 右数ヵ條は村々より御領主様へ書面を以て嘆願申し上げます。当年稀な凶作で畑の作物は五月上旬の北風により、大麦や小麦は実入りがなく農民は朝夕食に支障がでてき、なお七月十三日の暴風のため作物が浸かり、右次第お汲み取りの程をおねがいします。遊居屋敷を除く畑方三分のお手当は今年限りにお願いしたい。また秋作の稲作不熟につき支配様の見分によってそれぞれ引いて戴きたい。お願いすることは難しい面があると思い、重ね重ね嘆願恐れいりますが秋上納し残米で露命をつなぎ、難渋で老人や妻子を養っていくことが難しく、お殿様やお役人の裾にすがりたく、是非嘆願を聞いて戴くようお願い申し上げます。幾重にも御慈悲の沙汰をお願いいたします。
  明治二年十月十七日
                   四十七ケ村 総代
                     下中居村百姓
                          造 酒 之 助
                     芝崎村百姓
                          喜 三 郎
                     上小塙村百姓
                          文 次 郎
                上
 
(佐藤三喜蔵は酒造之助とも言う。願書や石碑等との名が違いますがここでは双方を書いておくことにします。)
 願意の内容や農民の要求は右の書類に寄って判明したが、郡奉行谷口忠左衛門は当藩の重大問題で影響する処が非常に大きいので、この願書を受け取り懐の中に入れておっしゃった。
 「大勢で道路をふさぎ通行を妨げるのは大いに不都合であるが、もし他藩の通行妨げることがあれば殿様にも面目の関わることである。その辺を考えとにかく近くの寺院等に引き取ってほしい。」
 と丁寧に言われたので、大総代もこれを拒むわけには行かず、その旨一同に知らせ谷口殿の意に従うことになって、ひとまずここを引き上げ寺院に引き取り命令を待つことになりました。
 
 二十三 各村百姓各寺院へ引き取る
 そこでともかく郡奉行谷口忠左衛門殿が近くの寺院へ引き取るようにと言ったのですぐに何かの沙汰をくださる意向と察し、通町安国寺、同町大信寺、新町延養寺等へ引き取り休憩しております。そうこうしているうちに講金世話役関根作右衛門氏より炊き出しがあり、各村の農民のいる寺院等へ配ばれますと、農民たちは厚い志をを受けて大変喜びました。今それを戴いた村名並びに人名を参考のため調査しましたが概略は左記のとおりです。
  浜川村  百五十人、  南北新波村  六十二人、  高関村  二十人
  柴崎村  七十人、   浜尻村    六十五人、  小八木村 九十人
  下佐野村 九十五人、  乗附村    百五十人、  菊地村  三十人
  石原村  二百五十人  大八木村   百十五人、  中里村  三十五人
  計 千二百二人
 また炊き出しが間に合わず正米一人二合ずつと味噌や野菜等を各自が引き取りに行き、自炊した村名、人員を記すと
  中泉村  六十人、   中泉新田   三十人    上飯塚村 百三十人
  下飯塚村 五十人    下中居村   百人     正観寺村 四十五人
  三ツ寺村 五十八人   菅谷村    九十二人   倉賀野下組百十七人
  井野村  八十五人   下小鳥村   八十五人   楽間村  三十五人
  貝澤村  百九十人   上小鳥村   四十人    下ノ城村 八十人
  井出村  七十五人   上並榎村   五十五人   下並榎村 五十五人
  上小塙村 六十二人   下小塙村   六十二人   飛峰村  三十五人
  棟高村  六十一人   寺尾村    八十四人   和田多中村四十二人
  下和田村 十七人    保渡田村   三十五人   中尾村  百三十人
  筑縄村  三十五人   西新波村   十七人    下新保村 八十二人
  上新保村 八十五人                               計 二千百六十七人
 また、炊き出しも正米も受けずに一旦寺院より引き上げた村は
  栗崎村  五十人    倉賀野上組  百五十人   江田村  三十五人
  計 二百三十五人    
  合計   三千六百二人
 これらのほか下郷のうち、下大類村、東郷のうち江木村、上大類村、南大類村、宿大類村、矢嶋村、西嶋村、稲荷新田村、川曲村、大澤村、上新田村、萩原村、中郷のうち前箱田村、新保田中村、後家村、大友村、稲荷台村の十七ヵ村の農民も少し遅れて押し寄せました。その人員は八百人ばかりであったからその総人数は総計 四千四百人ほどでした。
 上大類、南大類、宿大類、下大類等の各村の人々は連雀町関根氏の向かい側の桶屋を仮の休憩所にあて、その他の各村の者は思い思いの懇意のところで休憩しました。ただ今申し上げた村にはこの三五村といわれている減納願いには極めて関係の薄い上新田村、下新田村等も加わっております。どうして減納に薄いかというと右領は延口米が元取り一石につき五斗四升八合六勺であるのに、この三五村は延口米も少ないのであります。ただ諸役や小物の納め方を許して貰いたいのと古領の方へ見舞い心で参加したぐらいで、大いに他村とは異なっていましたので、いわばつき合い上義理に同情の意を表し、あわよくば古領一般の願いの通り、諸役小物を総じて減免にでもなれば一挙両得とこのような意思で押し寄せたので活動はしませんでした。しかしながら上大類、江木、南大類、宿大類、矢嶋、西嶋の各村は前に申し上げましたように羽鳥権平、久保田房次郎、天田勇造の諸氏等を大総代として、佐藤三喜蔵、高井喜三郎、小嶋文次郎の諸氏と気脈を通じ別動隊になって他の方面に活動をしていたのでありますが、この者たちはいわば本隊に応援したわけであります。 また炊き出しについて参考までに一寸申し上げておきますが、白米二十五俵に七升二合、味噌五樽、一樽金六両、薪、蝋燭、紙、大釜損料、桶、柄杓、人足三十人一人につき百足づつの礼金等の費用二百五十両、これは御懸屋、御用達らが割合出金したそうでございまして、炊き出しの時世話ををしてくださった方々は前に申し上げたので省くとしましてこれより当日押し寄せました各村の百姓代諸氏の名前を参考までに申し上げたいと思います。もっとも当時百姓代でもなく、また減納訴願において臨時総代でもない方もおりますがそれが後になって交迭のため百姓代や臨時総代人となった人であります。
 石原村     三輪太左衛門   小野里伝七   高橋茂十郎   片山伊左衛門
         川嶋権右衛門   渡辺三吉    有賀藤蔵    松本卯八
         山口熊次郎    金川七之丞   桜井勘六     
 乗附村     江積市左衛門   真下安兵衛   高橋藤左衛門  高橋利太郎
         岡半次郎     
 寺尾村     矢嶋藤平     浦野権右衛門  佐藤庄太郎   江木要助
         浦野竹次郎    浦野安五郎
 下和田村    浦野嘉吉     茂木由五郎   神宮茂平
 和田多中村   馬場安五郎    井野牛八    浦野仙五郎   島田角平
         清水栄蔵     秋元興平
 上佐野村    関口弥蔵     石川勘八    江原伝十郎   堀口房吉 
         関口源七     関口久次郎
 佐野窪村    堀口久四郎    赤石金左衛門  松田作平    松田角弥
         松田権八     松田源蔵    河野七郎兵衛  須永小太郎
 下之城村    高橋関五郎    高橋小文治   高橋伝兵衛   斉藤友五郎
         手島九平     善如寺伊勢松  高橋巳喜蔵   諸川常吉
 下中居村    佐藤三喜蔵    佐藤玉五郎   木村文四郎   佐藤代次郎
         佐藤忠兵衛    高尾弥惣次   木村主馬吉   
 上中居村    松本佐五右衛門  島田長兵衛   吉井宮三郎   吉井久次郎
         設楽富太郎    清水元吉    丸茂元次郎   丸茂小文吾
         角田庄左衛門   堤和三郎    堤清右衛門   清水徳次郎
 倉賀野村    堀口六左衛門   湯浅巳代吉   須永直吉    高柳与平次
         中澤八郎平    鈴木久衛    浅見孫平    大谷藤蔵
         井田儀八     五十嵐善太郎  横田鉄五郎   上村梅五郎
 中里村     木村弥七     斉藤吉造
 柴崎村     高井喜三郎    秋山孫四郎   高井伊十郎   樋口重蔵
         桜井庄五郎    大澤酒造蔵   斉藤乙五郎
 下大類村    長谷川慶次郎   鳥羽岩造    笠原清八    笠原甚左衛門 
 宿大類村    羽鳥権平     久保田房次郎  
 南大類村    天田勇蔵     天田平作
 上大類村    長井惣次郎    長井新一郎
 江木村     丸山忠次郎    堀越弥五郎
 高関村     渡丸弥吉     小笠原米吉
 岩押村     田中林平
 赤坂村     井上利七     岩田伊三郎
 飯塚村     塚越佐吉     鈴木佐五郎   小平国太郎   植原庄次郎
         植原藤馬     大谷辰次郎
 下並榎村    指川新五兵衛   指川直蔵    高橋長吉    清水源吉
         清水喜作     清水丑五郎
 上並榎村    清水紋吉     佐藤友五郎   清水忠松    佐藤源吉
         枠田要吉     
 下小鳥村    飯塚由五郎    室岡兵内    峯岸金五郎
 上小鳥村    関口代三郎    相川清五郎
 下小塙村    佐藤佐五郎    金井孝八    大山源太郎   小林幸吉
         金井茂吉
 上小塙村    小島文次郎    小島喜伝次   山田勝弥    八木杢弥
         岡田友右衛門   八木岩吉    静野幾太郎   中嶋岩吉
         鳥谷弥藤太
 浜尻村     箱田長吉     箱田四郎    箱田儀四郎   新井新太郎
         植松福松
 井野村     町田慶作     永井藤右衛門  奥原元吉
 正観寺村    福田子之七    竹井音吉    深澤清八
 貝澤村     井上忠右衛門   新井三郎平   長井儀平    長井定五郎
         高橋喜平     新井平太
 大八木村    茂木嘉吉     須藤綱五郎   須藤権平    須藤亀太郎
 矢嶋村     磯部栄次郎    反町熊蔵    永井市蔵
 下新田村    信澤吉弥     信澤太治右衛門 
 西嶋村     反町九平太    反町繁次郎
 筑縄村     萩原喜伝次    落合孝太郎
 小八木村    吉田弁之助    高橋富太郎   只木弥五郎
 菅谷村     藤井忠平     外山仁三郎
 中泉村     大澤富太郎    斉藤国太郎   須藤宗三郎
 棟高村     坂本紋太郎    渋谷忠太
 三ツ寺村    淡嶋茂蔵     相澤文吉    淡嶋伊太郎
 新保田中村   湯浅源次郎    田嶋清兵衛   湯浅栄五郎   原澤菊次郎
 上新保村    金井八百平    井草金太郎
 江田村     富澤作右衛門   富澤惣太郎   小野里弥平太  小野里利平
 中尾村     高野多門次    斉藤清吉    小嶋掃部次
 上新田村    牛込勘助     牛込文八郎
 前箱田村    只木喜次郎    八木龍蔵
 稲荷新田村   柴田伊勢吉
 大澤村     鈴木慶吉
 後閑村     田村八造
 萩原村     堤重次郎     
 西新波村    岡田卯蔵     島田勘十郎   
 北新波村    菊池善太郎    菊池笹太郎   
 南新波村    平形三吉     曾根丑五郎
 楽間村     武井馬吉     中曽根富造
 菊地村     新井條八     乾利喜造
 浜川村     大山森三     白石富太郎   長野伊三郎
 井出村     斉藤源八     斉藤嘉平次   桜澤庄右衛門  金井清之丞
 佐野窪村    小出角次郎    斉藤亀吉
 保渡田村    片平清太郎    片平紋右衛門
 我峰村     萩原和吉     関谷要内    中島佐平
 川曲村     岡田新三郎
 大友村     天宮嘉平     城田彦次郎
 なおまた関根氏に焚き場で直接に贈与を受けたのは六百人ばかりいて如何に大人数であったかお分かりになるでしょう。この時何者のいたずらか知れませんが、市内用水取り入れ口の今の大橋町にある引き入れ口を閉鎖して用水を止めた者がいました。市内はこのためにより一層混乱をし、噂にも火がついて高崎全体が焼き尽くされてしまうなどと愚にもつかないことを言ったので、気の早い者は家財道具を取りまとめて、避難の用意をして、中にはそれを運搬し始めた者もあったとのことでした。しかし、何で百姓が市民に対して恨みがございましょう。恨みどころか返って多数の者が押し寄せため、商売もできず、その上いろいろの歓待を受けるのが気の毒に思ったくらいで、粗暴な行動をとる者は一人もいませんでした。
 それもそので筈で天王森の出発の際、堅く大総代より言われておりましたので、お互いに謹慎し戒めあっていたから、大変穏やかで静かな動作は親切なもてなしを受けたが西北の町々ではこのように騒ぐのは実際にこの集合を見ず、意向を知らないから起こったことと思われます。
 
 二十四 願書の一部聞き入れ
 前に桝方の木戸のことを申し上げましたが、ご老人方はよくご存じだと思いますが、若い方に参考までに一寸申し上げますが、それは安国寺前より兵舎に向かい大通りの交差点を過ぎ、なお西の方に進みまして今の市役所と西洋料理「弥生」との間にございまして、今では兵舎門前まで人家がありますが、その時は何にもなく広々としたところでありましたから、広小路と言ってました。桝方の木戸を入りますと行き違いになっていましたので食い違いといってました。桝方に番所があって普段五、六人の役人等が詰めていました。
 その役所の前には幟り枠のようなものを立て、それへ槍、突棒などを並べ立ていかにもいかめしいものでありました。しかも郡奉行谷口忠佐衛門殿は自分だけの判断で取り扱うことはできませんので重役の集まっている民政所へ出頭して、列席の人達に対し自分が取り扱ったことを説明し、前もって大総代より受け取った願書を差し出しました。そこで願書に対してどう対処したらよいか大評定が開かれていろいろな議論がでて容易に結論がでませんでした。それもその筈長い間の慣習で抜けきらず人民の権利というものが、少しも武士の頭になかったものですから、農民百姓などのいうことは少しも聞き入れようとはとしない風潮でした。今農民らが二年続きの不作で苦しんでいることを訴えましたが、ほんとうに憐れみの情を以て聞き入れようとする者がいませんでした。しかし、世は維新となり幕府も政権を返上している現在無下に訴願を排斥して混乱を起こすのは藩の面目にも関わると谷口氏は主張されたので頑固な連中も世の移り変わりには抵抗できないと見え、大いに弱気になり、そこで一部を聞き入れることに決定し、そして減納のことは太政官へ伺い、そ の指揮を伺おうと代官金田節右衛門殿を使者として上京させました。それから、早速待機している百姓達に伝達しようと谷口中左衛門殿は馬に乗り、十人余りの部下を連れ、大信寺へ行き、各寺院に
分かれどうなるかと待ち構えている大総代は勿論、主な総代までも呼び集め、厳格な態度で聞くようにと
「総代初め皆の衆よく聞きなさい。この度のあなた方の願いは全部聞き入れることはむずかしい。殿様においても格別の憐れみをもって大豆、綿、飼馬料等を免除することにした。その他は聞き入れるわけにいかないからその旨承知するように。よってこれから帰村して、早々稲刈りをして上納しなさい。」    
と厳かに言われたがこれぐらいのことで満足できる筈がないとただ唖然としてお互いに顔を見合わして呆れている内に早谷口氏は馬を引き寄せ、馬に乗り部下を引き連れ城内へ帰られました。このとき百姓は耐えかね谷口氏に向かい悪口などをいう者も少しはおりました。谷口氏もこのような場合では聞こえても聞けない素振りをして後もろくろく振り返りもしないで帰城されたが大総代初め一同の者は折角待っていたのに、成果はなく、わずかな聞き入れでは引き下がるわけにもいかず、と言って相手の谷口氏は急いで帰城されていないので、ひとまず高崎を引き払い善後策について協議をして再び計画を立て訴願をやるという命令を出したが、この後どういうことになりましょうか。順序立ててお話することにいたしましょう。
                                 (上編  了)
          
 
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