さとうゆきお
の
自分史
」
(1) 私の家、小学校時代、中学校時代、高校時代
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序
まだ、定年には四年早かったが健康上の理由で平成十年養護学校の教員を退職した。端から見ると、特に顕著な大事件もなく、平々凡々な人生に見えるかも知れない。けれど、私自身から見ると私なりに波瀾の多かった人生と思っている。退職して自分の時間が多く作れるようになったので、この期に自分をもう一度振り返るのも、意義あることだと思いパソコンのキーを打ち始めたわけである。
私は2才の頃左下肢小児麻痺にかかり、左足の踵をつくことができず歩き方がかなりぎこちなかった。私の人生にはこのことがいやでもつきまとってくる。十四才 の頃、群馬整肢養護園に入園し、手術した結果、左足の踵がつくようになり、かなり歩くのが楽になってきた。
足が悪いといっても、早く走れることができないくらいで、ほとんど困ることもなく、近所のこどもたちにそのことことでいじめられることもなかったので、小学校時代まではそのことで特に深く考えることもなかった。しかし、中学校に入ると、上級生に「佐藤君、どうして足が悪くなったの」と聞かれたのを期に、急に鏡に映る左に傾いた自分の姿を見て、自分の姿を見て嫌悪感を覚え始めた。そんな折り、母との言い争いのうち、「母ちゃん、どうして俺の足、こんなにしちゃったんだよう。」と言ったとき、今までのやさしい母が激しく怒り、雪が降っている中、家へ入れてくれなかったことがあった。しばらくの間、どうしてやさしい母があんな怒り方をしたか分からなかった。
中学生の頃、ノートの端に「神様、どうして私の足を悪くしたのですか。神様ってどうしてそんな不公平をするのですか」というようなことを書いたことがある。運動会の徒競走には参加できないのも、あまり人に好かれないのも女の子に持てないのもみんな足が悪いせいにしていた。また、「びっこしゃっこ」という言葉にもの凄い嫌悪感を感じていた。
今、私が今まで歩んできた人生のを振り返ってみると、足の悪かったことにより、得ることが多いことがようやく分かってきた。障害者の気持ちや弱い立場の人の気持ちも少し分かるような気がするのも自分が足が悪かったからで、今ではむしろ五体満足でなかった方が良かったと思っている。
以前には「母ちゃん、どうして俺の足、こんなにしちゃったんだよう。」
「神様、どうして私の足を悪くしたのですか。神様ってどうしてそんな不公平をするのですか」
と母や神様に言って、母や神様を相当困らせたと思うが、現在では心からいうことができる。
「神様、 ビッコにしてくれて有り難う」
と。
しかし、短
い期間に、あっさりと変わったわけではなく、それには、約五十年近くの年月と、私自身かなりの心の葛藤があったことによるものであった。
現
在、丁度退職後で時間的余裕がでてきたので、約五十年の私の歩んだ道を振り返り、心の移り変わりの経緯などを確かめていき、書き記したいと思っている。
これから自分史を綴るわけであるが、以前に干俣小学校の教師時代の体験を基に小説「青い背広と黄色いリュックとピンクの傘」や笠懸町の小学校の教師時代の体験を基にシナリオ「あかね色に映える丘」を作品として残してある。体験に基づくフィクションであるがその作品に流れる底流は事実をそのまま記述するよりもその当時の様子を理解できるかもしれない。
これより、下記に自分史の(2)と自分史に付随するものをあげてみるので、下線のあるところを是非クリックして欲しい。
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自分史(2)
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一 私の家
私の実家は桐生市の南東部の浜松町にあり、本町商店街にも近く、桐生川や浅間山(せんげんやま)にも近く、実に静かで住み良いところであった。私の幼い頃は家の裏は野っ原で竹藪もあり、自然豊かな所であった。私の子どもの頃は桐 生は織物の町として榮え、町のどこへ行っても機の音が聞こえる程であった。私の家は織物関係ではごく珍しい部類に入る兵児帯の製造業を営んでいた。兵児帯は当時浴衣を着る人も多く需要もかなり多かった。私の家
の兵児帯は絞り染めで、家で柄を藍花で刷り、それを絞りのできる人たちの家へ廻り、糸を巻いて絞りを作ってもらう。それを二、三日に一度集めに行き、家で染めて、乾かし、蒸気で布を整えて箱に詰めて製品となる。今考えると結構手間仕事だったように思える。
家には一時はかなり絞りをする人たち家にいたらしいが、大体は内職的に絞ってもらうことが多く、家族と従兄弟の4名で細々とやっていた。桐生に兵児帯を製造しているところが少なかったので織物組合の品評会には入選することが多かった。しかし、父は頑固で昔気質だったので、問屋などを接待することもなく、ただ黙々と昔のままの兵児帯を作っていた感じであった。
二 幼い頃
私は八人兄弟姉妹の五男であるが、一緒に生活し記憶に残っているのは二人の兄だけで、後の五人は若くして病気のため亡くなり、ほとんど生活を共にすることができなかった。
考えてみると私は二歳の頃小児麻痺にかかったが、軽度でうちの家族の中では丈夫な体であった方ではないだろうか。
私の幼い頃の記憶はほとんど忘れ去ってしまっているが、私の六歳の頃、昭和22年9月14,15日のキャスリーン台風による水害のことは今でも、強く残っいてる。この水害は台風のため桐生をとりまく河川の上流で大量の集中豪雨をもたらし、特に新川付近の被害が大きかった。私の家では語りぐさになっていたのは、家に中に水が入り、父や兄たちは水の侵入を見守っているとき、私が寝ていた台がくるりと回り、流されそうになったということであるが、私の記憶に残っているのは水の侵入を見守る父や兄らの姿と家に中が濁流の川と化した驚きであった。次の日「近くでたくさん、亡くなった方が見つかったよ」という母の言葉が残っている。
右の写真は「ふるさと今と昔桐生」(あかぎ出版刊)に載っていたものであるが、当時私の家の南側の道路で流れてきた泥砂が道一杯に堆積したようであった。その頃はこのときに限らず床上浸水程度は何回もあったようで、この辺の住民は今に比べると自然の恐ろしさを直に感じていたものと思われる。
それにしても、家のものが二、三秒、私の乗っている台を見るのが遅れたら、私は流されて、裏の泥砂の中に入っていたかも知れないのだ。生死とはほんの一瞬
の神様の気まぐれの判断によるものであることを身をもって感じさせてくれた事件であった。
三 小学生の頃
(一)低学年の頃
小学生の頃、よく近所の子ども達と遊んだものである。べいごまやメンコがはやったがどうも私は不器用で負けることが多かった。足が悪かったことから、過保護的な傾向で母がいろいろな形で援助してくれたようだ。この頃は自分から進んで物事を取り組んだことがなく、積極的な活動はなく受容的態度が多かったと思う。
低学年の頃、印象に残っていることというと、やはり足のことが絡む隠れ鬼あそびのことであった。近く医者の子が頭を上着で隠して私の歩き方のまねをしたのである。そしたら鬼は「行男ちゃん」と言ってたので、その医者の子は得意顔をしていたのを鮮明に覚えている。今考えればたいしたことでもないのにどうしてこんなことだけ忘れないのだろう。
(二) 苦手だった習字
小学校時代、私の好きな勉強は算数と社会科、嫌いな勉強は体育、図工などの技能教科で、何よりも苦手で、足の悪いことと同じようにコンプレックスの対象となっていたのが字を書くのが下手なことだった。5,6年の担任の先生は書道の好きな松村先生であったが、松村先生が子ども達の習字に対する意欲を高めるため、子ども達の書いた習字に級をつけてくれていた。6年の終わりには大概の者は1,2,3級までいっているのに、私はお情けで5級止まりであった。自分なりに頑張ってもどうしても上手になれなかった。今、当時書いた字をみても、字形は整ってない、誤字が多く、バランスが全然なっていない。よくまあこれで先生にな慣れたものと我ながら感心せざるをえない。この字の下手なことがきっかけとなって大学の通信教育を受けようと思ったり、書道の勉強をしようと思ったわけであるから、結論的には良い結果をもたらすことになるのだが、字が苦手というコンプレックスがこの当時私には重くのしかかっていたことは否めない。
(三) 松村先生のこと
5.6年生の担任は松村先生で「二十四の瞳」の中の大石先生のような先生であった。まず、広沢から南小まで通う姿はさっそうとし、幾分お転姿的なところが似ているように思えた。
また、松村先生が私たちを浅間山に連れて行き、山道を降りながら、いろいろな事を話したり、歌ったりするところが、自由でのびのびして、心暖まる感じで似て
いた。
ひとり、ひとりの子どもをよく知り、子どもの家庭事情が良くない場合、援護してやったりして、ひとりひとりを自分の子どものように、やさしく接してくれるところもあった。 何よりもただ教えるということだけでなく、心と心のつながりを大切にしたことが番よく似ている点である。
教師と生徒が〃教える〃教えられる〃関係でなく、子どもを一人の人間として認めてくれ、心を割って子どもたちの世界へとびこむこ
とは簡単に見えて、なかなかむずかしいことである。実際、叱りすぎたり、子どもたちの気持を考えているようで結局、無視している場合が多い
ものである。教師でなければ、ただ一緒に遊ぶということだけでいいのだが、教師と生徒という関係を保ちつつ、心と心が行き合うということは余程、精力的で献身的な気持ちがなければできるものではない.卒業してからも子どもたちのことを考え、苦しいときは励まし、嬉しいときは共に喜んでくれ、心の支えになってくれた先生であった。
多分先生になろうと思ったのは松村先生の影響であると思う。子供心に、「成れるものだったら先生に、先生になったら松村先生のように」と多分自分では気がついていないことでも潜在的に影響を受けていたことと思う。
(四) 写真
私が写真を始めたのは小学生の五年生頃だったろうか。当時スタート35
というこども用のカメラが安く手に入ったときである。
アルバムに貼り付けてある写真を見ても密着版で縦横2cmぐらいで見づらい。少し動いているものは必ずぶれている。写真好きになったのは友達がスタート35を持っていたのがきっかけだと思う。結構今でも見られるのだから、当時としては画期的なカメラだっのだろう。右の写真は45年前の桐生の実家の七夕である。その頃は大概の家は七夕飾りをしていた。のどかで近所との触れあいのある懐かしい時期が伺える。これから五十年近くカメラを手放したことがない。スタート35のありがたさを身にしみて感じている。
この頃幻灯機もはやっていた。小遣いをためて幻灯機を買って入場料をもらって近所の子に見せようとしたら、母にしかられた記憶がある。
(五) その他
小学生の時は遠足や旅行の時、必ず母か父、都合の悪いときは九つ上の兄がついて来てくれた。当時は当然のように自分は思っていたのだが、最近、ようやく父母の、足の悪い私に対する思い入れが分かってきたような気がする。
この頃は過保護気味で足の悪いコンプレックスを持っていたため、少々情緒不安定気味だったかも知れない。珠算大会へ行って係りの先生の懐中時計を壊してしまったり、旅行の時自分に注目してもらうために仮病を使ったりしていた。
ラジオは近くの電機やさんが拡声器を用いて高校野球など流してくれたり、テレビは本町通りで10円の入場料を払い観たりした。
四、中学時代
(一)「母ちゃん、どうして俺の足悪いんだよー」
中学生になってから、ニキビができたり、好きな女の子を心に想うようになると、自分の足の悪いことが気になりだした。
、上級生に「佐藤君、どうして足が悪くなったの」と聞かれたのを期に、急に鏡に映る左に傾いた自分の姿を見て、自分の姿を見て嫌悪感を覚え始めた。そんな折り、母との言い争いのうち、「母ちゃん、どうして俺の足、こんなにしちゃったんだよう。」と言ったとき、今までのやさしい母が激しく怒り、雪が降っている中、家へ入れてくれなかったことがあった。しばらくの間、どうしてやさしい母があんな怒り方をしたか分からなかった。
この頃、ノートの端に「神様、どうして私の足を悪くしたのですか。神様ってどうしてそんな不公平をするのですか」というようなことを書いたことがある。運動会の徒競走には参加できないのも、あまり人に好かれないのも女の子に持てないのもみんな足が悪いせいにしていた。また、「びっこしゃっこ」という言葉にもの凄い嫌悪感を感じていた。
(二)整肢療護園
おふくろは私の足を治したい強い気持ちに押されたからといっていたが、ほんとうはそんな私の姿を不憫に想ってのことだろうと思う。おふくろは相当いろいろなところ飛び回り、適当な施設を探しあて、手続きをしたようであった。当時金古町にあり、親元から半年離れることになるので相当な覚悟が必要であった。私としては踵がつかないことが最も気になるところで治したい気持ちが強かったので多少父の反対も振り切って入園することになった。半年にも満たない入園であったが私にとって、思い出深く印象も強く残っている。
私が整肢療護園に入って驚いたのは、脳性や脊髄性の小児麻痺の人が多く、私みたいな下肢の踵が悪いくらいの者は数えるくらいであった。医療が進んでいる現在小児麻痺はあまり見られないが、そのころは小児麻痺がにかかる者がかなり多かった。それまで足が相当悪いと思いこんでいたが、ここへ来てからもっと不自由で大変な人がたくさんいることを痛感した。
ここは病院のような、学校のような、家族の集まりのような独特な雰囲気があった。ここは治療や手術をしてくれるから病院が主体である。しかし、医師もここの寮に住んでいてよく顔を合わせていたので、医師と患者というより、家族のような感じがしていたので、「手術何時するの」と「後一週間後かな」といった感じで答えてくれたりした。看護婦さんとはもう友達のようで気楽に世間話などをしていた。
ここの友達は障害を持っているにもかかわらずみんな明るくおおらかだった。よく庭で遊んだり、話をしたりした。みんな兄さん、弟、姉さん、妹と接するような心の温かさを感じとることができた。
この辺は榛名山の麓で静かな農村地帯だったので、四つ葉のクローバーを探したり、近くの桑畑へ行ってどどめを食べたりしたこともあった。食事のなかでタマネギの入ったつゆのうどんが良く出ていた。家に帰ったとき食欲があまりにもあったので療護園は「たくさん食べ物があったかい」と聞かれるほど食事はつつましいものであったらしい。私自身は独特な味に満足していたのだが・・・。
ここに来ていろいろな人が面会にきてくれた。中学校の友達、日曜学校の先生、遠い親戚の人さえきてくれた。親元がら離れ、足を治すことに専念している私に憐れみを感じたのだろうか。そんなことはともかく、いろいろな人が私のことを想ってくれると感じたのでとても嬉しかった。
勉強はそれ程広くない部屋で小学校1年生から中学3年生までが入り、2,3名の先生が教えてくれた。この頃は金古小中学校の分校で、それからまもなく今の二葉養護学校になったとのことである。 勉強の内容や様子についての記憶はあまりないが、先生に3回職員室に呼ばれたのを覚えている。一度は一学期の成績が優秀賞を取ったときで私もまわりの者も驚きの顔を隠せなかった。二度目は小中学生新聞に文通の希望欄を下手な字で応募したところ編集者がよくまとめてくれ載せてくれた。それが載ったためかなりの手紙が私のところへ来たので、叱るられたわけではないがかなり心配された。三度目は私にとって屈辱的な事件で脳性麻痺の子が無抵抗なことをいいことにその子の顔に墨でいたずら書きをしてしまったのである。先生に注意されて自分の愚かさ、いたらなさがはっきり分かった。やつてはならないことをしてしまった。
このときほど自分自身情けないと思ったことはなかった。これをきっかけにこのような恥ずかしいことは絶対にしないと自分自身に堅く誓った。
(三)普通中学に戻って
家族的な雰囲気の療護園での治療等を終え、人数の多い勉強中心の普通中学に戻ると何となく違和感があったが、踵がつくようになり、コンプレックスもなくなり、だいぶ
明るく振る舞えるようになってきた。この頃から行動範囲が広くなり、、英語塾へ行ったり、中学校の英語クラブに入ったりしていた。しかし、英語の方はなかなか身につけることができなかった。
勉強の方は相変わらず技能教科が苦手で数学、社会、英語は好きだった。3年の時、通知票を渡される時、担任がクラスで「得点が12番だよ。」と言った。そのとき、私は内心ドキッとした。それは志望校の桐生高校に入ることは無理だと思った。その後、実力試験、高校の入試科目の模擬試験をやったが全校6クラスの中で12番ということで、担任の先生も驚いたが、私自身驚喜酔いしれてしまうほどであった。学校のテストは勉強しても悪い成績で模擬試験は勉強しなくてもほどほどの成績であった。このことから以前より勉強に興味を示すようになってきた。
五 高校時代
(一) 桐生高校
志望校の桐生高校へ入学できたことは嬉しかったが、英語の文法、数
学の幾何、漢文などの授業内容が面白くなく難しかったので見る見る成績は落ちていった。中学時代は勉強しなくても程ほどの成績を上げていたのに勉強をしても単位を落とす科目もあった。将来は国立大学をと夢膨らんで入学したのに心がすさび右の写真のように静かなところへ行ってポーッとしていることが多かった。
特に算数、数学だけは小中学校を通じて一番良い5かAだったので、幾何等さっぱり分からなかったので、すっかり自信をなくしてしまった。そのせいか声がでなくってしまった。医者はハーモニカの吹きすぎでないかといったがそれ程吹いたわけでもなかった。今から考えると自信喪失症かもしれない。この頃出席は返事でとっていたので、困っていると、私の後の座席の友達が声楽が好きで声を使い分けて返事をしてくれた。私の名前の番にくると他の者がS君の方を見つめ、S君がにやりとして返事をしてくれるのである。もしS君が返事をしてくれなかったら登校を拒否していたか、仮病を使っていたかも知れない。
勉強には自信をなくしていたが高校生活全てが灰色だったわけでもない。新聞部に入り、記事を書いたり、広告を取りに行ったり、女子高校の新聞部と交流したりして楽しい面もあった。
大事なことを忘れていた。それまで技能教科は嫌いであった。しかし、一度美術のT先生に色の塗り方を褒められてから、美術が好きになってきた。このとき褒められることがどれほど励みになるかということが 身にしみて分かったような気がした。このことが教員になってどれほど役立ったか計り知れない。
(二)いずみの会の仲間達
小学校の同級会のメンバーでいろいろなところへ遊びに行くようになった。桐生市の梅田の奥の座間峠、榛名山、奥日光、妙義山などハイキングや、テントを使って一泊とまりで行ったりして、結構この頃楽しい時間のひとときを過ごしたような気がする。小学校の担任の松村先生は同行しているもの女の子もいたので一緒に飯盒を炊いたり、テントを張ったり、ゲームをしたりして、いろいろな話をしたりして青春を謳歌している形となった。座間峠とか奥日光は迷子にもなりそうなこともあったし、厳しい山登りもあったので特に印象深い感じがする。