さとうゆきお自分史(2) 私の父母等、店員時代、事務職時代、干俣小時代

自分史(1)  私の家,幼い頃,小学校時代,中学校時代高校時代
・自分史(3)  笠懸教職時代、項目別自分史

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六 私の父母、叔母
 この項目は本来ならばもっと前に行くかも知れないが、かかり合いが広いのでこの場所に設定した。
 (一)父
 私の父は酒造蔵と書いてみきぞうというのだが、高崎五万石騒動の農民総代、曾祖父の三喜蔵、の名前にあやかったのだろう。たばこ好きで「煙突のみきさん」とか゜「絞り屋のみきさん」で通っていて、出前などは「佐藤の絞り屋ですけど」というと「絞り屋のみきさんですね。」という声が返ってくる。
 若い頃は桐生の商家の名門、本町の書上家で丁稚奉公をしていたが、その関係で兵児帯の製造をやるようになったと思う。一時はかなり絞りをする人たち家にいたらしいが、大体は内職的に絞ってもらうことが多く、家族と従兄弟の4名で細々とやっていた。桐生に兵児帯を製造しているところが少なかったので織物組合の品評会には入選することが多かった。しかし、父は頑固で昔気質だったので、問屋などを接待もなく、ただ黙々と昔のままの兵児帯を作っていた感じである。家はかなり古びた感じであったが結構敷地は広かった。
 結構、私の家は兄貴の友達等が遊びに来ていたが、ラジオを聞きに人が集まり
すぎると「延長、延長、また延長」などと言って追い返したりした。素っ気ない態度をとったり、憎まれ口を聞いたりするのだが、結構親しまれていた感じで、お葬式の時などはその当時家に遊びに来ていた者も多かった。
 母と一緒に歩くときは十メートルぐらい先を歩いたりして、古風な考えを持っていたようだ。八木節が好きで酒を飲むと箸で茶碗を叩いてよく唄っていた。「高崎五万石騒動」の話をするのが大好きで友達が来ると新聞の切り取りなどを持ってきてよく話していた。、
 私と年50以上も違うので話が合わない面もあったり、ぶっきらぼうで愛想はなかったりしたが、足の悪い私の遠足についてきてくれたりしたり、クイズのようなを問題を出して小遣いをくれたりしてくれたり、柄に似合わず優しく、ユーモアのあるところも持ち合わせていた。
. それから、酒が大好きで夕食時に一合しか飲まないが、おいしそうに飲んでいた。私が初月給の時、酒を買っていったら、喜んでいた。それ以来、父の誕生日、亡くなってからは命日には必ず酒を捧げることにしている。

 (二) 母

  おふくろ

 
 

私の前には

 
おふくろが気に入っていた
 
菊の懸崖をバックにした
 私が撮った写真を見ている
 
 ほんとうにやさしい
 おふくろだったなあ
 
 私の幼い頃私を病院に
 遠くまで連れていってくれたり
 どんなに私が遅く帰っても
 ご飯を食べるのを
 待っていてくれたり
 私が急に言い出した旅の支度も
 愚痴ひとつ言わず夜遅くまでしてくれた
 無理をさしてしまったなあ
 腕をこんなにも
 細くしてしまったなあ
 骨もでていて見ていると
 涙がでてくるよ
 
 私のためにだいぶ
 体を使わしてしまったなあ。
 命を縮めさしてしまったなあ
 おふくろを見ていると
 どうして子供のために
 こんなにも尽くすのかなと思う
 
 これが愛というものか
 これこそが愛というものだ
 
 おふくろ
 深い深い深い・・・・・・・・・・・・・・広い広い広い・・・・・・・・・・・・・
 宇宙の深さよりもの深く広い愛ありがとう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 今も遠い宇宙から見守ってくれてありがとう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 
  母についてはいろいろ書こうと思ったし、思い出に残るエビソードも多い。しかし、上記の何年か前に書いた詩を載せてみると、もうこれ以上書いても、母の愛情の深さや偉大さは表現できないと思い、あえてここでは書かないことにする。

  (三) 叔母
 ここで言う叔母は母の妹で、山藤ユキおばさんのことである。叔母さんは本当に心優しく、よく気がつき、尽くしてくれる人であった。母と同じくらい何かと私の面倒をみてくれた。叔母は前橋に住んでいて伯父のレストランを手伝ったりしていた。
 叔母は就職祝いにその当時高価だった礼服を買ってくれたり、嬬恋の教員住宅に住むようになったとき、こたつの掛け布団を手縫いで作って送ってくれたり、レストランに友達と行っても全部ご馳走してくれたり、就職先を探してくれたりしてくれた。
それだけでなく、足の病気や結婚についてもいろいろ心配してくれて、病院を紹介してくれたり、見合いの段取りをしてくれたりした。叔母の家に遊びに行っても本当によくもてなしてくれた。特に私だけということもなく、自分の周りにいる人に対して、最善を尽くす感じで、心の優しさに、溢れていた。
  また、こんな便りをくれたりした。
 「夏休みは忙しそうですね。体に気をつけてね。折りには、近況知らせて下さいね。本格的な暑さになります。下着は毎日洗濯しなさいね。下着が傷んできたら送ってあげますから、いってよこしなさい。食べた食器は面倒がらず、よく洗って、虫などがつかぬように注意して下さいね。朝夕涼しいところでせう。お腹を冷やさぬ様に注意してください。くれぐれも健康にご留意下さい。」
 この手紙を読んでこれ程私のことを心配してくれるのかとしばらく涙したことを覚えている。
 上右の写真は叔母さんの若い頃の写
真で、母が持っていたものを無心したものである。一度結婚したが戦争で主人をなくし、もう一人の病床の姉みち等と暮らしていた。 叔母

は今から二十年も前に亡くなっているが、今でもずっと私をはらはらしながら見続け、見守ってくれてるのに違いない。


 七 スタンド店員時代
 高校時代、もっと成績がよければ群馬大学へ入り、教員の道へ行こうと思っていた。家は経済的な余裕もなかったので、迷うことなく、就職の道を選ぶことにした。そこで選んだのは他の会社が給料が6000円ぐらいなのにその石油関係会社は1000円高いということだけで選んでしまった。最初は事務をやると思っていたらガソリンスタンド勤務ということで驚いてしまった。
 ガソリンスタンドでの主な仕事はガソリンに給油する事、洗車をすること、、オイル交換をする事などであった。 仕事はきつかったが仲間が面白く、思いやりのある者が多かったので結構楽しく過ごしていた。
免許は取ってなかったが構内では自動車を動かすことができて嬉しかった。仕事は一生懸命やったつもりだが、オイル交換など手際が悪く、主任から時々注意されていた。
 後から、考えるとここのスタンドでの仕事が(お客を取り扱うことーお客の立場に立って考えること)教員にその後教員になっても大いに役立っている気がする。
 その頃分厚いノートに毎日日記を書いていた。その日記はその頃私が最も大切にしていものだが、引っ越しを繰り返すうち、見あたらなくなってしまった。しかし、最近ざら紙に書いた日記の一部を見つけることができた。その一部を抜き出してみたい。  

「昭和36年12月16日 スタンドの裏のダンボールを片づける、ドラムの整理ができなかった。昼頃から急にお客が増えた。いくつ体があっても足りない感じ。でもがんばった。空っ風の冷たい風にも頬をほころばすことができた。お客のT住宅のTさんから住宅の話を聞く。家を建てることはまだ先の話だけど良い家の建て方について話を聞いた。楽しかった。Tさんはつまらない質問にも丁寧に答えてくれた。帰宅午後8時10分、最近残業多い。明日はゆっくり休んで床屋でも行こう。明後日はどこか静かなところで考えよう。歯を食いしばって、若者らしく眼を光らせてぶつかっていこう。
12月17日 雨 床屋へ行く。 映画「猫と鰹節」を見る気であったが、『裸っこ』を観る。評判通りこどもらしくていい。母の亡くなる場面は真に迫ってくる。『にあんちゃん』『つづり方兄妹』のような感動はなかった。『未踏の氷壁』は平板で考える余地有り、報告的で迫るものがない。自分自身を苦しめることはつまらない。明るく自分のペースで行こう。」
 これを読んでその頃、きざっぽいが少しでも自分を高めようとしたことが感じられる。その頃、すでに映画が好きだったことが伺われる。記憶よりも記録の方が鮮烈に当時を偲べる事を強く感じた。
 さて、ガソリンスタンドに勤務して四年近くなると、この仕事の将来性等を考え、転職について急に考えるようになってきた。自分なりにはいろいろ悩み、考えたつもりであった。おふくろにはいきなり「今日、会社辞めてきたよ。」といったものだから、おふくろは「おまえ・・・」と言って少し黙っていたが、「お前らしいね。」とあきれ顔をしていて怒る元気もなかったようであった。
 最初、パチンコ製造会社の採用試験を受けたが受からなかった。この頃、職安で、学校の事務職が増員されることになり採用試験が行われることを知った。失業保険をもらう関係で、勉強する間もなかったので落ちるとは思ったが受けることにした。数学の問題はできたがが他はあまりよくなかったので、駄目だと思ったが、県庁まで発表を見に行って驚いた。採用者名簿に載ったとのことであった。
 それから、幾日か経ってから、笠懸村の教育長が私の家に訪ねてきた。「あなたは補欠採用になっていて笠懸希望なので゛、本村に決まった者が都合できたので、本村の笠懸小学校に来てくれないか」ということであった。とにかく思ってもみなかった公務員に成れるのだから、二つ返事で行くことにした。教育長もほっとした様子で何回も頭をさげて礼を言って帰っていった。笠懸希望と書いたのは笠懸小の前を通ったとき、桜がきれいでだったことにほかならない。動機があまりにも単純すぎる気が自分でもしているが゙、希望校といっても特に記入するところはなかったので仕方ないと思っている。

 八 学校事務職時代
 (一) 笠懸小学校
 小学校の
事務員となることができたが、堅い職場で、字の下手な私がきちんと勤められるかどうか不安であった。仕事は給料計算、旅費計算が主だった。最初はなかなかうまくいかなかったが、そろばんは習ったことがあることと、事務の先輩達が親切に教えてくれたので、何とか人に迷惑をかけずにできるようになった。、新田郡の事務職員は給料書類審査会や旅費説明会などで行き会うことが多かったので、分からないことは聞くことができたり、各学校の様子などを聞く事ができたりした。
  学校の先生は堅く真面目な先生だけと思っていたが、身近で見ると、気の荒い人もいたし、気の小さな人もいたし、意地悪な人もいたし、心の優しい人もいたし、いろいろなタイプの先生がいた。この昭和30年代は割とのんびりした時代で仕事が終わると将棋や碁をする人たちも多かった。学校の先生に接するのは大変かなと思ったが、ガソリンスタンドのお客に接するのとそれ程かわりがなかった。
 「佐藤先生」と呼ばれることも多かったので、最初のうちは呼ばれると恥ずかしい気がしたがだんだん慣れてきて、普通に会話ができるようになってきた。また、先生も生徒も私の歩く姿を見て、最初は奇妙な目で見ていたようだが、これも慣れると特にこだわりもなくなった。
  仕事にも先生方にも慣れてきてほっと一息した頃、各先生の履歴書に給料等を記入しなければならなくなった。とうとう苦手なことに直面した。それまできれいな字で書かれていから私が書いた部分は違和感が感じられるのである。恥ずかしかった。家に帰っても字の練習をしたが、なかなか思うように書けなかった。
校長から「別にうまい字を書かなくても良い。正しい字を丁寧に書いてくれればいい。」と言われだいぶ、気持ちが楽になってきた。
 半年ぐらい経つと、事務よりも子ども達を教えることに魅力を感じてきた。先生方にいろいろ聞いているうちに太田に夜間通える関東短期大学の分校があって、そこで2年間勉強すると、先生になる資格が取れるとのことだった。
 2年目から朝8時から夕方の5時まで事務の仕事をして、それから、バイクに乗り、5時半から8時半頃まで勉強する生活が始まった。 
 (二) 短大生となって
  大学の分校へ行ってみると、中学校が使っていた古い校舎で、建物も古ければ机も古く、描いたイメージかなり違うものであった。また、暖房にも事欠くところだったし、大雨の時は床の上まで水が侵入することもあった。しかし、学生は資格を取ろうとした者が多かったから、真剣に勉強をしたり、先生も熱心な人が多かったので、結構充実した勉強をしていた。詩のクラブもあり、参加したこともあった。
 笠懸小から大学の分校までバイクで30分くらいかかった。秋までは順調だったのであるが、冬に入ると辛かった。行きはともかく太田から桐生の私の家まで25分間はバイクだったので、体が凍ってしまうほど寒かった。本来はよくないことであるが、もう時効になっていると思うので敢えて言わしてもらう。途中でうどん一杯と酒を少し嗜むことにした。そうするようになったら、体が温まり桐生まで持つことができた。このようなことをしなければ2年間のバイク通学はできなかったと思う。
  それから、私はどんなに

遅く帰っても例え10時頃になっても、母は夕飯を食べないで私を待っていてくれた。私は「そんなことしたら、体を壊しちゃうから、食べなければ駄目だよ。」と真剣に諭しても、「お腹空かして勉強をやっている息子をおいて食べるわけに行くと思うか。」と反対に説教されてしまう始末であった。
 すこし、話が変わるが、ある日クラスの中できれいだなあと思っている女の子から「若者の話し合う会があるから、一緒に行きませんか」という誘いがあった。鼻の下を長くしてついて行ったら驚いた。新興宗教の集まりであった。後でその女の子から「あなたは足が悪いようだったから、誘ってみたの」と言われて、なお驚いた。私は怒った。「宗教というのは正しい人間の生き方を学ぶところとちがうのですか。人の弱みにつけこんで、信者を増やそうなんて、あなたは本当の宗教の信者なんですか。」と問いつめたら、驚いて血相を変えて逃げていってしまった。辛かった。悲しかった。足が悪いことでそんな見方をされるのが本当に淋しかった。それから、その人と同じクラスなのに会うことがほとんどなくなった。
 2年間、昼間仕事をしての、夜間の勉強は大変だったが、学校の先生の理解と協力、事務仲間の援助、母の心の支えによって何とかクリアすることができた。単位も取れ、教員の一次採用試験にも受かることができた。
 二次は健康診断があった。私の気がかりは足が悪いことであった。しかし、担当の医師は「何、そのくらい、教職に差し障りがない。異常なし。」と言って「異状なし」と記入してくれた。私の思い過ごしだったのか。とにかく、その時、その医者が神様のように、私には思えた。
 
 九 干俣小時代

 (一) . 
  私が嬬恋村の干俣小学校へ赴任のため向かう日、父の様態がかなり悪くなっていた。まだ危篤ほどでもなかったのて、嬬恋の方へ行くことを家族に勧められたので、とにかく新前橋行きの電車に乗った。新前橋と渋川で乗り換え、長野原へ電車が向かうと、山沿いの赤いトタンの屋根の家が散在し、それが父の顔とだぶり、走馬燈のように廻っているような気がした。「回復してくれると良いが・・」と心に思いつつ、外の景色を眺めていた。長野原駅に着きそこから上田行きのバスに乗り、大前の役場前で降りた。そこで教育長から辞令をもらい、干俣小学校へ向かった。干俣はキャベツ畑のたくさん空気の澄んだところだった。学校に着き、校長と一緒に校舎の中と教員住宅等を見て回った。校舎は古かったが、教員住宅は新しく六畳二間を使え、家賃は1ヶ月150円ということだった。澄み切った空気の中で新しい住宅に住めるということはとても気分が良かった。それから少し校長の話があり、「帰っても住宅に入ってもいい」ということだったが、父の事が気がかりですぐ帰ることにした。
 家へ帰ると父の病状がかなり悪くなっていた。近所の人、親戚の人もかなりきていた。
 翌日、父は亡くなった。「私のことをかなり心配していた」とのことだった。近所の人の「行男さんが遠くへいかなかったら、もっと・・・・」という声が聞こえたとき、父にすまないことをした気持ちと父の私に対する愛情の深さを深く感じた。
の死と私の第二人生の門出が重なりあってしまった。神様も無慈悲なこともするもんだ。もう少しずらしてくれてもよかったのに・・・・・。でも仕方がない。涙を滲ませながら晴の出発をしなければならないときもある。 の死と私の第二人生の門出が重なりあってしまった。神様も無慈悲なこともするもんだ。もう少しずらしてくれてもよかったのに・・・・・。でも仕方がない。涙を滲ませながら晴の出発をしなければならないときもある。
 
 (二)
 干俣
 干俣に着いても幾日か悲しみに明け暮れしていたが、学校が始まってからは授業や子ども達のことを考え始めてからは幾分気が紛れるようになってきた。
 私の担任の3年生の子ども達は素直で明るくてやさしい子ども達だった。毎日の授業は楽しかった。一所懸命やればやるほど、子ども達も乗ってきた。授業のなかで能力が低いと言われている子どもやる気になっていた。また、
図工の授業にイーゼルを使ったり、国語の時間に劇を取り入れたりして、私の好きなことを生かすことができたような気がする。
 右の写真をみても、劇は楽しんで一生懸命やっているし、絵も真剣に描いているし、遊ぶときは思い切りふざけたりしている様子が思い出される。劇は楽しんで絵を描いたり、工作をしたりすることができるし良い教材であった。外で絵を描くと子ども達がのびのびと描いた。

 土曜日の午後、子ども達が私の住宅に遊びに来たり、子ども達と一緒にバラギ高原へ行ったり、近くの山にワラビとりに行ったりした。また、三原までバスに乗って、子ども達の珠算の試験に付いていき、帰りに食堂へ寄ってラーメンも食べたこともある。子ども達との触れあいが心に安らぎを与えてくれた。いつしか父の悲しみも和らいでいた。
 嬬恋村の小学校は冬になると校庭に水をまき凍らせてスケートリンクを作った。宿直のときの水まきは大変だった。寒いしかなりの量の水をまかなければならなかったからだ。でも、全児童がスケートをやる姿は壮観で、この山間地の学校ならではできることである。この頃スケートでオリンピック等でメタルを取った黒岩彰選手がこの学校の一年生だった。このような学校のリンクでの練習の積み重ねが、嬬恋村から優秀なスケート選手が数多く出たのだろうと思う。
 いずれにしても、自炊生活は大変ながら、空気の澄んだところで
素直で明るくバイタリティに富む子ども達と一生懸命取り組めたことを本当に幸せだったと思う。長い教員生活の中でもここでの3年間は指導技術は乏しかったが子ども達と精一杯取り組んだことで特に印象深く、一人一人の子ども達の顔、特徴などが今でも鮮かに私の心の中に刻まれている。その後も年賀状のやりとりをしたり、結婚式等にも呼ばれたりして、教師冥利に尽きると感じている。
 まだまだエピソード等も書きたいこともあるが、余計なことを書くより私の書いた小説「青い背広と黄色いリュックとピンクの傘」を読んで頂いた方が、その頃の私の生活や考え方がよく分かると思う。この小説はこの学校での体験を基にしたフィクションであるが、当時の私の生活や考え方の底流を強く感じ取ることができると思う。是非、
小説「青い背広と黄色いリュックとピンクの傘」

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