第73話 私の平成時代を振り返る

 
 
まもなく平成の世が終わり、新天皇即位による新元号(「令和」)の世が始まる。この機に自分自身の平成時代を振り返ってみようと思う。
 昭和の終わりは静岡からの帰り道、東名高速道路を疾走中であった。現在は新潟市在住の友人と富士川町(現在は富士市)在住の友人宅を訪ねた帰りであった。ラジオ放送からはどこの局も同じ悲しい曲が流れてきた事で昭和天皇の崩御を知ったのであった。これで昭和が終わり新しい元号の世が来る、どんな世の中になるのかなと言い合いながらの運転であった。しかし、なぜ新潟在住の友人と道中が一緒だったのか思い出せない。あーそうだ。当時友人は、埼玉県春日部市在住だったのだ。ということは私が春日部まで送っていく段取りだったのかもしれない。いずれにしても大学時代の友人つながりの昭和最後の日であった。
 この間の私は悶々とした日々を過ごしていた。妻と5歳の子どもが1人おり、高校教員も9年目を迎え何の不自由もない生活を送っていた。なのに、なぜ悶々としていたのか。主体性の問題である。施設長の独り言「
ロータスヴィレッジ住民広場No1」で触れた、助っ人ではなく主体的に関わりたいという気持ちである。今、経営者として思うに、私は高校教員としては失格だと思う。何にも熱中して取り組む訳ではない、どっち付かずのやる気のない小林と当時の上司からは見られていたと思う。現に重要な仕事は任されなかった。主体的に社会人を生きられるのは少数だと思う。新卒入社で3年以内の退職は、大卒は30%、高卒は50%というのもうなずける話しである。こんな生活を平成4年の6月16日まで続けることになる。
 平成4年6月17日、妻が、厚労省関係の施設に、厚労省からの出向者の要望で会いに行くことになった。この時私は、妻に「特養ホームを作りたいので応援してくれないか。」と言えと、言い含んでおいた。なぜこんな話になったかと言えば、当時妻は、民生委員をしていて担当住民から「老人ホームに入りたいのだけど老人ホームは入れない。どこもいっぱいみたい。」と言われていて困っていた。お国からの偉い人に会えるならば頼んでみたらというのが事の成り行きである。この出向者は全面的に応援すると言うことになり、特養ホーム建設は大きく進展することになる。
 当時、特養ホーム建設権限は群馬県が持っており、6月26日に群馬県の担当課(当時は高齢対策室。課になっていないことからも重要な課題ではなかった)に行った。担当者は「なぜ3K(Kitanai、Kiken、Kitui)商売などするのか」などと言って、作らせない雰囲気むんむんであった。しかし、ここで怯む訳にはいかない。なんとか当初想定していた設置場所とは違うが、伊勢崎市で事業者を募っていることを教えていただいた。間髪入れず翌週、群馬県の出先機関の福祉事務所と伊勢崎市を訪れた。この2つの機関は群馬県本庁とは違い丁寧に応対してくれ、一時はくじけそうになった気持ちを引き上げてくれた。この恩は一生忘れないでいる。特に伊勢崎市の女性S課長、S課長補佐とH部長には大変お世話になった。伊勢崎市によると、設置事業者がおらず、市の広報誌7月号に設置希望者募集の案内を出しで様子を見て決めたいという。
 その後いろんな人に会い、また関係図書を読み、なお且つ教員としての仕事もこなしていた。学校の夏休みに入って何日か経った頃、伊勢崎市役所から「8月5日午後4時に市役所に来て下さい。」との連絡を受けた。私を含めて当方4人で伺ったところ市役所側は、高橋助役を筆頭に5人であった。当時、伊勢崎市役所は市長が不在で、助役が市長職務代理者を務めていた。助役は「平成6年度開設の特別養護老人ホーム設置事業者は社会福祉法人光徳会にお願いしたい。」と言い、設置事業者の内定をもらった。この時の嬉しさは言葉にも出来ないほどのものであり、まさに内定をもらったその時に、バルセロナオリンピックで「平成の三四郎」と呼ばれた古賀選手が、金メダルをとり身体全身でその喜びを表した気持ちが我が事のように思えた。
 正式な決定通知書は、平成4年8月20日付で群馬県県民生活部長名で受け取った。通知書には、整備内容として伊勢崎市豊城町内に特別養護老人ホーム60人、ショートステイ10床、ケアハウス10床、デイサービスと在宅介護支援センターは併設とあった。私は特別養護老人ホームのみを考えていたのであれも整備しろ、これも整備しろで面食らってしまった。
 決定通知書を受け取ったのは良いが、土地取得はこれからであった。様々な施設を整備することになったので、1000坪以上の土地を確保する必要に迫られた。様々な伝手を頼ったが、宅地として1000坪はない。あったとしても形状が悪かったり、高値にはお手上げであった。当時(平成4年)はバブルがはじけた頃で土地所有者は高値を覚えていたことが、土地取得に関しては状況を一層悪くしていた。こうなったら農地を取得するしかないと思った。ところが、農地でも青地と白地とがあるという。青地は農振農用地で今後10年以上農業をしなさいという土地で建物等は一切建てられないという。それ以外の土地を白地という。とうとう八方塞がりになり、土地取得は関係者のアドバイスもあり農協に依頼することになった。
 農協が提案してきたことは、土地収用法を使うことであった。青地ならまとまった土地が取得できるが、農振除外申請をしなければならず、普通に申請したら除外が通ることはないという。今回、事業者は社会福祉法人なので土地収用法を使え、事業認定を行った後に目的の土地を取得する方法を提案された。今更拒否できる訳でもなく、この提案を受け入れた。
 土地収用法の事業認定の管轄部署は群馬県土木部用地課であった。土地収用法は、事業認定される土地に付くあらゆる権利(所有権や使用権など)を事業者に強制的に付与する為、様々な書類が必要になる。ここで問題になったのは、事業認定される土地が、青地で農業振興を目的にした土地であることであった。なぜ青地(農振農用地)をつぶし、特別養護老人ホームを建てなければならないのかを証明する必要があった。この証明の担当部署が群馬県農政部農政課であった。農政課に行く度に「なぜ農振農用地を選ぶのですか」と言われ嫌気がさしていた。設計事務所の所長に「作るまでの辛抱です。役人を怒らせたらおしまいです。」と言われ我慢した覚えがある。今回購入予定の土地面積が4892uあるので、農政課の担当者も農林水産省関東農政局に説明しなければならず、農振農用地を宅地に転用する理由が欲しかったのである。
 全ての書類をそろえて申請する段になった平成5年3月、人事異動の時期にぶつかり、担当者が異動し申請は4月にして欲しいという。4月になって新しい担当者に1から説明するに及んで、本当に、土地は手当てできるのかなと相当不安に駆られた。実際建物の設計はこの農地を前提に進んでおり、建設会社との話も進んでいて、医療福祉機構からの土地取得費貸付内定書は既にこの年の1月20付けで出されていた。やっとの思いで4月下旬土地収用法事業認定申請書は受理された。
 この年の6月15日付けで土地収用法事業認定が群馬県知事より出され、この結果、農地転用を経て7月25日に晴れて特養ホーム建設用地が取得できた。8月5日には地鎮祭が行われ建設が始まった。この夏は梅雨明けの発表がなく寒く雨が多かった。なぜか地鎮祭の日だけ雨がやみ久しぶりの青空であったことが鮮明に記憶に残っている。
 再び難題が年末に訪れた。補助金内示の段階でケアハウスは定員10床で設計が進んでいたが、国の予算内示で定員15床と5床増えていたのである。厚労省は、ケアハウスは最低定員10床で財務省と折衝を進めていたが、土壇場で15床となったのであった。群馬県からこの知らせを受け、すぐに市役所に連絡をしたが国の方針なので15床は建設して欲しいという。設計の大幅な変更と資金の問題で無理難題を抱え込むことになる。設計事務所のお陰でなんとか敷地内に建設するめどが立った。この時にケアハスも冷暖房設備が補助対象になったが、設計の段階では暖房設備のみの補助対象であったので建設途上での設備変更は困難であった。結果的に、ケアハウスは浴室と洗濯場の床暖房が整備された。残念だったのは食堂・リビングに床暖房が設置できなかったことである。
 建設では、国の補正予算にふりまわされた。一番はケアハウスの定員増と冷暖房設備。二番目は植栽。そして3番目は天井走行リフト設置。結局最初の補助金申請とは別に3回も申請書を出し直すことになった。今回の建設は複合施設なので各施設の面積案分等が複雑に絡んでいて、全てを直すことになる。今だから時効なので書けるが、授業の合間に問題点を洗い出し、終業後、速攻で自宅に戻って業者と15分刻みで4社ほどと会い、夕食後夜12時まで電卓とパソコンに向かっていた。
   自宅で会っていた業者とは、備品納入会社であった。特養ホームとは人が生活する場所なので様々な物品が必要になる。ベッド、タンス、リネン類、冷蔵庫、洗濯機などなど。机、椅子やコピー機などの事務用品、保管庫や金庫や応接セット、機能訓練機器類、滅菌器などの医療器具、厨房機器類と限りなく多い。群馬県への実績報告書で総額で6518万円も計上されている。
 建設が進むと同時に職員採用が始まった。一番重要な案件は、施設長を誰にするかであった。私の案は市役所OBであった。今回の老人ホーム建設担当H部長が平成6年3月31日で退職になるので、この部長にお願いしたところ快諾をいただいていた。ところが、平成5年の9月になって「小林さん悪いんだけれど、だめになった。○○老人ホームに行ってくれないかと上層部に言われたんだ。断る訳にいかないんだ。」と言われ振り出しに戻ってしまった。理事達に相談した結果、「今まで準備をしてきて良くわかっているのだから、小林さんしかやる人はいないだろう」ということで私が施設長を務めることになった。事務員は、ある施設を見学した時そこの施設長から「事務員はお金を扱うので身元のしっかりした者を採用した方が良い。」と言われ、その通り身元のしっかりした者を1名採用した。生活相談員はつてを頼り障害者施設OBを採用した。次はその他の職種別職員採用である。専門学校や短期大学に求人票を送り、新聞折り込み等で周知を図り2回にわたり採用試験を行った。1回目は10月に新卒を対象に高崎市問屋町で行った。この時私は修学旅行の最中で立ち会えす、採用試験の評価を旅行先のホテルにFAXしてもらい採否を決め、再FAXした。この時旅行団長の教頭から怪訝なまなざしを向けられた。ドタキャン等もあったが、なんとか必要人数を開設期日の平成6年4月1日までにそろえることが出来た。下表は平成6年4月1日時点での配属状況と1回目、2回目の採用試験での応募状況である。
   特養ホーム ケアハウス  デイサービス  ホームヘルプ  在宅介護支援   応募総数
 事務員  1          9
 介護職員  16 1  7  2     39
 看護職員  3        1  11
 栄養士  1          3
 調理員  4    1      13
 相談員         1   1

 毎週水曜日午後、伊勢崎の現場で建設会議がある。この会議は、施主、設計士、建設会社、給排水やエアコンなどの設備会社、電気工事会社が集まり意見集約を図る大切な会議である。施主として私が参加することになったのだが、私は現役の教師であったのでやりくりが大変であった。午後の授業がないのを幸いに、帰りのホームルームと掃除監督は隣のS先生にお願いし伊勢崎まで出かけ、会議が終わるとトンボ帰りし何食わぬ顔をして終業まで学校にいるという離れ技を半年に渡って行った。
 助けてくれたS先生、見て見ぬふりをしてくれたM学年主任有り難うございました。
 平成4年の7月から開設の平成6年4月までの間に体重が7s程減り、登記を頼んだ土地家屋調査士から「目つきが鋭くなり怖くなった。」と言われたけど、本人はその自覚が全くなかった。。

 オープンし1ヶ月の経たない4月に看護師が3名退職し、再び採用活動が必要になった。今に至るまでこのような繰り返しである。
 今日に至るまで職員採用には頭を悩まされる日々であるが、平成7年度(平成8年4月1日付け採用)に行った採用試験は、ホームヘルパー2名採用に50名を超える応募者が殺到した。このようなこともあったが、後はおしなべて低調であった。困るのは年度中途での退職である。特別養護老人ホームでは、入所定員に対し、介護職員や看護職員の数が決まっており中途採用をせざるを得ず、新卒者を採用できない。
 入居者が少なかった5月に、私と妻、息子の3人で特養ホームに泊まったことがあった。入居者が、真夜中にタオルケットを引きずって歩いていたり、真夜中に大声を上げたりで我々3人は全く眠れなかった。疲労困憊で帰宅したことを覚えている。夜勤職員の大変さを実感した宿直であった。また、ある雨の日、夜9時頃、ホームから「入居者が居ません。外に出て行ったかもしれません。」と連絡があり、私は長靴、カッパ姿で覚悟を決めてホームに行ったことがあった。幸いなことにこの入居者は、倉庫の中で寝ているところを発見された。胸をなで下ろした。開設当初は万事このような状況であった。
 この年11月になる頃、女性事務員から「施設長お金がありません。11月以降の給与と賞与が払えません。」と言われた。デイサービス、ホームヘルプと在宅介護支援業務は伊勢崎市からの委託事業なので給与は払える。ケアハウスは、職員が4月から2ヶ月程休職していたので何とかなる。しかし、特養ホームは入居者が5月から7月にかけて徐々に入所していたので資金繰りがつかなかった。私が特養ホームに貸し付けることになった。土地を購入したり農地転用などの手数料で、貯金は底を尽き欠けていた。退職金と郵便貯金か株式の売却しか選択肢は無かった。郵便貯金を解約するか、株を売却するかどちらが良いのか。友人に相談したところ「郵便貯金は10年経てば元金は1.8倍になる。株はわからない。株を売った方が良いのでは。」と言われ、株を損切りした。そして、退職金と株の売却代金合わせて1000万円を施設に無利子で貸し付けた。その後、株は2倍近くに跳ね上がった。残念無念。
 お金がらみでは、平成8年度から利息分の返済が始まり、元金分と合わせるとかなりの額を法人に寄附することになった。子どもの進学等もあり余裕のない生活が始まることになった。
 軌道に乗ったのは4年目あたりであった。4年目(平成9年)から群馬県老人福祉施設協議会の研修副委員長を務めていることからもこのことが分かる。「石の上にも3年」とはよく言ったものである。
 この頃から介護保険制度設計が本格的に開始された。今まで我々が行っていたことは、行政の指示命令(「措置」という)によるもので、それにかかる費用も行政から受け取っていた。特養ホームでもデイサービスでもホームヘルプ事業でも、.収入に関しては考える必要が無かった。しかし、介護保険制度では、自分たちで利用者を獲得し、サービスを提供しそれにかかった費用を国保連に請求するということになる。
 一番に問題はホームヘルプ事業であった。平成11年度で正職員ヘルパーは9人まで膨らんでいた。伊勢崎市からの委託事業なので人件費は保証されていたが、12年以降は介護保険になるので自分たちで稼ぐしかなかった。決算書では、以下のようになっている。
  平成12年度(介護保険)  平成11年度(措置制度) 
 収入    29,037,724     44,322,000
 人件費    29,565,679     40,633,779
 利益    −2,730,485            811

 平成11年度に9名いた正職員の何人かを他部門に異動させ、12年度の赤字270万円は他部門で賄った。13年度以降は多額の赤字を計上することはなかった。
 以後特養ホームを含めた高齢者部門は、介護保険制度の3年に1回の割合で訪れる制度改正に振り回されることになる。制度ビジネスなので我々介護保険事業者は国に生殺を握られている。
 老人ホームを開設してからずーっと人材育成を心がけてきた。前の職場と真逆を実行したのである。開設4年目には、単純ではあるが人事考課を行っている。その後改良を重ね、今では、就業規則や給与規程と連動したすばらしいものに進化を遂げた。考課者訓練では、人事考課は職員育成であることを何度も伝えた。この人事考課は、ここ数年の間に国が示した、職員への処遇改善策にものの見事にマッチし、すんなりと処遇改善条件を満たし、職員への処遇改善を実施することが出来た。以下の表は当施設の職員勤続状況である。 
 H31.3.31
現在
 3年未満 3年以上  5年以上  10年以上  15年以上  20年以上  合計 
 正職員数  5  5  4 12   10 11   47
 パート職員数  3  3   6   1    2   6   21 

 上表からも分かるように当施設は職員の退職は少ない。全産業の平均で職員の5%程は何らかの理由でやむを得ず退職するという。当施設でも退職者は出る。その補充が、年々厳しくなってきた。そのことから外国人労働者採用ということになる。このことは施設長の独り言72話介護技能実習生を受け入れるまでの軌跡に詳しく書いた。
 勤続年数が長い職員が多い当施設では、職場結婚が多い。平成6年から7組のカップルが誕生した。内7人(男性4人、女性3人)が、今現在当施設で働いている(なぜ7人なんでしょうか?)。喜ばしいことである。
 悲しい出来事もあった。女性事務職員が亡くなったことである。平成25年11月11日(月)は平常出勤をし、帰りに医院で受診をしたところ大きい病院で受診して下さいと言われたという。帰宅後夕食を作り早めに休み、息子の帰宅後の声かけに返答が出来ず、おかしいと思った息子の運転で病院に担ぎ込まれたが、手の施しようのない脳出血で翌朝9時に永眠した。平成6年の創設以来、事務仕事を一手に引き受け対応してくれた職員が、お礼の一言も言えずに、他界してしまったのは本当にショックであった。
 筆者にとって平成の世は老人ホームと共にあったといえる。令和の世はどんなことが起こるのだろうか。老人ホーム関連で筆者の生活は過ぎていくのだろう。当面は人材不足対応が大きいと思う。
 群馬県の役人が出席した会議で、県庁OBが「今までの県の政策は人口増加を前提としたものであった。今後は人口減少を前提とした政策を考えるべきではないか。」と発言した。また、コンビニの24時間営業も国が関与するまでになっている。更には、過疎地域だけの問題だと思っていた路線バスの縮小廃止が大都市部でも起こっているという。
 筆者は、今は、人材不足に起因する世の変わり目(ターニングポイント)であると思っている。10年前20年前に将来の高齢社会の様々な予測が発表されたが、現在予測以上のことが起こっている。いかなることが起ころうとも、先手先手で対応し、老人ホームが永遠に継続するよう行動したいと思っている。
 


            
平成31年4月26日  小林 直行
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