さとうゆきお自分史
(3) 項目別自分史(通信教育,教育関係随筆)


自分史(1)  私の家,幼い頃,小学校時代,中学校時代高校時代
自分史(2)  私の父母等、店員時代、事務職時代、干俣小時代



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一 項目別自分史

(一)通信教育
 私の青春時代、かなり力を注いだことに通信教育がある。通信教育を始めたのは干俣小教員時代でスクーリングにも行ったのであるが、本格的に始めたのは昭和五十四年頃からである。計画的に少しずつやれば無理なく単位が取れるのだろうが、性格的にそういうことができず、やらないときはやらない、やるときは少し無理をしてもとことんやってしまう。この通信教育のやり方は私の性格を如実に現しているものと思ったている。
 まず、免許状取得と教職に関する年譜を掲げてみたいと思う。
 
昭和 四十二年四月      吾妻郡嬬恋村立干俣小学校教諭 

四十二年四月     玉川学園通信教育受講開始
 
四十五年四月一日   新田郡笠懸町立笠懸小学校教諭
 
五十一年四月一日   新田郡笠懸町立笠懸東小学校教諭
 
五十三年四月一日   新田郡笠懸町立笠懸北小学校教諭
 
五十三年十月一日  (養護学校教諭二級普通免許状取得)
 
五十六年三月三日   玉川大学文学部教育学科卒業
 
五十六年五月一日   小学校教諭一級普通免許状、中学校教諭一級普通免許状(社             会)、高等学校教諭二級普通免許状(社会)、取得

五十七年四月一日 群馬県教育センター特別研修員 
五十七年十二月一日  中学校教諭一級普通免許状(国語)、高等学校教諭二級普通             免許状(国語)、高等学校教諭二級普通免許状(書道)、取 得    ー東洋大学ー

五十九年四月一日群馬県教育センター特別研修員 
五十九年五月一日  中学校教諭二級普通免許状取得(美術)ー武蔵野美術短期大学−
 
六十年四月一日    新田郡笠懸町立笠懸東小学校教諭
 
六十一年十一月一日  中学校教諭一級普通免許状(英語)、高等学校教諭二級普通免許状(英語)、取得  ー日本大学ー
平成
五年四月一日     群馬県立渡良瀬養護学校教諭  
 
十年三月三十一日   群馬県公立学校教員退職  
  

上記のように、昭和五十四年から、昭和六十一年頃までは教職に就きながら、続けて通信教育を受講していたことになる。特に昭和五十七年は教育センターの特別研修員、教職、通信教育とひとつだって大変なものを、三つとも何とかこなしてしまって友達に驚かれたことがある。これについてはどうしてできたのかと我ながら不思議なくらいである。 そのときは夢中でただがむしゃらに精一杯ぶつかっていただけと思うが
そのバイタりテイは若さえ故、青春時代だけのもので、今ではとてもまねのできることではないと思う。
 通信教育に精一杯力を注いだと言っても、決して本業の教職をおろそかにしていなかったと自負している。通信教育を集中にやるのは、夏休み、冬休み、日曜日が主である。元来学校の仕事は学校でやるという考えなので、仕事があるときは午後八時頃までやっていた。かえって、学校の仕事が忙しいときの方がリズムが出て、通信教育に集中できるくらいであった。

  そもそも私が通信教育を始めた目的は何であったろうか。普通なら中学の免許状を取るなら中学の先生になりたい場合が多いと思うが、私の場合見かけ上、一応免許状を取っておけば何か役立つことがあるだろうという曖昧なものだった。しかし、実際は夜間の短期大学でしか勉強したことがなかったので、もっといろいろな勉強がしたことがあったのである。社会科の免許状を取ったのは哲学や宗教について、書道の免許状を取ったのは字をもっと上手になりたかったから、美術の免許状を取ったのは絵を基本から学び、上手に書けるようになりたい理由にほかならない。
 だとしたら、時間をかけて教科書に添って勉強すれば良いわけだけであるが、やるからには免許状所得を目標にした方が張り合いがある。そうすると、かなり時間がかかり、勉強にリズムが出てこない。また、レポートを提出しても一定の時間はかかり再提出の場合もあり、、科目試験もクリーアしなければならない。例えば興味のある哲学、宗教、心理学などは時間をかけ、法学、経済学などその時点で必要と感じないものは単位取得だけを目標として勉強した。そこで下記のような、自然と私なりの勉強方が身に付いてきた。

・ 教科書の他に参考書を用意し、引用文を多くする。(ページ数が増えるし、文がまとまりやすい)
・ 計画的にレポートを書く。(例えば一週間に5通等を目標にすると不思議に何とか書けてしまう)
・ 夏休み等に集中して勉強する。(勉強にはリズムが大事で、その期間は勉強以外かんがえないようにすると、5分の時間さえできると勉強に取り組むことができる)
・ 分からないことがあっても早めにレポートを提出する。(すると指導の先生が勉強の方法を教えてくれる。)
・ 勉強が十分でなくても科目試験を受けてみる。(できなくてももともとだし、傾向等分かり次回の参考になる)
 その結果、七年間で五教科で十の免許状を取得したのであるから、私なりに効率的な勉強方だと自負している。でも取ったからといって、その教科等を指導したことがないので直接役に立ってはいないが、それなりに私のためになっていると思っている。私が通信教育を受けた大学は玉川大学、武蔵野美術大学、東洋大学、日本大学の四大学であるが、大学別に印象に残ったこと、勉強になったこと等を掲げてみたい。
◎玉川大学
 玉川大学の通信教育を受けようと思ったのは、ガソリンスタンド時代の同僚から玉川大学の通信教育は厳しいが内容が充実していると聞いていたからである。ここではレホート提出よりもスクリーング参加が先だった。゜
 まず、この大学で素晴らしいと思ったことは小原国芳学長の偉大さである。

通信教育で勉強しようとしている人は一般の学生より熱心であるとして、大学の中でも通信教育に力を入れていた。また、単位修得より「全人教育」即ち、人間形成に力を入れていた。人間として教育者として魅力のある人であったここで小原学長をよく紹介している詩を掲げてみたいと思う

「二つを一つに」  諸星洪
貧乏人の子の教育もやったが、金持の子の教育もやった。
天才教育もやったが、劣等生教育もやった。‐
並外れた虚弱児も世話したが、並外れた体育家も仕上げた・
肥桶も担がせたが、ピァノも弾かせた。
聖書も読ませたが、算盤も確実にさせた・
大馬鹿になれと教えたが、蛇の如く慧くとも教えた。
背広も着せたが、勿作服も着せた。
もっとも男女生を近づけたが、もっとも男女生間の純潔を保たせもした。
高遠な理想家だが、着実な実行家でもあった。
奔放な空想家だが、綿密な実際家でもあった。
極めて胆は太かったが、極めて細心でもあった。
物質をもっとも利用したが、物質にもっとも淡白だった。
理解力は頗る広大なぐせに、頗る我は強かった。
人一倍怒りん坊だが、人一倍泣き虫だった。
もっとも妻を愛したが、もっとも妻に暴君だった。
強大な慾望の持主だが、晩酌一ばいも近づけぬ清教徒だった。
誰にも負けぬ国際主義者であるが、誰にも食けぬ愛国者だった。
複雑極まりなく単純であった。
もっとも個性を生かしたが、もっとも他のために働いた。
反対のものを一っにする名人 小原先生

上記の詩によると、両極端のものが不思議に合致させるのが、小原学長の偉大さである。学者でありながら、事業家であり、教育者であり、人格者であるという多くの能力を兼ね備えた素晴らしい人であった。
まず、私はこの人に出会えて通信教育を受講してよかったと思うほどである。人間性や教育方法において、その後も、お手本として、私の指針となり続けてくれたのである。
 私は新教育協会等に入りできる限り学長と会う機会を作り、学長の人間性に触れようとした。大体上記の諸星さんの詩の通りであるが、理知的で、人間的で、行動的で、暖かくこんな神様に近いほど偉大な人は見たことがなかった。私はその言動を見て、僅かで良いから小原学長に近づけようと学長の良さを必死に捉えようと努めた。偉大さに触れると言うことは
神秘的なもので、生きていて良かったと思うほどであった。
 玉川大学の魅力のもう一つは音楽教育で、特に合唱に力を入れていて
玉川の先生が作った「小さい花 はこべの花 お母さんの花・・・」などの歌や、その頃まだ巷では「森の熊さん」が歌われていなかった頃、振りを入れながらのユーモアに富んだ歌を好んで、授業だけでなく、右のような講堂などの前で自然に歌われていた。また、音楽の先生が熱心でどこでも
意欲的に指揮や指導をしていたのが印象に残っている。
 スクーリングの時にピアノを練習したり、演劇部に入り、児童劇の勉強をしたり、テーブルマーナーの講習会である教授の一挙一動をまねをしたりしたことが思い出される。特に演劇部においては、人前ではあまり思うことが話せなかった内気な私にとって相当な試練であったが、児童劇の練習は私に人前で話す自信を与えてくれ、心温まる友人に会うことができた。玉川大学は単位取得だけでなく人間形成や技術を会得するためにいろいろなことが実践されていた。
 ここは通信教育として機構が整っていて、指導内容、事務処理も充実していた。レホートの返却も早く、添削も担当教授が丁寧に書いていてくれた。卒業して二十年も経っているのに今だに同窓会報が届けられているのだから感心せざるをえない。

◎武蔵野美術大学
 ここのスクーリングは美術の専門校だけにやることが想像と違っていた。書くものはかめや石膏、バケツ等味気ないものばかり、それだけに難しく、勉強になる気がした。炭素棒や食パンなど今まで使ったことのないものを使って絵を描いたり、デザインをしたりした。冷房はなく暑い時期に無味乾燥な対象物のバケツ等と真剣に取り組めばならなかったのはかなりの忍耐を必要とした。
 ここのスクーリングの宿舎は大学で紹介してくれた青少年総合センターであった。私の泊まった部屋は一部屋五人で大阪、福井などいろいろなアクセントの言葉を使う、個性豊かな人たちであった。五人とも、同じ授業を受け、一緒に電車に乗ることが多かったので、道具の貸し借り、授業の情報交換等でお互いに助け合ったり、一人が駅員に乗車券のことで聞かれると、他の者が真剣に弁護したりしていた。
 一ヶ月の間には仲間同士、喧嘩もすることもあったが、知らないもの同士、言葉のアクセントの違うもの同士が徐々に心の触れあいを深めていったり、お互いの心が亀裂していく過程が味わい深いもので、機会があったらこれを題材に小説を書きたいと思ったくらいだ 。スクーリングは勉強以外でも思い出深い青春の葛藤の一ページを繰り広げてくれた。
 この通信教育で高い画布を買わず、画布を安く作り上げる方法を知ったり、油絵を提出するとき画布を丸めて送る方法を知ったり、いろいろな画材のあることを知ったり、絵は特殊な技能がなくてもやる気さえあれば油絵でも十分描けるようになることが分かった。
  ここのスクーリングは夜遅くまでの授業、宿舎から大学までの通学はかなり厳しかったが、勉強のリズムが出来上がっていたので、ほんの僅かな時間でもあると、満員電車の中でさえ参考書を出して読んだ程であった。この一年の通信教育の内容は下記の通信教育の二年間に匹敵するほど充実していたように思える。

◎ 東洋大学、日本大学
 東洋大学では国語科と書道科について勉強した。書道のスクーリングは楷書、行書、草書、隷書、かな等の授業はあったが時間が少なく、どの書も理解できずに終わってしまった。国語科は国語科教育法、ことば、文法、構文論、源氏物語の勉強をしたが、ここは、レポートでも、科目試験でも割合楽であったのであまりじっくり勉強をしなかった。
 日本大学では英語科について勉強した。スクーリングでは、英会話、文法、英文講読等学習したが、ここは学生が多く、後ろの方の座席だと聞くのさえ難しいほどでじっくり勉強ができなかった。ここの通信教育でせめて、英字新聞が読めて、簡単な英会話ができるようになりたいと思い、頑張って勉強したつもりであったが、ついにその願いは叶うことができなかった。
 この二つの大学は朝一番の電車に乗り、夜遅く帰ることになるが何とか通学する事ができた。宿泊すれば楽であったが、宿泊費が馬鹿にならないし、その頃、定期券が割合自由に買え、右の写真のように一ヶ月藪塚から浅草まで5320円で買うことができたので通学することにした。遊びで浅草まで来るときは急行を使うことが多かったが、この通学は鈍行なので、込んだりしていることも多く、座れず辛い思いをしたこともあった。この期間は電車に乗って、大学で勉強して、また電車に乗って、寝るという生活の連続であった。

◎通信教育を振り返る
 上記のように 教員時代、教職を持ちながら、四大学の通信教育に挑戦し、五教科、十の免許状を取得したが、私の場合、免許状も多く活用できなかったし、給料が上がったわけでもなく、友達に「佐藤さん、大事して何故そんなに通信教育にこだわるの」と聞かれるほど目的が第三者からみると曖昧に見えるところがあった。
 結局
通信教育は私に何を授けてくれたのだろうか。通信教育は小原国芳という偉大な教育者を知らしめてくれ、児童生徒の意欲を尊重して個性に合わせて教育する玉川新教育を教えてくれ、書道、美術などの技能を高めてくれた。しかし、何よりも通信教育が私にもたらしてくれたものは青春の多くの時間を何事にも精一杯取り組む姿勢を身につけさせてくれたことだ。かなり困難なことでも、誠心誠意、精一杯頑張れば必ず成し遂げることができることを教えてくれた。このことがこども達を教える上でも、社会生活を営む上でも根底となり、私を支えてくれたのだ。私は通信教育に出会えていなかったら趣味もなく無味乾燥な味気ないつまらない生活を送っていたのに違いない。


(二)教育関係随筆


天は一物を与う 

 「天は二物を与えず」という言葉があるが、これ程含蓄のある真実性のある言葉はあまりないと思っている。世の中には全ての点が素晴らしい人とか、欠点だらけという人もいそうな気がするが、よく見つめてみると、長所の多い人にも欠点があり、欠点の多い人でも長所が結構あるものである。
 私が若い頃、大学の教授はいろいろなことを詳しく知っていると思ったが、テレビのクイズ番組など見ると大学教授も一般の人も芸能人も専門以外はそれ程差がないものだと考えるようになった。人間の能力にも限度があり、全てのことを知りうる天才などはこの世に存在するはずがないと思うようになった。
 著名人というと政治家、スポーツの選手、歌手、作家、俳優などがあげられるが全ての点が優れているというよりも、一芸等に優れているといった方がよさそうである。一芸に優れていても、優しさとか思いやりのない人間性に欠ける人もいるし、特に秀でた能力がなくても人間性に溢れる人もいる。私から見ればオリンピックで金メダルを貰った人間性のない人よりも、普通の主婦でありながら人間性に富んだ人の方が素晴らしいと思う。結構、自分の素晴らしい所に気がついていない人が多いのではないか。もっと自分の良さに自信を持っても良いと思うのだが・・。
 私の三十余年の教職員生活のうち、二十年以上知的障害のある子供達の担任等として指導してきたが、この子供達は天から素晴らしい授かりものをしていると私は常々思っている。私が知的障害児を教えたての頃、あまりの素直さ、やさしさに感動して同僚に話すと同僚は「確かに素直でやさしい面はあるが、それは意地悪をしようとする知恵もない、悲しい副産物しかでないよ。」と言われてしまった。私はその同僚の考え方が一般的な考え方と思い、あえてその時は反論しなかったが、私は知恵の遅れた子供達は共通して、素晴らしい所を持っていると考えている。それは特に素直で、気持ちがやさしく、何事にも頑張り続けることができることである。ある子供が集金袋を忘れたので「どうしたの。」と聞いたら、「お母さんに渡したよ。」と言ったが様子がおかしいのでカバンの中を見てみると集金袋がでてきた。それを見せるとその子は大声で泣き出してしまった。汚れない顔であった。遠足に行ったときのことである。お弁当を広げ食べていると、特の方に一匹の子犬がとぼとぼ歩いていた。そうすると、一人の女の子が「あの犬もお腹空いているよね。」と言って自分の好きな唐揚げを走ってい ってその犬にあげたのである。心の優しい子だと思った。ほんとうにこの子供達と接していると、神様に会っているように心が洗われてすっきりしてしまうのである。
 この子供達は知恵は与えて貰わなかったが、素直さややさしさなどの人間性の素晴らしさを与えて貰った。天は二物を与えなかったが、一物を与えてくださった。特にこのような子供達には目をかけてくれたのかも知れない。天は素晴らしい人間を作ったと思っているのに違いない。
                                      (2000/1/21)


 

  体罰賛成論

 体罰をして教員が新聞に話題になったり、教育委員会からときどき体罰をしないようにいう通達があったりして、体罰についての問題は途切れることなく、繰り返し続けている。 どうして体罰は悪いと言われながら、教師もそのことを承知しながらなぜ続けられるのだろう。
 まず、体罰は悪いことなのだろうか。私は体罰のない教育は望ましいと思っている。幼い頃からきちんと躾がなされ、適切な教育がなされていれば、体罰など必要ないと思う。しかし、現在の家庭での躾がきちんとされていない状況では、子供自身やっていることが良いことか悪いことか判断の付かないことも結構多い。それを立て直す場合、ごく僅かの場合ではあるが体罰が必要な場合がある。サリバン先生はヘレン・ケラーのわがままを心と心、体と体との激しいぶつかり合いの結果直すことができた。これも一種の体罰であると思う。教育的なねらいを持って、ときにはつねったり、叩いたりすることは教師にとって仕方のないことであると思っている。にもかかわらず、文部省や教育委員会は世間への体裁を繕うため、教育的信念に欠けるため、体罰を理由を問わず禁止している。
 これがもとで、教師が自信をなくしたり、あたりさわらずで子供に接したりすることで、子供達を健全に育むことができないの。それに親たちが学校に相談もしないで、些細なことでも教育委員会や報道関係に直に話を持ちかけるのである。生意気な子供達は「先生、そんなことをすると「クビになるよ。」などと平気で言うご時世なのだ。こんなことでうまく教育できるはずがない。もっと、教師を信頼して、自信をあたるべきと思う。
 私が教師の頃、子供が良くなるためなら、体罰もクビを覚悟でやろうと心に決めていた。けれど、そう思って教育にあたるとほとんど必要がなかった。子供達を叩いたりしても、子供達は自分のことを考えてやっているということが分かると親に話すこともなく、自分なりに反省してくれることが多かったのだ。しかし、最近、無理解な親やどうにもならないわがままな子も現存しているので、うまくいかず、問題になってしまう場合もある。
 子供を健全な良識ある子に育てるには、まず親が良識ある人間になろうと努めること、躾を幼いうちにきちんとつけること基本である。ただ、その子を立ち直らせる手段として子供を叩いたりすることが必要な場合は教師を信頼してまかせてほしい。このようなことがなされば子供達はすくすくと健やかに育っていくはずである。
                    (2000/1/13)


 
 

  黒岩彰君にスケートを指導?

 この随筆の題名を考えたとき、「嬬恋の思い出」、「村おこしのスケート場」、「嬬恋村のスケート」などいろいろ浮かんできたが、内容から少しずれるがインパクトの強い、表題に掲げた「黒岩彰君にスケートを指導?」にしたのである。
 私が嬬恋村の小学校に赴任した昭和42年頃はまだスケートにおいて「嬬恋旋風」とまだ騒がれていなかったときであるが、この頃この村のスケート熱はもうすでに上がり始めていた。そこで村内に田圃等を使って即製のスケートリンクが何カ所か作られていた。その中で私の勤務していた小学校の校庭にも冬期間消火栓のホースを使って水をまいてスケートリンクを作っていた。そのスケートリンクを使って、朝運動の時間や体育の時間にスケートの指導を行っていた。
 さて、表題のことであるが、私が勤務していた頃黒岩彰君は小学校1〜3年で担任でなかったから勿論直接指導したわけでなく、朝運動のスケートの時、全体指導したということだけなのである。
 まして、私はスケートが苦手で、スケート指導の時間は上手な子をお手本に指導せざるを得なかった。私がスケートが苦手であることは子供たちはよく知っていて、よく、放課後私のクラスで最も下手な子に「先生、俺とスケート、競走しねえだか」が言われ、挑戦に応じたものだった。
 その頃彰君のお姉さんの担任をしていたので彰君に結構会うことが多かったが、スケートでは特に目立つ存在でなく、中学生になってから急に伸びたらしい。彰君がワールドカップに優勝したり、オリンピックでメダルを獲得したのは本人や直接指導した先生の努力に寄ることは勿論であるが、村民が田圃などをスケートリンクに提供したり、教師がスケート指導に力を注いだりしてバックアップしたからだと思う。私の教え子達も大学のスケート選手権で入賞した子も幾人かいて、村民は少なかったがスケートの選手層が厚かった。特に嬬恋村の子供達が運動能力が高いとは思えない。特に才能がなくてもから一つのことを集中して小さい頃から村民一体となってバックアップして、指導すれば成果が上がると言うことを実証した点で嬬恋村のスケート指導は全国の教育関係者に与えた影響はかなり大きかった筈である。 
 いずれにしても、その頃、夕方の寒い時間にスケートリンク作りのため、ホースで水をまいたとき、冷たい水があたって、とても辛かったが、そのことがほんの僅かでも嬬恋村のスケート指導の一助になったかも知れないと思うと三十年前のことであるが感慨深いものがある。
(2000/1/12)
                  


二宮尊徳の教育法

 二宮尊徳は百姓であり、商才もあり、哲学者でもあったが、私は歴史上にも残る偉大な教育者でモあったと考えている。少年時代父母がなくなったが倹約、努力を重ね、一家再興のめどをつかみ、青年になり、郷里の百姓のためにに尽くし、小田原藩士服部家を再興し、世に認められるようになった。三十二才の時、小田原藩主の要請で下野の百五十戸の再興に立ち向かうことになる。その再興は簡単には成就せず、悪戦苦闘しながら技術を高め、哲学的考察を高めながら、貧しさに苦しみ悩む農民達を教え励ましたのである。特に天保の大飢饉のときの農民救済の活動は高く評価され歴史的人物としての位置を決定的にしたのである。
 その尊徳は教育学者でなく、農民達を救った実践家であったから、農民をうまく指導し、富田高慶、斎藤高行、岡田淡山、福住正兄等の優秀な実践家を育て上げたかも知れない。私は二宮尊徳を日本史上でも屈指の教育者と考えている。
 尊徳は人を育て上げるとき、その人の性格等によって対処法を変えていた。高慶には激しい問答により、福住正兄には会話をせず生活を共にした。いずれにしても単なる言葉で諭すのではなく、魂と魂の触れあいによって、自らの目によって確かめさせる方法をとっているのである。
 正兄は最初はいろいろ教えてくれるものと思い期待していったが、何一つ教えてくれなかったので大いに失望したということであった。しかし、そのうち正兄は尊徳の生活に眼を付け、言葉や書物ではなく、行為そのものから学ぶことに気が付き、尊徳の実践活動を身につけめざましい成長を遂げたのである。
 私が教師の頃、子供達には「机の中はいつもきちんと整理しておくのですよ。」とよく言っていた。ある日生徒が教室の私の机の上を見て「先生の机の上、汚ねえなあ。」と言われ、はっとしてしまった。自分ではできないことを自覚もしないで生徒に言っていたのである。それからはそういうことはできるだけ言わないで整理整頓を心がけるようにした。その方が以前より子供達は整頓好きになっきたと思う。今考えてみれば当たり前のことであるが、その時は気づきもせず言葉だけで教えようとしたのである。
 例えばあるお母さんが子供に「本を読みなさい。勉強しなさい。」と言って、自分では本も読まずテレビばっかり見ていれば、子供だって「何言ってるんだい。」と言うことになり、その指導の効果は期待できない。お母さんはそういうことを言って教えているつもりでも単なる気休めに過ぎないのである。一番悪いことは自分のしていることに気がつかないことで、賢明なお母さんであれば子供達に注意する前に自分でできるだけ本を読もうとするだろう。世の教師や親たちの多くは言葉で教えようとしている。教育は口先だけではできるわけはない。教育は魂と魂の触れあいによって効果を上げるのである。
 最近、子供達の非行も低年齢化し悪質になり、しつけの仕方が問題になっているが、しつけは言葉で諭すより、言動で模範となるように努めることが、最も大切なことであるように思えてきてならない。
 現代の人も是非約300年前の二宮尊徳の教育法を学んで実行に移して貰いたいものである。

(2000/1/6)




『カニの本』(悪い子どもにするには)

 
 最近、知人からドイツの教育家ザルッマンの著したものを日本向きに分かりやすく訳した村井実の『カニの本』 (悪い子どもにするには)を借りて読みました。冒頭に『イソッブ物語』から引用した文が載っています。この本の題はこの文を参考にしてつけら
れました。
かにのおかあさんが、その子に
「横にはうものではありませんよ。」
と言い、わき腹をじめじめした岩にこすりつけました。すると、子どもは言いました。
「そう教えてくださるおかあさんが、まっすぐ歩いてください。
私はそれを見て、その通りにします。」
これを読み、私は子どもたちに交通規則を守るょうに言いながら、横断してはいけないところを平気で渡ったり、
「広い心で、人の気持ちや立場を理解し、人の過ちを許しなさい。」 
と教えながら、一時的な感情で人の気持ちを無視してしまったりしていることに私は恥しさがこみあ
げてきました。私たち教師とて、完全な人間であるはずはありませんが、それにしても、子どもに対して言う、たてまえと自分の行動が一致しないことに何ら感じなくなってきていることに空恐ろしささえ感じてきます。この『カニの本』は、惰性的な考えになりっっある、私に振り返る機会を与えてくれました。 『カニの本』の中から、私が心に残った項名を一部抜き出してみたいと思います。
子どもに嫌われる方法
。子どもをたえずからかってやりなさい。
子どもに向上の意欲をなくさせる方法
・よい子になろうとする子どもの努力を無視しなさい。
子どもを強情にする方法
。子どもの願いを聞きいれてはいけません。
子どもをわがままにする方法
・子どもののぞむことは何でもかなえてやりなさい。
子どもを残酷にする方法
。動物の苦しむありさまを見せて喜ばせなさい。
子どもを勉強嫌いにさせる方法
・勉強をむりやりにさせなさい。
 この本の副題は(悪い子どもにするには)となっていますが、これは勿論『逆説的な書い表しで、著者のねらいは、子どもをよくする方法を考えさせるものです。つい私たちは、躾のなされていない、自己中心的な傾向のある現代の子どもたちに、半ぱあきらめがちなところがあります。しかし、実際は子どもたちら資質だけによるものでなく、各学級の子どもたちを見ても、担任の先生のカラーがかなり強く出ているような気がします。これは教師の指導法によって変わってくるのだと、
『カニの本』を読み一層強く感じてきま.した。この本は二十五年前に発刊されたものですが、現在の教育にも、奇妙にも通じるものを持っています。最後にこの本の「あとがき」を記して、拙文をとじたいと思います。
「みなさん、わたくしたちの子どもがもっている欠点について、まず、私たちに責任があります。子どもの教育について論議するまえに、わたくしたち自身が子どもに対して、どんな態度をとっているかを、反省してみようではありませんか。」
         「新田の教育」
)

               昭和61年
 
  
贈る言葉」.

                           
 卒業式が近づき「謝恩会]や「卒業生を送る会]など行われると最近「贈る言葉」がよく歌われる。最近の歌の詞は表面的で深みがなく何気なく口ずさめるような歌が極めて少ない。しかし.「贈る言藁」は現代感覚を持ちながら、心に暖かみを感じる歌で・歌えぱ歌う程、味わいの深くなる歌である。この歌の魅力は武田鉄矢の気どらず.真情を伝えようとするさりげない歌い方にもるだろうが何よりも詞が素晴らしい。
「暮れなずむ町の光と影の中」らか「夕暮れの風に途切れたけれど」など抒情的な歌い出しが心にくい程見事である。そして、その後に「人は悲しみが多いほど.人には優しくできるのだから」ど続く。ふだん誰しもこんな感情を持っことがあると思うが、素直にこのように表現できるのは作者がふだん人の心を大切にすることを生活信条にしているからだ
と思う。悲しみというものは人生のなかの一過程として貴重であり、それを脱皮する毎に深みのある.優しい心の持ち主へ移りゆくものでごある。
 卒業式が近づくとこの歌はいろ.いろなところで歌われる。この詞がその場に合わないところがあっても.詞の全体の雰囲気、今まで親しかった先生や友達との別れにあたり、親愛の情を表わすのにもっとも適した歌と思うのである。この歌を卒菜式の日、教室で涙にじませ歌っている先生と生徒を想い浮かべるとき、この歌に人の心を愛すろやさしさがあることをっくづく感じるのである。終わりに私の好ぎな詞を添えておく。
 悲しみこらえて 徴笑むよりも 涙れかれるまで 泣く方がいい。
 去りゆく(愛する)あなたへ贈る言葉

「新田の教育」
                  昭和五十八年
 
 

「四十の手習い」

 私は小学生の頃、特に字を書くのが下手で、字を書くことと習字の時間はあまり好きでなかった。小学校五、六年の担任の松村先生は生徒が習字を意欲的にするように、習字の時間には書いたものに級を赤筆で書き入れてくれていた。卒業するころまでにはほとんどのものは一、二級までいっているのに、お情けで五級までやっといけたのに過ぎなかった。今でも小学生の頃の書いたものを見ると、その字のひどさに背筋が冷たくなるほどである。
 字のひどさは小学生のときだけではない。それから中学生、高校生になっても続き現在に至る。字が下手で困ったのは学校の事務職員の時、各先生の履歴書に記入するときも感じたが、最も痛切に感じたのは、教師になって習字を教えるときであった。子どもには私よりずっと上手な子もいたので、思うように筆が運べない私はほとほと困ってしまった。でも、結果的に幸いにも、私が教えた子には字の上手な子が多い。それは私みたいに字が下手では困るから、一生懸命書かせたい気持ちが子どもに通じたと私は思っている。とにかく、それまで、ごまかしごまかし、なんとか習字の時間を教えてきた。
 一年前、同僚の先生が「公民館に習字を習いに行かないか。」と誘われ、二つ返事で行くことにした。まわりの人たちはみんな、段持ちで上手な人ばかりであった。小学生になったつもりで習いに行くことにした。なかなか上達しないので何度もやめようと思ったが、子ども達にも「先生はもっと字が上手になるため習字を習いにいっている」と言った手前やめるわけにもいかなかった。そのうち、急に級が上がりだし五級から二級に上がることができた。自分なりに多少向上したと思うが、他の人と比べたら全然問題にならないほど下手である。しかし、習字を教えることは以前より多少自信を持ってきた。
 どうせなら本格的に習おうと東洋大学の通信教育を受けることにした。このスクーリングが大変で、四日間朝九時から午後五時まで、楷書、行書、篆書、隷書等書き通しで、課題等でるから一日十時間以上書くことになる。上手ならともかくむ、他の人が一時間で書けるものを三時間以上もかかるのであるから大変である。
 また、ある先生の時は書いたものを、黒板に貼って批評されるのである。自分では一生懸命書いたつもりでも、他の人と比べると、明らかに落ちるのである。しかし、先生は「手質などない。上手か下手かは書いた枚数によるものだ。誰でも練習を重ねれば必ず上手になる。」と言っていた。そう先生に言われるとそんな気になって練習を重ねると少しずつ上手になってきたような気がした。
 私は書道が好きなのは努力のし甲斐があることである。 四十の手習いは少し遅すぎた感じもするが、スクーリングでは六十過ぎの人もいた。人間、年ではない。気持ちの持ちようであると思う。他の人は一年でマスターできるかもしれない。私は十年かけてでもやり遂げようと思う。
 小学校同窓会誌「いずみ」六号      (昭和五十六年)




〃二四の瞳と一二四の瞳〃

         佐藤行 男
 私は松村先生から借りた教育日誌を見て感動し、このタィトルを考えようとしたとき 62×2=124 であることに気がっいた。これは単なるゴロ合わせでなく、映画「二十四の瞳」を見たときから、私たちのクラスと松村先生とのっながりに似ているように思えた。
 まず、「二十四の瞳」の中の大石先生が片道八キロを自転車に乗って赴任してきた姿と松村先生が広沢から南小まで自転車で通う姿はさっそうとし、幾分お転姿的なところが似ているように思えた。
 また、大石先生がこどもたちと海辺を散歩し、唱歌を歌っている姿と松村先生が私たちを浅間山に連れて行き、山道を降りながら、いろいろな事を話したり、歌ったりするところが、自由でのびのびして、心暖まる感じで似ていた。
 ひとり、ひとりの子どもをよく知り、子どもの家庭事情が良くない場合・援護してやったりして、ひとりひとりを自分の子どものように、やさしく接してくれるところも二人の共通点と言えるる。
 何よりもただ教えるということだけでなく、心と心のつながりを大切にしたことが二人の先生の一番よく似ている点である。
 教師と生徒が〃教える〃,教えられる〃関係でなく、子どもを|人の人間として認めてくれ、心を割って子どもたちの世界へとびこむことは簡単に見えて、なかなかむずかしいことである。私も教師として、子どもの中に入ろうとするが、叱りすぎたり、子どもたちの気持を考えているようで結局、無視している場合も多いようである。教師でなければ、
ただ一緒に遊ぶということだけでいいのだが、教師と生徒という関係を保ちつつ、心と心が行き合うということは余程、精力的で献身的な気持ちがなければできるものではない.その点は二人の先生は二っを兼ね備えている。卒業してからも子どもたちのことを考え、苦しいときは励まし、嬉しいときは共に喜んでくれ、心の支えになってくれた松村先生は
「二十四の瞳」の大石先生そのものであった。
私は今秋、四国旅行の機会に恵まれ、小豆島を訪れることができた。岡山港からフェリーで一時間以上もかかったが、何の変哲もない島のように思えた。「二十四の瞳」を思い出しながめて見ると、感慨も深く、岬の学校は島のはずれにあり、あの辺は大石先生がいつも通っていたところとか、あの辺でいっも遊んでいただろうとか寒か渓に行く途中、思いめぐらしていた。
 四方、海に囲まれた小豆島と山に囲まれた群馬の地方都市との違いはあるけれど、子どもの瞳の数は二四と一二四の違いはあるけれど、二人の先生の子どもに対する暖かさ、やさしさ、思いやりの深ささはほとんど変わらない。
 「二十四の瞳」が書かれたのは私たちが松村先生と出会った昭初二十七年であり、映画「二十四の瞳」が上演されたのは私たちが小学校を卒業した昭和二十九年である。何とした奇縁であろうか。「いずみ」 (昭和五十三年十二月)




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