藍染通信


  【 目次 】


1. Prologue 編



2. 藍の記憶 編

→ i. 藍を育てる




 - Prologue 編-

むかし昔

 昔は高崎に来れば染物の仕事は大体間に合う、といわれるくらいに染物に関係する職人商人が揃っていました。かつては、工程ごとに細かく職人が分かれていて、大きな紺屋は注文を受けると、それぞれの下職(したじょく)にまわしたものでした。
 下職には、糊をつける「塗り場」、伸子張りする「張り屋」、紋を描く「上絵屋」、絹を晒す「白張り屋」などがありまして、染めや手縫いは紺屋がおこなっていました。その当時は近所に紺屋や下職がたくさん集まっていたようです。現在はこのような下職の制度がなくなり、染物屋自体も次々に廃業し、かつては西行と呼ばれる紺屋専門の渡り職人もいましたが、昭和30年頃をめどにいなくなり、職人自体もすっかり減ってしまいました。
 




 




                            職人の修業と生活

 昔は同業者の息子が、住み込みで見習いに行き仕事を覚えてきたものです。
「職人はお日様が相手だから」太陽がでると働き始めて、暮れるとやめるのが1日の生活でした。また、晴れの日は外仕事、雨の日は内仕事でした。雨の日は型を彫ったり下絵を書いたりしたものでした。職人の手間賃などは、半纏1枚分の染め賃が1日分というほど安かったようです。
 昔の紺屋は夏が暇で釣りばかりしていたので、釣りがうまく特に鮎釣りが上手と聞きます。同様に2月、8月が暇で朝顔や菊作りの名人もいたり、メジロなどの小鳥を取ってきて声を競わせていたりもしていたそうです。当店の4代目などは出目金の子供を買ってきて、工夫したえさで育て、両目のコブを大きくして徴のある魚にし、高値で売買していたほどです。当時の職人の生活は大変でしたが、精神的には大変豊かだったようです。
 
                                  道具

 道具は昔より東京にいって揃えています。浅草の問屋の大正時代注文帳にも当店の名前が残っています。先代が使っていた、古い型紙も大事に保管してあります。また、明治初期につくられた紋帳やデザイン書など今では買えないものも残っています。
 移り変わりもあります。今は型を紗でつなぎますが、昔は絹糸一本でつないでいましたし、型も和紙に渋を塗ったものから、フィルムに変わってきました。ただ糊を入れる筒皮(柿渋を和紙に塗った渋紙を筒にしたもの)などは、現在も同じです。現在ではコンピュータなどでの型紙製作管理などもおこなっています。ただ、昔の小紋などの型紙は大変細かく、データ化するのは大変です。昔の職人さんの技術は大変すばらしいかぎりです。 
 信仰

染物関係の本尊は愛染明王です。26日を縁日とすることから6夜様ともいいます。
とりわけ12月26日には愛染様の日としてテーブルの上にミカンを26個、月見団子のように盛り、
大根、酒、チラシや煮物などを供えてロウソクを立てておまつりします。
当店も昔は掛け軸がありましたが、現在は出入りの染料屋さんからいただいた愛染様の写真をかけています。
昔は愛染様の日には仕事をくれる人を呼んだり、職人にご馳走を振舞ったりしたものでした。
 



- 藍の記憶 編 - 



 藍が中国大陸から入ってきたのは奈良朝以前と謂われ、染物や薬草として盛んに使われたようです。染まりあがった藍の布は殆どその香りを有していませんが、藍の葉を刈り取り乾燥させた直後の香りは薬草の香りです。古来より藍は虫や蛇を避けると言われていますが、ちょっと疑問です。染物自体は弱アルカリなので体にはいいかもしれませんが本当の効果は判りません。現在まで藍の成分を有する植物は数多いとされています。古来より日本では殆どの地方で蓼藍が盛んに栽培されました。また南アジア、アメリカなど世界各地で藍の栽培が盛んだった様です。その後バイエル社によって合成藍のindigo ピュアーが開発され植物藍は駆逐されました。

 植物藍の色は一言で表現すると、春の11時半の快晴の南東の方角のやわらかな空色です。無地や織物として染める場合、染色に時間の制限は有りませんので、いくらでも濃色に染めることが出来ますが、糊が置いてある布は藍液に入っている時間の制限が有ります。それは糊が解けてしまわないうちに染色を完了しなければならないからです。


当店の藍染で使われる【藍の葉】はすべて私たちの手で土壌作りから種まき、水やりに草むしりと自然の元で丹念に育てあげ収穫したものです。
ここからはその藍育の様子をご紹介していきます。



→ i. 藍を育てる




(この項は引き続き制作中です。完成しだい随時アップしていきますので、ご期待ください。)



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