【 虐待被害者の声 】
(改訂: 12/03/05、66例)
● はじめに 「被害者の苦痛の深さを多くの人に知ってほしいと思います」
虐待を受けたことのない多くの人は、それがどういうことなのか、虐待被害者がどういうふうに感じ、何を考えるのかを想像することは難しいと思います。私(院長、Webマスターの竹村)は、毎日のように彼ら/彼女らに会い、しばしば手記をもらいます。そこには、彼ら/彼女らの悲しみや怒りの言葉が書かれています。それはメッセージというより叫びです。
しかし実は、このようなメモや手記の形ですら、被虐待の体験を文章として表現できる人は少ないのです。診察室で聞くのは、大部分がもっと混乱した断片的な情報です。多くの場合、長い治療を経て、そのような断片がつなぎ合わされて被虐待体験の全貌が姿を現します。そのような被害者の声と体験を集め、手記やメモに加えてこのページを作りました。
以下の例では、プライバシーに十分に配慮して、個別の事情は省くか変更し、時には状況設定を変えてあります。若い女性の性虐待被害の報告が多いのは、赤城高原ホスピタルの診療の実情を反映しています。
また、精神的虐待やネグレクトのような、分かりにくい虐待、さらに「虐待」という言葉では捕らえきれない、トラウマ体験の例も加えました。
虐待について知らない方には、彼ら/彼女たちの苦痛の深さを知ってほしいと思います。
虐待を受けた(かもしれない)方は、このページを読むと、フラッシュバックを起こしたり、情緒不安定になったり、パニックになったりする可能性があります。刺激が強すぎるかもしれないと思う方は、ここから後を読まないようにしてください。
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[電気ショック]
父は電気器具小売商。酒は飲まないけど、短気で切れやすく、一旦怒り出すと手がつけられなくなる暴力男でした。2歳年下の妹は要領が悪くて、いつも暴力被害を受けていました。
妹が3、4歳頃には、縄で縛り上げ、手の甲に電気ショックを与えていました。24歳の今でもその傷が両手の甲に残っています。そんな暴力で、妹が泣き喚くと包丁を顔の近くに投げつけたりしていました。暴力は妹が失神するまで続きました。
妹が20歳代に自殺未遂を繰り返すようになったのは、そのことが関係していると思います。お願いです。妹の治療をしてください。(摂食障害+薬物・アルコール依存症+解離性障害の妹を心配する姉)
[お父さんを憎めない私を愚かだなと思います]
お父さんを殺してやりたいと思う一方で、お父さんも病気だったんだ、そのうえお母さんにかまってもらえず、かわいそうな人だったんだと思ったりもするのです。そうすると私がもっと賢ければあんなことを避けられたのに、と自分を責めてしまいます。先生のおっしゃるように私がその時は幼かったということは分かります。でも今度は、幼い私にあんなひどいことをしたのに、お父さんを憎めない私を愚かだなと思います。自分に「ばか」と怒鳴りたくなります。(28歳、性虐待被害者、摂食障害)
[あなたが刺しなさい]
父の浮気を信じて疑わない母は、浮気相手と目される女性を付け回していました。ある週末、母は中学1年生の私を連れ出し、途中、金物屋で刺身包丁を購入し、それを鞄にしのばせて女性のアパートの周りをグルグル歩いていました。母が私に言いました。「浮気相手を殺しても死刑になることはない。でも、私が刑務所に行くと、子供たちが可哀そうだから、いざと言うときには、あなたが刺しなさい。未成年なら罪には問われないから」。
私は、母の目を盗んで、相手の女性のポストに、「母があなたを殺そうとしています。逃げてください」というメモを投げ込みました。その時は、何も感じませんでした。この年になって、怒りと悲しみで叫びたくなります。(入院治療2ヵ月目、パニック障害の40歳女性、妹は薬物乱用)
[バドミントンが嫌いな訳]
卓球もバドミントンもソフトボールもダメです。打つ動作の入っているスポーツは好きになれません。
母はヒステリックになると、バドミントンのラケットで、私と5歳年下の妹をあざができるほどたたきました。一度狂った母は、自然に止まるまでしばらくは怒りが収まりませんでした。泣いても叫んでも止められませんでした。
妹が2歳の時、母が妹の背中をラケットでバシッバシッと打っていた姿を今でも時々思い出します。かわいそうな妹は数日間、寝たままで起きられませんでした。
その時、私は怖くてその場を逃げ出しました。たとえ止めることはできなくても、母を制止すべきだったと今でも後悔しています。(30歳、摂食障害女性、妹は薬物乱用)
[自分自身をひびの入った食器だと思っていました]
小学4年生の時にレイプにあって以来、自分のことをずっとひびの入った食器だと思っていました。中学生のころからは、こんな傷物は割ってしまうしかないという考えに取りつかれ、左手首と前腕を切り刻みました。高校生になると行きずりのセックスばかりしていました。
どうやっても、淋しさは埋められません。(27歳、自傷行為+摂食障害) [TOPへ]
[自分自身を守る術も力もありません]
突然ですが、助けてください。なぜこんな恐ろしい子がこの世にいるのか、そしてそれが私なのか、信じられない思いです。さっきまで穏やかにしていたのに、いきなりどなったり、泣き叫んだり、自分で自分をコントロールできません。いつも耳栓をしているような不快感。ずっと生きている気がしなくて、半ば夢の中にいるような気分でした。私は自分自身を守る術も力もありません。お酒を飲んで麻痺しているときだけがほんの少し楽です。助けてください。(18歳、暴力・性虐待被害者、アルコール依存症)
[妹も被害者だと思います]
幼児期から実父の性虐待を受けていました。直接聞いた訳ではないけど、2歳年下の妹も被害者だと思います。私がその話をした時、泣いていました。私と同じように摂食障害があり、2年位前に二人とも売春をしていました。私は今はやめましたが、妹は続けているはずです。(22歳、女性)
[反抗的な娘のしつけ?]
父は、私がおふろに入っていると必ず覗きにきました。そればかりでなく、機嫌が悪い時には、「なぜこんなに遅くまで風呂に入っているんだ。今何時だと思っているんだ」というような難癖をつけて、裸の私を風呂からつまみだしました。これは私が中学を卒業するまで続きました。
その時、母がどうしていたかですって? 母は母で、私が中学2年生の時、私を素っ裸にして、玄関から追い出しました。夕方4時頃です。玄関の外はすぐにバス通りです。実際その時、バスが1台通りました。やっとの思いで裏口から家にもぐりこみ、自室に隠れていました。両親は反抗的な娘のしつけをしたんだと言っています。そのことを思い出すとパニックになるので、最近までなるべく考えないようにしていました。今は、思い出すと怒りのコントロールができなくなります。(22歳、解離性精神障害+自傷行為+摂食障害) [TOPへ]
[優しい伯母だったけど、・・・]
父から母への暴力がひどく、母が仕事に逃げていました。そのため私は父方伯母に育てられました。伯母は結婚生活4ヵ月で離婚して実家に戻っていました。優しい伯母だったけど、私のペニスをいじりまわし、舐めまわすのが好きでした。そのため、小児期を通じて、私はいつもペニス周りの皮膚炎を起こしていました。伯母のフェラチオは、私が小学6年になるまで続きました。その頃、伯母は進行した子宮ガンが発見されて、3ヵ月後になくなりました。
私は、中学時代から情緒不安定になり、異性に関心が持てず、また過食と嘔吐が始まりました。中学時代から断続的に7年間、精神科の治療を受けましたが、伯母のフェラチオのことは、誰にも話しませんでした。ホスピタルのHPを見るまで、自分の病気とは関係ないことだと思っていました。
[お年玉]
父はアルコール依存症+ギャンブル依存症でした。私が小学生頃から、パチンコ屋で玉を盗んで警察に捕まったりしていました。小学校5年の時、父が断酒して、家族団欒のお正月を迎えました。父が3千円のお年玉をくれました。やっと父がまともになった。これからはおウチのことを友達に話せると思いました。全額を貯金して、先生と友達に自慢して話しました。1ヵ月後、預金通帳ごと、父に盗まれました。幼稚園の頃から貯めていたお金です。8万円あったはずです。結局返してもらえませんでした。そのとき以来、私は誰も信用しないことにしました。
[置き去りにされました]
父の怒りの爆発で家族の行事は必ずめちゃくちゃになりました。無事に終わった記憶がありません。私が小学2年、姉が小学4年生の時のことです。珍しく家族で2泊旅行に行きました。観光地の湖を見てからロッジに帰る途中、車の中で私と姉がちょっとけんかをした途端、父が急ブレーキをかけ車を止めました。私たち二人を道端に置いたまま、父と母は行ってしまいました。ロッジの名前も分かりません。姉が自分も泣きながら、私の手を引いて、日暮れ時の道を歩きました。2時間ばかり歩いたところで、通りかかった地元の親切な叔母さんが声をかけてくれました。でも姉が両親をかばって、置き去りにされたと言わないものだから、要領を得ず、とうとう警察騒ぎになりました。どうしてロッジにたどり着けたのか記憶にありません。真夜中まで両親は私たちを探していませんでした。姉も私も両親も、悪いのは子供たちだとずっと思ってきました。 [TOPへ]
[ワンワンスタイル]
私たちは1歳ずつ離れた3人姉妹です。娘を風呂に入れるのは家族に無関心な父のただひとつの親らしい役割でした。父は毎日、「ハイ、次」と言いながら私たちを、順番にお風呂に入れました。父の洗い方にはひとつ変なことがありました。体を洗われた後、私たちはワンワンスタイルになって父の顔の前にお尻を突き出すのです。父は石鹸をつけた素手で娘たちの局部をごしごし洗いました。私たちが自分で体を洗えるようになっても、私たちのお尻を洗うのは父の仕事でした。それは私たちが中学校1年になるまで続きました。長女の私が結婚して、自分が子供を風呂に入れようとして、子供にワンワンスタイルをさせた時、その格好では、局部はよく観察できるけど、とても洗い難い事に気づきました。父は幼児ポルノ愛好者でしたが、自分たちがその被害者だということは、その時にやっと分かりました。そういえば、私たちが思春期になってからも、父は何かと理由をつけて着替え中や入浴中の私たちを覗きに来ました。妹二人が何かと問題を起こすのは、そのことが関係していると私は思っています。
[母から追い回されました]
誰も信じてくれないと思いますが、両親が浮気話を自慢しあうという不思議な家庭で育ちました。僕が小学校高学年の頃から、母が「おしもの毛が生えてきたでしょう。見せてごらん」と言って、僕を追いまわしました。それは僕が中学1年になって、母をぶっ飛ばすまで続きました(摂食障害+薬物乱用、28歳男性)。
[援助交際の訳]
両親そろって外づらが良いので、学校の先生もお友達もはっきりとは分からなかったと思いますが、父はアル中、母は全く家事能力がない派手好きのヒステリー女でした。父が仕事を首になってからは、小遣いは勿論、学校で必要なお金も親からはもらえませんでした。仕方がないので13歳から援助交際を始めました。レイプされたり、随分危ない目に会ったりしたけれど、友達からはとんでもない不良女と思われていたけれど、他にどうしようもありませんでした。
私が朝帰りすると、家には鍵がかかっていました。母は、「入れてほしかったら、金を出しな」と言いました。仕方がないので、私は売春で稼いだお金から、数万円ずつ母に渡しました。さらに、これは数年後に分かったことですが、そのほかに、母は時々私の財布から金を盗んでいました。中学時代から記憶障害があった私は、お金を盗まれていることに長い間気づきませんでした。(18歳、解離性障害、摂食障害、自傷行為の女性)
[両足をもぎ取られた気分です]
幼児期から小学校卒業時まで実父による性虐待を受けていました。挿入やフェラチオもありました。高校の時、母親に話したけど、まともに取り上げてくれませんでした。両親に両足をもぎ取られた気分です。父親の性虐待で片足をもぎ取られ、母親の拒絶で残った片足を失いました。(摂食障害+アルコール依存症+覚せい剤乱用+万引盗癖+売春+自傷行為+自殺行為+解離症状、23歳、女性)
[悪いのは私、お母さんは悪くありません]
小学2年生頃だったと思います。算数の点数が悪くて、60点でした。私が土下座をして謝ったけど、お母さんは私の頭をスリッパのまま足で踏みつけました。何度も、何度も。「生まなきゃよかった」、「死んでしまえ」と怒鳴りながら。でも、悪いのは私、悪いことをして罰を受けるのは当たり前です。お母さんは悪くありません。
お母さんのこと、すごく好きなんだけど、一緒にいてくれるとうれしいんだけど、気がつくと冷汗をいっぱいかいていて、・・・。(18歳、解離性精神障害+自傷行為+アルコール乱用の女性。入院2日目の発言)
[罪悪感で惨めな思いをずっとしてきました]
小学校低学年から、マスターベイションをしていました。1日に何時間もやっても止められませんでした。小学校2年のとき、家に遊びに来た女の子のパンツをぬがせて観察しました。友達は2度と来てくれませんでした。罪悪感で惨めな思いをずっとしてきました。私はどうしてこんなに幼児期からませていたのでしょう。その原因がはっきり分かったのはつい最近のことです。パパは私が中学校に上がる前までおふろに一緒に入っていました。そして私の身体を洗ってくれました。いつも膣の中まで念入りに。(16歳、自傷行為+摂食障害) [TOPへ]
[冷凍チョコレート?]
ホスピタルに入院して3週後、たまたま冷凍庫に銀紙の包みを見つけた瞬間、「ギャー」と叫んでしまいました。看護婦さんに「どうしたの」と聞かれても、口がきけず、涙が止まらず、体が震えました。
小学校4年の時のことです。右手で私の頭をガンガン殴っている父の左手をふと見たら、小指の第一関節から先がありませんでした。父は暴力団に関係していたのです。母はそのことについて、一言も喋りません。多分、これは話してはいけないことだと子供心に思いました。1ヵ月後、また父に殴られている時、今度は同じ小指が根元からないことに気づきました。母にはだまっていました。翌日、冷凍庫の中に小さなアルミフォイルの包みを見つけました。チョコレートだと思って開けたら、根元から第1関節までの小指が入っていました。このことを話したら、私も小指を切られる、殺されるかもしれない、と思いました。「あれは、夢だったのだ」と自分に言い聞かせ、誰にも話しませんでした。しばらくは悪夢にうなされましたが、そのうちに思い出さなくなりました。
私は12年間、記憶の底に沈んでいた出来事を思い出してしまったのです。(22歳、過食症+薬物乱用+解離症状の女性)
[16歳の妊娠]
16歳の時、妊娠してしまいました。父親が誰かも分かりません。何一つ頼りにならず、いつも機嫌の悪い母にそれを言うのは嫌だったけれど、この時ばかりはどうにもならず、言ってみました。母は、一言も怒らず、「大丈夫、お母さんに任せておきな」と言いました。私は嬉しくて涙が出ました。
堕胎クリニックに行く時は、母が付き添ってくれました。医者にいろいろ聞かれた後で、その日に手術をすることになりました。待合室で母が言いました。「1回くらい大丈夫よ、何てことはないわよ。私なんか10回はしたわよ。お母さんはこれから買物があるから、手術が終わったら一人で帰りなさい」。母は私ひとりを残して行ってしまいました。
[ポルノビデオ]
私が幼稚園頃から、父は子供の前でポルノビデオを見続けていました。母は何とかそれを止めさせようとしましたが、父に怒鳴られるだけでした。私は「気にしなくて良いよ」と笑っていました。私は、家では母親思いの優しい娘でした。近所でも学校でも評判の「良い子」でした。でもその一方で、私は15歳から、援助交際をしていました。もちろん実質は売春です。両親とも気がつきませんでした。相手はほぼ父の年代の男性でした。(21歳、アルコール・シンナー乱用+摂食障害) [TOPへ]
[生き残りの手段]
母は、不仲の父と一緒にいるのを避けるために、休日には、小学生の私を連れて、1日中街中を歩きまわっていました。いつも帰宅は真夜中でした。とても疲れてしまいました。私はそれが嫌でたまらなかったけれど、母に誘われると嫌と言えなくて、いつでも喜んでいるフリをしていました。今から考えると、両親に振り回されていたのですが、当時は、それが考えられる唯一の生き残りの手段でした。
[秘密の屋根裏部屋]
父は世間的にはごく普通の会社員ですが、実は変質者で、変った趣味がありました。収集癖です。よくごみ捨て場から古雑誌を拾ってきたり、工事現場から、何の役にたつのか分からない壊れた家具を拾ってきたりしていました。古い農家を改造したわが家には屋根裏部屋があり、父はそこにガラクタを持ち込んでいました。そこは父以外の誰も入ってはいけない秘密の場所でした。私が高校2年の時、父が交通事故で入院しました。この絶好のチャンスに、好奇心いっぱいで、私がその屋根裏部屋にしのびこみました。想像していたよりはきれいでした。ガラクタの横に漫画や古雑誌が整然と積んでありました。ほとんどがエロ雑誌で、半分くらいは幼児性愛を扱ったものでした。そのうちの一冊に見覚えのある便箋がはさんでありました。よく見ると、私が数カ月前に彼氏に書いたラブレターの書き損ないでした。破ってごみ箱に捨てたものを丁寧につなぎあわせてありました。他にも私の部屋のごみ箱から持ってきたものが幾つかありました。私の部屋の天井に行ってみると、明らかな覗き穴がありました。
考えてみると父から私への性的興味の徴候は以前からたくさんありました。私は体の震えが止まらなくなりました。だけど気弱の母には何も言えません。自分の貯金を降ろして敷金にし、すぐにアパートを借り、父が退院する前に家を出ました。4年間、過食症とアルコール乱用のため治療を受けましたが、この秘密は思い出さないようにしていました。 [TOPへ]
[父と同じように酔って子供をなぐっていました]
父はアルコール依存症で、母や子供たちに暴力をふるっていました。私は情緒不安定で対人恐怖、不登校のまま高校を卒業しました。結婚してからアルコールを飲むようになりました。気がついたら、父と同じように酔って子供をなぐっていました。自己嫌悪でトイレにこもって酒を飲み続けるようになり、夫に連れられてホスピタルを受診、入院しました。(28歳、アルコール症の主婦)
[娘に申し訳ないと思うばかりです]
18歳の娘に、「キューリを膣に突っ込んだ。私は人間じゃない。死んだ方が良い」と言われたときには、精神病になったのだと思いました。私の知らないところで、娘がテレクラと覚醒剤にはまっていたなんて、晴天の霹靂(へきれき)でした。さらにその前にレイプ事件があったこと、子供時代の性虐待、そんなことに気がつかなかった私は、何と愚かな母だったのだろう。娘に申し訳ないと思うばかりです。(PTSD+覚醒剤乱用+
摂食障害少女の母) [TOPへ]
[両親のものさし]
子供のころから、家族の話題は成績と学歴のことばかりでした。両親のものさしはただひとつ、学歴だけでした。父は公立の一流大学を出たことだけがとりえの公務員。母の言うなりでした。私が中学1年の時、最低でも90点は取ると約束させられたテスト、70点だったら、母は怒り狂って私を殴りました。泣きながら顔を洗っている私の後ろからなおも母が頭を殴り、足を蹴り上げました。成人した私が、そのことで母に抗議しても母は全く聞く耳を持ちません。姉と私と二人の摂食障害者がいるのに、父も母もまだわかろうとしません。カウンセラーにも平気で「姉の治療の時に家族教室には出た。昔のことを掘り返して家族を責めてどうなる。大体、娘たちは被害者意識が強すぎる。うちには虐待なんか無かった。私だって我慢してきた。私こそ被害者だ」と言うのです。
[ペットのニジマス]
小学1年生の時、釣堀経営者の家のお友達から生きたニジマスを2匹もらいました。キラキラ輝いてとてもきれいだったので、大きなたらいに入れてペットにしました。お友達との毎朝の挨拶は、「おはよう、ルピもハナも元気よ」。2匹に名前をつけたのです。ところが3日くらい後に、出張から帰ってきたパパがのぞきこんで、「うまそうだな」と言うんです。まさかとは思ったけど「絶対にゼッタイに食べないでね」とお願いしました。ママにも、学校に行く前と帰ってきてから念を押してお願いしました。ママは「大丈夫よ」と言いました。お友達と会う約束があって出かけました。夕方家に帰ってみると、食卓に塩焼きのニジマスがふたつ並んでいました。パパは「待っていてあげたよ」。私がワンワン泣いても、ママは「だってうちは貧乏だから仕方がないじゃない。いつまでも泣いてないで、ほら、食べなさい」。もちろん、私は一口も食べられませんでした。私のペットはその後も殺され、捨てられました。コウロギ、おたまじゃくし、・・・。モルモットは私の目の前で、父が握りつぶしました(モルモットのことは、最近思い出しました)。
自分も両親の言うことを聞かなかったら、役に立たないとか反抗的だとかいって殺されるかもしれない。両親は私の死体の枕元でこういうだろう。「だって、仕方がないじゃない」。―― 高校2年で家出をして、ボーイフレンドと同棲を始めるまで、ずっとそう思っていました。(摂食障害+自傷行為、21歳の女性) [TOPへ]
[MRI]
両親から頭を殴られた後遺症かもしれません。子供の頃から頭痛もちです。最近それがひどくなったので、MRI(磁気共鳴検査)を受けることになりました。検査のために寝かされて体を固定され、狭い穴のようなところに頭が入り、暗くなると、怖くて怖くて鳥肌が立ってきました。子供の頃、父親に車のトランクに閉じ込められたことを思い出したのです。パニックになり、「ごめんなさい。ごめんなさい。止めてください。許してください」と大声で泣き叫んでしまいました。とうとう検査はできませんでした。検査の人が、「あなただけじゃなく、たまに検査ができない人がいるから、気にしなくて良いのよ」と優しく言ってくださりました。ものすごく叱られるとばかり思っていたので、うれしくて涙が止まりませんでした。(25歳、身体的虐待被害者)
[幼児のマスターベイション]
3歳の娘は枕の角を局部に当てて体をゆする癖がありました。幼児のマスターベイションです。私は、娘の気を散らそうと呼びかけたり、それでも止めない時には、枕を取り上げたりしましたが、その度に夫から強く制止されました。「それは古い教育だ。幼児の手淫には何の害もない。自然な成長の証だ」というのです。夫は小学校教諭でした。育児書にも、夫の主張を支持するような記事が出ていました。でも、夫の場合は明らかに行き過ぎでした。夫は娘をペットのようにかわいがりいじりまわしていましたが、娘に「もっとやれ、もっとやれ」と性器いじりを奨励したのです。そればかりでなく、娘の股間に自分の足を入れて、局部を刺激し続けました。娘もそれを嫌がらず、きゃっきゃっと叫び声をあげながら喜んでいました。娘も父親が大好きでした。その遊びは娘が小学校高学年になるまで続きました。きっかけは分かりませんが、娘が中学生になったばかりのある日、突然、父親を毛嫌いするようになりました。父親ばかりでなく、男性を黴菌のように嫌い、手洗いを止められなくなりました。5歳年下の弟に何かと難癖をつけて泣くまで苛めるようになりました。やがて摂食障害(過食と嘔吐)が始まり、自傷行為、自殺未遂を繰り返すようになりました。児童精神科医から一連の症状には「父親の性虐待」が関係している、と言われました。
[私の心をはぎとってください]
バカは治らないのでしょうか。普通になりたいのです。普通よりちょっと下でも良い、最低近くでも良い、最低以下は嫌です。最低以下は人間ではありません。私は人間になりたい。人間に生まれたのだから、そうなりたいです。私のコロコロ変わるいらない心をはぎとってください。普通の人並みの心をください。だれも私の病気は理解できないと思います。私はバカだから、バカでもわかるヒントをください。努力をしますから、お願いです。 (18歳、解離性精神障害の少女の手記) [TOPへ]
[性虐待と自傷行為]
母が再婚して、半年もしないうちに、義父からの性虐待が始まりました。母がパートに出かけている昼間、不登校で引きこもっている私の部屋に義父がニヤニヤしながら入ってきて、黙って体に触り始めます。私は恐怖で頭がボーとして、体が硬直して、声も出なくなります。義父は、「不感症はかわいそうだなあ」とか「治してやらなきゃなあ」とか言いながら、胸や下腹部を触り、指を入れてきます。義父は立たないのです。義父の虐待は私の自傷行為がひどくなって、両腕と左足と乳房が傷だらけになるまで、1年半続きました。義父の目の前で自傷をするようになって、やっと解放されました。(18歳、女性)
[私だって化物かもしれません]
カミソリで手首を切って、自分にも赤い血が流れているのを確認するとほっとします。人って、見かけだけでは分からない。二番目のお父さんだって、一緒に住み始めて半年位は優しくてすてきな男性に見えたもの。それから2年間、お父さんは中学生の私の体をおもちゃにしました。お母さんが言うように、黙っていた私がいけないのです。あんなことを許した私だって、人間の皮をかぶった化物かもしれません。どうして外見だけから人間だと言えるでしょう。知らないうちに緑色の血に変わっているかもしれないでしょう。 (17歳、自傷行為+解離性精神障害) [TOPへ]
[全部消えて終われ]
この地球は終わってほしい。くそったれ! 全部死ぬんだ。幸せなやつも、笑ってるやつも、孤独なやつも、泣いてるやつも。今そこを歩いてやがるおまえも全部消えて終われ! (17歳、性虐待暴力被害者、非行+自傷行為+いじめの加害者、女性)
[両親のけんか、自傷行為]
父親は、強迫神経症でアルコール症でした。私は父から母への暴力を見ながら成長しました。幼稚園の頃から、両親のけんかに割って入り、母を救い出すのを生きがいにしていました。なぜか父は、私には暴力は振るいませんでした。ただ、「誰が食わしてやっているんだ」というような暴言はいつも聞いていましたし、包丁を持った父に脅されることもしばしばありました。高校2年の時、激しい自傷行為が始まり、大学に入ると、アルコール乱用が始まり、服薬自殺未遂で、救急車で運ばれることが多くなりました。 (20代女性)
[祖父の溺愛]
祖父は私を溺愛していました。私が赤ちゃんの頃からオムツも変えてくれたし、お風呂にも入れてくれました。でもそれは私が小学生になっても続きました。中学生になってやっとお風呂からは解放されたけれど、実はその後も異常な関係が続きました。祖父は地方の名士で親族の敬愛を集める人格者でした。その上、長期にわたって腸癌と闘っていました。その一方で祖父は、私の体の成長に興味を持ち、両親の目を盗んで、私の成長振りをチェックし、胸や性器を撫で回しました。変だとは思ったけれど、こころ優しい私にはそれが言い出せませんでした。私は祖父を愛していました。高校一年の時、海外に留学することでやっとこの家から逃げ出すことができました。その直前から拒食症が始まり、留学先で過呼吸発作が頻発するようになって、半年で呼び戻されました。祖父は大喜びでしたが、私は過食嘔吐と自傷行為を繰り返して、精神病院に逃げ込みました。何度目かの入院で、ホスピタルにたどり着き、同じような体験を持つ多くの仲間と会って、やっとこのことを話すことができました。
[体の痛み、心の痛み]
幼児期から思春期まで父の暴言と暴力にさらされていました。15年前、父にボコボコに殴られた時の体中の痛みが突然出てきたりします。でも体の痛みよりつらいのは心の痛みです。
父の暴力の第一の被害者は2歳年上の兄でした。その兄は18歳で自殺しました。私には優しい兄でした。兄の笑顔を思い出そうとしても思い出せません。両手を上にして、父から殴られるのを避けている兄の姿しか思い浮かびません。
私は何とか生き延びましたが、情緒不安定とうつのために今も精神科に通院しています。 (29歳女性)
[雪の日のフラッシュバック]
小学校、1年か2年頃だったと思います。父に殴られ、裸にされて戸外に放り出されました。真っ白な雪に鼻血がぽたぽたと落ちて染み込んでゆきました。ホスピタルに入院して7日目、降り積もった雪を見ていたら、そのことを思い出して、それからすぐに意識がなくなりました。(23歳、女性、約2時間の意識消失発作から覚めた後の発言、解離性同一性障害)
[性虐待の予感?]
父は短気で暴力的でしたが、私に対する直接的な身体的、性的虐待はありませんでした。母は台所で過食と嘔吐をしていました。夫婦仲が悪くて、父から母への暴力がありました。母が泣きながら、父から殴られてむりやりセックスさせられたと言って、真夜中に私の部屋に逃げてくることがありました。私が中学生頃のことです。また、同じ頃、父が子供のヌード写真を収集していることを知りました。高校2年のある日、父が私のパンティを抱えて寝ていることに気づきました。高卒後、私は、自宅からは遠く離れた大学に入学し、家を出ることに成功しました。この生育歴と自分の男性恐怖とは関係があると思っていたけど、ミーティングでよく似た話を仲間から聞くまで、自分の薬物嗜癖に関係付けて考えたことはありませんでした。(32歳、女性、市販薬乱用)
[アイボになりたい]
心を捨てたいのです。ロボットでいいんです。心があるから悲しい。この苦しさから逃れられるならどうなってもよい。楽しいこともいらない。感じなくなりたい。アイボになりたい。充電式はイヤ。太陽電池式もイヤ。何度も生き返るなんてつらすぎる。アルカリ電池は寿命が長すぎる。ただの電池式がいい。短い命が尽きてコトッと止まって、それでおしまい。何にも感じない世界。それが私の願い。
(17歳、性虐待被害者、解離性精神障害の少女) [TOPへ]
[母に吃音をからかわれました]
父にはひどい吃音があります。母はひそかにそれを軽蔑していました。私にも少しだけ吃りがありました。小学時代、母と姉に「お前も大きくなるとお父さんのようになるよ」とからかわれました。私がひきこもりになったのはそのためです。今では私の吃音恐怖にほとんど誰も気づきませんが、吃音のことを指摘されるのは今でも人前で裸になるより恥ずかしいです。
[トラウマの否認]
赤城高原ホスピタルに入院する前、そして入院して2週間は、自分には虐待なんか関係ない、自分はただ食べて吐くだけ、そしてお酒をがぶ飲みするだけ、トラウマなんかない、と思っていました。入院3週目に、ミーティングで仲間が「男女の話し合いの声を遠くに聞くと、すぐに聞き耳をたててしまいます。内容がわからないと不安でたまらなくなります。両親のいがみあいに身の細る思いをしていた子供時代のトラウマの後遺症です」というのを聞いて、涙が止まらなくなりました。私の体験とピッタリ重なったからです。仲間が私の体験に言葉を与えてくれました。それからの私は悲しい体験が次々と思い出されて、泣いてばかりいます。仲間が「トラウマの否認」という言葉を教えてくれました。(19歳、過食症+自傷行為の女性)
[性虐待とレズビアン]
14歳から16歳まで義父の性虐待を受けてから、私は不感症になりました。また男性を不潔に感じ、レズビアンに興味を持つようになりました。今はあるかどうか知りませんが、「ビアン」とかいうレズビアン専門のウェブサイトで私より2歳年下(16歳)の女性と知り合いました。その娘に、義父からされたことをそっくりやり返しました。膣に指を入れてこね回すのです。私がタチでその娘がネコです。その娘は実父からの性虐待被害者で自傷癖がありました。私の性器には触らせない代わりにその娘の好きなように、私の体に傷をつけさせました。そういう時、私はほとんど痛みを感じません。2ヵ月の間に、私の体はカミソリやナイフで傷だらけになり、ホスピタルに入院することになりました。(18歳、女性)
[感情を持つ恐怖]
感情を持ってはいけない、感情を出してはいけない、私は殴られ、餌食にされるべき存在なのだから、と思って生きてきました。感情を持つのはつらすぎるのです。感情が出そうになると自分の手を切って感情を押し殺してきました。ところが最近になって、自分の体が感情を出し始めました。ホスピタルの治療のためかもしれません。感情の表出に伴って、これまでに経験のない恐怖感、うつ、虚無感、離人感、絶望感が襲ってきます。健康な人は、理解ができないと言います。そうかもしれません。周りの人が私を受け入れてくれるはずがない。私自身が大嫌いな私を、と思うと、恐怖で頭がぼうっとしてきます。思わず自分の首を自分で締め上げてしまいました。(20代後半、性虐待と身体的虐待サバイバー、女性)
[10年かかりました]
中学1年の時、夜中に突然大暴れをして、以来5年間、断続的に自室に閉じこもりました。その間、私は精神病院や総合病院精神科などを転々としていました。短期間ですが数回入院もしました。私の診断名は、不登校、行為障害、非定型精神病、境界例、精神分裂病(統合失調症)。 軽度の過食嘔吐や自傷行為、自殺未遂もありました。児童精神科にもかかりましたが、私は誰にも本心を打ち明けませんでした。私自身が自分の心に蓋をしていたのです。
18歳の時、虐待の本を読んでいて、突然記憶が頭の中に溢れ出しました。私も4歳から12歳まで父から性虐待を受けていたのです。
それから腕に熱湯をかけたり、車道に飛び出したりの自傷行為、自殺行為がひどくなりました。その時私を治療していた精神科医が何を考えたのか、リタリンを処方して、たちまちのうちにその依存になりました。1日10錠飲んでいました。
でも薬物乱用がひどくなったおかげで私は嗜癖ネットワークにつながりました。その中で、ようやく私は性虐待被害の体験を治療者や仲間に話すことができました。精神科医療に関わって10年かかったことになります。4年治療して、まだフラッシュバックと睡眠障害、うつ状態に悩まされています。(26歳、性虐待被害者+解離性精神障害) [TOPへ]
[血を取って!]
出血した分だけ、私の中のお父さんの血が減るでしょう。お母さんの血も減るでしょう。だから、血を取って! お願い。両親の血が流れているのが嫌なの。だけどそんなこと両親に言えないでしょう。誰からも尊敬されている理想的な両親の自慢の娘なのに。私が悪いの。私がいたから、お父さんが変な気を起こしたんだもの。私がもっと賢かったらこんなことにならなかった。最初からきっぱり断るべきだった。私のおかげで家族はバラバラ。体中にハリを刺してほしい。(18歳、解離性精神障害の少女)
[私の父は変人です]
私の父は変人です。酒乱です。頑固です。早く死ね。私にあんなことしておいて、それでよく私に話しかけられるね。死ね早く。(18歳、摂食障害の女性)
[優しすぎる私]
幼児期から中学時代まで、実父に性器をいじられていました。高校時代から援助交際と酒と薬にはまってしまい、自傷行為と自殺未遂でぼろぼろになりました。すべて性虐待と関係があると精神科医に言われ、自分でもそのとおりだと思うけど、「どうして?」と言われるけれど、父に対して本気で怒れません。定年退職して、淋しそうにしている父に優しい言葉をかけてしまいます。そして、その後、そんなことをする自分を責めて、自傷してしまいます。(26歳、摂食障害+物質依存症、女性)
[首吊り未遂の幼稚園生]
幼稚園時代から、嫌がる母をレイプする酔った父の姿を見て育ちました。姉の記憶では、私には幼稚園時代から首吊り未遂があります。私は小学校以前の記憶がありません。他に実父から私に対する直接的な性虐待もありました。こちらの方は、夫の浮気をきっかけに思い出して、パニックになり、自殺未遂をして、ホスピタルに入院になりました。(30歳、摂食障害+解離性精神障害+境界性人格障害、女性)
[私はいけない子? 汚くない?]
30代前半の解離性同一性障害の患者さんが入院しています。時々5歳の幼児になります。「初めは、私は怖かったの。でも後では自分でパンツを脱いだの。まなちゃんはいけない子?
汚くない?」と幼児言葉でたどたどしく言うのを聞くと、悲しくて涙が出てきます。(20代、女性ナースの発言)
[虐待の訳]
物心がついた頃には父のマスターベイションの手伝いをさせられていました。小学校に上がったら父に「かわいい、かわいい」と言われるのがうれしくて、自分から積極的にフェラをしていました。3歳になった私自身の長男のおちんちんを見ていたら、急にそのことを思い出して、寒気がしてきました。子供を虐待するようになって、ホスピタルを受診しました。男の子をどう育てたら良いのか、わかりません。自信がありません。(25歳、PTSD、女性) [TOPへ]
[冷たい家庭、母のリベンジ]
父と祖母は、私に母の悪口ばかり言っていました。私が悪いことをすると、母の教育が悪いと愚痴を言いました。母は口答えもせず、表面的には、そんな夫と姑に仕える良い嫁を演じていました。でも私は知っています。母が、誰にも見えないように、台所で父と姑の食事に唾を吐きつけ、混ぜ込んでいたのを。(中学時代から不登校、家庭内暴力、摂食障害の19歳少女)
[父に殴られ、部屋の隅までぶっ飛びました]
父はスポーツ万能、大柄、筋肉質です。私が小学校3年生の時、父に「運動会のかけっこはどうだった」と聞かれ、「別に」と答えたところ、父が飛んできて、私の頬を平手で殴りつけました。私の体は部屋の隅までぶっ飛びました。父の暴力は私が高校を卒業するまで続きました。25歳の今でも、周りの人に「あなたの脅え方は異常よ」と言われます。自分では気づかないのですが、大きな物音、男性の大声で、体が自然に防御姿勢になるのです。(PTSDの女性)
[もしもあいつがいやらしいことをしたら]
母の再婚相手は、断続的に覚せい剤を使っていたようです。今から考えると、義父は覚せい剤を使った時には性的に興奮し、また乱暴になるようでした。私が中学2年から3年にかけて、義父にレイプされました。母の留守を狙ったのです。母は気づいていたはずなのに、「もしもあいつが、いやらしいことをしたら言いなさい。わたしがあいつを殺すから」と言いました。彼と別れる気はないという意味だと思いました。どうして母を殺人者にすることができるでしょう。それに母の方が殺されるかもしれません。私は中学を卒業するとすぐに非行グループに入り、数ヵ月後に家出しました。(18歳、女性)
[ブラジャーをつけたまま寝ていました]
父から思春期の性的成長をからかうようなことを言われたり、一緒にお風呂に入ろうとしつこく誘われたりしました。父からの性的関心が恥ずかしくて、怖くて、自宅では身を縮めるようにしていました。猫背になったのはそのためかもしれません。時々ベッドを覗きにくる父の視線が怖くて、ブラジャーをつけたまま寝ていました。親しい同性の友人同士でも、下ネタ話が出ると、どうしようもなく恥ずかしくてフリーズしてしまいます。悪意ではないと分かっていても、そういう友人は避けてしまいます。(摂食障害、対人恐怖症、27歳、女性)
[あしたが怖い。そのさきもずっと怖い]
早く死にたい。あいつの記憶が私を苦しめる。この苦しみを誰もわかってくれない。私はいつもさみしくて、疲れている。死んで楽になりたい。あしたが怖い。そのさきもずっと怖い。舌をかみ切って死にたい。やりそうになった。(17歳、性虐待被害者、摂食障害+自傷行為の女性) [TOPへ]
[お願いだから一人で死んで]
アルコール症の父は、母に愛想を尽かされて、私に愚痴を言い続けました。挙句の果てに、16歳の私に「一緒に死んでくれ」というのです。「もうたくさん。お願いだから一人で死んで」と言いおいて、私は学校に出かけました。学校から帰って玄関を開けると、間口の梁に紐をかけて、父が首をつっていました。遺書はありませんでした。誰も私を責めないけれど、私は自分自身を許せません。拒食症が始まりました。
院長は、親から子供に対する最悪の虐待だ、とおっしゃるけれど、看護婦さん方が、涙を流し、私のために祈ってくださったけど、私は救われません。あの日以来、私の人生は変りました。取り返しがつきません。こんな人生にどんな意味があるの。本当に神様がおられたら、どうしてこんなことが起こるの。(22歳、160cm、30kgの女性) [TOPへ]
[母が私の頭から灯油をかけました]
父がアルコール症、母がうつ病でした。私が10歳のとき、母が「一緒に死んでちょうだい」といって、私の頭から灯油をかけました。父が母を殴り倒したので助かりました。(26歳、摂食障害+PTSD+境界性人格障害、女性)
[喊黙症の背景]
父はとても短気な乱暴者で、覚せい剤関連の犯罪、傷害などで4、5回は刑務所に入ったことがあります。機嫌が悪いときには、子供に対しても手加減なく殴りつけました。母は何度も骨折したことがあります。私は19歳。やっと家から逃げ出せました。でも男性の怒った声や大声を聞くと、その日1日は気分が悪くなります。周囲が不気味な空間になり、自分の感覚が鈍くなるのです。時には声が出なくなります。(摂食障害+喊黙症)
[子供の癖に]
よちよち歩きの頃から、父のマスターベイションの手伝いをしていました。8歳頃には挿入を含むセックスをして、父を喜ばせることができました。母は父の虐待を止めるのでなく、「子供の癖にませた女だ」と嫌味を言いました。(アルコール薬物乱用+解離性障害、自殺未遂5回、25歳女性)
[嫁姑]
私の小学時代、母は姑と一緒にいる時間を少なくするただそれだけのためにパートに出かけ、長女の私に祖母の相手をさせて、遅くまで帰ってきませんでした。祖母はチョー意地悪女で、私が母の悪口をいっぱい言うまで夕食をさせてくれませんでした。(35歳女性、うつ+アルコール依存症、20回以上の自殺未遂)
[お母さんも?]
小学校4年でした。祖父の家に遊びに行った時、なんか変な気がして真夜中に目が覚めたら、祖父が布団の中で私の下半身に触っていました。びっくりして叫びそうになったら、突然口を塞がれました。性器に指を入れられましたが怖くて身動きができませんでした。祖父は「絶対に誰にも言うんじゃない」と言って出てゆきました。1回じゃなく数回はあったはずです。でもはっきりとは思い出せません。中学1年の時、母に話しました。母はいかにも「聞きたくない」というように首を左右に振りました。私が「信じないの?」と聞いたら、「わかっている。もう2度と田舎に行くのじゃない」と短く吐き捨てるように言いました。「もしかしたら、お母さんも?」「・・・・・」。母は黙って行ってしまいました。(22歳女性、アルコール乱用+自殺未遂+自傷行為)
[心中旅行に出かけました]
両親が不仲で、父から母への暴力がありました。父は酒とギャンブルと女性問題、母は情緒不安定で家出の癖がありました。私が小学6年の時、母が家出して、3ヵ月間行方不明になりました。
父から何度も「俺はお前たちを置き去りにはしない。一緒に死のう」と言われました。そして実際に父が私と小学3年の妹を連れて、温泉旅行に出かけました。自殺するはずでした。車で湖の周りを走ったけれど、飛び込まずに家に帰ってきました。怖かったけれど、子供心にも、こんな人生なら死んだ方が楽だとも思っていました。
今から考えると、家出した母からたまに学校の私に連絡があったので、父が親子心中をすると言って、母を引き戻そうという作戦だったのだと思います。その時にも、母が1度だけ学校に来ました。父の親子心中旅行の計画を話しても、母は「今日、お母さんに会ったことを誰にも言うのじゃないよ」とだけ言い残して行ってしまいました。(20歳、パニック障害の男性、妹は摂食障害+自傷行為) [TOPへ]
[ポルノ依存症]
祖父も父もポルノグラフィー依存症でした。家の中にはポルノ雑誌やポルノビデオがあふれていました。小学校、中学校時代から、父親のマスターベイション姿や、父親が下着なしで寝ていて、ペニスが勃起してる姿を見たりしました。高校生の頃は、母との性生活の愚痴を父から聞かされました。(摂食障害+自傷行為+自殺未遂+盗癖、20歳女性)
[あの男を一生社会に出さないでください]
私が小学生ころから時々父が、「隣の家の男は警察のスパイだ。盗聴器を仕掛けやがった」などと言って家中の天井板をはがしたり、ドアの隙間に目張りをしたりしていました。私が中学1年の時、母の留守に父が私の部屋にやってきて、「ここがいちばん安全だ」と言いながら風邪で寝ていた私のベッドにもぐりこみました。すぐに父の手が私の胸や下腹部に伸びてきてあのおぞましい行為が始まりました。その後両親は離婚しましたが、性虐待についてはまだ誰にも話せません。今になって考えると、父は覚せい剤を使っていたのです。ホスピタルのHPを見て確信しました。父はその後何度か刑務所に入りました。今も入っているはずです。あの男を一生社会に出さないでください。出したらきっと私と同じような被害者を作ります。(24歳、女性)
[理想の娘?]
私は近所でも評判の「良い子」でした。酔った父の介抱、いつも悲しそうにしている母のカウンセラー、幼い弟妹の養育を一人でしていました。学校の成績も良くて、両親の自慢の種、「理想の娘」でした。
小学5年の時、父がアルコール専門病院を受診しました。母が私のことを自慢してカウンセラーに話しました。「この子は、とても優しくてよく気がつく良い子なんです。父親が酔ってふらつく時には、トイレに連れて行って、おちんちんを支えて、周りにこぼさないように気をつけながらおしっこさせるんですよ」<えっ、何ですって? ・・・。 それはいつごろからですか?>「小学3年ごろからです」。
私は、酔って卑猥な冗談を言う父親をなだめて、おしっこさせることを自分の仕事だと思い、誇りにしていました。両親も私も、それが虐待だとは、知りませんでした。
[ドアを開ける音]
ホスピタルに入院して1週間、看護スタッフが夜間の見回りに来る足音で落ち着かなくなり、ドアを開ける音で体が縮み上がってしまいます。そういえば私は、昔からドアを開ける音に脅えていました。院長に言われてその原因を考えてみました。
子供の頃、両親が喧嘩をする物音がしてしばらくすると、母が泣きながら私の部屋にやってきて、寝ている私を起こしてぐちを言っていました。私は、両親の怒鳴り声を聞きながら、お願いだから来ないでほしい、今日は休ませてほしいと思いながら寝ていました。
ドアの音が怖いのには、もうひとつ理由があります。アルコール症の父は、酔うと足音を忍ばせて階段を上ってきて、私の部屋のドアをパッと開ける癖がありました。そして、「○○はどこにある?」というようなどうでもいいことを聞くのが常でした。これは私が中学校を卒業するまで続きました。逆らって怒らせると大変なので、じっと我慢していました。(18歳、摂食障害)
[ヌード写真]
父は、アマチュア写真家でした。よく私を素っ裸にして、写真をとりました。私が嫌がらないからか、それは私が思春期になっても続きました。最終的に私が高校2年になった時、やっと「もう、やりたくない」と言うことができました。
高校3年の時、私は子供時代の全ての写真とアルバムを焼き捨てて、家出しました。以来4年間、売春をして生きてきました。5年後にアルコール症のため、実家に帰ってきました。私自身が、このヌード写真のことに傷ついていたんだと気づいたのは26歳の頃、それをカウンセラーに話せたのは27歳の時、両親に話せたのはさらに1年後でした。
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[期待は裏切られ、不安は的中しました]
4歳のとき、母親が刑務所に入り、以後母とは生き別れになりました。数年後に出所したはずですが、行方不明です。父の従兄弟の家庭の養子になり思春期までをそこで過ごしました。父も出稼ぎに出たまま、行方不明になりました。
14歳のとき、実父が出現しました。10年ぶりに再会した実父と継母のもとに引き取られました。期待は裏切られ、不安は的中しました。実父から服を脱がされ体を撫で回されました。1年後に家出するまで続きました。18歳以来20年間、精神病院を出たり入ったりの人生です。(38歳女性;アルコール・薬物依存症+摂食障害+自傷行為+自殺未遂)
[うちもそうよ]
小学校3年頃です。雨上がりの日にお友達と泥あそびをして帰ったら、母からすごく叱られました。すぐにお風呂に直行してホースの水を頭から浴びせられ、ごしごし洗われました。「お母さん、ごめんなさい。もうしませんから」と何度も何度も謝りましたが、許してくれません。最後には、頭を湯船の中に押し付けられ、失神しました。
翌日、お友達に、「面白かったね。おうちに帰ったらお母さんが大笑い。よっちゃんとこは?」と聞かれ、「うちもそうよ」と言ってしまいました。(25歳主婦;子供時代の回想、受診時の主訴は幼児虐待加害者。いらいらして2歳の男児をたたいてしまう、とのこと)
[今でも私は閉所恐怖です]
私が小さいころ、母はよくトイレに私を閉じ込めました。おかげで、23歳の今でも私は閉所恐怖です。とくに個室が苦手です。人気のない所では、ドアを開けていないと、お風呂にもトイレにも入れません。閉じ込められたら、襲われたら、どうやって逃げるか、いつも考えてしまいます。いつもどこに安全そうなトイレがあるかを覚えておいて、外出するときにはそれを思い出して確認してからでないと出かけられません。
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[親代わり]
父親が、愛人宅に外泊ばかりし、私が小学校にあがる前に両親は離婚しました。その頃から、母子家庭の私たちに何かと目をかけてくれていた男性がいました。離婚歴のある当時40代前半の男性でした。今から考えると、母と男女の関係があったのかもしれません。私が高校2年の時、母とケンカした私がその男性の自宅へ逃げて行った時、ポルノビデオを見せられました。「性教育」だと言っていました。お茶を出されたんだけど、中身はお酒でした。体を触られただけで何とか逃げ出しましたが、親代りに思っていた男性だったので、とてもショックでした。それ以来、ずっと男性恐怖症です。売春は、男性恐怖症の自己治療だったのだと思います。(27歳、摂食障害+アルコール乱用の女性)
[母の性的トラウマ]
私自身には、はっきりとした虐待被害体験はありませんが、アルコール症と摂食障害の治療を始めて7年以上も経った今になって、母親に性虐待のトラウマがあったこと、そしてそれが私の発病に関係があることが分かりました。
母親は小学校低学年の時、近所の高校生にひどい仕打ちを受けました。暗い納屋に連れ込まれ、パンツを脱がされ性器をいじられたのです。母によると、その後も、いじめ、セクハラ、ストーカーなど、次から次に、なぜ私だけこんな目に会うのだろうと思うほど、性的にいろいろな嫌な体験をしました。そしてそれでも結婚しましたが、女の子を育てる自信がなくて、妊娠を避けていました。女の子の私が生まれたとき、母は失望で愕然としたということです。母は、男の子のように私の髪を刈り上げ、男の子の服を着せました。一方で私の友人関係には極端に厳しくて、男の子と口を利くことさえ許されませんでした。
私は、まさに親のその教育方針に反発して、非行グループに入ったのです。シンナーはそんな私の悩みを忘れさせてくれました。そして家出、水商売、アルコールと覚せい剤、売春と私の人生はとどまるところを知らず落ちてゆきました。
母がカウンセリングを受けるようになって5年、私を責めるばかりだった母が初めて私に謝ってくれました。
[パチンコ依存]
両親が離婚しました。母が入退院を繰返しているアルコール症だったので、3人の娘は父親に引き取られました。長女の私は15歳から働きに出て、家計を支えました。でもそのお金は、ほとんどが父のパチンコ代になってしまいました。父はギャンブル依存症だったのです。妹二人は小学生でした。父は子供たちを残して3、4日家を空けることがありました。一見して、垢だらけ、栄養失調の二人を見かねた給食のおばさんが休んだ子のパンを分け与えました。近所の人も二人に食べ物や小銭を与えました。ある日、父は二人の娘を並べて立たせ、ジャンプするように言いました。飛び上がった子供のポケットから小銭がチャリンとこぼれ落ちました。父はそれを取り上げてパチンコに行きました。
[家庭内では、父の言葉は絶対でした]
父は小学校の校長でした。家庭内では、父の言葉は絶対でした。父は病的なけちでした。父はそれを「倹約」と称し、家族に強要しました。信じられないでしょうが、私の家では、トイレットペイパーの使用量が決められていました。大便が50cm、女子の小用が20cmです。私が年頃になって初潮を迎えると、生理の時は、大便なみの使用量が許可されました。でも、生理中であるという印のシールをトイレに貼っておくことになっていました。
ある日、父は宴会帰りの新任の先生を家に呼び、二次会を始めました。母と私を酒席に呼び、お説教を始めました。やっと解放されて、ほっとしていたら、今度は、酔って大声で部下に自慢話をし始め、倹約のしつけと指導が成功した例として、わが家のトイレの秘密の印を若い男性教師たちに教えてしまいました。ちょうどその日私は、生理中でした。この異常なケチぶりを公表するだけでも恥なのに、父は、高校1年の娘が現在生理中であることを初対面の男性に教えたのです。新任の教師たちは、どんな思いでトイレのそのシールを眺めたことでしょう。それがいかに理不尽なことであるか、決して父には分からないでしょう。この奇人変人校長が在職中に、部下の教師や生徒をどんなに苦しめたか、それを考えると申し訳なく思います。しかし家族は家族で、もっと苦しんでいたのです。私は高校卒業後、すぐに家出をしました。以来8年間、1度も家には帰っていません。
[ここであったことは忘れようね]
なぜ母は8歳の無防備な私をあんなチンピラカップルに預けたのでしょう。私が彼らの家やホテルでどんな目にあうのか考えなかったのでしょうか? 私はそこで大人のセックスにお付き合いさせられ、レイプされました。話したら殺すと脅されました。私にとっては拷問の体験を数回経て、私はその苦痛を逃れる術を会得しました。
いつものように女が私の服を脱がしました。すぐに私は自分の体から離れ、空中に浮かびました。男が乱暴に少女の体を突き刺します。横たわっている少女の股間から赤い染みがシーツに広がっていきました。空中にいる私に痛みはありません。横たわっている少女も目を開けたまま気を失っているようです。女の子の目は死んだ魚のようでした。空中にいる私の目も濁ってきて良く見えません。私は少女に言いました。「あと30分したら、ここから逃れられる。ママに会える。ここであったことは忘れようね」。(解離性同一性障害、29歳女性)
[4年前に来たかった]
長女は中学時代から既に過食嘔吐にはまっていました。17歳の時、どこからか赤城高原ホスピタルの名前を聞いてきて、ここに入院したいと私(母)に言いました。でもアル中の父からの性虐待というおぞましい話を家の外に持ち出すのが怖くて、長女の要求を無視しました。4年後、アルコール乱用、薬物依存、売春、自傷行為、自殺未遂でボロボロになって、瀕死状態の娘をホスピタルに連れてくることになりました。「4年前に来たかった」と言って泣く娘を見ると、胸をかきむしられる想いです。私の勇気が足りなかったのです。かわいそうなことをしました。(性虐待被害少女の母) [TOPへ]
[永遠の眠りをください]
あなたの優しさ、あなたのぬくもり、全てを忘れてしまいたい。
どうして私を愛したの? どうして私じゃなくちゃいけなかったの?
たまたま家族の一員になったから?
お父さんて、娘の成長に関心を持つものだ、と言ったでしょう?
あなたが言った「愛している」の意味が分からなかった。
でも、あなたがとても怖かった。
毎夜、あなたの気配と足音に怯えていた私。
いっそ殺して欲しかった。
怯えて逃げてきた家、つきまとう影、
大きな荷物を背負ってどこまで行けばいいの?
もう疲れたの。お願い。私に永遠の眠りをください。
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● おわりに [感謝と祈り]
上記の体験談は私が直接治療に関わった方からいただいた手記や日記、聴取した面接記録や記憶を元にしています。ただし、プライバシー保護のために設定を変えたり、書き直したりしてあります。とても極端な例ばかりを取り上げていると思われるかもしれませんが、そうではありません。
特に身体的暴力や性的虐待に関しては、もっとひどいケースがあります。これらの虐待の記憶が正確に患者の述べる通りであるかどうか、それには、疑問を持つ臨床医もいます。私は、大部分は真実であると思いますし、他の証拠(他者の証言や医療記録など)から虐待の事実が証明される事や、非常に稀ですが、加害者が事実を認めることすらあります。
一方で、このような被虐待の記憶の全てを呼び起こすことが治療上不可欠かと言うと、そうでもないと思います。患者に無理強いして記憶を発掘することはむしろ有害な事が多いでしょう。
極端な虐待の事例を聞いていると、治療者の方が情緒不安定になります。これは、代理受傷、間接的トラウマ、外傷性逆転移などと言われるものです。時には、怒りでペンを持つ手が震えて字が書けなくなります。涙で字が見えなくなります。面接中に気分が悪くなったり、不眠になったり、悪夢を見たり、疲れ果てたりします。そういう状態が何日も続くことがあります。私にもそういう経験が何度かありました。
治療者が軽度の解離現象を経験することもあります。治療者自身が未解決の外傷体験を持っていたり、解離傾向のある人だったりすると危険です。
被虐待者の治療は困難で、治療者にとっては苦労の多い過程ですが、一方で、こういう虐待を受けた方々が、生き残り、生き抜き、回復してゆかれるのを少しでも援助でき、共に喜ぶことができる私たちは幸せだと思います。
このページの記事の材料を提供してくださった方々に感謝し、それらの方々と、そして似たような体験をされた多くのビジターの方々の回復と幸せをお祈り申し上げます。
● 「自分が虐待を受けた(かもしれない)」と思われる方、ひとりで悩まずに、信頼できる治療者か仲間と話されると良いと思います。
● ご連絡はこちらへどうぞ ⇒
● または、昼間の時間帯に、当院PSW(精神科ソーシャルワーカー)にお電話してください
⇒ TEL:0279-56-8148
文責:竹村道夫(初版:1999/9)