施設長の独り言
第16話 ベトナム旅日記
今、私は旧南ベトナム大統領官邸にいる。外見は普通の建物であるが、内部は要塞である。厚さ1メートルのコンクリートに囲まれた無線室や作戦司令部、屋上にはヘリポートがある。ここは、30年前の1975年、北ベトナム軍戦車が官邸正門の鉄製門扉を押し倒しながら官邸敷地に行進してきた場所だ。当時、物量において質においても世界第1位の軍事大国であるアメリカを打ち負かしたベトナムに、各国や各国民は拍手喝采であった。それはそうだ。人の家に土足で入り込んで来て(当初、ベトナムはフランスの植民地で、そのフランスがビエンフーの戦いで敗れてからアメリカが乗り込んできた歴史がある。)、片っ端から破壊するのだ。ここに言うアメリカとの戦争以後のベトナムとは、南ベトナム民族解放戦線であって、決して北ベトナムではない。しかしながら、ベトナム戦争末期のベトナム軍主力は北ベトナム正規軍であって、残念ながら南ベトナム民族解放戦線ではない。官邸に乗り込んだ戦車は、運転手もその所有も北ベトナム正規軍所属にもかかわらず、北ベトナム政府はこのことを決して認めようとしなかった。戦争勝利後こそ、北ベトナム政府は南ベトナム民族解放戦線側要人を厚遇したが、その後この要人達は引退したり亡命したりで、南ベトナム民族解放戦線は消滅(消滅ではなく、北ベトナム共産党との歴史的合同と言う人もいるが、私は消滅だと思う。)し、北ベトナム共産党の一党独裁のベトナム政府になる。
戦争終了後のベトナムは、超大国アメリカに勝利した優越感のあまり帝国主義的言動を見せることになる。戦争時の有力な援助国であった中国との戦争、さらにはカンボジアへの侵攻。そして難民の大量不法出国(ボートピープルと呼ばれる。この出国に関しては、近隣諸国が、出国を取り締まるようベトナム政府に要請したにもかかわらず見て見ぬ振りをした)。ベトナムの帝国主義的主張に関し、世界各国は経済制裁で望むことになり、のっぴきならぬ経済状況になりついにドイモイ政策を導入したのが20年前で、その後アメリカとも平和条約を締結し、経済制裁も解除され飛躍的な経済発展を遂げ今に至る。アメリカと平和条約を締結したとはいえ、ベトナム政府はアメリカの残虐非道な戦争介入を決して許していない。旧大統領官邸にも近い戦争証跡博物館を訪れてみると、そのことが良く分かる。ベトナムの地と民を戦争兵器の実験場としたことをこれでもかと見せつける。枯葉剤の影響と思われるホルマリン漬けの惨い赤ちゃんの標本も展示されている。「虎の檻」と呼ばれる南ベトナム政府やアメリカ軍に抵抗する者達の収容所後がこの博物館には展示されている。何故「虎の檻」なのか。2階に上がってみるとその理由が分かる。天井部分に鉄棒が天井一杯に檻のように付けられているので、2階から見るとまさに虎が入っている檻に見えるのだ。
ベトナムといえば、アオザイである。しかし、アオザイは、ホテルやレストランの女性達そして高校生や中学生の制服に見られるのみである。ホテルによっては洋服を着ている場合もある。街を我が物顔に行き来しているバイクの乗人はジーパンにTシャツのいでたちである。アメリカナイズされた輩が多い。アオザイは結婚式でという女性が多いという。結婚式には着物を着たいという日本人と同じである。妻は旅行前からアオザイを作ると意気込んでいて(暑いベトナムなんか嫌だ、と当初は言っていた。)、やはりアオザイショップで、あーでもないこーでもないと言いながらお気に入りのアオザイを作った。店員にホテルまで届けてもらってそれを着ると、もう一着作るんだった、とほざいた。勝手にしてくれ。この店員は、ホーチミンのずーっと北のダナンという町の出身で5人兄弟でダナンでは働く所がないのでホーチミンに出稼ぎに来て、今は友人とアパートで一緒に暮らしながら、後3年位働いてお金を貯めダナンに帰り自分の店を持つのが夢だという。私はチップを10000ドン(日本円で100円)、妻の代わりに渡した。
街にはとにかくバイクが多い。百聞は一見に如かず。ホーチミンには近隣の町や村からたくさんの人が押しかけ人口が急増し、鉄道などの公共機関がないため、更には暑く歩く人が少ないために勢いバイクが便利な交通機関と相成った。道を横断するにも横断歩道や信号がないので、私達は必死である。妻など「もう嫌。どこにも出かけたくない」とむくれる始末。
ホーチミン最大の繁華街であるドンコイ通り(ドンコイとは蜂起という意味)は、用のないバイクや車は通行禁止、物売りや呼び込みも禁止で、観光客には有り難い。世界どこへ行っても日本人と見るとあの「千円、千円」攻撃に辟易することがないのは嬉しい限りである。物売りの女性が警察官らしき人物にひったてられている現場に遭遇した。この女性は地方から出てきて知らぬままドンコイ通りで物売りをしたものと思われた。一人のこざっぱりした小学生高学年の子どもが呼び込みをしていて、私が断ったら「私、ご飯を食べていない。千円ちょうだい。」と流暢な日本語で言ってきたので、私が「お金をおねだりしては駄目。自分で働きなさい」と言ったら、「はははは・・・・いけないだもんね」と言いながら去って行った。全くこましゃくれた子どもである。しかし、先進国、発展途上国に限らず、国が禁止といってもそれを破る人は少なからずいる。にもかかわらずこのドンコイ通りに限っては、法律を破る人は少ない。何がそうさせているのか。警察官が始終見張っているからか。
ベトナムの名所といったらメコン河を外す訳には行かない。そういうミーハーチックな理由で、私達もメコン河クルーズに出かけた。その川幅の広いこと広いこと。しかも大量の水が茶色に濁っている様は、利根川しか見たことがない私には驚きであった。日本の川は堤防が築かれ堤防の内側を通るしかないが、メコン河はデルタ地帯を形成し、そのデルタはジャングルとなっており、そのジャングルの中を小舟で行く。ガイドの話では、昔はニシキヘビやコブラがうじゃうじゃいたらしいが、今はもっと奥に行かないと蛇はいないので、このあたりは安全だという。それにしても、小舟を漕ぐのは女性が多い。ホーチミンのベンタイン市場という大きな市場でも働くのはほとんど女性である。男はどこへ行った。ガイドの話では、男は恥ずかしがり屋だから人前には出ないと言う。嘘だ。南国の男は働くのが嫌いなだけだ。金持ち日本人をGETしようと企んでいる。バリ島のビーチボーイも、プーケットのビーチボーイもしかり。何人の大和撫子が騙されたことか。日本の乙女達よ南の男達には騙されないように気を付けましょう。
平成17年10月29日 小林 直行
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