施設長の独り言

  

 第21話北ボルネオ島過去から現在、異民族との交流雑感

 今、私はサンダカンが一望できる丘の上に立って北の方角に目をやっている。100年以上前この地に連れてこられた「からゆきさん」たちもサンダカンから遠い日本を思いやったことだろう。「からゆきさん」とは、広辞苑によると「江戸時代から第二次大戦時にかけて、日本から南方など外地へ出稼ぎに行った女性の称。『天草子守唄』に見える『から行き』が語源とも。唐行き。」とあるように貧しい日本から離れて異国の地、外国で身体ひとつで稼ぐしかない女性たちのことである。この女性たちを見事に描き出し、そして光を当てたのが山崎朋子著『サンダカン八番娼館』である。この本は現在絶版であるが、1972年(昭和47年)に筑摩書房より発行され、ちょうど私の高校から大学にかけての多感な時期とも重なり長く頭の隅のほうに「サンダカン」の文字は残っていた。旅行会社HISの広告に「オランウータン観察とサンダカン観光」と有り、とっさにツアー申し込みと相成った。そして今、私はサンダカンの街を歩いている。漢字がやけに目につく町並みで中国人たちが多いことを伺わせる。下の写真中の白い頭巾をかぶっている女性はマレー人で、ムスリム(イスラム教徒)である。マレー人はすべてムスリムで、中国人の帰依する宗教は様々で、商業に従事していることが多い。下の写真右は仏教寺院で、中国人の信仰が厚い。
      
現地ガイドに旧日本人街に行って欲しいと頼んだところ体よく断られた。それはそうだろう。5人の観光客の内4人はUK人(イギリス人)である。ガイドは英語で案内するし、日本語は a little しか話せないので日本人などどうでもいいのである。そういえば北ボルネオ島はUKの植民地であった所。第2次大戦中に日本が占領し、良くないことをしたようで、このサンダカンも滅茶苦茶にしたようである。特にUKの年輩者達はこのことを良く覚えている。
 仏教寺院でUKの若い二人組に火をつけた線香を渡しPRAYの仕方を教えてあげた。年輩の二人には教えてあげなかった。はかない復讐である。
      
 上の写真左は水上生活者の住居である。中国人たちの家で、家と家との間はコンクリート舗装で隅から隅まで行き渡っている。われわれ日本人は、よくもまーこんな所にと思うかもしれないが、中は海風が涼しく過ごしやすい。何でも海に捨てられるので合理的である。大きな波は来ない。しかし岸辺に近い住居は海上に漂うゴミと臭いに悩まされる。
 しかし一歩陸地を奥に進むとそこはRAINY FOREST(熱帯雨林)のジャングルである。オランウータン、スマトラサイや虎の住むジャングルである。
 かつてサンダカンは木材集積基地であった。熱帯のジャングルで切り出された木材が主に日本に輸出されたくさんの日本人が住んでいた。そのためにオランウータンなどの貴重な生物が住処を追われ滅亡一歩まで追い詰められた過去がある。今は伐採は禁止され貴重な生物も保護されている。
 私はガイドに「マハテール IS GREAT」と何度も言ったが、「今はマハテールではなく、アブドラです」と言い返された。どこの首長も国民には人気がないのか。
 サンダカンからコタキナバルまでは飛行機で45分、車だと6時間かかるという。私はこの日わざわざサンダカンを見たいが為に、コタキナバルでサンダカン観光のオプションツアーを申し込んだ。コタキナバルへの帰路サンダカン空港の待合室で辺りをただボーと見回している。いつも思うのだが、空港には様々な人種がいる。黒光りする肌、黒い肌、ちょっと黒い肌、赤茶の肌、黄色い肌、赤い肌、白い肌の持ち主。黒い毛、赤い毛、白い毛、金髪の毛、赤毛、直毛、縮毛の持ち主。いろいろな性質を持った人がいるのが普通で、日本のように誰でもほとんど変わらない人ばかりなのは世界では希なケースであると思う。残念ながらサンダカンでは日本人街も日本人墓地も憎きUK人たちによって妨害されたので(?)コタキナバルで日本人墓地を訪れる覚悟を決めた。様々な民族を見ながら。
 コタキナバルに戻った翌日、宿泊していたホテルの女性クラークに墓地のことを聞いたのだが、全くわからない。運悪くCEMETERYの単語が思い浮かばず、墓地はどこにあるか分からないことだけは分かった。ここで諦めてはUK人に負けてしまう。そこでHIS支店に行き支店長(日本人)に聞くとホテルの近くにあることが分かる。近くにあるといってもちょっと山の上の方でこの熱帯の暑さの中歩いて行くわけにはいかない。ではどうするか。再びホテルにとって返し先ほどの女性に聞くことにする。この女性は私の拙い英語を何とか理解してくれ、タクシーを呼び運転手にガイドさせる段取りをしてくれた。ありがたや、ありがたや。そして料金はたったの50RM(1500円)である。
 訪れた墓地は20基くらい有り雑草はそれほど生えていない。現地の日本人学校の生徒が手入れをしてくれているという。私はすべての墓に線香をあげて冥福を祈った。これで当初の目的が叶えられた訳であるが、北ボルネオのこの地域(サバ州。州都はコタキナバルで、サンダカンは州第2の都市)には日本人の遺骨が数多く埋もれており熱帯のジャングルの為に収拾が断念されているという。時間はかかったが達成感も感じた。しかし英語力の無さもつくづく感じた。やはりUK人には負けたのか。墓地のことは(コタキナバル日本人墓地)に詳しく書かれています。
     
 タクシー運転手とはたくさんの話を英語でした。奥さんは子供の頃移住してきたインドネシア人で、今はお店で働いているという。今月が初めての子の産み月で楽しみであるという。ボルネオ島の南半分以上はインドネシア領である。ここから多くのインドネシア人が合法非合法を問わずやってくるという。上の右の写真はコタキナバル市街が一望できる展望台で運転手に撮ってもらった写真である。ここでいろいろな質問を受けた。奥さんはいるのか、子供はいるのか、何をやっているのか、コタキナバルに来るまでいくらかかるのか、サッカーは好きかとか。好奇心旺盛でもてなし心が一杯な性格は好感が持てた。ボッテヤルとかとういう素振りは全く見せない。事実ボラレルことはなかった。東南アジアの国々の多くのタクシー運転手はボルことが多く私もボラれたことが多いので、タクシー運転手と接するときは一歩引く習慣が身に付いている。
 この地域の人たちは、タクシー運転手の奥さんの例やサンダカンでの中国人の例から分かるように他の民族を受け入れる素地があるようである。私が島でシュノーケリングをした後休んでいると、携帯電話から聞き覚えのある歌が流れてきた。私はその電話の持ち主に「その歌はフィリピンの歌でアナック(息子という意味)というんだろう。」と言うと、持ち主は「なぜ知っているんだ。」と返してくるから「25年前に日本ではやった歌だ。」と答えた。このことがきっかけになって電話の持ち主と会話が弾んだ。弾んだと言っても英語でのやりとりなので限界はあるが、とりあえずお互いの氏素性だけは分かった。電話の持ち主はフィリピン人でミンダナオ島の出身であるという。この島で仲間と仕事をしているという。住まいはコタキナバルと目と鼻の先の島で水上生活をしているという(タクシー運転手は水上生活者を馬鹿にしていたが)。このフィリピン人たちは皆ムスリムで、クリスチャンが多く貧しいミンダナオ島を捨てて、ムスリムが多くミンダナオよりは仕事の多いボルネオに来たという。合法非合法どちらかというと、非合法のようであるらしい。
 私をホテルから空港まで送ってくれた現地ガイドの名前は「カシミール」という。私はカシミールに「なぜあなたの名前はカシミールというのか」と聞いた。彼は「詳しいことは聞いたことはないが両親はクリスチャンでインドのカシミールに関心を持っていたようです。この地域でカシミールという名前を聞いたことはありません。」と答えた。隣国のインドネシアではムスリムとクリスチャンとが戦っている地域もある。中国人系商店が焼き討ちにあった地域もある。金持ち中国人や不法入国してきたインドネシア人やフィリピン人がいるのになぜこのボルネオではないのか。私は「マハテール is Great」と思わざるを得ない。マハテールはマレーシアの首相を長く務め,Look Eastのかけ声のもと日本の経済発展を見習い今日のマレーシアを築いた人である。多民族多宗教のマレーシアを紛争のない軋轢のない国にしたのはマハテールの力に因ること大であると思う。マレーシアには夢がある。首都クアラルンプール国際空港は巨大で24時間開港し、世界中から様々な人がやってくる。そのショップ街には華がある。夢を持てて誇れるものがある国民は内部の醜く希望のない戦いなどに目をくれる暇などない、と思いながら数多くの異民族を見ながら乗り継ぎの時間を過ごした。
  
      平成18年8月30日  小林 直行

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